アグリアスが今まさに牙を突き立てようとした刹那―――
後頭部にガラス瓶のようなものが直撃した。
それは衝撃で粉砕し、中身がアグリアスの全身にぶちまけられた。
「あ゛あ゛……!!?」
至福の瞬間を滅茶苦茶にされ、怒りが瞬間的に頂点に達した
アグリアスは後ろを見やる。
見れば、
「やったー命中命中!」
などと声を上げてぴょんぴょんと飛び跳ねているルナと、
明らかに今しがた、ガラス瓶のようなものをアグリアスに向けて投げつけたと
思われるオルランドゥが、投擲ポーズを保ったままそこに居た。
怒り心頭のアグリアスは、メリアドールから奪った剣を片手に
二人にずかずかと歩み寄り、
「貴様ら生きてここから帰れると…お、もう…な……よ……?」
と言い残し、二人に剣が届く前にぱたりと倒れた。
アグリアスの全身からもくもくと黒い煙のようなものが立ち上り、
それと同時に、アグリアスの病的に白かった肌は少しずつ人間のそれに
戻っていった。
動かなくなったアグリアスの体をくつのつま先でツンツンと小突き、
安全を確認したルナは簡単な触診をする。
脈拍、呼吸、共に正常。肌はまだ白く、体温も低いがこれらも回復しつつある。
彼女は吸血鬼から人間へと生還を果たしたのだ。
「やれやれ…危機一髪だったな」
慣れない投擲で腰を少々痛めたオルランドゥは、腰の痛みをほぐしながら
ぽかんとした顔で座り込んでいるラムザに声を掛けた。
「あの…アグリアスさんは元に戻れたんですか…?」
「ああ。ルナ君が治療方法を見つけたのでな。
 急いで帰ってくればこの有様だ。参ったよ」
周囲を見渡せば、死屍累々といったふぜいの気絶者の群れ。
百戦錬磨のオルランドゥが参ってしまうのも分かる気がするし、
自分も実際もう駄目だと思った。
「吸血鬼化は想定の範囲内でしたが、
 ここまで怪物じみた力を身につけるとは予想外でしたね。
 鉄鎖による拘束も意味がありませんでした。
 失敗失敗。私のおばかさん」
こつんと自ら頭を叩くルナをオルランドゥと二人、無言で見つめた後、
ラムザはルナに事の真相を尋ねた。
「あのガラスの瓶のようなものは何だったんですか?
 中に液体みたいなものが入っていましたが…
 どうして遠くから投げつける必要が?」
「順を追って説明しますと、まず液体の容器は
 ガラス瓶ではありません。メスフラスコという試薬調製に
 使う実験器具です。手で掴める棒状の部分が長いので、
 投擲に適していると判断し、採択しました。
 中身の液体を保持したまま投げられるのなら、
 それこそガラス瓶でも酒瓶でも何でもいいのですが、
 あまりガラスの厚い容器だと、頭に激突した瞬間、アグリアスさんの
 頭蓋骨の方がカチ割れる危険が大きかったので」
「その実験器具…メスフラスコといったか?
 いかにもガラスが薄そうで、割れやすそうだったよ」
「なるほど。投げやすく、割れやすいガラス器具を
 使ったのですか…。遠くからメスフラスコを投げつけた理由は?」
「近寄るのは危険と私が判断したからです。
 吸血鬼が、吸血以外にも何らかの攻撃手段を持っていないとも限らない。
 加えてあの異常な身体能力。正攻法は愚の骨頂です。
 オルランドゥさんがいかにお強いといっても、年が年ですしね」
ぴく、とオルランドゥの顔が引きつるのを見て取り、ラムザはいたたまれない気持ちになった。
「本人に気づかれないように、後ろからそっと投げつけるのがベストだと判断しました」
「正しかったと思います。吸血鬼になったアグリアスさんの力は異常でした。
 本来ならば僕達全員が皆殺しになってもおかしくなかったほどです」
ん、んんっ!オルランドゥの声にならない心の叫びが、咳払いとしてこだました。
「…オルランドゥさんならば対等に戦えたと思いますよ。多分…」
とってつけたようなラムザのフォローは、より一層孤高の剣聖の心をむなしくした。
「で、メスフラスコの中身は?
 ものすごい効能を備えた、秘伝の薬だったりするわけですか?」
「いえ。ただの聖水です。どこにでも売っている、一本2000ギルの」
「はあ…?」
「血を吸われた人間が同様に吸血鬼になり、吸血を繰り返すことで
 仲間を増やしていく。医学会でも魔術学界でも報告されたことの無い、
 未知の症例です。それだけ吸血鬼と呼ばれる存在の絶対数が少ないのでしょう。
 あらゆる種類の魔術書と古文書をひっくりかえし、
 似たような症例と治療方法を数人がかりで調べ続けました。
 しかし見つけられませんでした。手詰まりになった私は、
 それまで考えまい、考えまいとしていた最悪の場合を
 考慮せざるを得なくなりました。
 悪魔憑きの治療にとっての基本中の基本、無学なガキでも
 知っている、伝統的で最もメジャーな手段…。
 神の祝福を受け、心霊的に清められた水、聖水による
 悪魔祓いです。それも、聖水を頭からただぶっかけるだけという
 そこらのおじさんおばさんでもできるような原始的治療方法です。
 他に類を見ない、ユニーク極まりない吸血鬼化という
 疾病の治療方法が、そんな下らない聖水治療などで
 あるわけがない。いや、あってはならない!と頑なに治療上の有効性を否定していたのですが、
 私の元々の知識と大図書館で新たに得た情報から組み立てた、
 聖水による治療も含めた、効果が“ありそうな”治療法約50種類を
 アグリアスさんの診察結果と照らし合わせて消去法で削っていくと、
 最後に残るのが聖水治療による一択という悲しい結果にたどり着きました。
 現実って無情ですよね」
ふぅとため息をつき、一人たそがれるルナに、二人は完全においてけぼり
にされていた。若く、新鮮な脳みそをもつラムザはともかくとして、
オルランドゥに至っては数学の教科書を手渡された原始人のような顔をしている。
「まあそんなこんなで泣く泣く聖水治療に目星をつけた私は、
 街の道具屋さんで聖水を購入し、オルランドゥさんの協力の元、
 強引に隊長の唇を奪い、吸血鬼よりも劣等な淫魔に成り下がった
 アグリアスさんをめでたく治療することができたのでした」
ルナって…いつか口の悪さが禍して誰かに刺されるんじゃないか?
そんなことを漠然と思いつつ、はしゃいだ様子のルナを二人はただ
黙って見守るしかない。この常軌を逸した、狂気の天才少女を。
「吸血による感染だけでも驚きなのに、その上身体能力の増強?
 単純な呪術的疾患って仮説は誤りだった?だってそうよね。
 物理的影響が肉体に表れているんだから…。
 代謝経路の加速化?筋肉と骨格の再構築?転生の一種って線も…。
 レーゼさんから聞いた、怪我を瞬間的に回復させるってのは
 どういう理屈?代謝が超加速しているとしか考えられないけど、
 そもそもそんなこと、外界からの栄養が継続して投与されなければ
 成り立たないし…もしかして…新しいエネルギー獲得メカニズムの
 発現が原因?より低コストでよりハイなパフォーマンスを生み出す
 エネルギー機関が吸血鬼には備わっている?
 ああ~~っ!!聖水で人間に戻しちゃう前に腕の一本でも
 サンプルとして採取しておくべきだったわ!オルランドゥさんに頼んで!
 人間に戻っちゃったら後の祭りじゃない!!」
ぶつぶつと訳の分からないことを呟き続けるルナをよそに、
ラムザとオルランドゥはアグリアス、そしてアグリアスによって生み出された
怪我人の介抱に向かった。
幸いにして、死人は0、重傷者もおらず、誰もが一晩二晩寝ていれば
すっかり良くなるような軽傷者がほとんどだった。
吸血鬼になってもアグリアスはアグリアスだった。意識の根底では
仲間を気遣い、怪我も必要最低限に留めてくれたらしい。
散々アグリアスに痛めつけられたレーゼも元々が丈夫なため、
足首の捻挫以外は軽度の打撲が少々というから恐ろしい。
だが…本当の問題は目の前に横たわる怪我人たちではない。
真に頭が痛い問題は、すやすやと眠っているアグリアスの心に関するものだ。
思い出してみよう!アグリアスがたった一晩で生み出した、数々の致命的落ち度を…。
  • メリアドール、レーゼといった彼女の友人を始め、隊員のほぼ全員を
 殴り倒してしまった。
  • 力を込めすぎたせいで、メリアドールの宝物の騎士剣は刃がボロボロに。
 (この時ラムザが所持していた貴重な騎士剣も同時に破壊された)
  • 今まで隠していた、ラムザへの恋愛感情を自分から隊員のほぼ
 全員に暴露した。
  • ラムザ本人に対し、聞いてるこちらが恥ずかしくなるような愛の告白を延々と…。
  • ラムザと強引にキスをする。
  • 己の欲望のままにラムザを吸血鬼化させようとした。
  • 全隊員(ルナは除く)から尊敬されている、雷神シドを貴様呼ばわり。
  • やられ方は、背後からルナ(15歳)の指示で聖水入りメスフラスコを
 後頭部にぶつけられての気絶。
……。
…………。
………………。
酷い。酷すぎる。
――もしも仮にラムザがアグリアスの立場だとして、事件後これら全てを鮮明に
覚えていたとして……果たしてその時自分は何を思うだろうか。
死にたい…というよりも、自分がこの世に生を受けたことを
神に取り消してもらいたくなるだろう。
ラムザなんて人間は、始めからこの世界には存在しなかったことにしてもらいたい。
ましてやあの気位の高いアグリアスが、全てを覚えていたとしたら…
どうなってしまうのかは想像に難くない。
自殺…精神崩壊…廃人化…剣士引退…除隊…発狂…
うつ病…引きこもり…ルナへの安楽死の相談…。
そのどれもが普通に有り得ることだった。
もちろん何もかもを忘れているという可能性も捨てきれないが、
それではただの神頼み。全てを覚えていて破滅に向かう可能性の方が
圧倒的に大きい。
ラムザは悩みぬいた末、最後の手段をとることを決断した。
震える足で向かう。銀髪の悪魔の根城へ…ルナ診察所へ。
「アグリアスさんの記憶を消してあげたい?本気ですか?」
「はい…。ルナならば可能だと思い…お願いに来たんです」
「そんなとんでもないことをしでかしたんですか彼女は?
 キスだけに止まらず、隊長を逆強姦でもしたんですか?」
「………」
ラムザはただうつむいてため息を漏らす。
これが本当に15歳の少女の発言だろうか?
今回の事件の鮮やかな解決といい、医者としての手腕は
ずば抜けていることは確かではあるが…噂以上にこのルナは
人間として壊れているらしい。
「そんなことはやっていません。
 …まあ…彼女はあの夜に色々な意味で“やってしまった”感が
 あるので…。アグリアスさんの性格から考えて、もしもあれらを
 覚えていたら迷わず死を選ぶでしょう。そうでなくても、
 心に大きな傷を残すことは確実です」
「具体的にどんなことをしでかしたのか教えてもらわないことには
 記憶を消す・消さないの決定は下せませんねぇ。素人判断が一番危険です。
 アグリアスさんは実際何をどうしたんですか?詳しく教えてくださいよ」
口調は真面目を装っているが、ルナの目は完全に笑っている。
それがルナの娯楽のためだと知りつつも、ラムザは言われたとおりに
詳細を伝えるしかなかった。
床をバンバンと叩きながらひとしきり爆笑したあと、ルナは
目じりの涙をぬぐってようやく平静に戻った。
「いや~久しぶりに笑わせてもらいましたよ。
 確かにそれは死にたくもなるでしょう。私が彼女の立場だったら
 そんな自分の痴態を目撃した人間達全員を神経ガスか何かで
 まとめて葬った後、安楽死するに違いないと思います」
「………」
「隊長の、アグリアスさんの昨晩の記憶をそっくり消すという配慮も
 分からないではありません。
 しかし…世界の運命を背負ったラムザ隊の隊長が直々に
 記録の改ざんと、個人隊員の意思を無視した裏取引の依頼ですか。
 医療業界も政治界も宗教界隈もラムザ隊も、どこもやってることは
 かわりませんね」
あどけない笑顔で毒を吐くルナに、ラムザは返す言葉も無い。
「いいですよ。記憶の後始末は薬物療法とルナ式スペシャル催眠療法で
 どうにでもできます。明日には吸血鬼になったことなどすっかり忘れて
 普段どおりに振舞うアグリアスさんに会えますよ」
「そ、そうですか…!良かったぁ…」
「無論ただでは請け負いませんけどね!」
「ええっ!?」
「今回の事件…責任の所在は、大本をたどれば
 全ての采配を振るっていた隊長、あなたにあると考えるのが常識的です。
 末端の者が引き起こした事件の責任をとって、上の人間が首を差し出すことで
 事態を丸く収める。政治界・法人の世界ではざらにある話でしょう?
 加えて、本人の意思を確認しないで勝手に記憶をいじくろうという
 違法的医療行為の依頼。その隠蔽工作の口止め料も含めて…
 そうですね、私にあてがわれる研究助成金額の15%アップで手を打ちましょう」
「じゅ、15%…!?それはいくらなんでもぼったくりすぎですよ!」
「嫌なら別にいいんですよ?この話はここまでということで。
 あのお高く留まったアグリアスさんがこれから辿っていくであろう、
 転落人生の一部始終を観察できるというのも、私にとっては
 十分魅力的な話ですから」
「せ、せめて11…いや12%にしてくれませんか?ただでさえ予算は火の車…」
「本日はルナ診察所にお越しくださいましてありがとうございました。
 またのご利用を心よりお待ち申し上げております」
ルナはぺこりと頭を下げ、ラムザとの会話を強引に打ち切ろうとする。
「うう…15%で手を打ちますよ!この悪魔!」
「交渉成立ですね♪」
アグリアスは吸血鬼騒動の夜から眠り続け、
目を覚まして自殺に至る前に、ルナによる記憶の改ざん手術を施され、
何事もなかったように普段通りの様子に戻っていた。
「患者というのはとかく怖がりなんですよね。
 採血でさえも怯えて渋る。珍しい病原体に侵された
 臓器の細胞サンプルや生体データの提供、
 新薬の臨床実験台などにはまず応じてくれない。
 医者の側からしたら困り者です。適当に患者の記憶を操作しないと
 とてもじゃありませんがやりくりできません」
記憶操作法の熟知の理由についてラムザが質問したところ、
返ってきたルナの答えがそれだった。
ルナが記憶を操作する術を会得する必要があった理由、
そしてその記憶改ざん術の使い道を聞いて、
ラムザは聞かなければ良かったと後悔した。
アグリアスがある夏の夜に吸血鬼と化し、やりたい放題をやった挙句、
一人で隊を壊滅寸前まで追い込んだ
未曾有の大事件については、隠蔽に隠蔽が重ねられ、闇へと葬られた。
当然ラムザはメリアドールやレーゼ、オルランドゥ他大勢に
幾度となく頭を下げ、何とか事件をなかったことにしてもらえるよう
頼みまわった。アグリアス本人に吸血鬼事件を思い出させるような言動は
最大レベルの禁忌・タブーとして、厳禁とされた。
アグリアスがラムザを慕っているという事実は公然の秘密になって
しまったわけだが、それについてもアグリアスを刺激するような
ちょっかい・話題は禁止にされた。
吸血鬼事件はアグリアス以外の誰もが知る、一晩限りの悪夢として扱われ、
機密レベル4の極秘事項として処理された。
(機密レベルは1から5まで設定されており、最終レベル5の機密事項は
聖石の隠し場所や隊の幹部クラスしか知らないその使い方、
出すところに出せば世の中を大混乱に陥れることの出来る
ゲルモニーク聖典の内容などについてである)
吸血鬼事件の隠蔽工作に奔走していた忙しい時も
ようやくひと段落つき、ラムザは自室で一息ついていた。
アグリアスにはザルバックによる吸血から、手足を拘束して
ルナの帰還を待っていた時までの記憶は残っているが、
吸血鬼として暴れまわった夜の記憶だけは存在しない。
ルナの改ざん手術によってその夜の記憶が消去されているからだ。
その空白の時間は、アグリアスの意識が混濁し、とても何かを
記憶したりしゃべったりできる状態ではなかったから、記憶が欠落しているのは
当然、というシナリオで演技するように、隊の皆にあらかじめ言い含めておいた。
その日の夜にルナ達が帰ってきて治療を施し、
アグリアスが次に目を覚ましたときにはすっかり体調は回復していた、
ということを本人に伝えた。少し嘘は混じっているが、大筋は
真実と大差ない。
忙しさが過ぎ去ると心に余裕ができ、気持ちを整理することができるようになる。
あの夜…吸血鬼になったアグリアスから明かされた、彼女の本当の気持ち。
吸血鬼になったから突然生まれ出でた偽りの感情、などではないと思う。
胸の内で燃え上がる、情熱の思い…その熱さを思わせるような
紅い瞳に宿った感情は、あまりにまっすぐで、純粋なものだった。
彼女と交わした、ほんの一瞬の淡い口付け。
あの思考が融解するような感覚と彼女の言葉が頭に焼きついて離れなかった。
騎士の鏡ともいえるような彼女が胸の中で暖め続けた、自分に対する恋慕の情。
まるで気がつかなかった。と、いうよりも、彼女が人並みに恋をするとは
そもそも思っていなかったのだが…。
彼女の存在、声、言葉…その全てを思考の中で反芻する。
ラムザもアグリアスを剣士として、人間として尊敬していた。
ただし、女性として愛しいと思ったことはなかった。
他の人間を寄せ付けない、清楚で高貴なアグリアスの印象が、
彼女をどこか神聖にして不可侵の存在に思わせ、恋の対象から除外させていた。
あの夜に見せた、彼女の無邪気で朗らかな笑顔。
彼女は、不可侵の聖人などではなかった。
自分の気持ちを伝えるのに不器用な、一人の女性でしかなかったのだ。
そんなアグリアスの無垢な笑顔を…もう一度見てみたいと思った。
アグリアスは独り、川辺で白痴のように呆然と水の流れを眺めていた。
空には白い入道雲が立ち並び、美しい夏の空が広がっている。
アグリアスは釈然としない思いに困惑していた。
何かがおかしい。結果的には元の状態に戻って良かったのだが、
その後が変だ。なぜか皆自分に対してよそよそしい。
妙に笑顔をつくろっているように思えるし、まるで腫れ物扱いされている気分だ。
メリアドールはなぜかキレているし、レーゼも妙に不機嫌だ。
私はあの夜の記憶がない。確かに意識は朦朧としていたし、
それが原因で何も覚えていなくとも不思議はないが、
それでも言葉にならない違和感を感じる。何かがかみ合わない。
記憶を失っている間、私は何かを言ったりやったりしていたのではないだろうか?
何も覚えていない割りに、正体不明の爽快感が残っているのだ。
普段我慢していた気持ちや鬱憤を爆発させたような、そんな謎の清々しさが…。
ルナにこの違和感の正体を尋ねてみたが、何も教えてくれなかった。
「気にしないほうがいいですよ。というか気にしないで下さい。
 世の中、知らないほうがいいこともたくさんあるんですから」
そんなことを言って、ルナは医学書や実験器具、魔法の儀式用の
道具の買い物リストを楽しげに作成していた。
何でも、ラムザからの臨時ボーナスのようなものが支給されたらしい。
好きなことを好きなだけやって、それで金がもらえるのだから羨ましい身分だ。
「(嗚呼…こんな時にラムザが支えてくれたりすればなあ…)」
自分から彼に声をかけることもできないくせに、そんな都合の良い夢だけは
抱いてしまう。自分の隣にラムザがいて…ふたりでなんでもない会話をする。
それが叶ったらどんなに幸せなことか…。
夏の強い日差しは、有害な紫外線をもたっぷりと含んで、
独り身のアグリアスを容赦なくじりじりと照りつける。
「(ああ~すっきりしない。何もすることがない。恋人もいない。
 何なんだこの負け組みのような気持ちは…)」
「こんなところにいらしたんですか。アグリアスさん」
突然の声に振り返ると、ラムザがそこに立っていた。
「ら、ラムザ…?な、何でこんなところに…」
「少し、お話でもいかがかな、と思いまして」
「話…?話って…何の話だ?
 今後の進軍予定の確認か何かか…?」
「あはは。違いますよ。単にお話したいと思ったんですよ。
 アグリアスさんとね」
「なっ…!?」
アグリアスは顔を真っ赤に染め、傍から見ても明らかに慌てふためいている。
「隣、座っても構いませんか?」
顔から火がでるような思いで、アグリアスは懸命に
「ど、どうぞ……」
と、か細い声で答えた。
赤い顔でうつむいたまま、ラムザの一方的な話に
「ああ」とか「うん」とか「そうか」といった
相づちをポツリポツリと返すだけで精一杯だった。
そんな時間が1時間ほど続き、さしものラムザも会話のネタが
尽きて、しばらく沈黙が続いた。アグリアスが相づちしか打たないので、
どうにも会話の継続に困るのだ。
「…すまない…」
悲しそうな顔で、アグリアスは呟いた。
「私は…こういう時……何を話せばいいのか分からないんだ。
 …つまらない…だろう…?」
消え入りそうな彼女の声に、ラムザは微笑んだ。
「アグリアスさんはどうですか?こういうとりとめもない
 お話はお嫌いですか?」
「…き、嫌いじゃない」
「僕も嫌いじゃありませんよ。こういうなんて事の無い話」
「…そうか。なら良かった…」
二人の頬を夏の暑い風がなでる。草木は揺れ、同じ青い空の下で、二人は同じ風を感じていた。
「またこんなくだらない話…付き合ってもらってもいいですか?」
「お、お前が話したいんだったら仕方が無いな。付き合って…やってもいいぞ」
あまりお目にかかれない、はにかんだようなアグリアスの笑顔を見ることが出来た。

                                      fin

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最終更新:2010年03月26日 23:54