三国志故事成語

危急存亡の秋(ききゅうそんぼうのとき)
生き残るか滅びるかの瀬戸際のこと。
諸葛亮が劉禅に上表した「出師之表」の冒頭部分。魏との戦いを決意したもので、まさに蜀の存亡をかけて戦い貫くことを、強く訴えているもの。
「秋」を「とき」というのは、秋になると米も収穫され、訓練された兵も増えて充実することから、秋は攻め込むのに絶好の機会だということ。

苦肉の計(くにくのけい)
元々は兵法三十六計の一つ(第三十四計)から。自国が劣勢の際に用いられる計の一つ。
『人間は自分で自分を苦しめることはしない。害があれば、それは必ず他の人から害を受けるはず』という心理を逆手にとったもの。圧倒的な劣勢の中、味方を害し、敵を信じ込ませる、という計。
転じて、今では「苦し紛れの手段」などの意味において使われることがある。
曹操軍vs孫権・劉備同盟軍の赤壁の戦いにおいて、連合軍の総指揮官である大都督周瑜は、曹操軍を火攻めにしようと模索していたが、その作戦の糸口をつかめずにいた。
そこで、古将黄蓋が「自分に鞭を打ち、曹操軍へ偽りの投降をする」と持ちかけた。
周瑜は少しためらうが、その作戦を実行する。投降した黄蓋を曹操は「苦肉の計」だと思ったが、使者に説得され受け入れた。そして、黄蓋が曹操軍に放火。見事曹操軍を壊滅させたのである。
これは「三国志演義」の中のもので、正史には「苦肉の計」自体は記録されていない(火計はあるけどね)。

鶏肋(けいろく)
鳥の肋骨。食べられる身は殆どないが、美味いダシが取れる。転じて、「大して役には立たないけど、捨てるには惜しい」という意味のこと。
漢中郡での劉備との攻防戦で、魏軍は苦戦を強いられた。撤退しようかどうしようかと迷った曹操が言った「鶏肋」という言葉に、部下の楊修が「鶏肋は、捨てるには惜しいが、食べても美味い肉はついてない。つまり、漢中郡は惜しいが、撤退するつもりだろう」と解釈し、撤退の支度を始めた。
これは正史の注釈として載っている話。
三国志演義では、曹操が鶏肋をしゃぶっていた時に「鶏肋」とつぶやいた言葉を聞いた楊修が、「撤退する気だ」と思い準備を始めた。それを聞いた曹操は激怒して彼を処刑した、とある。

呉下の阿蒙にあらず(ごかのあもうにあらず)
「呉下の阿蒙」の「阿」は子供・「~ちゃん」という意味。「呉にいた頃の蒙ちゃんじゃない」という意味。
また、「阿蒙」には蔑称の意味もある。大人に対して使うもので、「進歩のない人」というもの。
「~にあらず」とあるので、その否定。つまり、「いつまでも進歩しない人ではない」→「よく進歩する人」という意味。
孫権配下の呂蒙は、武辺一辺倒の猛将だった。孫権は、彼に対して学問の重要性を説いたが、彼は「書物を読むまでの時間はない」と言う。孫権は「いやいや、何も研究して博士になれ、という訳ではない。過去の歴史についてたくさんのことを知ればよい」
発奮した呂蒙は勉学に励み、文武両道の武将となり、後に関羽を討った。
勉強に励んだ後、魯粛の後任として荊州に来た呂蒙に対して、魯粛がいろいろと質問してみると、呂蒙は何でも答えた。
これには魯粛も感心し、呂蒙を「呉下の阿蒙にあらず」と言った。一方、それに対しての呂蒙の返事は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」と返したという。
→「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」 … 日々鍛錬している者は三日も会わなければ見違えるほど変わっているということ

三顧の礼(さんこのれい)
才能ある人を迎え入れるには、立場があろうと何度も訪ねて礼を尽くすということ。
207年、劉備は晴耕雨読していた無官の諸葛亮の草庵を、自ら三度に渡って訪問し迎え入れた。

死せる孔明生ける仲達を走らす(しせるこうめいいけるちゅうたつをはしらす)
偉大な人物は、生前の威光が死後も残っており、人々を恐れさせるということ。
諸葛亮は、魏の司馬懿と五丈原で対陣中に病死した。
軍をまとめて帰ろうとした蜀軍に対して司馬懿はただちに追撃したが、蜀軍が反撃の構えを示したため、司馬懿は諸葛亮の死の報せは何か策略があってのことだろうと疑い、追撃を止めて退却した。

水魚の交わり(すいぎょのまじわり)
魚は水がないと生きていけない。つまり「必要不可欠」な存在(繋がり)のこと。
劉備と諸葛亮の繋がりをこれに例えた。この場合は、「魚」が「劉備」で、「水」が諸葛亮。劉備にとって諸葛亮はなくてはならない存在である、ということ。

千載一遇(せんざいいちぐう)
絶好の機会。千載は「千年」と同じ。つまり、「千年に一度くらいしかない絶好の機会」という意味。
三国志とは直接関係はない。晋の時代(三国時代の後)に作られた三国志の名臣を取り上げた書物「三國名臣序贊」の中の一文。現在、「文選(もんせん)」に掲載されている。
ちなみに、その書物の中での「三国志の名臣」は以下の通り。原文より抜粋。
魏志九人,蜀志四人,吳志七人。荀彧字文若,諸葛亮字孔明,周瑜字公瑾,荀攸字公達,龐統字士元,張昭字子布,袁煥字曜卿,蔣琬字公琰,魯肅字子敬,崔琰字季珪,黃權字公衡,諸葛瑾字子瑜,徐邈字景山,陸遜字伯言,陳群字長文,顧雍字元歎,夏侯玄字泰初,虞翻字仲翔,王經字承宗,陳泰字玄伯。

泣いて馬謖を斬る(ないてばしょくをきる)
優秀な人であっても、私情を挟み法を曲げて責任を不問にしてはいけない・私情を挟まず罰しなくてはいけない、ということ。
馬謖は諸葛亮の信任をうけて、228年の街亭の戦い(対魏軍)の先鋒を命じられた。
「山頂に陣取るな」という諸葛亮の命令に背き「山頂に陣取った」為に、魏軍に惨敗。
命令に背いた馬謖は敗戦の責任を取り斬罪。愛弟子を失った諸葛亮は涙を流したという。
というのが、正史上。
演義では、「馬謖の為に泣いた訳ではない」ときっぱり言っている。
亡くなった先主劉備から「馬謖を重く用いてはならない」と言われていたにも関わらず、それを守らなかった自分の至らなさを嘆いて泣いた、という。

白眉(はくび)
兄弟の中で、最も優れている者のこと。
馬良・馬謖ら五人兄弟は、五人揃って優秀だったが、その中でも四男の馬良が最も優れていて、彼の眉の中には白い毛が混じっていた。
「馬氏の中で最も優れた者は、白い眉の者」ということで、「白眉」と言うようになった。

破竹(はちく)
この単語に「勢い」をつけて使う。「破竹の勢い」。竹は最初の一節を割ると、一気に割れる。そこから、勢いが激しく簡単には止められないこと。
三国末期、既に蜀は滅亡し、残りは呉。魏はクーデターが起きて「晋」と変わっていた。晋は呉を攻め建業近くまでに至った。
しかし、季節は温暖になり長雨続きとなるので、兵は病気になりかねないと軍議の中で意見が出た。
そこで、杜預(とよ/どよとも)が「今は兵は士気が高く、例えるなら竹を割く勢いにある。節に刀を入れたら、簡単に割けられるだろう」と士気が高いので一気に攻め込むべしと続行を進言。
こうして、晋軍は建業を攻め、呉は降伏。三国時代はこうして幕を下ろしたのだった。

髀肉の嘆(ひにくのたん)
平和で安らかな日が続くために、手柄を立てる機会がないことを嘆く。手柄がなく、月日だけが虚しく過ぎ去っていくことへの嘆き。
劉備が曹操に敗れ、劉表の元に身を寄せた頃のことである。
住んで数年となったある日、劉表が開いた酒宴の途中で、劉備は厠(かわや)に行き、ふと自分の髀(ふともも)に肉がついているのを見て、「嘆かわしい」と涙を流した。
酒宴の席に戻ると劉表は怪しんで、劉備に「どうしたのか」と尋ねた。
劉備は「私は戦乱の中に身を置き、常に馬の鞍から離れることがなかったので、太股の肉は全て落ちていた。それが、近頃は馬に乗ること機会が全くなく、太股に肉がついてしまった。月日は馳せるように過ぎ去って行くのに、老いが近づく今となっても功業を立てることができず、それが悲しい」
劉表自身も劉備を信頼していた訳ではないので重く用いずにいたことから、飼殺し状態となっていた。それを嘆く、劉備の野心が垣間見える。

最終更新:2010年02月02日 11:49