すっかり秋めいて来たなあ……。

成歩堂はパーカーのポケットに手を突っ込んで、俯きがちに田舎道をゆっくりと歩いていた。
サンダルを直穿きした素足がひんやり寒い。
自然が多い山里は、成歩堂が普段暮らす都心の街よりも、いくぶん季節の進み具合が早いよ
うだ。
視界の前方に広がる山の頂上付近は、かすかに朱に黄色に色付き始めている。
これから寒さが厳しくなって来るに連れて、山裾に向かって彩り鮮やかに染め広げて行くの
だろう。

そんなことを思いながらのんびり歩いていると、背後から小さな足音が近づいて来た。
成歩堂がゆっくりと振り返ると、少女が二人、息を切らせて駆けて来るところだった。
路線バスが一台通れる程度の道幅はあったが、一歩左に寄って立ち止まり、進路を譲ってや
る。
こちらを向いて道を開けている人物に気付いた少女達は、各々小さな口を「あ」と開けて驚
きの表情を見せたあと、ニッコリ微笑み「こんにちは!」と挨拶した。
反射的に「ああ、こんにちは」と返す彼を、軽やかな風と共に追い抜いて行く。
その背中で、赤いランドセルが揺れていた。
少女達の体格では少し重そうな革のランドセルの中に、一杯に詰まった教科書やノート、そ
れに筆箱や、その中で揺れる鉛筆達が、カタカタと音を立てていた。
視線で追った少女達のラベンダー色の上着と、小さな膝小僧が丸見えの装束の裾が向かい風
に翻る。
少女達は少し行ったところで速度を緩め、やがて速足になると、未だその場所で佇む成歩堂
の方をチラリと振り向いた。顔を寄せ合い、ヒソヒソと何かを話して、クスクス、
キャッキャと笑っている。
首を傾げて笑んでやると、少女達はパッと顔を見合わせて一際高い笑い声を上げて、駆けて
行ってしまった。

「……なんだ?」

気のせいか、笑われた気がして成歩堂は首を捻った。

笑い話のネタにされるようなおかしなところでもあったか……?
そう言えばまたこの数日ひげを剃っていなかったが、それがだらしなく映ったのだろうか。
それとも女ばかりの山里に向かおうとしている男の存在自体が珍しかったのだろうか。
コソコソと少女特有の噂話でもしたのか、もしくは陰口でも叩いたのか、とにかく少女達は
確かに成歩堂を見て笑った。

笑われるような心当たりはないんだけどな……。

いささか不愉快ではあるが、本気で腹を立てるほど成歩堂は子どもではなく、むしろ数年前
の娘を見ているようで懐かしさすら覚えながら再び歩き始めた。
少女達が姿を消した先が目指す場所だ。彼女達の独特な和装がそれを示していた。

西の空が少しずつ茜色に染まり始め、夕焼けの色を反射したいわし雲が気持ち良さげに泳い
でいる。
いつの間にか、空が高くなっていた。

ああ、秋の空だ。
こうして空を見上げるのは、いつ以来だろう……?

成歩堂はトレードマークのニット帽を脱ぐと、左手に握り締めた。

彼が目指す先は、もうすぐそこだった。

******

若き家元は、すぐに見つかった。
成歩堂と同世代と思しきスーツ姿の男と玄関先で立ち話していたからだ。
成歩堂は邪魔をしないように、少し離れた門の柱に背を預けてその様子を見ていた。
来客だろうか、それとも知り合いなのだろうか。
話の中身までは聞こえて来ないものの、真宵は時折声を立てて笑っていて、随分と楽しそう
だ。
背の低い真宵が男を見上げて眩しそうに笑う姿が面白くない。

何、話してるんだよ……。

かつてカレーをぶちまけられた掛け軸にあった彼女の母親と同じように、一族の中でただ一
人だけ丈の長い装束を身に着け、背筋をしゃんと伸ばし、豊かな黒髪をさらさら
と風に靡かせるその姿は、成歩堂の助手をしていた女の子と同一人物だとは思えなかった。
風に吹かれて装束の裾が優雅に舞う。
真宵はどこか天女にも思える神秘的な雰囲気を纏うようになっていて、成歩堂は七年という
歳月の重さを改めて知った。
少女から女性へと目覚しく変化する時期に離れたからだろうか。
会う度に優美さや清艶さを増して大人の女性になって行く真宵の姿に、ただただ成歩堂は驚
かされ、一方で子どもが巣立ってしまったような寂しさを感じたことすらあった。

その時、ぼんやりと目で追っていた真宵が、何かを言いながら男の腕をパシンと叩いた。
冗談を言われたのか、お世辞の一つでも言われたのか、真宵はわずかに頬を赤らめて笑って
いる。

ふーん。楽しそうじゃないか。

成歩堂は帽子を被り直しながらひっそりと舌打ちした。
いよいよ面白くなかった。

成歩堂は真宵のことをとても大切に思っている。
友人として、妹として、一人の女性として。
その真宵が自分以外の男に笑いかけている姿は、見ていて気持ちの良いものではなかった。

ひそかに向かっ腹を立てていた成歩堂が何気なく門の外を見遣ると、ちょうどそこを歩いて
いた少女と目が合った。
娘のみぬきと同じ年頃か、もしくはもう少し年少かもしれない。栗色がかった髪をおさげに
して、古ぼけた本とノートを腕に抱えている。独特な衣装から、一目でこの少女
もまた、倉院流の修験者だとわかった。
パーカーのポケットに手を突っ込んだまま門柱によりかかって屋敷の中の様子を窺う怪しい
男に、少女はじろじろと遠慮のない視線を投げかけて来る。澄んだ瞳に警戒と敵
意が浮かんでいた。

成歩堂は苦笑した。
昔はスーツ姿であればこれほど警戒されることなどなかったし、万が一身分を怪しまれたと
しても、襟に付けた弁護士バッジを見せれば皆が一様に納得と安堵の表情を見せ
たものだ。
だが今はヒゲは生やしたままだし、着の身着のまま、素足にサンダルだ。
これで家の中を覗かれれば、そりゃあ通報の一つもしたくなるというものだ。
警察を呼ばれなかったことに感謝しつつ、成歩堂は言い訳がましく言った。

「……ああ、ぼくは真宵ちゃん……、いや、家元さんの友達なんだ」

まじまじと成歩堂を見つめていた少女は、ハッとなにかを思い出したかのように目を丸くし、
小走りで近寄って来てまっすぐに彼を見上げた。

「あのっ、“ナルホドクン”ですよね?」
「え。……そうだけど」

見覚えのない少女の顔が、「やっぱり!」と言わんばかりに輝いた。

「あの。家元さまの未来の旦那さま、とか」
「え。ええっ?」
「さすが、家元さま。こんなに大人の男性と……! あの、あの。家元さまを、よろしくお願
いしますね!」

一方的に告げると、少女ははにかんだ笑みでペコリと頭を下げ、外へ駆けて行ってしまった。

成歩堂は走り去って行く少女の後ろ姿を半ば唖然として見送った。
昔から、真宵と彼との関係を勘違いしていた春美が願望混じりで似たようなことを言ってい
たので、そう言われること自体には慣れっ子だったが、見知らぬ少女からの突然
の言葉には面食らった。

倉院の里は、一体どういう教育をしてるんだよ……。

不意を衝かれて目を瞬かせていた成歩堂の背中に、背後から素っ頓狂な声が飛んで来た。

「あれっ? なるほどくんッ!?」

成歩堂に気付いて驚きの眼で見ている真宵は、男と二言三言言葉を交わすと、こちらに駆け
寄って来る。
真宵の肩越しに、彼女のあとを遅れて歩いて来る男と目が合った。
すれ違う瞬間、男はチラリと成歩堂を見て口元に微笑を浮かべた。
小さく会釈をした切れ長の目が、瞬時に成歩堂を値踏みしたように見えた。
成歩堂はまっすぐにその視線を受け止める。一瞥して目礼を返して、それから余裕を見せつ
けるようにゆっくりと真宵に目を移した。
走り寄ってきた愛嬌たっぷりの笑顔が、無邪気に腕を絡めて来る。

「突然どうしたのっ? 久し振りだねえ!」
「いや、なんとなく。顔が見たくなったんでね、遊びに来たよ」
「そっかそっか。とりあえず入りなよ、ねっ!」

もう20代後半になったというのに、真宵のその姿はコロコロとじゃれ付く仔犬のようだ。
人懐っこさは10代の頃と何ら変わりなくて、成歩堂は思わず笑んでしまう。

真宵に引っ張られて連れて行かれた先は、控えの間だった。
倉院の里に遊びに来ると、大抵成歩堂はここに泊まっていた。

真宵は座卓に差し向かいで座ると丁寧な手つきでお茶を淹れた。
わずかに渋みのある香ばしい香りを漂わせる緑茶が、これ以上ないくらいにトノサマンが存
在を主張している湯呑みに吸い込まれていく。
これは、倉院の里の綾里屋敷における成歩堂専用の湯呑みだった。
弁護士を辞して間もない頃、久し振りに里を訪ねて来た彼に、真宵は嬉々として湯呑みを差
し出しこう言ったのだ。

『この前ね、いいモノ見つけちゃったっ! なんとね、サイズ違いでお揃いのお湯呑みが、二
個セットでお買い得だったんだよ! これ、一つはなるほどくん用ね』
「……(おいおい、これ夫婦茶碗じゃないか)」

彼女の辞書に『夫婦茶碗』という言葉はなかったらしい。
お買い得の湯呑みセットを見つけた時の真宵の喜びようが目に浮かぶようだった。
それは決してセットでお買い得だったのではないよ、と教えてあげようかと思ったけれど、
やめた。
真宵が嬉しそうだったから、それはそれで良いかと思ったのだ。

──あの頃よりも使い込まれて風格を増した湯呑みを成歩堂の前に置きながら、真宵は笑っ
た。
下校中と思しき少女達に道を譲ってあげたのに笑われたこと、そして先ほど門のところで話
しかけて来た少女の話を聞かせたからだ。
ただし、“未来の旦那さま”の話は伏せて。

「あはは。その子達、なるほどくんのコト知ってるんだよ」

クルクルとよく動く瞳を三日月型にして朗らかに笑う真宵を尻目に、成歩堂は後頭部をポリ
ポリと掻いた。

「ぼくは知らないんだけどな」
「なるほどくんは知らないだろうけどさ。はみちゃんが吹聴して回ってるからね、『真宵さま
の大切な方』って。だからなるほどくん、この一帯では有名人だよ? 里の子達
はみんな、なるほどくんのコト知ってるんだから! はみちゃんの影響受けちゃってさ、『家
元さまの王子さま』とかなんとか言ってるみたい」
「……相変わらずなんだね、春美ちゃん」
「うん。背と胸ばっかりあたしより大きくなっちゃったけど、性格はあのまんま。あたしに似
て、素直な良いコに育ったよ」

真宵は小首を傾げて笑って見せると、漆器に盛り付けられた饅頭を一つ手に取り頬張った。
茶目っ気たっぷりの表情と物言いは、真宵の八面玲瓏の性格をよく表していた。
あっという間に一つ目の饅頭をたいらげた真宵は、二つ目の饅頭に手を伸ばしながら言った。

「ところでなるほどくん。何か用があって来たんじゃないの?」

お茶を啜っていた成歩堂が、ピタリと動きを止めた。
真宵がじっと見つめている。

「用がなきゃ来ちゃいけないのかな」
「別に良いけど。でも、なーんか変だなあ」
「変?」
「うん。憑き物が落ちたような顔してるよ。こんななるほどくん、久し振りに見る気がする」

彼の心臓がドキンと一度高鳴った。
心理錠が見える勾玉も、王泥喜やみぬきのように“みぬく”ことが出来る能力があるわけで
はないのに、真宵は成歩堂のことはいつもお見通しだった。
直感が鋭いのか、洞察力が磨かれたのか、“絶対”と言われる倉院流家元の霊力の一種なの
か、それとも長年の付き合いで彼を知り尽くしているからなのか、とにかくよく
分からないけれど、ポーカーフェイスばかりが上手になった成歩堂でも真宵には嘘は通用しな
かった。

「真宵ちゃんに隠し事は出来ないなあ」

成歩堂はお茶を飲み干してテーブルに湯呑みを置くと、真宵をまっすぐに見つめた。
彼の手から離れたトノサマンが、コトン、と可愛い音を立てた。

「……実は、ね。昨日全部片付けて来たんだ」
「え、本当?」

真宵は嬉しそうに胸の前で合掌し、ニッコリ笑った。
ずっと気がかりだったのだ。
何故かトイレ以外の場所を掃除しようとしない成歩堂と、幼いみぬきだけになってしまった
事務所が。
デスクの上が山積みの書類で酷いことになっているにも関わらず、かたくなに片付けようと
しない成歩堂には手を焼いたものだ。
そんな面倒くさがりの彼が心を入れかえたのだから、事ある毎に口を酸っぱくして来た甲斐
があったというものだ。

「えらいえらい。やっと重い腰上げたんだ?」
「まあ、ね」
「確かに、ちょっと雑然とし過ぎてたもんね。 せっかくみぬきちゃんが片付けても、ダメな
パパが散らかしちゃってさ」
「……え。」

雑然? 散らかす? ……なんの話だ?

成歩堂はようやく二人の会話が噛み合っていないことに気が付いた。
まったく別の話題にも関わらず、まるでコントか漫才のように上手く歯車があっていた。
嬉しそうにうんうんと頷いている真宵に、成歩堂もまた、微苦笑を浮かべる。

「いや、そーいうことじゃなくて」
「なに?」
「七年前の、あれ」

真宵はキョトンと成歩堂を見つめ返した。

「七年前って……七年前……?」
「うん、七年前。心配するだろうから、全部終わってからと言おうと思ってたんだけど」
「それってつまり……ど、どういう……」

真宵の心臓が、まるでトノサマンシリーズ最新作の初回放送を目前にしている時のようにド
キドキと高鳴って行く。
そこにあるのは、期待と不安をごちゃ混ぜにした、ある種の予感。
己の鼓動を確かめるように胸元に置いた手を、知らず知らずの内に真宵は握り締めていた。
成歩堂の目がほのかに笑っている気がするのは気のせいだろうか。
息を呑んで成歩堂の言葉を待つ。

「全部、終わった」
「終わった……?」
「ああ、終わったんだよ」
「つまり……つまり……。それは、なるほどくんの無実が証明された、ってコト?」
「──うん、そうだよ」

成歩堂が口元を綻ばせると、真宵は一気に相好を崩した。
そして彼の隣に迫り寄ると、バシンっと思いっきり背中を叩いた。
成歩堂の背中に熱を伴った痛みがジンジンと走る。
小さな手で叩かれると痛みも大きかった。

「きゃわわああっ! すごい! やったね、なるほどくん! すごいよッ! よくやった! 
おめでとう……!」
「い、痛いよ、真宵ちゃん……」
「こりゃ今日はお赤飯だね! お赤飯炊こうっ!」

成歩堂は顔を歪めて叩かれた場所を擦り、真宵の小さな手が生んだ熱を冷ます。
そんな成歩堂の背中をこれでもかと満面の笑みを浮かべてバンバン叩いていた真宵が、ふと
手を止めて彼のダークグレーのパーカーの袖を握った。

「そっかあ……。とうとう……」

成歩堂が視線を落とすと、頭頂部で綺麗に結ったちょんまげが、彼にしがみつくように俯い
ている。

真宵は今でもあの日のことを忘れられなかった。
翌朝の新聞で事件を知った時の衝撃。
電車に飛び乗ってもなお、半信半疑だったこと。
駆けつけた事務所で見た、疲れきった成歩堂の姿。
ある事ない事、でたらめばかりを並べ立てるマスコミ。例の事件だけでなく、成歩堂がこれ
まで扱って来た裁判までも持ち出して、捏造の証拠が使われたのではないかと言
い出したのには心底呆れた。
今まで彼が積み重ねて来た信頼は、一瞬にして崩れ去った。

あの日、いつものように一緒にいれたら良かったのに。
そしたらこんなことにはならなかったかもしれない。

当時家元を襲名したばかりで多忙を極めていた真宵は、わずかばかりの自由になる時間を
遣り繰りしては事務所を訪ねた。
手のひらを返す者達の薄汚さを見せつけられて、やり場のない怒りに震える真宵とは対照的
に、成歩堂は日に日に表情を失っていく。
怒りもしなければ、泣きもしない。
以前とは別人のように快活さを消し、次第に周囲から心を閉ざして行く成歩堂の姿が未だに
脳裏に焼きついて離れない。
まともに人の目を見なくなってしまった成歩堂に、少なからず真宵はショックを受けた。そ
して自分を責めた。

それに、事件のあったあの日。成歩堂から事件を知らされなかったことも悲しかった。
姉を亡くして一人になってから、誰よりも真宵のそばにいてくれたのは成歩堂だった。
成歩堂がいてくれたから今、自分は笑えているのだと真宵は思っていた。
それなのに、支え続けてくれた成歩堂の人生に関わる重大な危機に……、一番大切なその場
面でそばにいることが出来なかった。

成歩堂が、幼い頃に濡れ衣を着せられてクラスで孤立した苦い経験から、孤独な人の味方に
なりたいと弁護士を志したことを真宵は知っていた。
それほどまでに孤独を嫌う成歩堂を、絶対に一人にしてはならない場面で一人にしてしまっ
た。
独りぼっちの辛さを味わわせてしまった。

だから今こそ、かつて成歩堂がそうしてくれたように、彼のそばで少しでも支えになれたら
と思った。

だが、家元の名前はそれすら許してはくれなかった。
家元という身分で得た権力は彼を助ける為に役に立つこともあったが、真宵には単なる足枷
にしか思えないことの方が多かった。

申し訳ない。
真宵は少なからず彼に対する罪悪感を抱いたまま、この七年を過ごして来た。
昔のように手伝うことが出来ないのであれば、せめて……。

真宵は祈った。

なるほどくんがまた笑えますように。
こんなコトに負けませんように。
いつか真実を見つけられますように。

なるほどくんの無念が報われますように。

この七年、願わない日はなかった。
雨の降る朝も、太陽が照り付ける昼日中も、風の強い夕暮れも、雪の舞う夜も。

──いつだって祈っていた。

お姉ちゃん、なるほどくんがやったよ。
バッジを失っても、たった一人で真実を暴いたよ。

やっと、終わったんだ。
なるほどくんの、長い長い夜が……。

「真宵ちゃん……?」

呼び掛けられた真宵は「なんでもないよ」と言って、面を上げた。
顔は笑っていたが、声がかすかに震えていた。

成歩堂は不意に鼻の奥がツンと痛くなって、慌てて唇を噛み締めた。

予想外に訪れた逆転のチャンス。
引きずり出した真実。
七年探し続けていたものが、余りにも呆気なく終焉を迎えてしまい、正直なところ、成歩堂
の中に実感は湧いていなかった。
が、自分のために声を震わせてくれる真宵に終幕を報告出来た今、ようやく全てを終えられ
た気がした。

真宵は成歩堂の右隣にちょこんと正座して、彼を見上げた。
パーカーの袖を握ったまま、離そうとしない。

「……今日どうするの? 泊まっていくなら準備しなくちゃ」
「お願いするよ」
「わかった。ゆっくりしてってね」

そう言って、ニッコリ笑った。
成歩堂は真宵の媚びない笑顔が大好きだ。
その笑顔が不意に神妙な顔つきになった。
おや、と思う間もなく真宵は一歩後退りして居住まいを正すと、畳に三指をついて深々と頭
を下げた。

「なるほどくん。……長い間、お疲れ様でした」
「え。ちょ、ちょっと真宵ちゃん……!」

真宵の長い髪が、サラサラと畳に流れた。

思わずうろたえてしまった。
まさか真宵にそんなことをされるとは思わなかった。

端然と姿勢を正した真宵のそれは、とてもさまになっている。
堂々とした振る舞いはさすが名家を束ねる当主というところだろうか。
いつもニコニコと天真爛漫な真宵だとは思えないほど凛としていた。

これが真宵ちゃんの家元の顔か……。

初めてだった。
今までこんな威厳を見せられたことなどなくて照れくさい上に、妙な迫力に気圧されて成歩
堂は咄嗟に気の利いた答えが浮かばなかった。

「……三指なんて、初めて見た」

やっと顔をあげた真宵はもう普段通りになっていた。笑いながら涙ぐんでいた。

「よく頑張ったね、なるほどくん」
「……ん。真宵ちゃんのお陰だ」
「あたしなんて何もしてないよ。本当に良かったねえ」
「……ありがとう」

労われて万感の想いが胸を過り、不意に目頭が熱くなり真宵の肩に顔を埋めた。
面食らいながらも真宵は優しく「よしよし」と頭を撫でる。

「昔はさ、『あたしがなるほどくんとはみちゃんのお姉さんがわりだから』なんて言ってたよ
ね」
「……言ってたな、そんなコト」

懐かしかった。
七つも年下の真宵が言うものだから、成歩堂は苦笑したものだ。
その真宵が、大真面目な顔で言う。

「……泣いても良いよ、七年分。あの時、泣けなくてツラかったでしょ?」

何が何だか分からないまま弁護士として最後の法廷が終わり、マスコミには好きなように書
かれ、酷く傷ついていたあの頃。
心ない誹謗中傷から隠れるように過ごした日々。
いつの間にか心の痛みを感じなくなっていることに気が付いた。
人間の心はこうやって死んでいくのか……とぼんやり思ったものだった。

──あの時も、真宵は言った。『泣いても良いよ』と。
だが成歩堂は泣かなかった。泣かない代わりに、こう言った。

『泣きたいんだけどね、涙が出ないんだ。まるで心が麻痺しちゃったみたいだ』

真宵は経験で知っていた。
涙が出ない……、それは心の叫びだと。
傷ついた心が、これ以上傷つかないように自分を閉ざしてしまおうとしている。
泣きたいのに涙が出ない、それは心の悲鳴なのだと。

「ははっ。泣かないよ。──もう、良いんだ」

おどけたように言うわりに、悲しさの色が透けて見える瞳。
全てを悟って諦めたような寂しげな表情は、以前の成歩堂には無かったものだ。
こんな成歩堂を見ると、決まって真宵は胸が締め付けられるような切なさを覚えた。

「まったく、なるほどくんは意地っ張りだねえ」

そう言って、上目遣いで睨んで見せた。
そうでもしないと本格的に目から水滴が零れ出しそうだった。

──涙目で自分を見つめて不貞腐れる真宵を見た時、成歩堂の中で何かが弾けた。

変わらないなあ、真宵ちゃんは……。

あの頃と同じように弟扱いして、自分は姉のように振る舞う。
外見はすっかり大人びてしまったのに、中身はそのままだ。
あの事件を境に、風貌も、物事の捉え方すらもどこか卑屈に変わってしまった自覚があるの
に、今、目の前の真宵の網膜に映っているのは、あの頃と何ら変わらない自分な
のかもしれなかった。

──ふと、成歩堂の顔から力が抜けた気がした。
いや、実際は表情に変わりはなかったのかもしれない。
成歩堂がまとっていた、どこか他者を寄せつけぬ空気が緩んだように真宵は感じた。
成歩堂は俯いて、ポツリと言った。

「……じゃあ、さ。このまましばらく、肩、貸しててくんない?」
「肩? どーぞどーぞ」

薄い肩に顔を埋めて華奢な背中に腕を回すと、猫の毛のようにしなやかな真宵の髪の毛先が、
天使の羽根のような肩甲骨の位置で、成歩堂の手をくすぐる。

「……」

片手に納まりそうなほどに小さな後頭部から背中まで、絹のようにサラサラの髪を撫でる。
漆黒だと思っていた髪は、障子から射し込む西日に透けて栗色がかって見えた。
ふんわりと柔らかな真宵の髪は、いつまでも触れていたいと思うほど心地良かった。

「昔はもう少し長くて、腰のトコでまとめてたよね。前髪も一直線に『パッツン』って切り揃
えてさ」
「うん、家元になって“いめちぇん”してやめたけどね」

頬の辺りまで伸びた前髪を中心よりも右で分けて、サラリと顔に落ちるそれを手で流す。
その横顔から幼さはスッカリ影を潜めていた。

真宵の温もりを感じながら深呼吸すると、懐かしい香りが胸の中に広がった。
髪から漂うシャンプーと、服に焚き染められたお香の香りが優美な梅の花を思わせる。

滑らかな髪の毛がそよそよと成歩堂の頬をくすぐる。
背筋をピンと伸ばして正座した真宵は、肩に寄り掛かったまま顔を埋めている成歩堂の背中
を、むずかる赤ん坊をなだめるように叩いてあやす。
ポン…ポン…という優しく温かい調べが彼の心の殻を一枚ずつ剥がしていき、柔らかく丸く
なったそこから堪えていた想いが溢れ出しそうだった。

この七年に想いを馳せた。
時折、無性に真宵に会いたくなっては、何だかんだと理由をつけて遊びに来る生活。日陰の
生活を送る成歩堂には、真宵のお日さまのような笑顔は疲労回復の特効薬で、会
えばいつだって元気をもらえたし、発破をかけられたこともあった。
会う度に女性らしくしなやかに成長して行く娘盛りの真宵がどれだけ眩しかったか。

ずっと言いたかった。
でも言えなかった。
黒い噂の付きまとう自分では相応しくないから。
危険に巻き込んでしまうかもしれないから。
だから、いつか疑惑を晴らしたら……。

──ああ。その「いつか」がやっと来た。

無邪気に笑う真宵は自分をどう思っているのだろう?
元弁護士と元助手?
兄妹?
姉弟?
友達?

ほんの少しでも異性として見てくれているのだろうか。
若かった頃の関係を打破出来るだろうか。

成歩堂の鼓動は緊張で高鳴り、いつの間にか手のひらは汗でじんわり湿っていた。
みぬきや王泥喜がいればたちまち異変を見抜き、成歩堂らしくないと目を丸くして驚いただ
ろう。

すっかりスレてしまったと思っていたけれど、まだ自分にもこんな初々しい一面が残ってい
たのが意外だった。
それほどまでに募らせた想い。

「あはは、大きい子どもみたいだね」
「……うるさいなあ」

真宵は愉快そうに笑う。
三十路も半ばに差し掛かろうとしている大柄な男が、一回りも二回りも小さな自分の肩に頭
を預けてその背中をポンポンされているのだから、真宵にとっては面白い絵面で
あることは間違いない。

だが今の成歩堂には、自分をからかう笑い声すら愛しかった。

背中に回した手をすっと驚くほどに薄い肩に置く。
その手を支えにして成歩堂はゆっくりと顔を下げて行く。

装束越しに触れる鎖骨。
そして、その下の女性の膨らみ。
二つの丘の狭間に耳を付けるとトクトクトクトク…と規則正しい鼓動が少し速めのテンポで
刻まれていた。
頬に乳房の柔らかい感触が当たる。
もちろん触れたことなどなかったが、事務所にいた頃よりも幾分豊かになっているようだっ
た。
そのまま右の盛り上がりに頬を寄せると、その頂点を布地越しに正確にとらえて、大きく食
んだ。

「ぁ……ッ……!」

胸の先端から走った電気のような感覚に、反射的にか細く鳴いてしまった真宵は、突然のこ
とに目を白黒させて息を引いた。
震える声。

「え……? なるほ……どく……ん……?」

だが成歩堂は真宵の戸惑いなど気にかけることなく唇でそこを甘噛みし続け、瞬く間に装束
に丸い唾液の染みを作り上げた。
湿って透けた装束の下に息吹く、淡い桜色の突起がうっすらと浮き出ている。
成歩堂の唇は、より精度を高めて突起をつかまえて行く。その動きに合わせて真宵は肩をピ
クッピクッと小さく跳ねさせた。
真宵は視線を宙にさまよわせながら切なげに吐息を漏らす。

装束越しに形を変えた突起を認めると、成歩堂は口を離して真宵を抱き締めた。

「ダメかな……? ずっと我慢してたんだ。……もう、何年も」
「なるほどくん……」

真宵はしばしためらったあと、吐息を震わせながらおずおずと彼の背中に腕を回した。
真意を確かめるように覗き込むと、頬を赤らめて困ったような表情で目を逸らす。
その仕草は予想外に大人の女性の艶っぽさを秘めたもので、成歩堂は胸を締め付けられるよ
うな妙な気分になった。
無言の受容を得て、ゆっくりと体重を掛けて畳の上に押し倒すと、真宵は呟いた。

「ここまでして、ダメも何もないよ……」

切なげに見つめる真宵を、成歩堂はたまらず抱き竦めた。

 

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最終更新:2010年03月26日 22:43