関西大学グリークラブの歴史


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過去の演奏会の記録はこちら



  • 1949年5月                          
関西大学グリークラブ創部「創設の頃」関西大学グリークラブOB会理事長 片 山 忠 夫
関西大学グリークラブの起源については、諸説粉々、随分前からそれも大正年間にまで溯って、数人の人達が集まって歌っていたという説もあるが、少なくとも、現在につながるグリークラブの歴史は、厳然として、昭和24年に始まる。当時の関西大学は、まさに運動部の全盛時代、関西学院大学と共に関西の勢力を二分していただけでなく、全国を制覇していたクラブも存在していた。このような男っぽい雰囲気の中から、今は亡き岩崎卯一学長の「関大ルネサンス」というご発想が、学生間に文化部、学術研究部創設の機運を昂めた。私は丁度二年生になったばかりだったが音楽-歌う事-が好きだった事と、個人負担が少なくて多くの人間が楽しめるクラブは男声合唱しかないと思っていたので、同好の志を募ってクラブを作りたいと念願していた矢先、同学年に同じ熱意に燃えた三人と意気投合、早速クラブの設立にとりかかった。     ~(中略)~
歌の方の練習は西村食堂(現生協)二階、軽音楽部と同室で毎日昼休みと火・金の4時から7時頃まで、発声はおろか楽譜の読める人も無く、とにかく、コールユーブンゲンを買ってきて、音叉を頼りに二度音程から勉強を始めた。
~(中略)~
春の合唱察(編集註:昭和26年、筆者が4回生の頃)が朝日会館で行なわれた。
グリークラブは「自由の歌」他一曲を演奏、ファイト溢れる演奏だったと、もっぱらの評判だった。
~(中略)~
秋のコンクールは未だ力及ばずという感じで見学に終った。関学グリー、同志社グリー、京大男声とそれぞれ個性の豊かなすばらしい演奏を聴き、“いつか関大グリーも!”と遠く未来への夢を描きながら会場を去ったが、30年後の今日、当時活躍なさった松浦先生、日下部先生、多田先生の御指導を、見事に開花した関大グリーが受けているという話を開き、ひとしおの感慨を覚えるのである。
~「30年のあゆみ」より抜粋
  • 1954年11月3日
関西学生コンクール初出場(朝日会館)
  • 1955年12月6日
第1回姫路演奏会(姫路市公会堂)
  • 1958年9月10日
第1回定期演奏会(毎日ホール)
創部以降、最初の4年間ほどは、主として学内の行事に参加することに重点が置かれていたが、昭和30年代に入ると、対外的演奏会活動が始まった。昭和30年には、関西大学グリークラブ主催としては初めての、第1回姫路演奏会が、姫路市公会堂で千人を超える聴衆を集め盛大に行なわれた。そして、今日に至る定期演奏会の第1回目が、昭和33年、毎日ホールで開催された。
  • 1960年12月3日
      〃    12月18日
第1回法政大学アリオンコール、関西大学グリークラブ交歓演奏会
(3日・神田共立講堂、18日・産経ホール)
法関交歓演奏会は途中2回の中断があったが、以後今日まで、28回に及ぶ演奏会を、東京・大阪交互に開催している。もっとも、第3回までは同じ年に東西で一度づつの演奏会となっているため、実際のステージは31回持たれたことになる。また、第2回の演奏会からは、分宿(開催地校の部員一人の下宿に、相手校の部員一人または二人泊めること)が行なわれている。この分宿が契機となって、生涯の友人を得られた先輩諸氏が多くおられる事は事実である。
法関両校のつながりが、今日に至るまで保たれてきた要因として、両校部員の努力は勿論のこと、合唱団として互いに吸収し合えるものがあったことによると思われる。同じ男声合唱団として活動を続けていながら、双方の毛色の違いは、演奏会という場に於いては、独特の持ち味として聴く人に感動を与え、法関ファンを創り出している要素と言える。
特に、アリオンコール顧問指揮者、田中信昭氏は、過去の法関の中で、ほぼ毎回指揮に立ち、合同曲を振っておられるが、開大グリーメンにとっても、音楽的に大きなものを学ぶことができたことは、まさに法関交歓演奏会の賜物である。関大グリーにとってアリオンコールは、遠くの隣人と言えよう。
  • 1964年12月17日 関西六大学合唱演奏会(京都会館第1ホール)
昭和36年12月14日、関西六大学チャリティコンサートが中之島の中央公会堂に於いて開催された。
この時の参加団体は、関西大学グリークラブ、関西学院グリークラブ、同志社グリークラブ、立命館大学メンネルコール、京都大学男声合唱団、神戸大学グリークラブの六校であった。関西六大学合唱連盟は、これを契機として、三年後の昭和39年に結成された。
上記六校に依る、第2回目の演奏会は昭和41年、フェスティバルホールで開催された。しかし、この演奏会を最後に、京都大学男声合唱団が、内部事情に依り連盟を脱退することになった。
この結果、甲南大学グリークラブが加盟し、翌昭和42年、第1回関西六大学合唱演奏会が再スタートした。
  • 1965年10月17日 第1回大阪府合唱コンクール(優勝)
10月31日 関西合唱コンクール(優勝)
11月23日 第18回全日本合唱コンクール(第5位)
関西大学グリークラブが関西合唱コンクールに初出場したのが昭和29年のことであった。関西合唱コンクールでは、常に上位に進出するようになり、合唱界でも関西大学グリークラブの名は定着してきたと言って良い。創部10余年の老舗とは言い難い団体が、着実に実績を残し得たのは、部員各自の、合唱に対する情熱と、音楽追求のひたむきな姿勢ではなかったか。そして、この年の10月に行なわれた関西合唱コンクールに於いては、念願の優勝に輝き、翌月(11月)、第18回全日本合唱コンクールには、関西代表として参加している。
この時の成績は、大学の部出場9団体中、第5位であり、優勝は日本女子大学合唱団であった。関西大学グリークラブが初めて関西合唱コンクールに出場したのが昭和29年のことであり、以来11年後には関西地区代表として、全日本合唱コンクールへの出場を果したことになる。この間、クラブの練習に占める合唱コンクールのウェイトは大きく、“出るからには優勝を……”という意気込であったと聞く。
ある面から見れば、合唱コンクールを踏み台として、関大グリーの成長があったと言っても過言ではない。
昭和40年代後半大きな出来事として、合唱コンクールに出場しなくなったことがあげられる。それまでは、日常練習に於けるコンクールの占める割合は非常に大きく、出場するからには、勝たなければ意味がないという考え方が強かった。
コンクール不出場となった理由についてはいろいろあるが、最も大きな点は、“ランク付けに懸命になるよりも、もっと広い視野で合唱音楽を楽しむべき”という点にあったのではないだろうか。更に、東西の名門と言われる団体の姿が、もはやコンクールにはなかったことも一つの要因であったのかも知れない。
関大グリーにとっては、昭和43年に関西合唱コンクール3位になったのを最後として、合唱コンクールから遠ざかっていることになる。かつて多くの先輩達が、その結果に一喜一憂した合唱コンクールも、今ではひと昔前の話になってしまった。
  • 1966年7月7日 ウィッテンペルグ混声合唱団、関西大学グリークラブ交歓演奏会(毎日ホール)
  • 1967年5月6日 第1回関西六大学合唱演奏会 (京都会館第一ホール)
7月8日 岡山大学コールロータス、関西大学グリークラブ交歓演奏会 (岡山市民会館)
岡山大学コールロータスとは、昭和42年7月8日及び昭和45年9月21日の2回、いずれも岡山市民会館で開催されている。岡山に於けるロータスの観客動員力は大変なものであり、二度の演奏会も満席に近い盛況であった。岡山大学には、医学部がある関係上、ロータスのメンバーの中には、“五年生です”とか“六年生です”と言って自己紹介する者がいたため、グリーメンにとってはピンと来ない者がかなりいたという話がある。
ともかく、二度の演奏会を通じて、ロータスのメンバーから受けた歓待ぶりは大変なものであり、岡大の広大なキャンパスと同じくゆったりとして暖かいロータスの雰囲気に触れ、感動したグリーメンも多いはずである。
  • 1971年7月6日 第1回中国短期大学フラウェンコール、関西大学グリークラブ交歓演奏会 (岡山市民会館)
関西大学グリークラブの音楽に、大きな影響を及ぼすことになったのが、中国短期大学フラウェンコールとの出会いである。即ち、男声合唱しか知らなかった関大グリーが、ここに至って初めて本格的に混声合唱曲と取り組むことになり、同時に女声合唱を身近なものに感じることになった。
この念願のジョイントコンサートは、昭和46年の岡山市民会館に始まり、この翌年には大阪で第2回のジョイントを持つに至り、その後12回まで続くことになる。
また、フラウェンの顧問であり指揮者でもある近藤安个氏には、合同曲のため、度々、岡山より来部して頂き、その音楽に接することができたことは、後のグリークラブの発展に絶大なる影響を与えることになった。
  • 1974年11月1日 第1回関西六大学合唱演奏会 (厚生年金大ホール)
昭和42年に再スタートした復活六連は、第3回まで続き、順調に回を重ねると思われたのも束の間、再び中断することとなった。昭和44年は、全国的に大学紛争の過中にあり、各団とも部員数の激減が相次ぎ、そして神戸大学が連盟を脱退したのである。
その後、六連復活への粘り強い動きが続き、昭和48年には、大阪大学男声合唱団が新規加盟することになった。そして、その翌年には第1回関西六大学合唱演奏会が行なわれたのである。
  • 1975年9月19日 関西大学グリークラブOB会発足式
50年代に先がけて、誠に喜ばしい出来事は何といっても昭和50年9月19日のOB会発足である。26年の歴史を持つクラブにOB会組織がないのは、むしろ不思議に思われる程であった。とは言え、これまでにOB会設立の声は何度となく出ていたし、現役部員にとっても、OB会組織の存在を望む声が出ていたのは事実だった。そして、これに対する設立の試みも、何度かなされてきたが、結局は実現しなかった。
ひとつの組織、特にOB会という組職の運営上困難なのは、学生と違って社会人となり地理的にもバラバラになっている何百人という人達を、何を共通の土俵にして結びつけるかということではないかと思われる。結局のところ関大グリーOBについても、横のつながり(同期生同士)は比較的連絡も良くとれているが、縦の結びつきとなれば若干の弱さがあったと言える。
今回のOB会設立の直接の契機となったのは、前年(昭和49年11月6日、大阪市立労働会館に、OB各期の代表者が集まって開かれた代表者会議であった。これは、井藤義章(第1期)、片山忠夫(第2期)、天野啓史(第7期)の各氏が発起人となって呼びかけたものである。そしてその趣旨は、関西大学グリークラブも今年で創部25周年となり、OBの数も300人を超え、今後、OB活動を如何に行なうか、また「OB会」を設立するのか否かという問題を討議するためであった。
この後、何度か会合が持たれており、OB会設立問題は、着実に具体化して行くこととなった。これらの経過をふまえて、昭和50年9月の設立となったわけであるがこの日集まった60余名のOB達は、OB会組織の誕生を祝うと共に、相互のつながりの場が出来たことに対する喜びをかみしめていた。
  • 1977年9月11日
第1回関西大学グリークラブ、千里エコー交歓演奏会 (関電ホール)
  • 1978年12月13日
NHK FM録音“雪明りの路”
  • 1979年9月16日
関西大学グリークラブ創部30周年記念式典
  • 1983年3月28日
「水墨集」レコーディング
「3月28日。もうすっかり春めいた一日。関西大学グリーメンたちは、新鮮な興奮にやや緊張気味、といった感じで、池田アゼリアホールに入っていった。関西大学グリークラブ史上はじめての出来事であった。
春合宿が終わってから、卒業式をはさみ、ほとんど毎日のハードなスケジュールであったが、元4回生の方々も加わり、北村協一、大久保昭男両先生の御指導のもと大変充実した練習が出来たと思う。
さて、当日。なにせ初めての事で最初は戸惑いもあったが、暫くするうちに、緊張もほぐれ、いつもの調子が出てきた模様。思いのほかレコーディングは順調に進み、終ったのはまだ日も高い4時30分頃。しかしあまりにもあっけなく終ってしまった為、本当にこれがレコードになるのだろうか?、本当にこれでよいのかなあ?などといかにも初体験といった感想が多かった。
とにかく、このレコーディングで関大グリーは、ひとつ大きく成長したといえよう。元4回生の方々には、卒部の良き思い出として、又在部生には今後の大きな自信となったのであった。
えっ、出来映えはどうかって?それは来春3月のお楽しみです。乞う御期待!
(昭和58年12月11日、第25回定期演奏会パンフレットより転載)
  • 1984年3月13日
鹿児島大学フロイデコール、関西大学グリークラブ交歓演奏会 (鹿児島市中央公民館)
新生グリー初の大仕事宮崎演奏会は、3月10日宮崎県民文化ホールに於いて、全日本おかあさんコーラス大会ひまわり賞受賞の名門はまゆうコーラスを賛助出演に迎えて行われた。
演奏旅行6日目は鹿児島市中央公民館に於いて、鹿児島大学フロイデコールとの交歓演奏会を行った。この演奏会を我々は3・13鹿児島決戦と呼び、赤く燃える火の島「桜島」の如く熱く燃え上がった。
春田英樹指揮による合同ステージ男声合唱組曲「雨」は初対面の者同志ということも忘れてしまうほど息もぴったりと合い、鹿児島のお客様の惜しみない拍手をあびた。そして演奏会終了後、合同ステージの曲名通りの激しい雨の中、両団員ともぴしょ濡れになりながらのストームを行った。
鹿大フロイデとの3・13決戦は場所を打ち上げ会場に移し、第2ラウンドのゴングが鳴った。ビールで乾杯した後、各テーブルに焼酎が運ばれるや否や、会場は焼酎トックリー気のワンダーランドと化した。日頃、コンパなどで酒には慣れているはずのグリーメンではあったが、焼酎を両手に次々と襲いかかる薩摩隼人の一団の衰えを知らぬ攻撃に、必死の応戦もむなしく、鹿児島の地に玉砕していった。
前夜の打ちあげの会韻もさめやらぬ3月14日、鹿児島大学での反省会を終えて演奏旅行の幕は閉した。現地解散ということで、すぐに大阪へ帰る者、鹿児島に積る者、一人旅に出かける者と様々であったが、根性と体力と金のある30余名の部員は不死鳥の如く蘇り、指宿への温泉ツアーに参加した。
(昭和54年、第26回定期演奏会パンフレットより転載)
  • 1985年7月1日
第12回中国短期大学フラウェンコール、関西大学グリークラブ交歓演奏会 (岡山市民文化ホール)
(この演奏会を最後にして、以降現在に至るまで中断されることになる。)
  • 1986年9月23日
OB会千里エコー第1回定期演奏会
10月6日
関西大学創立百周年記念 関西大学グリークラブ“THE AUTUMN CONCERT” (吹田メイシアター)
10月8日
関西大学百周年記念 大学讃歌レコーディング
  • 1988年12月11日
第30回関西大学グリークラブ定期演奏会 (フェスティバルホール)
  • 1989年9月23日
関西大学グリークラブ40周年記念演奏会 (八尾プリズムホール)
  • 2009年1月12日
関西大学グリークラブ第50回記念定期演奏会 (伊丹アイフォニックホール)


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