chaina_battle @ ウィキ内検索 / 「花房義質」で検索した結果

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  • 済物浦条約
    ...きた事から交渉担当の花房義質李氏朝鮮公使は方針を変更させ、馬建忠(在朝清軍の隊長李鴻章の外交秘書)の仲介を経て上記の内容に落ち着いた。軍隊駐留権を認めさせたことは、暴動の再発防止の他に、宗主権を主張する清に対する牽制の意味合いもあった。これは1885年(明治18年)7月18日高平臨時代理公使の知照によって、以降も条約の有効性が確認されている。   出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月28日 (金) 20 00。    
  • 日清修好条規
    ...月29日)柳原前光・花房義質を派遣して予備交渉を行い、次いで正規の大使として伊達が送られ、副使となった柳原とともに詰めの交渉を行った。平等条約ではあったが、その内容は両国がともに欧米から押し付けられていた不平等条約の内容を相互に認め合うという極めて特異な内容であった。日清戦争勃発まではその効力が続いていた。 具体的には 外交使節の交換および双方に領事を駐在させる(第4条、第8条) 制限的な領事裁判権をお互いに認める(第8条、第9条、第13条) 通商関係については欧米列強に準ずる待遇(最恵国待遇・協定関税率)をお互いに認め合う などといった内容であった。 なお、この条約の特異性から一部欧米列強から軍事同盟の密約の疑惑を持たれるなどしたことや、治外法権の存在などに対する反対論があり批准が遅れたが、マリア・ルース号事件や琉球御用船台湾漂着事件の影響で批准の必要性が高まり、一...
  • 壬午事変
    ...使館員一行は夜間に、花房義質公使以下28人は自ら公使館に火を放ったといわれ、漢城から仁川に至るまでの間に、たびたび暴徒の襲撃を受けて死傷者を出しながら難を逃れて、イギリスの測量船で長崎へ避難した。 事件とは全く無関係の一般の在留日本人にも死傷がでたとアジア資料センターの始末記には記載されている。 清国側の対応 事件を察知した閔妃はいち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清国の袁世凱の力を借り窮地を脱した。事件を煽動した大院君側は、閔妃を捕り逃がしたものの、高宗から政権を譲り受け、企みは成功したかに見えた。 しかし、逃げた閔妃は高宗に連絡を取り清に密使を送りそれを受け清は軍隊を派遣する。日本も事件処理のため軍隊を派遣した。ここで、日本と清どちらが反乱を鎮圧するかの争いになったが、朝鮮は清の冊封国だからという理由で、清朝軍はそのまま反乱を鎮圧し、大院君を軟禁し政権は閔妃の一族...
  • 征韓論
    ...、9月には、外務大丞花房義質を派した。このように、日本は、平和のうちにことをおさめようと努めたのであるが、朝鮮は頑としてこれに応じることなく、明治6年になってからは排日の風がますます強まり、4月、5月には、釜山において官憲の先導によるボイコットなども行なわれた。ここに、日本国内において征韓論が沸騰した。 明治6年6月森山帰国後の閣議であらためて対朝鮮外交問題が取り上げられた。参議である板垣退助は閣議において居留民保護を理由に派兵を主張し、西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。いったんは、明治6年(1873年)8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、同年9月に帰国した岩倉使節団の大久保利通、岩倉具視・木戸孝允らは時期尚早としてこれに反対、同年10月に遣韓中止が決定された。収拾に窮した太政大臣三条は病に倒れ...
  • 宮中顧問官
    ...学医学部教授) 花房義質(子爵、ロシア公使、伏見宮別当、宮内次官、帝室会計検査局長、日本赤十字社社長) 原恒太郎(従三位勲二等) 土方久元(伯爵、内閣書記官長、元老院議官、農商務大臣、宮内大臣、帝室制度調査局副総裁、臨時帝室編修局総裁、皇典講究所所長、國學院大學学長) 船越衛(男爵、千葉県知事、宮城県知事、貴族院議員) 北条時敬(貴族院議員) 穂積八束(東京帝国大学教授、貴族院議員、枢密院書記官、法典調査会査定委員) 三島毅(東京帝国大学教授、東宮侍講、大審院判事、新治裁判所長、二松学舎創設者:1830年~1919年) 三室戸敬光(子爵) 平山成信(男爵、内閣書記官長、枢密顧問官、日本赤十字社社長、行政裁判所評定官) 福岡孝弟(子爵、司法大輔、元老院議官、文部卿、参議、参事院議長、枢密顧問官) 福羽逸人(正三位勲一等子爵農学博士) 藤波...
  • 江華島事件
    ...替するために来朝した花房義質が、春日丸に乗ってきたことから、日本を西欧勢同様、衛正斥邪の対象として、前述のように食糧の供給を停止した。大院君は、「日本人は何故蒸気船で来て、洋服を着ているのか。そのような行為は華夷秩序を乱す行為である」と非難し、交渉が暗礁に乗り上げると、日本では朝鮮出兵を求める征韓論争など出兵問題が政治問題化するようになる。征韓論争は明治6年の政変によって「延期」(「中止」ではない)と決まったが、その後の台湾出兵の発生と大院君失脚の報によって征韓論の勢いが弱まったために、明治政府は政府間交渉をして相手の状況をみることとした。 1875年、釜山に於いて、東莱政府と森山理事官との間で初めての政府間交渉が持たれた。しかし宴饗の儀における日本大使の大礼服着用と、同大使が宴饗大庁門を通過することについて、東莱政府が承認しないなどのため紛糾清国大使には、これを認めていた、さらに...
  • 興宣大院君
    ...少尉ら数十名が死傷、花房義質公使ら逃亡→済物浦条約(8月30日) 8月26日 - 壬午軍乱の策動容疑で 大院君、清へ連行 ref name= A03023641400 花房公使ヨリ条約締結並清人馬建忠大院君ヲ諭シテ支那軍艦ニ搭シ天津ニ発航スルノ電報到達 アジア歴史資料センター Ref.A03023641400 1884年 12月 - 甲申政変 日本軍、王宮を占領。 閔妃失脚。 閔一族の閔台鎬(純宗の妃 純明皇后の父)、閔泳穆、趙寧夏らが殺され、閔泳翊は重傷を負う。 閔妃 袁世凱に清軍の助けで政権奪回。日本公使館焼失、居留民被害。(→漢城条約、天津条約) 金玉均、朴泳孝、徐載弼らは3日間で失脚 日本へ亡命(家族は服毒自殺、処刑等) 1885年 1月9日 - 日朝 漢城条約(日本:井上馨、朝鮮:金弘集) 4月15日 - 巨文島事件(イギリスが...
  • 閔妃
    ...少尉ら数十名が死傷、花房義質公使ら逃亡→済物浦条約 8月26日 政敵 大院君 清へ連行 8月30日済物浦条約 1883年 当五銭を発行 1884年 12月 甲申政変  日本軍、王宮を占領。 明成皇后失脚。 明成皇后 袁世凱と清軍の助けで政権奪回。日本公使館焼失、居留民被害。(→漢城条約、天津条約) 金玉均、朴泳孝、徐載弼らは3日間で失脚 日本へ亡命(家族は服毒自殺、処刑等) 1885年 1月9日 日朝 漢城条約(日本:井上馨、朝鮮:金弘集) 4月15日 巨文島事件 4月18日 日清 天津条約(日本:伊藤博文、清:李鴻章)日清両軍の撤退 朝露密約. 日本 清に大院君の帰還要請。明成皇后側 大院君帰国の通達に難色 10月3日 大院君 清から帰国(仁川) 1891年 玄洋社設立 ref name= genyousya 梶川光・藤...
  • 日朝修好条規
    ...があったが、弁理公使花房義質が日朝間を頻繁に往来して、ついには1880年12月漢城に公使館を設置し長期滞在して既成事実化するようになると、朝鮮側も黙認せざるを得なくなった。同年朝鮮側も 東京に公使館を設置している。 一方朝鮮側は1876年5月、答礼使節として両班を成員とする修信使を日本に派遣した。これは日本側の勧めによるもので、開化途上にある日本の現状を視察するのが本当の目的であった。しかし派遣された両班たちには保守的な者が多く、あまり成果は無かったといわれる。しかし金弘集に率いられた二度目の修信使は、駐日清朝公使何如璋及び黄遵憲と面会し、黄の『朝鮮策略』を持ち帰っている。第二回修信使の見聞、日本政府との交渉、そして『朝鮮策略』の持参によって、朝鮮の対外政策は欧米に対する開国政策へと舵をきり始めるのである。 経済問題 日朝修好条規締結後、多くの日本人が朝鮮開港地を訪れた。たとえ...
  • 満鉄調査部事件
    満鉄調査部事件(まんてつちょうさぶじけん)は、第二次世界大戦中、多数の満鉄調査部員が関東軍の憲兵隊によって2回にわたり検挙された事件。満鉄事件とも呼ばれる。1941年に起こった合作社事件をきっかけとして、1942年には調査部員の第一次検挙、1943年には第二次検挙が行われた。 経緯 満鉄調査部は、1939年の拡充に伴う人員増強により、日本内地で活動の場を失った左翼からの転向者が多数就職していた。彼らは内地ではもはや不可能となったマルクス主義的方法による社会調査・分析に従事しており、そのことが関東軍の憲兵隊を中心とする満州国治安当局からの監視の目を強めさせることになった。 橘樸の影響を受けていた佐藤大四郎は、1937年1月以降、北満州の浜江省綏化県で、貧農を合作社(協同組合)に組織して生産力を向上させ彼らの救済をはかる運動に従事していた。この運動は多くの日本人「前歴者」が結集したこ...
  • 西郷隆盛-3
    前半は、西郷隆盛及び西郷隆盛-2参照 人物評 愛称 「西郷どん」とは「西郷殿」の鹿児島弁表現(現地での発音は「セゴドン」に近い)であり、目上の者に対する敬意だけでなく、親しみのニュアンスも込められている。また「うどさぁ」と言う表現もあるが、これは鹿児島弁で「偉大なる人」と言う意味である。西郷に対し、最も敬意を示す表現法は南洲翁である。 肥大 「先生の肥大は、始めからぢや無い。何でも大島で幽閉されて居られてからだとのことぢや。戦争に行つても、馬は乗りつぶすので、馬には乗られなかったぢや。長い旅行をすると、股摺(またず)れが出来る。少し長道をして帰られて、掾(えん)などに上るときは、パァ々々云つて這(は)つて上られる態が、今でも見える様ぢや。斯んなに肥つて居られるで、着物を着ても、身幅が合わんので、能く無恰好な奴を出すので大笑ぢやつた。」『西南記伝』引高島鞆之助実話...
  • 廃藩置県
    廃藩置県(はいはんちけん)とは明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 背景 慶応3年12月9日(1868年1月3日)に勃発した王政復古のクーデターは事実上の中央政府が江戸幕府から朝廷へ移っただけに過ぎず、中央集権を進めるには各地に未だ残る大名領(藩)の存在をどうするかが問題であった。 明治2年6月17日(1869年7月25日)、274大名に版籍奉還が行われ土地と人民は明治政府の所轄する所となったが各大名は知藩事(藩知事)として引き続き藩(旧大名領)の統治に当たり、これは幕藩体制の廃止の一歩となったものの現状は江戸時代と同様であった。 一方、旧天領や旗本支配地等は政府直轄地として府と県が置かれ中央政府から知事(知府事・知県事)が派遣された。これを府藩県三治制という。なお「藩」とい...
  • 西郷隆盛-2
    前半は西郷隆盛参照 参議 大政改革と廃藩置県 明治3年(1870年)2月13日、西郷は村田新八・大山巌・池上四郎らを伴って長州藩に赴き、奇兵隊脱隊騒擾の状を視察し、奇兵隊からの助援の請を断わり、藩知事毛利広封に謁見したのちに鹿児島へ帰った。同年7月27日、鹿児島藩士・集議院徴士横山安武(森有礼の実兄)が時勢を非難する諫言書を太政官正院の門に投じて自刃した。これに衝撃を受けた西郷は、役人の驕奢により新政府から人心が離れつつあり、薩摩人がその悪弊に染まることを憂慮して『丁丑公論』に詳しい、薩摩出身の心ある軍人・役人だけでも鹿児島に帰らせるために、9月、池上を東京へ派遣した『西郷隆盛全集』第6巻、補遺、五。12月、危機感を抱いた政府から勅使岩倉具視・副使大久保利通が西郷の出仕を促すために鹿児島へ派遣され、西郷と交渉したが難航し、欧州視察から帰国した西郷従道の説得でようやく政治改革...
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