空×翔2

 視界を覆う程の雨が、翔の身体に打ち付ける。
 傘も差さずに体育館の扉の前で両膝を抱えて顔をうずめる少年を、空はただ何もせずに見つめているだけだった。
 傍から見るとそれは、捨てられた仔犬とその飼い主。
 状況を例えるなら、どうしようも無くて見捨てるしか方法が無くなったのに、その仔犬に未練があってその前から放れられないでいる飼い主…といった所だろうか。
 今の翔に空の言葉は届きはしない。
 それでも、空はずっと待ち続ける。
 きっと自分が離れようとしても、仔犬は自分の所に歩いてきてくれると。 


 5日前…


「…随分と頑張ってるね、翔君」
「当然じゃない。翔にとって、バスケは何よりも生きがいなんだから」

 体育館2階のバスケットコートの更に上の応援席に、空と硝子は座っていた。
 建物の広さを存分に使ってあるバスケットコートの中を、何往復もしている小柄な少年を二人は見ていた。
 ボールを片手に小さな身体を生かしたフットワークを見せる少年は、ついにゴールポスト手前に差し掛かる。

「今度こそは上手く行くかな?」
「…………………無理ね」

 硝子の冷たい言葉をそのまま表す様に、少年の手から放たれたボールはゴールポストの赤枠で何度も跳ね、結局網籠を潜る事無く地面に落ちた。
 そのボールは、相手のチームの手に渡る事になる。

「何度も何度もこの繰り返し。幾らスピードがあったところで、これじゃ意味無いわ」
「随分と厳しい評価だね」
「あの子が気付かない限り、私の評価は変わらない。それに、それは貴方も同じでしょう?」
「…否定はしない、かな?」

 その後、同じ様な場面が何度か続き、その度に同じ結果が何度も繰り返される。
 やがてチーム全体に疲労が見え始めた頃、試合終了を告げるホイッスルが館内に鳴り響いた。
 同時に、一人の少女が空達に声を掛ける。

「お疲れ様です、先輩方。…どうですか?」
「あぁ、みっちゃん。いらっしゃい」
「どうもこうも、見たままの通りよ」
「…そうですか」

 少女の眼鏡の奥の瞳が、ほんの少しだけ曇った。

「それじゃ、今度の試合のレギュラーを発表する」

 翔の胸に緊張が走る。
 胸の前で両手を重ねて眼を瞑りながらも、ハジメの声に集中する。
 これに選ばれる為に、自分は今まで頑張ってきたのだから。

「まず、センター………」

 これは自分の身長がそれ程高くない事は自覚しているので、まず来ない事は分かっている。

「次、スモールフォワードとパワーフォワード………」

 これも自分には余り向いていない。
 どれかと言えば、自分はポイントガードに向いていると思っている。

「んで、シューティングガードが………」

 翔のチームの中で一番シュート率が高い者が選ばれた。
 当然と言えば当然であろう。
 残る枠は唯一つとなる。

「最後、ポイントガードが………お前だ」
「え…?」

 思わず目を開けて、ハジメの視線を確認する。
 明らかに、ハジメは自分の方を向いてはいない。
 つまり。

「…そんな」

 自分はレギュラーから落選したのだ。
 足元が崩れていくような感覚を、翔は覚えた。
 全身の汗も、一気に凍り付く程に冷たく感じる。
 まるで自分が宙に浮いている様に思えた。

「…だけどな」

 ハジメの言葉が、翔を現実に引き戻した。
 一応まだ話を聞けるだけの余裕は残っていたらしい。

「これは飽く迄も“仮”だ。暫く様子を見て、一週間後に改めて発表する。そういう事だ。理解できたか、翔?」
「あ…えっと……はい」

 まるで焦点が定まっていない翔の返事に、ハジメはため息を零す。
 片手に持っていたファイル板で肩を叩きながら「いいか?」と言った。

「お前には決定的に足りないものがあるんだよ。それを見付ける事が出来たら、レギュラーに加えてやる。逆にだ。それが分からないのなら、何時まで経ってもお前はレギュラーにならねーぞ」
「オレに、足りないもの…?」

 思わずハジメの言葉を翔は復唱する。
 足元に置いてあった自分のボールが目に入った。

「へぇ…随分と本格的に顧問やってるのね」

 体育館中に澄み切った…それでいて、冷たい声が響き渡る。
 コート内に居た全員が、その声のあった上方の応援席へと振り向いた。
 もう一度ハジメはため息を付き、ファイル板で肩を叩く。

「当たり前だ。それに俺は顧問だけじゃない、監督なんだからな。…それより、なぁ硝子。お前にも俺が翔に言った言葉の意味が分かるよな?」
「え…?」

 翔はハジメの言葉を疑う。
 バスケについては殆ど知識の無い硝子に、一体何が分かるのだろうか。

「えぇ。翔の動きを見ていたら、嫌でも分かるわ」
「なっ…。おい、どういう事だよ!」
「そのままの意味よ。それに、私だけじゃなくて空にも…みっちゃんでさえも気付いているんだから」
「う…」

 遂に翔は言葉を失う。
 何故バスケに関わりの無い彼達に、ここまで簡単に気付かれてしまうのか。
 そして、何故自分はそれに気付けないのだろうか。

「…しゃあない、ヒントをやろう」
「ハジメ兄ぃ…」
「おい、学校じゃ先生付けろよ。…まぁいいや。そうだな、バスケがどんなスポーツかを理解するこったな」
「は?」

 …それは何より最前線で動いている自分が何よりも分かっているつもりだ。
 しかしハジメから聞かされたのは、その認識は間違っていると言わんばかりの言葉だった。

「じゃあ私からも。そうね、バスケがA。ゴルフがBとするわね。同じ様に分けると、野球がどちらかと言えばBで、サッカーはA。テニスは…これは言ったらすぐに分かるから言わない
「…はぁ?」
「まぁ、敢えて付け加えるとすれば、ラグビーやハーリング辺りがAに加わる。バレーは…これはちょっと私には仕分け出来ないわね。大体そんな所かしら?」

 周りからそれぞれ納得したらしい声が上がる。
 どうもこの中でその意味を理解できていないのは自分だけの様だ。

「そういう訳だ。そんじゃ、俺の言った事を念頭に入れて、今日はこれで解散だ」

 ハジメの言葉を合図に、規律の取れた元気の良い挨拶が体育館に木霊した。
 チームメイトが次々と帰り支度をする為に体育館から出て行く最中、翔だけはその場に残っていた。

「な…なぁ、ハジメ兄ぃ。オレ、残って練習したいんだけど」
「はぁ? …まぁ、余り遅くならない程度なら構わないが」
「…ありがとう」

 それが力の残っていない翔の、せめてもの感謝の表れだった。

 部活の練習が終わり、一人で体育館を借りて練習する。
 個人練習の時間は十分に取れてはいたが、翔はハジメや硝子の問いの答えを出せずにいた。
 あれから5日経ったこの日は、強い雨の影響で辺りがいつもより暗くなっている事から、ハジメに早く切り上げるように言われた。
 もう自分はコートに立つ事は出来なくなるのではないか。
 そんな不安に押し潰され、既に翔は擦り切れてしまう寸前だった。
 それでも、体育館から追い出されてもそこから離れないのは、翔なりの意地だろうか。
 それとも。
 単に自分の意義を主張したいだけなのか。
 自分からバスケを取ったら何になる?
 そうなった時。
 自分は…

「う…うあぁぁ……」

 途端に恐ろしい考えが翔に襲い掛かる。
 頭を抱えて、その恐ろしい考えを振り払おうとする。

「翔君!」

 手に持っていた傘を投げ捨て、空は翔の腕を強引に掴んだ。

「あ…。そ、ソラ……オレ………」
「今日はもう帰ろう。翔君の腕、こんなに冷たくなってるじゃないか」
「でも…オレは……」
「これ以上雨が強くならない内に、ね?」
「……………………うん」

 空の家の前まで差し掛かると同時に、まるで見計らったかの様に雨は更に勢いを増した。

「ここまで凄いと翔君の家まで一人で帰るのは無理だよ。今日は僕の家に泊まっていくと良いよ」
「………わりぃ」

 この言葉にいつもの翔の元気の良さは微塵も感じない。
 先刻空が思った通り、今の翔はダンボールに蹲る仔犬だ。
 もし普段の翔なら、結果的に仔犬と同じイメージはあれど、人間を親と間違えたかの様に懐いてくる方だろうか。

「翔君、身体が凄く冷えてたから、お風呂入っておいでよ。多分もう沸いている筈だから」
「ありがと…」
「何か適当だけど、着替えの代わりになる物持ってくるから、入ってて良いよ」
「あ…!」

 空の髪から滴る雫を翔は見逃さなかった。
 脱衣所から姿を消そうとする空の腕を、先刻の空の様に翔は掴み取る。

「やっぱり、お前も随分と冷たいじゃないか」
「僕はそれ程濡れてないから大丈夫だよ」
「そんな訳あるかよ! …一緒に入ろう。良いな?」

 空の服の袖を掴んで、上目遣いに空を見上げる。
 これは逃げられないと観念して、空は「分かったよ」と言った。

「でも、着替えだけは取ってこないと。すぐに行くから、先に入っててね」
「分かった。早く来いよ」
「了解」

 廊下を踏む音と一緒に、空は近くの階段を昇って行く。
 慌しく物を漁る音が微かに聞こえた。
 その事を確認して、ようやく翔は自分のユニフォームに手をかける。
 雨水で完全に身体に張り付いてしまっていて、引き剥がすのは困難だった。
 ショートパンツの方も、下着と擦れ合って中々下りてくれなかった。
 最後の白地すらも水を吸い、身体に密着している。
 何故か一番下に穿いていたのに、少し引っ張っただけで水分が染み出し、足を伝って流れていった。
 夏とは言え、冷え切った身体で裸のままでいるのは流石に危険である。
 衣服を全て傍にあった脱衣籠に放り込み、翔はバスルームの扉を開けた。
 浴槽からの熱気が溢れかえる。
 身体の冷えた翔には中々耐え難いものがあり、翔は扉を閉めるとすぐ様シャワーの栓を捻った。
 何度か空の家には泊まりに来た事があったので、シャワーの使い方は一応分かる。
 間違えても大量の水を全身に浴びると言う愚行は起こさない様に、シャワーの先端を排水口に向ける。
 案の定、冷たい水が勢い良く吹き荒れた。
 指先で温度を確認し、適温になったところで初めて全身にお湯を浴びる。
 身体中が溶けて行く様な、不思議な感覚が全身を伝わる。
 温度に慣れてくると、左手にシャワーの首を持ち替えて、右手で浴槽の蓋を開けた。
 空の言っていた通りに、大量の湯気が視界を覆った。

「うん、ちゃんと沸いてるね」

 少しだけ扉を開けて、空は顔だけを覗かせる。

「お前も、早く入らないと風邪ひくぞ」
「はいはい。少し待っててね」

 扉越しに布の擦れる音を確認すると、翔は湯舟にゆっくりと足を入れた。
 まだ足の指先が完全に温まっておらず、その部分が余計に熱く感じられた。
 淵に腰掛て慣れるのを待っていると、その間に空もバスルームへと入って来た。

「あれ、熱い?」
「少し…」
「随分長い間雨に打たれてたからね」
「うん。そうだな…」

 いつもより翔の口数が異様に少ないのを、空は気付いていた。
 それに対して、いつもよりも空が多く話す事を翔は気付いていた。
 お互いがお互いを思い合う事で、必然的に起きてしまった現象であろう。

「…」
「どうしたの?」
「いや、何でも無いんだ。…何でも」

 少しずつ湯に身体を沈めながら、翔は空を見ていた。
 自分もそれ程に日に焼けてる訳では無いが、空は自分のそれとは比べ物にならない程に白く、細い。
 擦り傷が所々に残っている自分とは違い、天体観測で良く山を登っている割にはそういう部分も見当たらない。
 やはり、山を登るのにもそれなりの技量が必要なのだろうか。

「…」

(やっぱり、オレ…下手だよな)

 それが、正しい答えなのかは分からない。
 それなら、ハジメのヒントの意味も頷ける。
 しかし、そうなると硝子の言ったヒントの意味が分からない。

(ソラ…お前は、知ってるんだよな)

 風呂からあがり外を見ると、二人が家に入った時よりも、雨はより一層その勢いを増していた。
 風もある程度強くなり、とてもじゃないが傘を差して歩ける状況ではない。
 まだ午後の6時にもなっていないと言うのに、既に外は闇に落ちていた。

「明日の朝には晴れるみたいだけど、今日はやっぱり帰れないね。硝子ちゃんに連絡は入れておいたから」

 そう言いながら、空は鍋つかみで耐熱容器をテーブルの上に並べる。
 容器の表面には狐色の泡が立ち続け、乳白色の柔らかな湯気が溢れている。
 それは簡単な材料で作ったグラタンだった。

「本当に凄いな、お前。こんな料理も出来るんだから」
「そんな事無いよ。翔君だって、これ位は出来ると思うけど」
「出来ない事は無いけどさ、こんなに上手くは出来ないよ。それに、オレの場合はショーコ姉ぇが殺人的に料理が下手だから仕方なくやってるだけだし」
「そこは分からないでもないけど…。ほらほら、冷めないうちに食べちゃってよ」
「あ、うん。いただきます…」

 もそもそと翔は湯気の立つグラタンを口の中へと運ぶ。

「熱っ!」

 何も考えずに熱いまま口に触れ、『反射』という拒否反応が働く。
 その反動で翔はスプーンを落とし、その上に乗っていたものがテーブルの上に散乱する。

「あ…」
「大丈夫?」
「ご、御免…」
「火傷とかしてない?」
「ほんの少ししか触ってないから。悪い…折角作ってくれたのに」

 空によって拭き取られていく零れたホワイトソースを見ながら、翔は俯く。

「そんなに零れた訳じゃないんだから、気にしないでよ。スプーン洗ってあげるから貸して?」
「悪ぃ…」

(駄目だよな、オレ。本当に、ソラに迷惑かけてばっかりだ…)

 翔の瞳が更に曇る。
 ようやく高校生にもなったのに、大泣きしてしまいそうになる自分が怖い。
 それを空が見逃す事は無かった。

 相変わらず、窓の外は嵐の様に雨が吹き荒れている。
 本当に空の言っている通りに明日は晴れるとはとても思えない。
 食事を終えた後は特に空と会話する事も無く、ただ黙ってテレビを見ているだけだった。
 いつもは面白く思える番組も、今はそれを楽しむ気にもなれない。
 番組司会者の当たり障りの無いトークが何かの呪文の様にすら聞こえてきた。

「ん…」

 一瞬だけ気が遠くなる。
 僅かに視界が薄れ、ソファーの肘置きに倒れそうになった。
 すぐに気を取り戻し、元の体勢に戻る。

「眠いのかい?」
「いや…まだ、大丈夫」
「無理しないで。ここ一週間、ずっと翔君頑張ってたんだから、疲れが溜まったんだよ」

 食事の片付けで濡れた手を拭きながら、空は乾燥機のスイッチを入れる。

「何もしてないな、オレ…」
「良いんだよ、翔君はお客様なんだから。それに、もう今日は掃除もする事は無いから気にしなくて良いよ」
「でもさ……わっ!」

 突然立ち上がった為か、翔は身体のバランスを崩しテーブルの方へと倒れそうになる。
 一気に距離が近付き、思わず目を瞑った。

「ほらほら、無理しないでって言ったじゃない」

 強烈な衝撃がある訳でも無い。
 空のその言葉が聞こえたので、ゆっくりと翔は目を開けた。
 気が付くと、両手で肩を支えられ、自分は空の胸の中に居た。

 顔が熱い。
 胸が熱い。
 頭がぼーっとする。
 自分の身体がまるで空の身体に溶けていく様な感覚。

「…どうしたの?」
「な、何でも…」

 ほんの一瞬、閃光が走る。
 無い、と言う言葉が、轟音によって遮られた。
 音の振動によって、家の一部が揺れる音が聞こえた。

「うわぁ、今の雷近かったね。…翔君?」
「…っ!」

 身体中が震えているのが分かる。
 足がそろそろ身体を支える事が出来なくなってきている様だ。

「ひょっとして、雷苦手?」
「そう言う訳じゃないんだ。でも、何か…今のは、怖かった……」

 最早、こんな弱音を吐いた自分に驚く余裕も無い。

「もう…寝よう、今日は」
「…うん」

 とても眠れる自身は無かったが、翔はそう頷くしかなかった。
 一体自分は何に怖くなっていたのか。
 不思議と、それが『答え』に繋がっているような気がした。

 目を瞑ると、外の雨音が聞こえて来た。
 時折走る閃光以外にこの世界を照らす光は存在しない。
 どうやら雷の影響で近辺の住宅街の電気が切れたらしい。
 街灯すら遮断された今、本当の闇が支配している。
 空は翔を自分の部屋へ連れて翔の床の準備をした後、台所へと戻って行った。
 いい加減に自分も睡魔に負けて来ているのだろう、空のベットの上で楽な姿勢を取っていると、身体中の力が一気に抜けて行った。
 身体が軽くなる。
 布団に潜った位ではどうにもならないと思ってはいたが、柔らかいシーツに身を包まれてみると、すぐに睡魔は覚醒し始めた。

(これ。ソラの、においだ…)

 こんな時でも、今だけは安心出来る。
 やっぱり自分は空に守られているんだと思える。
 いつからだっただろうか。
 自分が空の近くに居る事を意識する様になったのは。

(やっぱ、あの時―)

 小さな頃。
 親の田舎へ里帰りに付いて行った時、翔は大人しか居ない家から飛び出して遊びに出掛けた。
 森の様にそびえ立つ向日葵畑を潜り抜け、開けた場所に出る。
 小さな川の畔。
 そこで初めて出会う。
 真夏の真昼なのに、薄手のセーターを着ている自分と同じぐらいの子供を見つけた。
 大きな石を椅子代わりに、手に持っている何かを弄っていた。
 こんな所で何してんだ?
 初めて会ったにも拘らず、何かに熱中していたその子供の肩を叩きながら、ふてぶてしく声を掛ける。
 当然の様に、その子供の肩は一瞬震えた。
 そんなに驚く事無いだろ。
 今考えてみると、なんて自分勝手なんだろうと思う。
 その時、空は喋らなかった。
 それが怖くなって、どうにかして話を切り出そうとした。
 それでも、何故か逃げようとする気にはならなかった。
 全く日に焼けていない、白く細い手を掴む。
 一緒に遊ぼう?

 笑ってくれるのが嬉しかった。
 実家にいる間、空とは毎日遊んだ。
 川へ行って畑に行って。
 家でも遊んだ。
 大きなビニールプールを交替で膨らまして、二人して何も身に着けずに冷たい水の中ではしゃぎ回った。
 夜中にこっそりと家を抜け出して、初めて出会った畔に行く。
 いつも手に持っていたものを初めて貸してくれた。
 あれが、天の川だよ。
 望遠鏡を持つ自分に教えるために、目眩がする程の星空へ向けて、小さな指をさす。
 初めて空の声を聞いた。
 繊細で、どこか怯えている様にも聞こえる。
 それでも笑顔で言ってくれた。
 それがとても嬉しかった。
 でも―
 その次の日が別れの朝だった。
 大泣きして、我が儘を言って、家族を困らせた。
 空と離ればなれになるのが辛くなって。

(…そうだ。今だって―)

 誰も居ないこの部屋が怖い。
 手を伸ばした所に誰も居ない。

(ソラ…ソラ……)

「何?」
「へ…?」

 その場に居ない筈の声を聞いて、翔は閉じていた目を一気に開ける。
 淡い光に照らされた空の顔が、自分のすぐ目の前に居た。
 野外宿泊用のランプを使っているらしい。
 流石天文部とか言う余裕はもう残ってはいない。

「な…そ、ソラ……?」
「随分と忙しい夢見てたみたいだね。びっくりするくらいに表情が変わっていったから」
「夢…」

 鮮明に映っていた情景は、自分の夢だったらしい。
 そういえば、あの雨の音もいつの間にか聞こえない。

「オレとソラが初めて会った時の事を思い出してたんだ」
「あぁ、あの時は色々あったね」

 空の言い分からすると、自分は夢の中の自分と同じ表情もしていたらしい。
 何処までも単純な自分自身に、翔はため息を付いた。

「う~ん。と言う事は…最後は翔君が自分の家に帰る時のことが夢に出てたのかな?」
「なっ…あた……り。どうして分かるんだよ!」
「それは分かるよ。だって、翔君。帰りたくないって言って、見送りに来てた僕の腕にしがみ付いて離れなかったじゃないか。何度も何度も僕の名前を呼びながら」
「お…おい、ちょっと待てよ! まさか…」
「うん。今さっきも、ずっと僕の名前を言ってたよ」

 一気に身体中の血液が沸騰しそうな勢いで、翔の熱は上昇する。
 今の翔に空の顔をまともに見れる自信は無い。

(何やってんだよオレ! 何でよりにもよってソラの目の前で何度も名前言ってんだ!? 馬鹿、何処まで単純なんだよ…)

「何処まで…」
「翔君?」

 今まで無言で盛り上がっていた勢いが一気に冷め、翔は唯俯いてしまう。
 思わず布団のシーツを力強く握り締めていた。

「何処まで…馬鹿なんだろうな、オレ。折角ハジメ兄ぃやショーコ姉ぇにヒント貰っても分かんないし。ソラにまで心配させてるって分かるのに結局迷惑かけてるし」
「…僕は、別に迷惑だとは思ってないよ?」
「でも!! …分からない。如何したら良いか、分かんないんだよ……」

 世界を覆い隠していた雲が晴れる。
 それに気付き、空はランプの明かりを消した。
 ベッドの上の窓から淡い光が溢れてくる。
 立派な円を描く銀色の光源。

「翔君…」

 それに照らされて、翔の目から輝きながら落ちて行く雫を見つけた。
 布団に顔を鎮める翔。
 僅かにその声が聞こえてくる。

「うっく…ソラ…ソラ……ソラ………」

 ―
 仔犬は自分に付いて来てはくれなかった。
 それは何故か。
 答えは簡単。
 自分がその仔犬と別れたくなくて、自分から近付いてしまったのだから。

「ねぇ、翔君。君はあの時にどうやって説得されたか覚えてる?」
「え…?」

 翔は布団から僅かに顔を覗かせる。
 その刹那。
 翔は時が止まってしまったかのように思えた。
 温かく、柔らかい感触が唇に伝わった。
 暫くして、翔は空の顔がもう目の前にある事に気付く。
 そして、自分と空が今触れ合っている部分。
 それが唇同士だと言う事を。

 「な…な……な………!?」
 「覚えてない?翔君、こうしたら一発でおとなしくなっちゃって、それでおじさん達が担いで帰ったんだよ」

 そうだった。
 空にしがみ付いて離れなかった自分が、どうして帰る事が出来たのか。

(オレ、ソラに…)

「そ、そうだ。それに…」

 すぐにまた会えるから。
 間違い無く、ソラはそう言った。
 ただし、その時自分は頭の中で色んなものが渦巻いていた為に理解なんて出来なかった訳だが。
 そして、その意味を知ったのは二学期の始業式が始まってからだった。
 偶然…本当に偶然に振り向いた、転入生の列に、自分に向かって手を振っていた空を見つけた。
 ついでに、空が姉と同じ教室に組み込まれたのを聞いて初めて一つ年齢が上だと言う事を知った訳だが。

「従兄弟同士だったんなら、先に言ってくれたら良かったのにさ…」
「しょうがないよ。だって僕が知ったのは翔君を見送る前の日の夜だったから」
「しかも、ショーコ姉ぇは知ってたんだとよ」
「それはそういう性格だからね、硝子ちゃんは」

 楽しみは後の方に取っておく。
 大概それは失敗に終わって台無しになるものだが、硝子の場合は持ち前の技量の良さでその手に関する事で失敗した事は無い。
 そこが、翔が姉に頭が上がらない所以だろう。
 決してそれを本人に言う事は無いが。

「とにかく、翔君が何とも無くて良かったよ。これで安心して…」
「ま、待って…」

 また、空が何処かへ行ってしまいそうな気がして、いつの間にか翔は空の服の袖を掴んでいた。

「もう、何処にも行ったりしないよな。離ればなれになったりしないよな…?」

「あの時と…何も変わらないね。大丈夫だよ。僕はここに居るから、もう何処にも行ったりしないから」
「…っ!」
「う~ん、じゃあ…」

 言うが早いか、空は 翔の顎を手で軽く持ち上げる。
 事に関して鈍朴な翔でも、空の目的を理解した。
 案の定、先刻と同じ口付けを交わす。
 ただし―

「んっ…」

 甘い声が翔から漏れる。
 水分を含んだ音が、二人の声以外は完全に無音だった部屋に微かに響く。
 軽い麻酔がかかったように、翔の身体はビクッと震えた。
 意味が分からず、翔は空にされるがまま、状況に流されていた。
 口の中に広がる、他人の唾液の味。
 それがこれ程までに苦く、身体の自由を奪ってしまう様なものだとは思わなかった。
 何より、空の舌がまるで別の生き物の様に動き、翔の口内を次々に満たして行く。

「ん…んーっ!んーっ!!」

 何度も何度も翔は空の肩を叩く。
 意図を察して空は翔の口を開放した。

「はぁ…はぁ…はぁ……」
「息…出来なかったんだよね」
「ばっ…!分かってたなら早く開けてくれよ!」

 この時、空は初めて理解する。
 この少年は“こういう事”に関して、殆ど知識を持っていないのだと。
 例えば先刻の様な口付けは鼻で息をすれば良いと言う事も、翔は知らないのだろう。
 何処か優位に立っている様な気がして、思わず空は小さく吹き出す。

「な…何で笑うんだよ、そこで」
「だって、翔君何も知らないんだな…って思うと面白くて」
「むぅ…そう言うソラはどうなんだよ」
「それは僕も一応男だしね。こういう事も一通り理解してるよ。例えば…」
「ひゃっ!」

 小さな悲鳴が翔から上がる。
 両胸の突起部分を空の冷たい指先で触れられ、何故かその感覚が全身に伝わる。
 いつの間にか服の中に手を入れられていた。

「や、やめ…くすぐった……い………」

 指先の微妙に触れるか触れないかの部分で、平坦な胸の上を行き来される。
 その度に、翔の身体に微妙な感覚が何度も襲う事になる。

「男の人も女の人も、感じ易いのは聞いた事があったけど…翔君の場合は凄く弱いみたいだね」
「やっ…な、何言って、んっ…!」
「要は、不安とかそう言うのを一切考えられなくなる様な状態になれば良いって事。荒療治なんだけどね」
「な…何する、気っ…だ!」
「だから、“こういう事”だよ。分からない?」

 震えながら、翔は必死に首を横に振る。
 一つ一つの翔の言動が、空の何かを満たしていった。

「本当に翔君って可愛いなぁ」
「あ…やぅ……はっ……」

 最早言葉になっていない。
 身体中に力が入らず、既に翔は空の身体に身を委ねる形となっていた。
 不安で身体が振るえていても、翔の眼が空の好奇心を刺激する。
 悪戯心と言う言葉では済まされない何かが、空の中で肥大する。

「ひゃわああ!?」

 生まれて一度も発した事の無い、悲鳴と取れるのかは微妙な声を、翔は上げてしまった。
 空の行動も、今自分を襲った奇妙な感覚も、何もかもが知識が追い付かない。

「な…そ…そそそ、ソラ!?」
「ん?」

 空は翔の下着の更に下で行っていた作業を中断する。
 それでも、その手をその場から放す事は無い。

「なな、何やってんだよ!」
「え?こうすると気持ち良くなっていくの、知らない?」
「知るか!!」

 力一杯声を上げてみたものの、今の翔に空を引き離す力は残っていない。
 寧ろ、その空の行為を受け入れている自分が信じられなかった。

「何で…こんな、事。何……で、オレ………」

 自分の中の自分と葛藤している様子が伺える。
 空の中の翔の像が、次第に鮮明になっていく。
 つまり、この翔と言う少年は初めて出会った時から何一つ変わっていないのだと。
 『自慰』と言う言葉をも知らないまま、誰にも汚されずにこれまでの人生を生きて来たのだと。

「…」
「そ、ソラ…?」

 だったら。

「やっ…、引っ張るな…!」

 その純真無垢な少年を自分の色に染めてしまいたい。
 奪えるものは奪ってしまいたい。

「だ、駄目…」

 上着は着せたままにして、下の衣服は白地も含めて全て下ろす。
 最早抵抗も出来ず、今の翔に隠す部分は何も無い、殆ど生まれたままの姿になる。
 全くと言って良い程に成長し切っていない身体。
 間違い無く年齢にそれが追い付いていない、幼い少年の姿態。
 発展途上と言えばまだ救いはある。
 しかし、この場合は身体が成長を放棄したと言った方が正しいのかも知れない。
 成長を望んでいる本人には残酷な話ではあるが。

「本当、翔君は可愛いなぁ…」
「ソラ…おい、ソラ?」

 親友の眼は何かに取り憑かれた様な、初めて見る色をしていた。
 普段の彼には当然その雰囲気は感じられず、翔は本当に目の前に居るこの人物は自分の親友なのかすら疑わしく思えた。
 月明かりの元に作られる影。
 それが、この世の者とは思えない別の何かに見えた。
 それでも。

「そ…ら……」

 自分はその空を望んでいる。
 とても怖くて怖くて…とても怪しくも綺麗な空を、自分の身体は受け入れようとしている。
 空の背中に両腕を回した。

「大丈…夫。ソラに、合わせる、から。ソラ…は、やりたい様に、すれば良いから……」

 甘い吐息と一緒に漏れて来る、既に溶けてしまった様な甘い声。
 背中に回された腕が、微かに振るえていた。

「翔君…」

 ようやく、空は我を取り戻す。
 不安を取り除く事が目的な筈なのに、既に翔はこうして不安で押し潰されそうになっている。

「ごめんね、怖い思いをさせちゃったね。大丈夫だよ。何もしないから」

 自分の胸の中に蹲ってしまった少年の頭を軽く撫でる。
 そんな中、翔の頭は左右に揺れ、小さな声が聞こえた。

「…ばか」
「え?」

 余りにも意外な言葉に、思わず空は翔を開放する。

「好きにすれば良いって言ってるだろ。何度も、言わせんなよな………」

 言葉の最後に「恥ずかしいから」と聞こえたのは、恐らく聞き間違いでは無いだろう。
 蒼い月明りしか光源が無い中でも、翔の頬が僅かに紅潮しているのが分かった。
 顔は逸らしていても、目線は自分の方を向いてくれているのが、何とも彼らしい。

「怖く…無いの?」
「い、今更お前を怖がってどうするんだよ」

 必死に反論をする。
 まさか、先刻の腕の震えに気付いていないと思っている訳では無いのだろうが。
 それが翔なりの意地なのだろう。

「…大丈夫だよ。怖くないから」
「だ、だから……やっ…!」

 下半身に先刻の様な違和感を感じた。
 全く成熟していない自分の秘部を弄られて、悲鳴には成り切れない声を上げる。
 初めて他人に触られると、ここまで妙な感覚を得るのだろうか。

(気持ち悪い…けど、もっと……)

「ソラ…そらぁ……」
「翔君。今、どんな感じ?」
「ソラの手が、冷たくて…くすぐったくて、ヘン、な…感じ………やっ…う……ぁ………」
「気持ち良い、とか?」
「分かん……ない」

 ソラの手の中で、翔の幼蕾が少しずつ膨れていく。
 硬度の増したそれは、ようやくソラの指の間から姿を表した。

「解る?気持ち良いと、こんな風にさきっぽがぬるぬるして来るんだよ」
「そんな事、言うなよぉ…」
「ふふふ。だからね、こうやって…」
「ひゃ、わああ!」

 言葉で表せない何かが、翔の身体を駆け巡る。
 針を打たれた様な、弱い電撃を流された様な。
 生まれて初めて体験する、快感にも似た“何か”。
 ソラの指先の感触がそのまま伝わる。
 小さな亀頭の先端を、空の指が何度も往復する。
 一度擦る毎に、その奇妙な感覚は次第に強くなっていった。

「あっ…ふぁ……な、なんかヘン……!」
「我慢、しなくて良いよ?」
「や…やだ。なん…か、でそう…!」
「良いよ。全部、我慢しないで」
「あぅ、う…ぁ。うああああぁぁぁぁ!!?」

 身体中の熱が一点に集中する。
 血液の流れが異様に速く感じる。
 背中が反り上がり、そこを空の腕に支えられた。

「はぁ…はぁ……」
「出たの、初めてだったんだ。やっぱり、まだ少ないね」
「何…が…?」

 既に翔の目の焦点は合っていない。
 溜まったものを一気に開放して、気が抜けたのだろう。
 空の肩に抱かれ、小さな息遣いが聞こえた。

(これ以上の無理は出来ない…か。“明日”もあるしね)

「このまま…良いよな……?」
「…うん。大丈夫だよ」

 細かい肩の揺れも、次第に落ち着いたものになってきた。
 気が付くと、翔の息遣いは既に寝息になっていた。

「…」

 何時までも翔をこの体勢のままにしておけない。
 先端や腹部に僅かに残った白濁したそれを、空は傍にあったウェットティッシュで拭きあげる。

「う…ん……」

 微かに翔の声が聞こえたが、目を覚ます事は無かった。
 着崩れていた衣服を元に戻し、薄いシーツを翔の肩に掛ける。
 何となく時計の方に振り向くと、丁度デジタル表示が全て0になる瞬間だった。

「朝になったら、見付けに行こうね。答え」

 安心したのか深い眠りについた翔に言い聞かせる様に、空は小さく呟いた。  夜明けと共に目を覚ました。
 部屋の窓は開いており、夏にしては涼しい風が廊下へ向かって吹き抜けた。
 ゆっくりと翔は身を起こす。

「ソラ…?」

 昨晩の出来事が夢だとは思わない。
 間違い無く、自分は空と“触れ合った”。

(まだ、ドキドキしてる…)

 胸に手を当てて、自分の鼓動を確認する。
 まるで試合が終わった後の様に、規則正しくはあってもその周期は早い。
 どうやってあの雨を凌いだのか想像させない様に、何事も無く屋根の上で鳥が鳴いている。
 カーテンの揺れに合わせて、波打つ光が翔の眼を貫いた。
 この天気の様に、自分の気分も晴れないものか。

(駄目だよな、やっぱり。折角ソラが慰めようとしてくれたのに…)

 恐怖心とは裏腹に、何故か自分はあの別人の様な空を求めていた。
 肩に凭れ掛かった後はどうなったかは覚えていない。
 それでも。

「…柔らかかったな」

 左手の真中の指二本で、空と触れ合った部分に触れる。
 甘い感触が、まだ残っていた。

「もう、下りてるかな?」

 少しでも空と一緒に居たくて、翔はベッドから飛び下りた。
 気怠い訳では無いのに、階段を下りる一歩一歩が重い。
 それでも、台所から聞こえて来る小気味の良い音を聞くと安心出来た。

「おはよう、翔君」

 直接は見えない筈なのに、翔が階段を降りた所で空はそう言った。
 顔を出すと、既に幾つもの料理がテーブルの上で柔らかな湯気を上げていた。

「もう起きてたのか?起こしてくれたら手伝ったのに」
「これくらいすぐに出来るから。これももうお終い」

 先刻切り刻んでいた物を、空はテーブルの上に置いた。

「冷めない内に食べちゃってよ。今日も練習、行くんだよね?」
「うん…」

 ハジメの課題の期限の最終日。
 今日の内に答えを見付けないと、自分はレギュラーになれない。

(ソラ、お前は知ってるんだよな…?)

 もし、今この場所で空に答えを聞いても、それでは意味が無いのは分かっている。
 しかし、今の翔にはほんの少しでも切っ掛けが欲しかった。

「僕も行くよ」
「へ?」
「僕も手伝ってあげる」
「でも…」

 それでは意味が無い。
 それは答えを知ってる空も理解はしている筈。
 それなのに。

「行こうか。答えを探しに」


 陽の傾きの関係で、体育館のコートはまだ薄暗かった。
 空と翔以外は誰も居ないこの空間の中で、空の簡単なドリブル音が響き渡る。
 ゴールポストを背にして、空はドリブルを止めた。

「簡単なゲームをしよう。翔君がこのボールを僕の後ろのゴールに入れたら、翔君の勝ち。当然抵抗はするけどね」
「それで良い、なら…」

 空の運動能力は翔も十分理解している。
 確かに一通りの競技はこなせるだろうが、練習を積んだ自分と空では、明らかに空が不利な筈だ。
 念を押した上で構わないと言っているのだから、空もそれを理解しているのだろうが。

「じゃあ、行くよ」

 空の手からボールが落とされる。
 それが試合開始の合図だと瞬時に理解し、翔は構えを取る。
 流石と言うべきか、空の動きには無駄が無い。
 だからと言って、このまま膠着状態で居ては話にならない。
 覚悟を決めてボールが跳ねた瞬間を狙う。
 当然、それに合わせて空も微妙に角度を調整する。

(このままじゃ、キリが無い…)

 このゲームが決して無駄なものとは思わないが、いつまでも時間を潰して練習を減らす訳にはいかない。
 どうすれば良いのか思いあぐねていると、翔は先刻に比べて翔のドリブルのテンポが遅くなっている事に気付いた。

 集中を崩さない空は、逆にそれに気付いていないだろう。
 ここぞとばかりに翔はもう一度ボールへと手を伸ばした。

「もらった!」
「…っ!」

 一瞬、意表を突かれた表情を空は浮かべた。
 だが。

「っ!?」

 いつもの様に涼しげな笑みを浮べる空に気付いて、初めて悟った。

(ハメられた…!)

 まんまと策略にはまったと気付き、慌てて動きを止めるも手遅れ。
 ―かと思った。

「え…?」

 何故か空な手元を離れ、自分の遥か後方に飛んで行くボールを見て、呆然と立ち尽くす。
 それなのに、ボールはバウンドを止める事は無かった。

「相変わらず、後先考えずに突っ込むんだから」

 その場に居る筈の無い、凛としていて、それでいて冷たく透き通った声が体育館中に響き渡る。
 有り得ない―と思いつつも、翔は後ろへ振り向いた。

「しょ…ショーコ姉ぇ! 何で…?」

 ゴールポストのすぐ下で、片手でボールを大ざっぱにバウンドさせる硝子の姿がそこにあった。

「な、何でこんな所に居るんだよ。ボール返せよな!」
「だったら奪ってみなさいよ。それがゲームのルールなんでしょう?」
「わ…分かったよ」

 今度は完全に素人の硝子が相手になるなら、奪うのは簡単だ。
 タイミングを見計らい、翔は先刻の様にボールへと手を伸ばす。

「だから、そういう事になるのよ」
「ねぇ…さん……?」

 何処か遠くで硝子の声が聞こえた気がした。
 既にボールは全く別の方向へと飛んでいた。

「こっちです、先輩」
「みっちゃん…?」

 両手で丁寧にボールをバウンドさせる。
 場違いではあるが、ハジメからボールには性格が出ると聞いていたが、これで納得出来る気がした。

「どんな事にも全力で突き進む所が、先輩の良い所だと思います。実際、私も…」
「へ?」
「な…何でも無いです、気にしないで下さい! えっと…そうであっても、少し立ち止まって見るのも良いんじゃないですか?」

 眼鏡の奥の瞳が、優しく微笑む。
 呆然としている間に、ボールはまた空の方へと渡されていた。

「ちょ…待てよ。こんなにいっぱい居たんじゃ勝ち目無いじゃん!」
「何言ってるのよ。そういうルールなんでしょう?」
「んな事言っ…ても……」
「だから、そういうルールなんでしょう? “バスケットボール”と言うのは」

 何かが一閃頭の中を駆け抜けた。

(そうだ、オレは…!)

 練習試合の中での自分の行動を、改めて振り返る。
 何がいけなかったのか。
 何が足りてなかったのか。
 何故ハジメは、硝子はあのような事を言ったのか。

「…そういう事です。先輩」
「突き進んでも良いけど、たまには振り返ってみるのも良いんじゃないかな?」
「少し周りを見れば、見えてくる世界も変わってくる。ガラス越しの世界なんて、それより先には進めないじゃない?」

 勝手に一人で先走って、折角のチャンスも全て台無しにしてしまう。
 シュートが下手だと知っているのに、周りの状況も確認せずに何度も同じ事を繰り返してしまう。
 当然、最前線で球を放ってしまっているために、ゴールの下には仲間は居ない。
 その結果、相手にボールが渡ってしまう。
 これでは一人で5人を相手にしている様なものだ。

「どんなに進んでも、やっぱり壁はあると思うんだ。それを乗り越えるか回り道をするかは…翔君次第だよ」

 天井に届くか届かないかの位置まで、天高くボールを放たれた。
 もう迷いは無い。
 空のボールを受け止めるのは。

「…オレだけだ!」

 床を強く踏み締め、コートを翔る。
 これは空が自分にくれた。
 シュートチャンスなのだから。

「随分と大事に育てているみたいじゃないか、ハジメ?」
「ん、そう見えるか? おさむ。そうでもないさ。もし翔が気付かなかったら、俺本気であいつをレギュラーに入れるつもりは無かったからな」
「だったら、何だってまたこんな回りくどい事したんだ?」
「しゃぁねーだろ、頼まれたんだからな」
「誰に?」
「同じ1年の奴ら全員さ。俺たちは翔と一緒にバスケしたいから、どうかあいつをレギュラーに入れてくれ…ってな」
「へぇ、それはまた…」
「我が弟ながら、誰からにも愛されてるんだよ。あいつは…」


 急速に加速していく、初めて気付いた気持ち
 ずっと胸に秘めていて、それが次第に膨れ上がっていた
 二人が始めて出会った
 あの日から―

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最終更新:2010年02月03日 04:06