最後の戦いに赴く前夜、オーボンヌ修道院の少し手前にある森で野営をしている時の事だった。

「みんな、聞いて欲しい事があるんだ。前々から考えていた事なんだけど……ここで二手に分かれようと思う。
明日、オーボンヌ修道院に行くのはオルランドゥ伯。それにクラウドとメリアドール、そして僕だ。

本当は、もっと早くに言うべきだったんだけど……こんな直前になるまで言い出せなくてごめん。

あとの皆は、帰る場所や身寄りのある人はそれぞれに聖石を持って各地に散って欲しい。
もし僕らが敗れる様な事になっても、残りの聖石が奴らの手に渡らない様に隠し、守り通してもらいたいんだ。

ムスタディオはタウロスとスコーピオ、
アグリアスさん、ラヴィアン、アリシアにはキャンサーとサジタリウス、パイシーズ、それにカプリコーンを預けます。
マラークとラファにはジェミニとアリエスを、
ベイオウーフさんとレーゼさんはリーブラとアクエリアスを頼みます」

突然のラムザの予想だにしていなかった発言に一同はポカンとしていたが、一瞬の間をおいて口々に反論し始めた。

「待てよ! 今更帰れだなんて……俺達は親友だろ? 」
「お前にこの身を預けると言ったのを忘れたのかッ? 」 「そうですッ 隊長の言う通り! 」 「もう、水臭いですよラムザさん」
「ラムザ、俺達に何もせずに隠れていろって言うのか? 」  「そうよ、私達にも戦わせて! 私達にも帰る場所は無いわッ」
「オレもレーゼにも帰る場所は無いよ。君には返し切れない恩もある。最後まで付き合わせてくれ」 「私も彼と同じ意見よ」

ラムザの予想していた通りの答えが返って来た。苦しげにさえ見える表情でそれらを受け止めてから、ラムザが再び口を開く。

「あの修道院の様に狭い空間では人海戦術にあまり意味が無い。むしろお互いの動きを妨げかねないし。
それに戦いの場でこちらの聖石を奪われる危険性がある。それを考えると、これが最良の選択だと思うんだ」
ラムザは落ち着いた声で淡々と続けた。
「ムスタディオ、ベスロディオさんの足の病状が思わしくないそうだね。今は八号を連れてゴーグに戻るべきだよ」
「お、お前どうしてそれを……」
「ゴメン。この間ムスタディオ気付けで宿宛に届いてた手紙、封筒が破れてて中身がはみ出してたもんだから、つい読んじゃったんだ」
「……」
ムスタディオがうつむき、言葉を失う。

場の気をそがれるまいとしてか、アグリアスが強い口調でムスタディオの作った静寂を打ち破る。
「ラムザ、私はもはや騎士団に戻る事もオークスの家に戻る事も出来ない身だ。しかし、後悔はしていない! 
今はお前と共に戦う事で私の騎士道をまっとう出来ると思っている。どうか考え直して欲しい」
「僕にその身を預けたというのなら、僕のお願いを聴いて下さい。あなた達三人が揃ってこそ、聖石を四つも託す事が出来るんです。
それに……」
「それに? 」
「いえ、何でもないです。とにかく、これは僕の我が儘でしかないかも知れません。でもお願いです、この我が儘だけは聴いて欲しいんです」
「ラムザ……」
アグリアスが黙ってしまうとラヴィアンもアリシアも言葉が続かず、二人してうなだれるしか無かった。

ラムザはそれを見届けると、今度はマラークとラファの方に向き直った。
「マラーク、ラファ、僕も兄と妹の二人きりの身だから分かるんだ。お互いのどちらが欠けてもいけない、って。
この先の戦い、もしかしたら僕みたいな思いをする事になるかも知れない。そんなのは……そんなのはもうたくさんだッ! 」
「ラ、ラムザ、お前……」 
(ラムザ、泣いてるの……? )
ラムザの目の端に光るものを見た兄妹は、何と言って良いのか分からなくなってしまった。
ただ、ラムザの痛みだけはひしひしと伝わって来た。それを共有する以外に何も出来ない気がして、沈黙するしか無かった。
レーゼが何かを言おうとするのを、スッと前に進み出たオルランドゥが手で制する。
「レーゼ殿、ベイオウーフ殿と共に聖石を持って何処かへ落ち着きなさい。それが今、二人の成すべき事だ」
「でも……」
「しかし……」
食い下がる二人に対して、オルランドゥは穏やかに噛んで含める様な物言いで諭す。
「恩があるというのなら、ラムザの言う通りに聖石を守るべきであろう。ラムザの熟考に熟考を重ねた上での人選でもあれば」
オルランドゥにそう言われては反論の余地は無い。こうして二人は暗黙の内にラムザの提言を受け入れた。

聖石を託された面々は、完全に納得する事は出来ないながらも最終決戦のメンバーとして選ばれた三人の事情を思えば、と
結局不満がありながらもラムザに従う事にした。

オルランドゥは世間では処刑された事になっているし、クラウドはそもそもこの世界の住人ですらない。
クラウドが元の世界に戻る為には、更なる聖石を求めてこの先に待ち受けるルカヴィと戦わなくてはならない。
メリアドールに至っては弟を殺した実の父が人外である事を知ってしまったのだ。今のメリアドールにとって、父と戦う事は生きる理由に等しい。

また、あの修道院は地下何層にもわたるダンジョンの上に建てられている。
攻略には随分と時間を要するだろうし、少数精鋭で臨む以上は長時間隠れて敵の様子を窺わなければならない時もあるだろう。
すべてが終わって帰れるまでに何日かかるか分からないし、帰って来られない可能性もある。

聖石が切り札である以上、残された面々が集めた聖石を分散して隠し持つというラムザの案は正論だ。

ラムザがよくよく考え抜いた上での結論である事は皆にも痛いほど伝わった為、誰もそれ以上ラムザの言葉には異論を挟まなかった。
ただ一人を除いては。
今までに貯まった軍資金は相当なものだった。ラムザはそれを等分してそれぞれに配った。
一人頭の額でも、贅沢をしなければ五、六年は食べていける程の大金だ。
これを元手に新たな生活の基盤を作り、皆が何事も無く平穏な日々を送れる様にと、ラムザは祈らずにはいられない。
皆は複雑な気持ちで金を受け取った。
アグリアスだけは受け取れないとつっぱねたが、ラヴィアンとアリシアにラムザを困らせてはいけないと諭され、渋々金を受け取った。

ラムザが野営地から少し離れた川へ水を汲みに行くと、そこにはムスタディオがいた。食器を洗いに来ていたらしい。
二人は川辺に座り込むと、しばらく無言で夜空を見上げた。
最初に沈黙を破ったのはラムザの方だった。
「ムスタディオ、しばらくしても僕らが戻って来なかったら……その時はアグリアスさんの事を頼むよ」
ムスタディオは驚いてラムザの方を見たが、夜の闇の中でその表情は窺えない。
「ラムザ……しばらくってどれくらいだよ。変な事言ってないで、すぐ帰って来ないと承知しないぜ」
「アグリアスさんは君の事を悪くは思ってないよ。プレゼントしたリップ、いつも持ち歩いてる」
「ラムザ、お前やっぱり……」
ムスタディオは言葉に詰まり、何も言えなくなってしまった。
「頼んだよ」
ラムザはそう言い残して先に野営地の方へ戻って行った。

野営地の中心、焚き火の側にはマラークとラファがいた。ラファはマラークの肩にもたれて眠っている。それを見てラムザは苦笑した。
「ラファ、風邪ひいちゃうよ。いくら焚き火の側ったって」
「ラムザ……」
マラークがいつに無く神妙な面持ちで言った。
「うん? 」
「すまないと思ってる」
ラムザはゆっくりと首を振った。
「他人事じゃ無いんだ……君にはラファを守り抜いて欲しい。僕の気持ち、君なら分かるだろう? 」
「ああ……」
マラークはラムザに手を差し出した。
「死ぬなよ、ラムザ」
ラムザは差し出された手をしっかりと握り返すと、自分の天幕の方へ歩き出した。
自分の天幕に戻る途中でレーゼに呼び止められた。なんでもアグリアスがラムザに話があるとかで、見かけたら伝えて欲しいと言われたとの事。
アグリアスは真っ直ぐで強情なところのある人だから、やはりあの人選に納得がいかなかったのかも知れない。
それでもラムザはアグリアスに残って欲しかった。ラムザ自身の為にも。

普段アグリアスとラヴィアン、アリシアの三人で使っている天幕の中にはアグリアスが一人だけだった。
「ラムザ、か? 」
荷物箱の上に腰掛けたアグリアスはラムザを見上げると、すぐにまた目を伏せた。少しやつれた様に見えるのは気のせいだろうか。
「……どうしても私を置いていくのか」
「置いていくんじゃありませんよ。聖石を守るという、大事な役目を果たして欲しいんです」
「……」
いつもと少し様子の違うアグリアスに、ラムザは戸惑いを隠せなかった。ラヴィアンとアリシアのどちらか一人でもこの場に居て欲しい。
「ラヴィアンとアリシアはどうしたんです」
アグリアスはそれには答えず、ラムザに背を向けるとおもむろに上着を脱いだ。手を休める事無くアグリアスは服を次々と脱ぎ捨てていく。
最後の一枚が音も無く床に落ちると、アグリアスはラムザの方に向き直って白い裸身を晒した。
突然の思いもよらぬアグリアスの行動に驚いて動く事も出来ないラムザに、アグリアスは駆け寄ってひしと抱きつく。
「私を連れて行くと言うまで離さない! 」
この男の側にいようとするならば、女としてこうする外無いと思った。アグリアスは必死だった。
なりふり構わず女の武器を突きつける以外に、この男を繋ぎ止める術を思いつかなかったのだ。

ややあって、ラムザはそっとアグリアスの背中にそっと手を回し、少しだけ力を入れて抱きしめた。
アグリアスは目を閉じ、ラムザに身を委ねた。彼にされるがままになりたかった。
しかし、やがてラムザはアグリアスの両肩をつかみ、ゆっくりと彼女の体を自分から離した。
アグリアスは抵抗しなかったが、すがる子犬の様な目でラムザを見つめている。ラムザの答えを待っている。
「アグリアスさん……嬉しいです。あなたを……抱きたいです。でも、今は出来ません」
「ラムザ……! 」
「アグリアスさんだけには本当の事を言いますね。僕があなたを連れて行かない本当の理由は……帰る場所が欲しかったから。
帰る場所と、待ってくれている人がいたら、どんなに絶望的な状況になっても生き抜いて帰って来れると……思ったんです」
ラムザの声が段々小さくなっていった。アグリアスの肩からラムザの手が力無く滑り落ちる。
「でもそれはやっぱり勝手な、僕の我が儘に過ぎなくて……」
アグリアスは再びラムザを抱きしめた。さっきの必死にすがる様な抱きしめ方ではなく、柔らかに包み込む様な抱擁だった。
「……そんな事は無い。分かった。私は待つ。私がラムザの帰るところになる。だから……無事に帰って来て」
ラムザはアグリアスの甘やかな香りの中で安堵した。
今までお互いに打ち明けられなかった想いを、死地に赴く前夜になってようやく確かめる事が出来た。
「無事に僕が戻ったら、あなたは僕のものだ」
アグリアスが抱きしめる腕にギュッと力を込めた。その腕に万感の想いがこもっているのを、ラムザは感じ取った。
「あなたを抱くのは、その時までとっておきます」
そう言うとラムザはアグリアスの腕を取り、体から離そうとする。アグリアスは少し抵抗したが、やがておとなしく体を離した。
アグリアスに上着を羽織らせると、ラムザは一瞬だけアグリアスの唇を吸い、顔を伏せた。
「今は……ここまで。続きは帰ってから」
ラムザはそう言うと、天幕から出て行った。後に残されたアグリアスはしばらくの間、名残惜しそうに唇に手を当てていた。
翌朝アグリアスが目覚めた時には、ラムザとオルランドゥ、クラウドとメリアドールの姿が消えていた。
アグリアスは、いつかラムザがアルマに言っていた言葉を思い出した。
(別れは…苦手なんだよ……)
だからって、だからってこんな時にも黙って行ってしまうだなんて。本当に我が儘な奴だ。帰って来たら、きつく言ってやらなければ。
帰って来たら、と思ったところで、必ず帰って来られるとは限らないのだという考えが頭の中をよぎる。
アグリアスは頭を強く振ってその考えを打ち払うと、残された面々と朝食を摂りながら今後のそれぞれの行く先を話し合った。

マラークとラファは焼かれてしまった自分達の村のあった場所へ行く事にした。そこから改めて今後の身の振り方を考えるという。

ベイオウーフはウォージリス滞在中に親しくなった毛皮骨肉店の店主から、専属ハンターの契約を結ばないかと言われた事があったので、
レーゼと共にウォージリスに根を下ろして暮らしていくつもりだと語った。

ムスタディオはゴーグに戻り、父親の世話をしつつ労働八号の研究にいそしむ事にすると言う。
労働八号の動力源を平和利用出来ないかと、常日頃から考えていたらしい。

アグリアス自身はと言うと、具体的にどうしたら良いのかが思いつかず、いたずらに思案するばかりだった。
その思案も昨夜の一連の出来事の記憶にかき乱され、考えがまとまらない。
いつまで経っても埒のあかないアグリアスを見かねて、アリシアがひとまずベルベニアにある私の実家へ行きましょうと提案した。
アリシアの実家は没落した貧乏貴族だが屋敷は広大で、その一部を運送業者に倉庫として貸し出したりしている程だという。
使われないまま痛んでいく部屋がたくさんあるため、居候が二、三人増えたところで問題は無いとの事。
「そこで改めて考えませんか。道中でいい案が思いつくかも知れないですし、いつまでもここにいたらラムザさんが隊を二つに分けたのが
無意味になってしまいますよ」
そんなやり取りがあって後、結局アグリアスはアリシアの提言を受け入れてベルベニアへ向かう事に決めた。

それぞれの行き先が定まった後、ラヴィアンの提案で、月に一度はゴーグのムスタディオ宅に集まって全員の安否と聖石の無事を確認し合う事になった。
全員が出発したのは結局昼前になってからだった。それぞれがバラバラの方向へ進んで行くのを、お互いの姿が豆粒の様になるまで見送った。
アグリアスが感傷に浸っていると、アリシアがニヤニヤしながら話しかけてきた。
「で、隊長、昨夜はどうだったんですか? 」
「あたし達が隊長とラムザさんの為にお膳立てして、あの寒い中寝袋だけで我慢してたんですよお。何も無かったじゃ済まされないですからねッ」
ラヴィアンがたたみかけてくる。
「いや、何も無かったというわけでは……」
口ごもるアグリアスに、二人の追及は容赦無い。
「だからどこまでいったんですか? 具体的に言ってもらわないと」
「ラムザさんは何て言ってたんですかあ」
「ああ、もうッ うるさいッ お前達に話す様な事じゃないッ」
声を荒げるアグリアスを見て二人はますます盛り上がった。面白がっているのは言うまでも無い。
「あたし達にも話せない様な事をしてきたのよ、きっと」
「隊長って男性経験少なさそうな割に結構大胆なんですねえ」
「うう……もう勝手にしろッ」

そう言いつつも、アグリアスは心が温かくなるのを感じていた。こんな気持ちになるのは一体どれ位ぶりだろう。
ラムザ……今頃どうしている。皆無事だろうか? ケガなどしていないだろうか? 
修道院の中には神殿騎士団の精鋭達が待ち構えているだろうし、考え様によっては小さな城を攻略する様なもので、何日もかかるかも知れない。

しかし、だからこそここを離れて聖石を守り、ラムザを待つのだ。
オーボンヌ修道院の手前でラムザ達と分かれてから一ヶ月が経った。
戦争は終わり、人々の間に少しずつ平和が実感として戻って来ていた。
一ヶ月ぶりにゴーグのムスタディオ宅に顔を揃えた面々は全員の息災を喜び、そしてラムザ達が未だに戻って来ない事に落胆した。

暗殺術の一環として薬物に関する知識を学んだ経験のあったマラークとラファは諸国を回る薬師となった。
そして行く先々でラムザ達の行方についての情報を探したが、目ぼしいものは無かったという。
少しでも手がかりをと思い、ゴーグに来る前にオーボンヌ修道院の様子を窺おうと二人で立ち寄ってみたところ、
なんと修道院は取り壊されている真っ最中だった。

「俺達が出発した四日後の夜、落雷で出火したらしい。
たまたま近くを通りかかった農夫達がなんとか火を消し止めたらしいが、建物の半分は焼け落ちていたそうだ。
その後、建物の中から腐臭がしたのを不審に思った農夫の一人が中を覗いたら、そこには幾つもの死体が転がっていたって」
全員が水を打った様に静まり返った。ラファが続ける。
「作業していた教会の僧侶に話を聞いてみたら、最深部まで降りて見つける事の出来た死体は全て地上に運び出したけど
最深部の半分は崩れて埋もれてしまっていたみたいで、全員を運び出せたわけじゃ無いみたい……」
「幸い、運び出された死体はまだ埋められずに布を被せてあるだけだったから、俺とラファで全ての死体を確認した。
少なくともその中にあの四人はいなかったよ」
マラークの言葉に一抹の希望が見えたが、一ヶ月経っても彼らが戻って来ない現実を思うと、皆は一様にため息をついた。

ベイオウーフは取引先の商人達から尋ね人の最新情報を度々伝えてもらっているのだが、ラムザ達らしき情報は皆無らしい。

各地に散らばる機工士の情報網にも、今のところそれらしき噂話さえかかってはいないとムスタディオは残念そうに言った。

アリシアの実家で代書行を営み始めたアリシアとラヴィアンも、時間を見つけては近郊の難民救護院に足を運んだが徒労に終わっている。
戦争が終わったという事は、謎の目的で戦乱を引き起こし続けていたヴォルマルフ達の企みは費えたという事を意味している。
ラムザ達は彼らを倒す事が出来たのだ。しかし、一ヶ月経った今も帰って来ない。相討ち、という言葉が脳裏をよぎりアグリアスの胸を刺す。

オーボンヌ修道院の地下でガレキに埋もれてしまったのか、脱出したは良いものの生き残っていた神殿騎士に襲われたか。
脱出後にも神殿騎士や教会の追跡を受けた為にどこかに潜伏しているのか。あるいは……
アグリアスは考えるのを止めた。キリが無いし、今の自分には待つ事が全てだからだ。

アグリアスは一回目の集合以降もゴーグに留まり、街の裏路地の奥にあった建物の地下室を間借りしてバーを開く事にした。
生計を立てる為の仕事としてバーを選んだわけではなく、月に一度の近況報告を行なうのは目立たない場所の方が良いと思ったのだ。
ラムザの名を口にする事の危険が無くなったわけではない。月に一度、皆で集まった時に貸し切りにして使おうというアグリアスの案に一同は賛成した。
アグリアス自身は店の名前などどうでもよかったのだが、レーゼの提案でバー“アグリアス”と名付けられた。
その二日後には蝶をレリーフした青銅の小さなプレートをムスタディオがどこからか調達して来て、店のドアにかけてくれた。
アグリアスはカウンター近くの壁に太いL時型の釘を打ち付けてそこに装飾と護身を兼ねて剣をかけると、その日の夜から店を開けた。

戦時に各地の酒場を回ってきたアグリアスは、その時々にカウンター越しに見ていたマスター達の仕事ぶりを思い出し、真似ながら立ち働いた。
分配された資金にはまだ相当な余裕がある。客が来ないなら来ないで全く構わないとアグリアスは考えている。むしろ来なくても良いとすら思っていた。
しかし、アグリアスの意に反してバー“アグリアス”に少しずつ客が増え始めた。
よく飲みに来るムスタディオいわく、自分目当てで来ている客が多いらしい。正直嬉しくは無い。
資金は無限ではないのだから、バーの経営に本腰を入れるべきなのかも知れないが、どうもそんな気になれない。
ラムザが帰って来たら、店をたたんで別の仕事を探してもいい。ラムザと相談して決めればいい。ラムザと。ラムザと、ラムザ……

どうしようもない悲しみが湧き上がって来て胸の奥を締め上げた。閉店後のカウンターでアグリアスは子供の様に声をあげて泣いた。

その数日後にオヴェリアが病で亡くなったとの訃報が国中を駆け巡ると、アグリアスは店を閉めて喪に服した。
ムスタディオが心配して“アグリアス”に何度か様子を見に行ったが、アグリアスはさめざめと泣くばかりでムスタディオの呼びかけにも答えなかった。

店が再び開いた時には、オヴェリアの訃報から十日が経っていた。
二回目の近況報告の日が来た。“アグリアス”を貸し切りにして、聖石を預かる面々は周りをはばかる事無く語り合った。
マラークとラファがもう一度オーボンヌ修道院に立ち寄って来たが、修道院の取り壊しはほぼ終わっており、ガレキの上には中途に土がかけられていたという。
相変わらずラムザ達に関する情報は皆無で、誰も口には出さないが諦念の雰囲気が流れていた。
唯一アグリアスだけが皆の無事を、ラムザの生還を信じていたが、そんな彼女を見て他の面々はいたたまれない気持ちになるのだった。
それからしばらくしたある日の夕方、ムスタディオが“アグリアス”を訪ねると「CLOSED」と走り書きされた紙がドアに張られていた。
ドアに鍵はかかっていなかった。ムスタディオが薄暗い店内に向かって声をかけたが返事は無い。耳を澄ますと奥の方から女のすすり泣きが聞こえてきた。
近くにあったランプを灯すと、カウンターに突っ伏して肩を震わせているアグリアスの姿が照らし出された。床には酒瓶が一本転がっている。
ムスタディオはやりきれないと思うと同時に、何とか彼女を救いたいという強い衝動に駆られた。

(ムスタディオ、しばらくしても僕らが戻って来なかったら……その時は)
「……アグリアス、もしこのままラムザ達が戻って来なかったら」

(その時はアグリアスさんの事を)
「いや、気が済むまで待てばいいとは思うけど、その」

(プレゼントしたリップ、いつも持ち歩いてる)
「俺、アグリアスの事が……」

アグリアスが突然立ち上がり、壁にかけてあった剣に手をかけた。
「アグリアス……」
「それ以上、それ以上言うなッ」

ムスタディオはそんなアグリアスを見てラムザを心の中でなじった。
(ラムザ、お前が戻らないせいでアグリアスはこんなにも苦しんで……! )

「いつまでも待っていればいいよ。俺もいつまでも待つから」
ムスタディオはそれだけ言うと、店を出てそっとドアを閉めた。

アグリアスはムスタディオが以前から自分に好意を持っているのは知っていたし、ムスタディオが優しい男である事も知っている。
だからこそ今の自分の不安な心をムスタディオその優しさに揺り動かされ、ラムザの事を諦めてしまうかも知れないと思うのが怖かった。

その後もムスタディオは態度を変えるでもなく“アグリアス”に飲みに来た。アグリアスもまた、以前と変わらない様に接した。
三回目の近況報告の日の前夜、店仕舞いを始めたアグリアスの耳に、入り口を遠慮がちにノックする音が聞こえた。
無愛想な声でもう閉店ですと言うと、ガチャリとドアノブが回された。酔っ払いか、質の悪い客か。
壁にかけられた剣を手に取って、開いていくドアを睨み付けたアグリアスは息を呑んだ。

「まだいてくれて良かった。……ただいま、アグリアスさん」

喜びではなく怒りの方が先に湧き出て来て、アグリアスはドアのところまで駆け寄るとラムザの頬を力いっぱい叩いた。
三ヶ月も人を待たせておいて呑気にただいまなどと、どの口が言うのかッとアグリアスが涙ながらに怒鳴りつけると、
するとラムザは狐に包まれた様な顔で、あれからまだ五日くらいしか経っていないのにと言った。

オーボンヌ修道院での戦いは、場所が地下だった事もあって正確では無いが、およそ二日間に亘って繰り広げられたとラムザは語った。
“天使”が今際に閃光を放って爆発してからの記憶は無く、気がつくとラムザ達は修道院の外らしき場所に倒れていたという。
らしきというのは辺りの風景は変わっていないのに修道院がガレキの山と化していて、しかも半ば土に埋もれていたからだ。
アグリアスが待っている、と急ぎに急いでわずか三日でゴーグに到着するとすぐにムスタディオを訪ねてアグリアスの所在を聞いたところ、
すぐ近所に住んで居るというので逸る気持ちを抑えてアルマをムスタディオに預け、“アグリアス”に来てみれば、三ヶ月も待たされたと言われて強烈な平手を食らったのだ。
何が起こったのかは分からないが、ともかくラムザ達にとっては五日間の出来事だったのがこちらの世界では三ヶ月も経っていたという事らしい。

アグリアスはラムザの胸に顔を埋めて泣きじゃくっていたが、ラムザも別の意味で泣きたくなった。
「それはそうと」
ラムザがおもむろに口を開く。
「僕、言いましたよね。無事に戻ったら……」
アグリアスは顔を上げると泣き腫らした顔に笑みを浮かべて小さくうなづいた。


それから後、結局遺体も見つからないまま行なわれた自分達の葬儀を影から見送ったラムザとアルマは、別人として生きていく自由を手に入れた。

名を変えたラムザとアグリアスが正式に結婚したのはそれからすぐの事だった。

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最終更新:2010年03月26日 15:22