空×翔3

「うおえぇぇ~」
「…朝っぱらから随分と爽やかな様だな、ハジメ」

 何処をどう見ればそう思えるのか分からないが、嫌味だと分かっているので敢えて反論はしない。
 机に突っ伏していた顔面をのそのそと起こし、ハジメはおさむの方へと振り向く。
 顔面が見事なほどに真っ青になっていた。

「気持ち悪ぃ…」
「何だ、昨日の夜に酒でもかっくらったのか?」
「だったらまだマシだっつ~の」
「あ?」

 指先で机を2.3回叩く。
 その先に置いてある包みをおさむは見つけた。
 質素なラッピングも施してあった。

「ほう。お前もなかなかにモテるもんだな」
「だと思うか?」
「どういう事だ?」
「…それ、翔のだよ」
「弟が貰った奴をお前が…って事か?」
「違う。翔が作ったんだよ」

 成る程とおさむは納得する。
 こういうものを翔が作るのはおさむのイメージには無かったが、以前から料理は翔が管轄している事は知っていたからそれ程意外性は感じなかった。

「愛する弟からの贈り物ってか。可愛いもんじゃないか」
「…何個目だと思うか?」
「………成る程な」

 その言葉だけで、おさむは事のあらましを理解する。


 話は戻ってその前日…
 蒼井家の台所は朝から既に翔の独壇場となっていた。
 近所のスーパーの特売で大量の材料を買い込み、早速作業を開始する。

「…よし!」

 両手に握り拳を作って、脇を締める。

「今から頑張れば…明日までには間に合うよな?」

 時計やカレンダーと何度も睨めっこする。
 我ながら不似合いなエプロンを身に付け、必要な調理器具を全てテーブルの上に揃える。

「こーいうの作った事無いけど…本を見ながらだったら出来る筈!」



「わあああ!!?」
「何だ何だ!?火事でも起きたのか…って、何やってるんだ翔」

 真っ黒な煙が充満した台所から、ハジメは翔を引っ張り出す。

「どうしたんだ?何か創作料理にでも手を出し始めたのか?」
「ち…違う!そんなんじゃない!!」
「じゃあどうして…」

 換気扇を回しに台所に入ると、ハジメはテーブルの上の大量の徳用板チョコレートが視界に映った。
 窓を開けて翔の方へ振り返ると、仄かに顔を赤らめた翔が目を逸らす。

「はは~ん、そう言う事か」
「お、男のオレがこんなもの作って…やっぱり、ヘンなのかな…?」

 床の方へと俯き、エプロンの裾部分をぎゅっと握り締める。
 握り拳も肩も、微かに震えていた。

「馬鹿、何もそんな事言ってないだろ。つまりはお前にもチョコ渡したくなる様な奴が出来たって事だろ?だったら、兄として嬉しい限りだ」
「ほ、本当?」
「冗談でこんな事言わないっての」
「ハジメ兄ぃ!」

 勢い良く翔はハジメの胸の中へと飛び込む。
 バスケットボール部の顧問として自らも鍛えているだけあって、後ろに押し倒される様な無様な姿は見せない。
 愛する弟を見事にハジメは両腕で受け止めてみせた。

(あ~あ。こういう甘えんぼは全然変わんねーのな)

 微妙な心境を抱きながらもハジメはわしわしと翔の頭を撫でる。
 台所の煙が晴れると、ハジメは煙の発生源を見付ける。
 どうやら鍋の中のチョコレートが焦げてしまったのが原因の様だった。

「お前、チョコレート鍋で溶かすなら湯煎にしろよ」
「ゆ…せん?」
「ってオイ。お前料理は出来るくせに湯煎は分かんねーのか?」
「し、知らない…」

 小さくハジメは溜息を吐く。
 このまま放っておけば、また同じ事の繰り返しだろう。

「しょうがない。この元蒼井家料理番家元ハジメ様がお前にチョコレート作りを伝授してやろう」
「え? ハジメ兄ぃ、お菓子作りなんて出来るのか?」
「そりゃあ、お前と違って料理暦長いからな。肝心要の硝子はとんでもないダークホースに育っちまったし」
「ま、まぁ…」

 蒼井家の誇る世紀末料理家の妙に勝ち誇った顔が二人の頭の中に浮かぶ。
 今度は二人揃って盛大に溜息を零した。

「そんじゃ、いっちょ始めるとするか」
「おー!」

☆皆もやってみよう♪

「まずは、大きい鍋と一つ小さい鍋を用意する。大きい鍋にお湯を入れて小さい鍋をその上に浮かべる。後は小さい方の鍋にチョコレートを入れて火を点ける。ほら、こうすれば直接鍋に熱が伝わらずにチョコレートが焦げ付く事は無くなるだろ?」
「おぉ!成る程!」
「もっと小さい容器を使う時は大きい鍋に布を敷いて、その上に乗せれば良い。これが湯煎。バターやチョコレートとかを溶かす他にも卵を温めたりも出来る」
「そっか。直接温めたら駄目なんだな」
「ま、それも場合によりけりだけどな。そんじゃ、予習はこれ位にして早速作るか」
「う…うん」
「おいおいこんな所で緊張してどーすんだ」
「やっぱり、上手く出来るかどうか不安で…」
「安心しろって。そんな難しい事なんかしないから。最初はさっき湯煎にして溶かしたチョコレートを2つの容器に分ける。そんで、片方のチョコレートに生クリームとラム酒を加えてかき混ぜる。ほら、まずはこれでガナッシュの出来上がり」
「へぇ…。こうやって作ってるんだ」
「そんでそのガナッシュをラップを敷いた天板の上に生クリームの絞り器とかで絞り出し、冷蔵庫で冷ます」
「あれ?折角綺麗に出来たのに冷ましちゃうのか?」
「ガナッシュで食べたいなら冷ます必要も無いが、まあ見てなって。ある程度固まってきたらそれをもう片方のチョコレートに突っ込む」
「わ…」
「ほい。冷めたらこれでトリュフの出来上がり」
「凄ぇ!もう完成なのか!?」
「固まる前や後にミモザの砂糖付けとかチョコペンで飾り付けると良いかもな。他にもガナッシュをタルト生地に流し込んだり、生クリームをキャラメルクリームに変えても良い」
「他には?」
「そうだな…余裕があればチョコレートケーキにも使える。簡単で尚且つバラエティ豊かなチョコレート菓子が出来るって訳だ」

★二時間後

「出来そう…か……」
「あ、ハジメ兄ぃ」
「あ、じゃねーよ」

 時間を置いてもう一度台所を訪ねると、思わずハジメは頭を抱えた。
 台所が煙塗れになると言う事態は免れた様だが、別の問題に直面する。

「本当にお前は何もかもがハイスピードなのな」

 テーブルを埋め尽くす程のチョコレート菓子に、呆れを通り越して素直に感心した。

「何か…一つ考え付いたら止まらなくなっちゃって」
「それは素直に“調子に乗る”って言うんだよ」
「う…。でもさ、どっちにしろ沢山作らないといけなかったから」
「どう言う事だ?」

 ボール…ボウルをテーブルの上に置き、翔はその中に出来た渦を眺める。

「オレさ、新人戦の時に結局皆に手伝ってもらったじゃん。結局あれから何もお礼とかそう言うの、全然出来てなくて。だから、こうれ位はやろうかなって思って」
「あぁ、レギュラー取れずに落ち込みまくっていた時な」
「…」

いつもの翔だったら、この程度の言葉にはすぐに反論して来る筈。
しかし、この件に関しては本当に責任と感謝を感じている様で、何も言い返して来ない。
ハジメが翔をレギュラーに再選択して以来、翔を含めたチームの力の飛躍には目を見張るものがあった。
それには確かに翔自身の能力の向上が大きく関係しているのもあるが、何よりも翔がチームに居る事。
つまり、翔と言う存在そのものがチームの士気を高めているのが大きな理由だろう。
当然その事は当の本人は自覚していないのだろうが。

(お前が居るだけで、あいつ達は嬉しいんだよ)

 等と言った所で、翔が何と思うだろうか。
 この場は黙っておく事にする。

「そう言う事か。成る程、理解」
「分かってくれると嬉しい。でもさ、正直言うと…まだ、不安なんだ」
「何がだよ」
「こう言うと失礼かもなんだけど、ハジメ兄ぃはオレが弟だから選んでくれたんじゃないかって。そう…思う時があるんだ」
「翔、お前…」

 小さく震える身体。
 ハジメには新人戦以来吹っ切れたと思っていたが、どうやらまだ乗り越えてはいなかったらしい。
 と言うより、流れた時間の間に少しずつ不安が積もって来たのだろう。

「ふん、バカタレ」
「あいて!」

 翔の額をハジメは中指で軽く弾く。
 状況が良く分からず、取り敢えず翔は両手で額を押さえた。

「俺がんな事するようなお人好しかっての。大体、そんなんだったらこの前のテストでも少し傘増してやってるって」
「ハジメ兄ぃ…」
「ったく、少しは自信を持てよな。不安になるのも解らんでも無いが、周りを信用してみろよ。誰もお前に奇異の目なんか持ってはいない。だから俺も平気でお前にヒントを言えたんだ。そして、何よりその答えを見付けたのは…お前自身。だろ?」
「………………うん」

 長い間をかけて翔は頷く。
 ハジメはもう一度翔の頭を撫でた。
 こうやって、いつも自分は翔を慰めて来たのだ。
 今も、これからも。
 いつまでも可愛くて仕方が無い自分の弟なのだから。

「そう言えば、誰に渡すつもりだ?」
「えっと…ハジメ兄ぃとショーコ姉ぇ。それから……」
「それから?」
「あっ! その、えっと……秘密!」

 顔を真っ赤にして声を張り上げる。
 どうやら翔が菓子作りをする理由はもう一つある様だとハジメは気付く。
 頭の中が一杯一杯になっているらしく、随分と忙しく翔は慌てふためいていた。

「だから、あの………。こ、これ! ハジメ兄ぃの分だから!!」

 そう言って、大量のトリュフに加えてケーキとタルトが二切れずつ。
 軽く見積もっても3人分はある量を翔は指差した。
「お、おい。幾ら何でも…」
「やっぱり…駄目だよな」

 もう一度翔は俯いてしまう。
 やたらと感情の起伏が激しいこの弟に負けて、結局自分は翔を甘えさせてしまうのだろう。

「分かった分かった。貰うから、これ全部」
「え…本当!?」
「あぁ。折角お前が作ったんだ。食べないと勿体無いからな」

 ハジメがそう言うと、一面花が咲き誇ったかの様に、翔に笑顔が戻る。
 翔は兎に角表情が素直に現れるので、心の底から嬉しいのだろう。

(甘ったれる原因は、絶対に俺だよな…)

「な、なぁ…ハジメ兄ぃ。これ、食べてみてくれないか?」
「何だよお前。自分で味見してみてないのか?」
「いや、食べたんだけど…やっぱり他の人の意見も聞いておきたくてさ。自分ではそれなりに良いかなって思ってるんだけど」
「まぁそれもそうだな。よし、どれどれ…」

 自分が教えたトリュフをハジメは口に運ぶ。
 2月の冷気で綺麗に固まったそれは、冷たく甘い。
 一度自分も何かの切っ掛けで作ってみた事はあったが、やはり自分以外の人間が作ったからであろうか、その時よりも柔らかく温かみのある味が口の中に広がった。

「うん、美味い。材料のバランスも良く取れてるみたいじゃないか。これなら他の人に渡しても全然大丈夫だと思うぞ」
「本当!?」
「あぁ」
「やった! ハジメ兄ぃ!!」

 これまた翔はハジメへとダイブする。
 今度も後ろに倒れないようにハジメは両腕を広げて翔を受け入れた。

「おっと…。全く、びっくりするから止めろってそれ」
「ありがとうハジメ兄ぃ。大好き」
「翔…」

 幾つになっても素直な翔の言葉。
 それが今、始めの中で響き渡った。
 当然その言葉には恋愛的な感情を入れているつもりは無いのだろうが、世俗の風を浴びたハジメにとって、その言葉は何よりも特別だった。
 何の混じり気も無い、純粋な唯一つの意味を持つ言葉。
 しかし、同時にその言葉は自分だけに対するものでも無い。
 先刻感付いた様に、もう自分は翔が特別な感情を抱く程の人間では無い。
 少しずつ、翔は自分から離れて行っているのだろう。

(兄としては、それを見守るべきなんだろうな。でも…)

 やはり何処かで翔を自分だけのものにしたいと言う独占欲が、ハジメの中で確かに存在している。
 教師と生徒。
 兄と弟。
 垣根を越えて、もっと親密な仲に。
 もう一つの意味で抱き合える関係になれれば良いのに。
 そう思うのは罪なのだろうか。

 一限…二限…三限…四限…放課後。
 ハジメによると今日は他校との教師の合同会議があるそうで、部活も補修も何も無い。
 四限後のクラス会議終了の合図を聞くなり、翔は両腕で包みを抱えながら向かい側の校舎の三階へと駆け上った。
 授業の合間では決して会う事が出来無い、空の元へ。

(ソラ、喜んでくれるかな…)

 ハジメからも太鼓判を押されているだけあって、翔の中では期待は膨らむばかりだった。
 何と言って受け取ってくれるだろう。
 どんな笑顔で食べてくれるだろう。

「ん?」

 階段を昇りきった所で、翔は足を止める。
 沢山の女子達が空の教室の前に集まっていた。

(何だろう…)

「おーい、ソラ…」

 空の名前を呼んだ辺りで、翔はその場に固まってしまう。
 沢山の女子に囲まれていたのは、他ならぬ空だった。
 思わず自分の持っている包みを強く握る。
 ここに居る全ての女子に対して的確に対応しながら、空は獣道を歩くかの様に集団を払い分けていた。
 そして、ようやく空は翔が底に居る事に気付く。

「あ、翔君」

 いつもの様に、空は笑顔を向けてくれる。
 両手一杯に大量の女子からの贈り物を抱えながら。

「見てよ。まさかこんなに一杯もらえるなんて思わなかったなぁ」
「そ、そうか…」

 周りの女子の視線。
 空の笑顔。
 自分が持っているものの重み。
 全てが翔に突き刺さる様だった。
 …何で自分はこんな所に居るのだろう。

「じゃ、じゃあ…オレ、先に帰るから」
「え?」
「じゃあな!」

 今自分には空を見る勇気は持てない。
 出来るだけこの場から離れたくて、翔は来た時よりも早く階段を駆け下りた。
 両手から包みが派手に落ちた事も気付かずに、ただ空との距離を感じるだけだった。

「翔君?」

 形の崩れた包みを空は拾い上げる。
 そして、翔が駆けて行った方を暫く眺めていた。

「何なんだよ…馬鹿みたいじゃんか。ソラのばかやろー」

 鞄の重みが普段の倍以上に感じる。
 重力というものの重みがこんなにも辛いと思った事は無かった。
 いつも通る公園に差し掛かると、ようやく翔は立ち止まった。

「あ、どこかに落として来ちゃったな…。でも…」

 もう自分が落としたものに対して価値が見出せなくなっていた。
 嬉しい顔を浮かべてくれる。
 喜んでくれる。
 しかし、それは空が誰に対しても向けてしまうものであって、決して自分だけのものでは無いのだ。
 …分かっていた筈だった。
 空は誰に対しても優しいのだと。
 側にあったベンチに腰を下ろし、鞄の中にまだ幾つか残っているものを取り出そうとする。
 だが、ジッパーに手を掛けた所で翔は手を止めた。
 今手にとれば、地面に叩き付けて踏み潰してしまうだろうから。
 今更になって思い出した。
 これは皆に対するお礼であるだけだった事を。

「そうだよ。馬鹿“みたい”じゃ無い。馬鹿そのものなんだよ」

 期待。
 それだけが空回りして一人で先走っているだけ。
 何を?
 決まっている。
 空が自分だけに対して優しくしてくれる。
 そして、自分だけを抱き締めてくれる。
 それを望んでいたのだ。
 自分“だけ”が。

「―先輩?」
「え?」

 それが自分の事だと気付くのに時間が掛かった。
 慌てて顔を見上げると、見慣れた一人の少年の顔がそこにあった。

「ハヤト…」

 人の事を言えた義理では無いが、幼い顔立ちをしている二つ下の自分の後輩。
 スケートボードを両手で頭の後ろに抱えていた。

「こんな所で何やってるの?」

 後輩にタメ口を聞かれても何も思わない。
 それは自分が空と接している時と変わらない。
 元々『先輩』と言われる事ですらムズ痒く思えてしまうのだから。

「単純見解で見れば…悩み事?」
「そんなもんかな」

 それが一目で分かる程なのだろうか、今の自分は。

「うん。誰だってそう思うだろうね」
「そっか…」

 特に尋ねた事に対して大きな意味を持つ訳では無い。
 ただ自分が今どんな状態なのかを知りたいだけだった。

「ハヤト、一つ聞いても良い?」
「えっと、答えられる範囲なら…かな?」
「お前、人を好きになった事ある?」
「うぇ!?」

 余りにも突拍子の無い質問に、ハヤトは顔を真っ赤にしながら噎返る。
 その拍子に落ちたスケートボードを何とか地面に激突する直前で受け止めた。

「な、ななな…何言い出すんだよぉ!」
「そこまで驚く様な事か?」
「当たり前だって!…っと、それってつまりは……恋をした事があるかって事?」
「恋…?」

 特に初めて聞く言葉でも無い。
 それでも何故だか翔には温かい、特別な言葉に聞こえた。
 ベンチの端にスケートボードを立て掛け、ハヤトは翔の隣りに座る。

「どういうのか…分かんない」
「それは人それぞれだと思う。何かが込み上げて来たり胸が苦しくなったり高鳴ったり。いくら何でもそれは他人には分からない。恋って、そう言うものだから」
「そうなのか?」
「うん。少なくとも喜怒哀楽では表現は出来無い」

 初めて見る憂いを帯びたハヤトの表情。
 二つ下の後輩が見せる、大人びた儚気な微笑み。
 ああそうかと翔は理解する。
 彼は恋をしているのだと。
 相手が誰だかは翔には分からないが、それを聞くのは余りにも無粋。
 それでも、やはり翔には恋と言うものが理解出来無い。
 自分は空に恋をしているのだろうか。

(だってオレは…)

 空と一緒に居れる事、側に居て話し合える事が嬉しい。
 ただそれだけ。

「それでも良いんじゃないかな?」
「そう…なのかな」
「一緒に居たいと思うのなら、多分それが翔先輩の正直な気持ちなんだと思う。だったらそれが一番正しいんじゃないかな?」
「正直な、気持ち…」

 思えば翔が知りたいのはそこの様な気がする。
 自分が何を思っているのか。
 素直な自分が分からない。

「そ、それはちょっと難しいかな…」
「いや、そんな所まで相談に乗ってくれなくても良いよ。オレも随分と無茶苦茶言ってるのは分かってるから」
「そう言ってくれると僕も助かるよ。力になれてるかどうかは分からないけど」
「ううん。少しは気が楽になったかな」

 本当はもっと色んな話を聞きたい。
 どうすれば自分と言う人間が分かる様になれるのか。
 何を切っ掛けにハヤトは気付く事が出来たのか。
 翔が知らない事を知っているハヤト。
 恋を知る事で、初めて成長出来る様になるのだろうか。

(オレと、ソラが…)

 それは、あの雨の夜の時の様な事を言うのだろうか。
 直に感じた空の手の感触。
 普段よりも敏感になった部分を重ね合わせ、愛撫された夜。

「ちょ…どうしたのさ。すっごい顔が真っ赤だよ?」
「な、何でも無い…」

 次から次へと疑問が渦巻く。
 あれ以来、二人が直接身体を重ね合わせる事は一度も無い。
 自覚していない訳では無いが、あの日から翔は必要以上に空にくっつく事は無かった。

「…っ!」

 身体の何処かに針が刺さった様な痛みを感じる。

「…本当に大丈夫?」
「正直、少し辛い…かな?」
「…ごめん」
「何で謝るんだよ」
「僕が変な事言ったから、先輩がこんなに苦しくなってるんだよね」
「ハヤト…」

 何時に無く、不安気な表情を浮かべる。
 年相応と言えば間違い無いのだが、その状況を作ってしまったのは他ならぬ自分だ。
 これ以上後輩を心配させるのは余りにも酷だろう。

「でも、少しだけ気が楽になったってのは本当だから。お前までそこまで心配されたら、そっちの方が困るって」

 少なくとも、これは間違い無く本心からだった。

「そうだ。まだ…」

 言うが早いか翔は自分のバッグの中をごそごそと探り始める。
 当然ハヤトは首を傾げた。

「これ、どうしようかって思ってたんだけどさ。受け取ってくれないか?」

 小さなハヤトの両手に乗る程の大きさの包みを翔は差し出した。

「先輩、これ…」
「話を聞いてくれたお礼。…何て代金にしちゃ少し安過ぎるか」
「でもこれ、先輩の大切な人にあげる筈じゃないの?」
「その理屈が当てはまるなら、尚更」
「…分かったよ、先輩。ありがとう……」

 両手でハヤトは翔の包みを受け取る。

「ハヤト…?」

 ありがとう、と言う言葉に翔は違和感を覚える。
 喩えるなら、もう誰かに会えなくなる様な。

「僕、もう帰るね」
「ん…あぁ、悪かったな。お前の練習削って」
「ううん、もう終わって帰る所だったから。じゃあ先輩…さよなら」

 ハヤトは立上がり、スケートボードを両腕で抱えながら公園の外へと駆けて行く。
 一度もこちらを振り向く事無く、ハヤトの姿は丁度涌き上がった噴水の向こうへと消えて行った。

「…ハヤト、泣いて……?」


 ただひたすらとハヤトは駆ける。
 とにかく今は少しでも公園から離れたかった。
 翔を見ている事が辛かった。
 これ以上ただの後輩として立ち振る舞うのはもう無理だった。
 今日と言うこの日、少年は知る。
 決して実る事の無い、初恋と言うものを。

「凄いな、翔先輩。僕、こんなの耐えられない。耐えられないよ…」

 人を好きになった事があるかと聞かれた時、心臓が止まるかと思った。
 気付かれていると思った。
 結局それは違った。
 翔には好きな人が居ると知ってしまった。
 その上に悩み、苦しんでいる事に気付いてしまった。
 だから、もうこの言葉は言えない。
 誰にも聞かれない様に、家の扉に凭れかかってひっそりと呟いた。


    翔先輩…大好きです


 家に帰れば受話器を手に取り元に戻す。
 部屋に入れば携帯を手に取り元に戻す、を翔は幾度と無く繰り返した。
 まだ昼だから後の方が良いだろうか。
 それとも夕方の遅い時間帯では迷惑だろうか。
 メールだったら大丈夫だろうか。
 若しくは直接会った方が良いだろうか。
 と言うより会っても良いのだろうか。
 もうどれが最良の選択なのか翔には分からない。
 ハヤトに相談して、確かに気分は紛れた。
 しかし、結局はそれだけなのだ。
 気分が紛れて肩の荷がある程度軽くなった事は事実。
 それでも翔が安心して行動するにはまだまだ足りない。

(折角ハヤトが相談に乗ってくれたのに…)

 別れ際のハヤトの様子が気にならないと言えば嘘になるが、今は自分の事だけで限界だった。
 結局ハヤトの言葉全てを理解出来無いまま、翔は自分の家へと帰って来てしまった。
 思えば今日と言うこの日は随分と早く過ぎて行った様な気がする。
 何日も前から計画を練り、前日は徹夜する勢いで台所へと立ち向かう。
 結果的にハジメに手伝って貰ったとは言え、万全の準備を以てこの日に望んでいた筈だった。

(やっぱ、ただの空回りかな…)

 自分の正しいと思った事をすれば良い。
 それがハヤトの言った結論だった。
 再三繰り返している様に、自分には何が正しいのか…分からない。
 恐らく全ての鍵を握っているのはそこなのだろう。
 つまり、それはもう自分以外の誰かに聞いて分かる問題では無いと言う事。

(それ、物凄い我が儘…)

 ちょっとした悪戯が積み重なり、笑い事では済まされなくなった子供の様な。
 すぐに謝ればまだ許してくれるのに、妙な部分で意地を張って。
 その結果、余計に相手を憤慨させてしまう、素直になれない小さな子供。
 でも。
 だって。
 仕方無い。
 言い詰められた状態から出て来る無様な決まり文句。
 稚拙。
 そんな単語が頭を過ぎる。
 恐ろしい程に今の自分に適している。
 結局の所、自分はまだまだ未熟なのだ。
 二つ下のハヤトが大人びて見える程。

(どうしたら良いんだよ…)

 分かっている。
 誰かに教えて貰う事では無いと言う事くらい。
 その正解も知っている。
 “自分に正直になる”では、それはどうすれば良いのか。
 一つの問いが二重三重と重なって、回答への道を塞ぐ。
 入学試験や模擬試験で答えだけ書いても点数は貰えないのと同じ。
 どうしてその答えになったのかと言う明確な証明が必要なのだ。

「オレには、難し過ぎるっての…」

 自分の身体を背中からベッドに身を任せる。
 まだまだ西日と呼ぶには早い段階の陽の光が部屋の中へと差し込んでいた。
 温かい。
 こんな所にチョコレートを置いていたら、あっという間に溶けてしまうだろう。

「…良いよな。ただイベントに便乗してやっただけなんだから。別に、今日じゃなくたって」

 シーツの柔らかい感触が、自然と眠気を誘う。
 目を瞑ると、開けておいた窓から入って来る風の匂いを感じた。
 あぁ、もう春なんだとまどろみの中で思う。

(そう言えば、制服のまま…。どうでもいいか)

 そう意識を手放しかけた時、突然手元に置いていた携帯が自らの存在を主張するかの様に振動する。
 心臓が跳ね上がり、一気に翔の眠気は吹っ飛んだ。

(ソラ…!)

 期待とも不安とも取れる不安定なものが入り交じりながらも、翔は携帯を手に取る。
 だが、携帯に表示されている相手は空では無かった。

(みっちゃん?)

「もしもし?」
「あ、あの…突然電話しちゃってごめんなさい。翔先輩、今から御時間ありますか?」
「えっと…」

 改めて枕元の時計を見る。
 当然眠るには早過ぎる時間帯を指していた。
 普段なら、まだ昼の授業をしている筈なのだから。

「オレは大丈夫だけど…」
「でしたら、携帯で話すのも難ですので、学校まで来て頂けますか?」
「あれ、でも今日は…」
「会議でしたら、もう随分前に終わっています。硝子先輩も出席してましたから」

 そう言えば二人は生徒会のメンバーだったなと、翔は思い出す。
 教員だけの話し合いと思っていたが、生徒会も会議に加わって居た様だ。

「うん。良いよ」
「ありがとうございます。では、高等部の昇降口で待ってますので…失礼します」

 その言葉を境に、通話の切れた音が聞こえる。
 電源ボタンを押すと、今使用した分の通話料金が表示された。
 当然向こうから来たので翔の使用費は無しだった。

「何だ…?」

 電話越しでも分かる程に、彼女の声は震えていた。
 ハヤト以外の中等部生では唯一交流があるとは言え、こうして直接連絡が来る事は稀だった。
 何れにせよ、行くと言ったからには向こうを待たせる訳にもいかない。
 ベッドから立ち上がると、クローゼットにハンガーで引っ掛けておいたブレザーを羽織り、翔は鍵を掛けて家を飛び出した。

 私立の特権だろうか、中等部と高等部が共通で使用する中央道路を挟んで、二つの校舎は隣り合わせになっている。
 お互いがお互いの施設を利用する機会も非常に多い為、 基本的に中・高間の出入りは自由となっている。
 極最近慣れ親しんでいる坂を登った先に、彼女は立っていた。

「…わざわざ来て貰って、すみません」
「いや、良いんだけどさ」
「ここでは話し辛いんで、場所を変えましょう。鍵は借りてありますから」

 予想はしていたが、やはり何かの相談事なのだろう。
 それも、同性で交流の深い硝子では無く自分に持ち掛ける程の。
 黙って階段を登り始める彼女に翔は付いて行く。
 着いた先は階段を登り切った所にある、屋上への出口だった。
 軽く錆かけて重くなった扉を開けると、強い風が校舎の中で駆け巡った。
 慌てて翔は自分が出ると同時に扉を閉める。

「ふぅ…。で、どうしたんだよ。何かオレじゃないと相談になれない事なのか?」
「…はい」

 その短い返事から、自分に関係する事は予測出来る。
 それ故に、翔には思い当たる節は見当たらない。

「えっと…今日の会議で何か言われたとか?」
「私、今日は会議に出席してません。今日出たのは硝子先輩や他の高等部の方でしたから」
「あれ、そうなんだ…」

 だとしたら、益々翔には分からない。
 一方彼女は鉄格子に手を掛けて、眼下に広がる町並みの方を向いて、翔には背を向けたままだった。

「本当は私、今日は直接家に帰る筈だったんです。でも、偶然翔を見付けてしまったんです。それに…」

 ようやく彼女はこちらを振り向く。
 その瞳に、思わず翔は息を飲んだ。
 眼鏡の奥に光る、誰かを咎める様な鋭い眼差しを。

「ハヤト君を」
「え…?」

 強い風が二人の間を通り過ぎて行く。
 春が来る少し前の暖かい風。
 すれ違い様に身体を切り刻んで行く様な鋭さを持っていた。
 そう。
 それこそが彼女の眼差し。

「ハヤト君、泣いてましたよね」
「な、なぁ…みっちゃん。ひょっとして…」
「ごめんなさい、隠れて聞いてたんです。二人の話を」

 恐らくハヤトがベンチに座った辺りから居たのだろう。
 でなければ、向かい合った状態では彼女はすぐに気付かれてしまうのだから。

「…不安、ですか?」
「えっと…?」
「自分に正直になるって、不安ですか?」
「それは…」

 何と言えば良いのだろう、適切な言葉が思い浮かばない。
 いや、その考えが既に適切では無いのだろう。
 翔が探している言葉は、ただのその場しのぎの言い訳でしか無いのだから。

「…分からない。でも、多分…物凄く怖いんだと思う」
「何故ですか?」

 間髪入れずに回答を次の質問で返される。
 先刻のテストの例がもう一度頭を過ぎった。

「先輩が不安になる理由が、私には分かりません」
「どうしてそう言えるんだよ!」

 彼女に負けない様に振る舞う為か。
 それとも単純に機嫌を損なった為なのか、翔も返答を即座に切り返す。

「だったらどうして! どうして普段はあんなに笑っていられるんですか!!」
「なっ…」

(何言ってるんだよ。何なんだよ…。一体何だってんだよ!)

「あんなに笑っている。楽しそうに…幸せそうに笑っている! だから諦める事が出来た。叶わないと気付いたから、諦める事が出来た。なのに…」

 その言葉を境に、彼女の勢いは途切れてしまう。
 崩れる様に彼女はその場に座り込んだ。
 僅かに肩が震え、不規則な息遣いが聞こえて来る。
 嗚咽。
 もう何がなんだか翔には理解出来無い。
 この僅か数分程度のやり取りで、どうしてこのような状況になっているのか。
 何れにしろ、この状況は極めて宜しく無い事は確かだろう。

「ごめん。やっぱりオレ、よく分からない」
「…もう一度聞きます。どうして分からないの」

 声が掠れてしまい、集中していなければ全く聞こえない程の声。
 何が正しいのか。
 何が最良なのか。
 それを求めるのが正しいのか。

「…ごめん」

 呟く様に答える事。
 これがもう精一杯だった。
 それっきり、彼女はもう何も言わない。
 せめてもの気休めに彼女を慰めようと、翔は彼女に手を伸ばす。
 彼女の肩に手を掛け―

「うあっ!?」

 突然差し出した方の服の袖を引っ張られる。
 決して彼女の力が強い訳では無い。
 しかし予想外な事もあり、翔は為す術も無く身体も一緒に引っ張られた。
 当然全く抵抗出来ずに翔は丁度彼女の身体を覆う体勢となっていた。

「な、何やって…!」

 残りの言葉の全ては遮られる。
 言葉を話す為の媒介である、口を完全に塞がれたからだ。
 夥しい程の熱量が唇から伝わる。
 翔の唇を塞いでいるのもまた、彼女の唇だった。
 ようやくその事に気付き、翔は慌てて起き上がろうとするが、ネクタイを掴まれ身を起こす事すら許されなかった。

「動かないでください」

 思わずひっ、と翔から小さな悲鳴が聞こえる程、彼女は声を押し殺していた。
 両腕にまるで力が入らない。
 彼女に対する恐怖が、翔の力を奪っていた。

「下手に動けば私は大声で人を呼びます」
「な…」

 それが一体どう言う事なのか。
 流石に翔もそれは理解していた。
 傍目からすれば、間違い無く自分が彼女を押し倒したと思われるに決まっているから。

「何で、こんな事…」
「分からないですか? 分からないですよね。だから私はあなたを許せない」

 緩く締めていたネクタイが少しずつ窮屈になっていく。
 彼女に逆らって動き回れば、自分の息の根すら止めてしまいそうだ。

「私は翔先輩が分からなかったのが許せない訳じゃ無い。分からないのが許せない訳じゃ無い。分かろうとしない事が何よりも許せない!」

(分かろうと…しない事?)

「だから、何を…!」
「…です」
「え…?」

 始めの言葉が聞き取れなかった。
 いや。
 聞き取る事が怖かった。

「好きです、翔先輩…」
「みっちゃん…」
「あなたと出会った時から、いえ…。あなたと出会う前からずっと好きでした。今だってそれは変わらない」

 今更ながらに翔は胸を突かれた様な痛みを思い知る。
 知ろうとしない事が罪ならば、それは…

「いつも明るくて可愛くてかっこ良くて、何事も真っ直ぐな翔先輩が大好きです。どうしようも無い位、胸が苦しくなる位」

 あぁそうか。
 ようやく翔は自分の罪深さを知る。
 彼女の言いたかった事を知る。

「翔先輩が空先輩と一緒に居る時、本当に楽しそうで幸せそうで…。だから、私は諦める覚悟が出来た。心から応援出来るって決心出来た。そんな翔先輩が大好きだから」
「じゃあ、ハヤトは…」
「あなたがまだ本当の気持ちに気付いてないと言うのなら、私も余計な期待を抱いてしまう。どんな手を使ってでも…間違いが起きたって構わない」
「オレは…」
「それでも…無理なんです。あなたは何処かで気付いてしまう。本当の気持ちに、いつか絶対に気付いてしまう。だから許せない。私も、ハヤト君も、硝子先輩も…空先輩も!」

(オレは、ソラが…)

「何…してるの?」

 突然この場所に居る筈の無い者の声に、翔はその体勢のまま竦み上がる。
 その突然現れた人物を、翔はたた呆然と見ている事しか出来無かった。

「ソラ…!」

 どうしよう
 どうしようどうしようどうしよう
 一番見られてはいけない人物に見付かってしまった。

「明日ここで天体観測があるから、その準備をしに来たんだけど…」

 やはり空もどうしたら良いのか戸惑っているのだろう、方頬に人差し指を当てて引きつった笑みを浮かべていた。
 それが今出来る限りの空の優しさ。
 それが痛い程翔に伝わる。

「えっと、お邪魔だった…かな?」

 たったその一言が、翔の胸を突き刺す。
 誤解…と言えばまた話は違うが、空にだけはそう思って欲しくなかった。

「…そう思うのなら、後にしていただけませんか?」
「え?」

 意を突き過ぎる彼女の言葉に、空は素頓狂な声を漏らす。
 翔に至っては何も言う事すら出来無かった。

「賢明な空先輩なら、今のこの状況がどう言う事か…御分かりですよね?」
「あ…まぁ、ね」
「ソラ!」

 もっと大切な事を言わないといけない筈なのに、それから先が出て来ない。

「そ、ソラ。オレは…!」
「負けませんから」
「えっと…どう言う事かな?」
「言わなくても、分かっていると思いますが。…良いでしょう。私も翔先輩が大好きですから、あなたには絶対負けません」

 戸惑いを隠せないでいる空を見ている事が何よりも辛かった。
 もうこの場所には居たくない。

「っ!」
「きゃ…」

 空に気を引かれて居てネクタイを掴む腕の力が抜けている内に、翔は彼女を突き放す。
 足が縺れそうになりながらも、兎に角扉へと走る。
 擦れ違う。
 空と自分が。
 嫌だ。
 でも
 今は出来る限り傍に居たくない。
 だから振り返らない。
 乱暴に扉を開き、朱くなり始めた世界を背にして階段を只管に駆け下りた。

「…随分と思い切った事するね。みっちゃんは」

 自分のすぐ隣を駆けて行った翔に対して、空は特に驚いた様子は無い。
 寧ろ、それを予想していた様だった。

「この場合、道化はどちらになるんでしょうか?」
「それは僕も君も、同じじゃないかな?」
「…申し訳ありませんけど、私は本気ですから」
「うん、それは十分に分かるよ。でないとこんな事は出来る筈が無いからね」
「分かっています」

 そこまで言うと彼女は一息入れ、もう一度突き刺す様な眼で空を見据えた。

「最初からそこに居たあなたも、最初からそれを知っていた私も。そして…」

 同じ視線を、翔が出て行った扉の上にある避雷針に向ける。

「私達がここに来る前からずっと“そこ”に潜んでいたあなたも同じですよ、硝子先輩」

 刹那、凪が世界を包む。
 軽やかな音が空の隣で跳ねる。
 それを待っていたかの様に、再び風が舞い上がった。

「へぇ、硝子ちゃんも最初から居たんだ。でもどうしてみっちゃんは気付いたの?」
「当然ですよ。だって、最初からここは鍵が掛かって無かったんですから。私が持っている通常の鍵では無く、マスターキーを所持できる人物は硝子先輩以外存在しません」
「守衛さんが来るには随分と時間が早過ぎるからね」
「随分と落ち着いてるのね」

 ここでようやく硝子が口を開く。
 一見感情の篭っていない無機質な存在に見えるが、それなりに付き合いの長い二人…特に空には、彼女が今の状況を堂思っているのかは目に見えて明らかだった。

「そうかな? これでも結構戦慄しているんだけど、僕は」
「あら、そう。じゃあ、元彼女の私から一つ自惚れた王子様に忠告しておこうかしら?」
「え…?」
「へぇ、どんなものかな?」

 その場の空気が豹変した事を硝子は感じる。
 楽しくて楽しくて、思わず笑いが込み上げて来る。
 普通に笑う事が出来無い分、この様な状況に直面すると逆に楽しめて仕方が無い。
 あぁ。
 鏡を見ながら笑う練習って、どうしてここまで役に立たないのだろう。

「貴方の敵は私やみっちゃん…それに、ハヤトだけじゃ無いって事だけ教えておいてあげる」

 陽が完全に身を隠しても、翔は一度も自分の部屋から出て来る事は無かった。
 昨日の今日と言う事もあり、ハジメにはある程度の予想は付いている。
 翔の作ったチョコレートを渡せなかった。
 乃至渡せたとして、それが良い結果に終わらなかったのだろう。
 この日この時間にダイニングに座った人物は、ハジメと硝子の二人だけだった。
 ハジメと硝子が向かい合い、本来硝子の隣りの翔の居る筈のテーブルの上には、もう湯気の立たない野菜スープと揚げ物の盛られた皿が置いてあるだけ。
 両親は長期の出張に出掛けているのでこの家に居るのはハジメと硝子。
 それに加えて翔の三人しか居ない。
 食事中はテレビを点けないという暗黙の了解が蒼井家にはある為、この空間には金属スプーンと食器の当たる音だけが空しく響き渡った。

「御馳走様」
 硝子は平皿をテーブルの上に置き、その上に自分の使った食器を丁寧に重ねて行く。
 そして立ち上がり、自分の部屋へと戻ろうとする。

「待て」
「…何かしら?」

 振り返りこそしないが、硝子は足を止める。

「翔の奴、何があったんだ?」
「ふふふ…。分かっていたとして、それを私が言うと思う?」

 硝子の性分は、ハジメも長年理解している。
 だからこそ、それを承知の上で硝子に聞いたのだ。
 そもそもハジメは硝子に何があったのかを聞くつもりは毛頭無い。

「いや、それだけ聞ければ十分だ」
「そう」

 それだけを言い残し、硝子は階段を登って行った。
 取り敢えず、これで硝子が翔に何かしら関わっている事は把握した。
 ただそれだけを、ハジメは探ったのだった。

(こりゃ、一筋縄にはいかないな)

 最近めっきり多くなった溜め息を吐き、ハジメは硝子の片付けた食器を流し台に置く。
 翔の分の野菜スープは鍋へと戻し、揚げ物はラップをかけて冷蔵庫へ片付けた。
 明日の朝食はこれで一先ず保たせる。
 一通り食器を洗い流し、ハジメは今度は冷蔵庫の隣りの棚を開ける。

「おっ」

 二枚だけ残っていた耳の無い食パンの袋を見付けた。
 早速それを取り出し、もう一つだけ残っていた揚げ物とレタス、ソースを一枚のパンに塗り、もう一枚のパンをその上に乗せる。
 後は、パンを対角線に合わせて切れば良い。

「ま、こんなもんだろ」

 質素だがそれなりに見栄えのあるサンドイッチが完成した。
 これもラップに包んで部屋の前に置いておけば、お腹を空かせた翔が食べる事が出来るだろう。

「本当は、せめて下まで下りて来て欲しいんだけどな」

 不安定な状況の人間に、そこまで求めるのは酷だろう。

(…俺に出来るのは、精々こんなもんか)

 何が一番の解決策なのか見出だせず、ただ様子を見ると言う一番楽な道を選んでいる。
 自分は兄貴としてどこまで踏み込んで良いのだろう。
 それとも、翔と言う垣根には触れずにそっとしておく方が良いのだろうか。

「全く、兄貴失格だよな…」

 階段を一歩一歩登る度に、罪悪感と言うのだろう、足が重くなる。
 翔の部屋の前に立ち、恐らく鍵が掛かっているであろう扉を叩く。

「…メシ、ここに置いておくからな。腹減ったら食べろよ」
「………うん。ありがとう」

 辛うじて扉の奥から小さく声が聞こえた。
 少なくとも、完全に擦り切れてはいない様だ。
 少しだけ安心して、ハジメはまた溜め息を零す。

「じゃあ、食べたらちゃんと寝ろよ?」
「分かってる」

 その返事に生気を感じない。
 これは流石に明日学校に行く余裕は無いだろう。
 決して甘やかすつもりは無いが、無理矢理部屋から追い出すのは不可能だからだ。
 この時初めて自分が翔のクラス担任で良かったと思う。
 クラスや部活の雰囲気から、ハジメは翔が何気無くその中心に居る事を感じ取っていた。
 その翔が突然学校を休んだとなれば、彼達の不安は募る一方だろう。
 しかし、そこは兄である自分が何とか鎮静化出来る。
 翔だけで無く、クラスや部活を支える事が出来るのは自分だけなのだ。

「…これが、精一杯か」


 ハジメが下に下りて行った音を確認した後、翔は扉を少しだけ開いた。
 平皿にラップで包まれたサンドイッチを見付け、落とさない様にゆっくりと手に取った。

「あったかい…」

 まだ揚げ物が冷め切っておらず、仄かな温度を感じる。
 それは決して料理の温もりだけでは無い。
 作ったばかりでハジメの体温も含まれている。
 気が付けば、自分の手はドアノブに触れていた。
 しかし、すぐに翔はその手を離す。
 部屋から出ようとしていた。
 しかし、自分は今この空間から出てはいけない。
 何故かそう思う。
 初めから扉には鍵が掛かっていなかった。
 そもそもこの部屋に鍵と言うものは存在しない。
 出て行くべきか。
 それともこの部屋に閉じ籠るか。
 自分では決める事が出来ず、翔はハジメに全てを委ねた。
 ハジメが扉を開けてここから連れ出してくれるか、このまま部屋に入って来ないか。
 結果、ハジメは部屋の前まで来てくれたものの、部屋の扉すら開けてはくれなかった。

「…明日、どうしよう」

 どうでも良い様に呟きながら、ベッドの隅に座る。
 特に身体の調子が悪い訳でも無い。
 怪我をしている訳でも無い。
 ただ学校に行きたく無いだけ。
 それが休む理由になれる筈が無い。

(学校に行ったら…会いたくなるに決まってる)

 会いたい。
 今すぐ空に会いたい。
 それなのに、会うのが怖い。

「本当、どうすれば良いんだよ」

 矛盾と言う螺旋が鎖の様に絡まって、身体を締め付ける。
 また選択を誰かに委ねるのか。
 誰に?
 決まっている。
 空に。
 ではその判断基準は?

「…馬鹿じゃねぇの?」

 空が自分の部屋に来てくれるとでも言うのか。
 それまで自分はこの部屋を出ないのか。
 周りに流されてばかり。
 頼ってばかり。
 自分を見出だせ無い、糸で動く操り人形。

(情け無いよな。オレは結局アイツが居ないと…)

「あ…」

 自分が今何を思ったのか。
 何を思い浮かべてしまったのか。

「痛っ!」

 軋む様な胸の痛み。
 両手で自分を抱き締めても、紛わす事が出来無い。
 何故こんなに痛いのか。
 何故こんなに切ないのか。

「うぁっ!」

 身体がくの字に曲がり、その体勢のまま肩からベッドの下へと落ちてしまう。
 しかし、その痛みが気にならない程に、胸は更に苦しむ。

「これ…前のあの日……」

 朧気な情景が次第に鮮明になる。
 何を思い出していたなんて決まっている。

「ん…」

 置いてあった手を胸から下へ。
 腹部を通り過ぎて更に下へと伸ばしていく。
 ズボンの上から触れても膨れ上がっているのは明らかだった。
 奇妙な痛みがそこから全身に伝わり、布が擦れて先端を撫でる。

「ふぁ、あっ…!」

 やはり普段は出せない様な声が漏れてしまう。
 この感覚を何と呼べば良いのだろう。

(助けて…助けてよ……。ソラ……)

「翔、大丈夫か!?」

 乱暴に扉を開き、自分を捕らえていた部屋と言う名の籠を開いてくれた。
 自分の名前を叫び、どうやら自分を心配してくれているらしい。

(誰…?ソラ……?)

「おい、翔!」
「ハジメ、兄ぃ…?」

 恐らく自分が床に落ちた時に音が下の階まで響いたのだろう。

「何があった?苦しいのか?」
「平気…」
「馬鹿、んな訳あるか」

 ハジメが自分を心配してくれているのは嬉しい。
 そこに偽りの念は無く、自分の素直な気持ちではある。
 だが、自分の今のこの状態をハジメに見られるのは嫌だった。

「腹でも痛いのか?」
「違…」
「いいから見せてみろ」
「い、イヤだ!」

 両手でハジメを押し退ける。
 二人が固まったのは丁度その時だった。

「あ…」

 ハジメの目線が一点に集中する。
 それは今のこの状況からすれば至極当然の事ではあるのだが、翔にとってはこの上無い羞恥だった。

「み、見ない…で……」

 遂に口調すらも弱々しくなってしまう。
 目尻が濡れて、視界がぼやける。
 今の自分をハジメにだけは見て欲しく無かった。

「おいおい、そんな事で泣くなよ。俺の方がびっくりしたじゃねぇか」
「ハジメ兄ぃ…オレ……」

 脱力した溜め息をハジメは零す。
 その様子を見ていると、自分が今悩んでいる事が馬鹿みたいに思えてならない。

「要はお前、随分溜まっているんだろう?だったらヌいてしまえば良いだけじゃないか」
「えっと…」

 事も無げにハジメは言う。
 それが翔にはどうにも理解出来無い。
 しかし、どうやらこの状況の解決策をハジメは知っている様だ。
 だったらいっその事…

「ハジメ兄ぃは…」
「ん?」
「ハジメ兄ぃは、なった事あるのか?その…“こう言う事”」
「あ?そりゃお前、俺もお前も男なんだからこれ位なったりするだろ…って。おい、お前…」
「あの…オレ、分からない……」

 唖然…基、愕然とした表情を向けられた。
 そして数秒間悩んだ挙句に酷く深い溜め息を吐かれる。

「お前さ、“こう言う事”は中学の時に習わなかったか?」
「覚えて…無い」

 ハジメの様子から、どうやら自分の知識の無さは筋金入りらしい。
 だからと言って、このまま無知なままな訳にもいかない。

「だったら…だったら今、教えてくれよ」

 莫大な問題発言。
 当然それをそうと認識出来る程、翔の知識は出来てはいない。

「ちょ…待て待て待て待て!いくら何でもそれは…」
「何でだよ!ハジメ兄ぃは教師なんだろ?」
「馬鹿、教師だから問題なんだよ!」
「じゃあ教師じゃ無くて良い!オレ達…兄弟だろ?それに、こんな事はハジメ兄ぃにしか頼めないから」
「翔…」

 頬を赤らめながらも目線だけはハジメから外さない。
 翔にはそれがハジメに火を点けている事は理解出来てはいない。
 翔に釣られる様に顔を真っ赤にしたハジメは、冷たい手の平を顔面に当てる。

「ばっ…何て事言うんだよ、お前は」
「だって、オレ位の歳だったら知っておかないといけないなら…だから、ハジメ兄ぃ!」

 ぐっとハジメは息を飲む。
 この状況を如何にして打開するか。
 …では無く、どこまでこの流れに乗れば良いのか。
 何故なら、ハジメにとってこの状況は願ってもいなかった絶好の好機となるからだ。
 子供の頃から手塩に掛ける様に接して来た、大切で仕方の無いたった一人の弟。
 長年積み重なって来た思いは、いつの間にか“想い”に掏り変わっていた。
 その弟が今自分の腕の中で、俗の様な言い方をすれば誘っている。
 想いが溢れ出てしまいそうな程に、ハジメは既に溜まり切っていた。
 生徒であり弟と言う垣根を打ち破り、翔の全てを自分のものにしてしまいたかった。
 度の過ぎた愛狂で、自分を抑える理性と言うものはもう殆ど残っていない。

「…良いのか?」

 言うなれば、目の前におやつを並べられた子供の様な。
 寧ろ、餌が盛られた皿を目の前に置かれたにも拘らず、首に繋がれた鎖で手の届かない状態の猛犬。

「…うん。ハジメ兄ぃだったら、大丈夫。我慢…出来る」

 瞬間、ハジメの中で何かが崩れ墜ちる音が聞こえた気がした。
 恐らくは、それが理性と言うものだろうという事も理解していた。
 それでも。

「ん…」

 手始めに翔の唇を奪う。
 互いの舌が絡み合う。
 と言うより、自分の舌で翔の口内を満たす。
 粘性のある生々しい水水音が、微かに漏れる。

「あ、ふぁっ」

 自分の背中に回された腕が少し強く締まる。
 意を察してハジメは唇を開放した。

「息…出来無かったか?」

 僅かに頬を紅潮させ、両肩を揺らしながら翔は黙って頷いた。
 あぁ本当に何も知らないんだなと、ハジメは翔と言う人物を認識する。
 実際翔が唇を奪われたのは一度や二度では無いのだが、翔が空と重ね合った時の記憶は殆ど残っていない。
 やはり羞恥による記憶の摩耗が大きな要因だろうか。

「そう言うのは鼻で息をするんだよ。でないと本当に窒息してしまうぞ」
「あ…」

 記憶の片隅に残っていたのだろう、空の言葉が蘇る。
 不安で自然と身体が震えた。

「後悔しても」

 一度ハジメが言葉を区切ると、翔は黙って首を横に振った。

「…知らないからな」

 言うが早いか、ハジメは翔を背中のベッドへゆっくりと押し倒す。
 首の後ろから腕を抜くと、翔の服の裾から腕の中へと侵入させる。

「ひぁっ!」

 一瞬で全身を擽られた様な奇妙な感覚が翔を襲う。
 ハジメの冷たい指先で、翔の胸の突起部に触れた為だ。

「ぁふ…、くすぐった……ぃあっ!」
「何だ、ここ弱いのか?」

 獲物を見つけた悪餓鬼の笑みを浮かべながら、ハジメは執拗にその部分を弄り回す。
 少しでも指が動けば、その度に翔の弱々しい悲鳴をあげる。
 ムズ痒さに絶え切れずに背中を反る為に、服の上からでも翔の胸の突起部が堅く立ち上がっている事が分かる。
 一度中から腕を抜き出し、ハジメは翔の服の裾を捲り上げた。

「やっ…」

 新雪が降り積もった雪原の様に、真っ白な翔の肌。
 その雪原を踏み荒らす様に、ハジメは軽く口付けを落とす。

「ひゃっ!あ、赤ちゃんかよ!!」
「む…」

 自分でも自覚していない訳では無いが、面と向かって言われると何か癪に障る。
 ここで、ハジメの悪戯心に火が点いた。

「てめ、こちとら痕を付ける訳にもいかないから気を遣ってやってるってのに…。覚悟は出来てるんだろうなぁ?」
「は? それってどう言う…」

 翔が言葉を言い終わらない内に、ハジメは翔のズボンを一気に下ろす。
 翔が声をあげる間も無くハジメは真っ白な下着の膨れ上がった部分に顔を埋める。

「ひゃわぁぁ!!?」

 下着越しにハジメの生温い息が当たる。
 そしてその下着ごと、翔の幼包としか言えないモノを口に含んでいた。

「な…ななな、何しやがるんだバカ兄貴!!」
「考えも無しに随分と言いたい事ぶちまけてくれたお礼だ。それに…」
「あぁっ!」
「バカ兄貴とはこれもまた随分な物言いだよなぁ?」

 下着の前部分の用を足す為の穴を開き、翔の隠茎部を舐める。
 それに抵抗して、翔はハジメの頭を押し返そうとするも、全く力が入らなかった。

(ったく、何てヤらしい声出すんだよ。さっさと終わらせないと…)

 今度は自分の下半身に違和感を感じる。
 最早どう言う状態なのかは明白だった。

「じゃあそろそろ…」

 隠れていた残りの茎部も遂に露になる。
 根元から先端まで年齢に不釣り合いな程に何も無く、翔の成長の遅さを改めて実感した。

「ホントに生えて無いんだな、お前」
「う、うるさい!」

 それでも見られている羞恥からか、先刻の行為に寄る快感からか、翔の茎部は自身を主張する様に反り立っていた。
 その幼き故の未熟さがハジメの中の何かを擽る。
 それは恐らく翔だからそう思えるのだろう。

(こいつそこら辺の女より腰周りとか細いし、可愛い顔してるしな…)

「やっ…」

(こいつの声…ヤバ過ぎるっての)

 吸い上げる様に、ハジメは翔の先端に口付けする。
 唾液を潤滑油変わりにしてその先端から亀頭を出すと、真っ赤になって震えていた。

「ふぁ…やぁ……はっ……」
「…いきそうなのか」
「分かんないよ…。でも、ヘンな感じする……」

 やはりそろそろ限界が来ているのだろう。
 既に翔の呼吸は荒く、頬の紅潮もより一層はっきりしたものになっていた。

「あ…あぅ……あああぁぁ!!」

 翔の身体が電撃が走ったかの様に震える。
 茎部が軽く脈打ち、少量だが白濁した粘液が跳ね出す。
 翔の体温がそのままハジメの手の上に零れ落ちる。

「はぁ…はぁ…はぁ……」

 眼の光は虚ろ。
 僅かに肩を揺らして不規則になった呼吸を整えようとしていた。
 腹部に数点。
 そして、ハジメの手の上。
 微かに見覚えのあるその白濁色の液体を、ハジメは側にあったウェットタオルで拭う。

「ふぁ…」

 当然翔の先端部に残っていた分も丁寧に拭き取った。
 一度果てたとは言え、元より敏感な部分なのだから仕方が無いと言えば仕方が無い。
 それでもその時の翔の表情には眩暈を覚える。
 後一度、何か反応されたら今度こそハジメには抑える理性は残っていない。

「…な。こうやってたまにしておけば、気持ち悪く無くなるだろ?」

 最早言い訳でしかない言葉を見繕い、ハジメは立ち上がる。
 今は少しでも早くこの部屋から抜け出したかった。
 しかし翔に腕を掴まれ、思わずハジメは肩が竦み上がる。

「待てよ、ハジメ兄ぃ」
「な、何だよ」
「良いからこっち向けよ!」
「ちょ、やめ…」

 一体何処に力が残っていたのだろう、ハジメは結局ベッドまで引き戻された。
 そしてそのまま背中からベッドへと落ち、気が付けば自分が翔を見上げている状態だった。

「何する…」
「バカ兄貴!それはこっちのセリフだ」
「な…」
「ハジメ兄ぃの…その、“ソレ”もオレみたいな事になってるだろ」

 Gパン越しに膨らんでいる自分の“ソレ”を、翔は目敏く見抜いていた。
 いや、自分が必死にそれを隠そうとして逆に露骨に態度に現れていたのだろう。
 隠し事の下手な性格が大きく災いしてしまった。

(マズイ…マジやばいってこの状況)

「…すから」
「は?」

 今とても信じられない言葉を翔が口走った気がする。
 そしてその言葉を鵜呑みに出来る程、ハジメには余裕と言うものは持ち合わせていない。

「オレが…治すから。ハジメ兄ぃが、オレにやったみたいに」

 身体中の血液が沸騰と冷却を繰り返しているのが嫌と言う程分かる。

「お前…言ってる意味分ってるのか?」
「分るさ!分ってるから…こんな事、ハジメ兄ぃに言えるんだよ。ハジメ兄ぃだから、こんな事言えるんだよ!ハジメ兄ぃこそ、オレが言ってる意味…理解出来てるのか?」
「翔…」

(出来てる…。出来てるさ。嫌と言う程)

 もしかしたら自分が考えている事と翔の言っている意味は食い違っているかも知れない。
 昨日の朝気付いた通り、翔には明確な想い人がいるのは明白だ。
 それでも。
 自分の中にある儚い期待に想いを馳せて、翔と結ばれる運命を望んでしまう。
 つまり、翔は単純に『好き』の意味をただの友好的な意味と勘違いしているのではないか。
 そんな稚拙な期待を信じて、今のこの状況に甘んじる。
 仮にそれが正しかったとしても、結局はただ翔の勘違いに付け込むだけの卑怯者でしかない。

「本当に、良いんだな?」
「しつこいな。その、恥ずかしいからあんまり言わせるなよ。…バカ兄貴」

 最早その反抗的な言葉も、顔を赤らめて目線だけこちらを向く仕草も翔らしさが伝わって可愛らしく思える。

「っ…!」

 隠部に翔の小さな手が触れた。
 成る程、翔の先刻の反応も理解出来る。
 ジッパーを下ろす音が聞こえ、薄い布で覆ってあるだけのソレに翔は触れる。
 覚束無いその手付きは、ハジメには更なる快感を与える。

「う、あぅ…」

 薄布を下ろすと、翔の自分のソレとは違う、年齢相応の雄々しい男根を目にする。
 改めて、翔は自分の身体が完全に未成熟である事を痛感する。
 先端から僅かに顔を出している本体も、根元にある体毛も。
 何もかもが発達していた。

「馬鹿、そんなにまじまじと見るものじゃないぞ」
「そんな事、言ったって…」

 確かに今よりももっと小さい頃、ハジメと一緒に風呂に入っていた時期もあった。
 しかし、只でさえその様な人体の不思議に疑問を抱く様な年でも無かったし、当時のハジメも自分程では無いにしろ身体が発達してはいなかったので、それに対する意識は完全に零だった。
ようやく翔の人生の半分相当の長い年月を掛け、初めてその不条理を思い知る。


84 :名無しさん@ピンキー:2010/04/09(金) 23:02:34 ID:4ozWM1Mr
>>83

(えっと、ハジメ兄ぃは確か…)

「んっ…」

 先刻この身で体験しただけの知識を便りに、ハジメの隠部を口に含む。
 口内に粘り付く様な感触と、表現の出来無い奇妙な味に翔は表情を歪める。

(何だこれ、すごく気持ち悪い。でも…)

「ぅっ…」

 舌を動かす度にハジメの脈が伝わる。
 初めて見るハジメの表情。

(ハジメ兄ぃ、気持ち良さそう…)

 口の中に含んでいるモノが、更に硬く大きくなっていた。
 それだけハジメは翔を感じてくれているのだろうか。

「っ…。もうちょっとこっちに…」
「ん?」

 ハジメに言われるがまま、翔は身体をハジメに近付ける。

「ひゃっ!?」

 冷たい様な生温い様な、体感的に余り気分の良くない奇妙な温度が臀部を襲う。
 その正体はハジメの少し体温の上がった指先であり、更にハジメはその割れ目の更に奥深くへと探る様に潜り込む。
 あっと言う間にハジメは目標を見付け、それよりも更に奥へと指を滑らせる。

「やっやめ…そんなトコ、汚…あぁ!」
「良いからおとなしくしていろ。でないと、後が辛いぞ」
「だ、だけど…。いった…」
「頼む。少しだけ、我慢してくれ」

 身体の中に感じるハジメの指先の感触と体温。
 翔は幼少の時に一度だけ体験した座薬を思い出した。
 身体の中に奇妙な異物を差し込まれる時の恐怖。
 もう二度と体験したく無いと思っていた。

(あの時と違う、中途半端に柔らかいから…ヘンな感じ)

「ぁ…は……」

 何とか呼吸を整えようとする。
 しかし中で動くハジメの指は、壁の至る所で擦れ合い、時には撫でられている様にも思える。

「…こんなもんか?」

 ゆっくりとハジメは指を引き抜く。

「じゃあ、覚悟は良いか?」
「んっ…。大丈夫……」

 本当は、不安の方が何倍も大きい。
 それでも出来るだけハジメにそれを悟られない様に余裕のある表情を無理矢理取り繕う。
 言葉の端々に乱暴な部分が見受けられても、ハジメは自分を案じてくれているのだと分かる。
 どれ程までに自分を大切にしてくれているのか、悲しい程に伝わって来る。

「もう嫌だって言っても…止めないからな」

 翔の下着を下ろすと、ハジメは両腕で翔を抱き抱えた。
 余程自分が軽いのか。
 それともハジメの力が強いのか。

「…暖かい」
「ん?どうした?」

 小さく呟いた翔の声は、どうやらハジメには届かなかった様だ。

「…いっ!」

 掠れた空気の様な悲鳴とも取れない声が、翔から零れる。
 指とは比べ物にならない太棒に身体が沈んで行く。
 それは先刻翔が舌でハジメの血潮を感じたモノ。
 ハジメの温度の象徴。

「あぁ…ああぁ!」

 身体の奥深くでハジメを感じた。
 それなのに、全然足りない。
 もっと感じたくて、ハジメに縋り付く様に抱き付いた。

「ゆっくり、動いてみろ」
「どうやって…?」
「お前が思う様にすれば良い」
「う…ん」

 とは言え、この状況で出来る行動は大きく制限されている。
 つまり、これもハジメの優しさなのだろう。
 行動の猶予をくれたのは、ただ翔の負担を少しでも抑える為。
 言われるがままに、ハジメの肩を支えにして少しずつ身体を上下に揺らす。
 ハジメの亀頭が何度も何度も翔の中を掻き乱す。
 それに合わせて、ハジメも少しずつ腰を動かしてくれる。

(ハジメ兄ぃ…気持ち良いんだ)

「う…やぁ……はっ……あぁっ!」

(すごく痛い。すごく苦しい。でも、すごく気持ち良い…)

「っ…!」

 声にならないハジメの声が聞こえた。

「はぁ…はぁ……」

 呼吸を整えようとするハジメが見えた。

(ハジメ兄ぃ…ハジメ兄ぃ……ハジメ兄ぃ………!!)

 翔の先端が己を主張する様に再び宙を向く。
 身体中の血液が、全て下の方に流れて行く様な錯覚に襲われる。

「ハジメ兄ぃ、オレ…オレ……!」
「…イきそう?」
「た、多分…」

 自然とハジメを抱く腕に力が入る。

「うっ…!」
「あぁ…うぁ……あああぁぁぁ!」

 身体の中でハジメを感じた。
 何処か遠くにハジメが行ってしまいそうで、何度も何度も名前を呼ぶ。
 既に頭の中が真っ白になって、もうハジメの事だけしか考えられなかった。
 視界が薄れ、少しずつハジメの顔が遠くなって行く。

「ずっと…一緒に居るからな」

(あぁ、そうなんだ)

 ずっと探していた答えをようやく見付けた。
 本当に正しいのは…

(これが、人を好きになるって事なんだ)


 深く眠りついた全裸の翔を両腕で抱き抱えながら部屋を出ると、硝子が自分の部屋の前で腕を組んで待ち構えていた。
 それに対してハジメは特に驚いた様子も無く、寧ろ予想していたらしい。
 硝子にしても、視線こそは冷たいが特にハジメを咎める様な目差しでは無い。
 長年一緒に暮らしているのだから、彼女の意図がはっきりと分かる。
 その視線を無視する訳では無いが、ハジメは硝子の前を通り過ぎようとした。

「随分と余裕無くなってるじゃない?」

 冷めてはいるが実に楽しそうな硝子の声。
 相変わらず何もかもを見透かすその能力に、ハジメはただふっと小さく息を吐き捨てるしか出来無い。
 兎に角このまま翔を外気に晒しておく事は出来無いので、何事も無かったかの様に硝子の前を通り過ぎ、階段を下りる。
 一度翔を階段の端に座らせて風呂場まで行くと、ハジメは浴槽の蓋を開けた。
 噎返る程の蒸気が舞い上がり、外気の冷たさが窺われる。
 それだけに、翔をあのまま放っておく訳にはいかない。
 急いで階段に戻り、ハジメはもう一度翔を抱えた。
 自分は服を着たままだが、どうせ洗濯籠に放り込むつもりなのでハジメはそのまま風呂場へと入る。
 洗面器で浴槽に張った湯を掬い、ゆっくりと翔にかける。
 未だに十代に満たない子供の様に、柔らかい翔の肌は水を弾いている。
 しかし、主に腹部辺りがぬるぬるとしていた。
 それは乾いてしまった自分と翔の精液。
 二人が繋がった証。
 未練がましい己の欲望が残した、罪深い爪痕。

「…随分と余裕無くなってるな」

 いつもの様に、目覚時計の音に起こされて朝を迎えた。

「ん…」

 カーテン越しに窓からは光の波が翔を差していた。
 寝起きで働いていない頭の中にも、昨晩の情事は鮮明に残っている。
 幾らか和らいでいるとは言え、未だに痛みも残っている。
 気が付けば、自分が着ている服もちゃんとした寝間着に替えられていた。
 自分が達して意識を手放した後に、ハジメが着せてくれたのだろう。

「ハジメ兄ぃ…」

 名前を呼ぶだけでも、心臓が脈打つ。 
 不思議とそれが心地良かった。

「…学校、行かないとな」

 もうハジメは起きているのだろうか。
 それとも寝過ごして慌ただしい朝を迎える事になってしまうのだろうか。
 いつもの様に階段を降りてダイニングに向かうと、誰の声もしない。
 基本的に硝子はかなり早くから家を出るので恐らく後者になるだろうと思った。
 案の定ダイニングの証明は点いていない。

「え…?」

 いつもはそこに無い筈のものがテーブルの上に置いてある。
 それは一枚の紙切れだった。
 小さいが癖の無い字から、それはハジメの書き置きである事が分かった。
 『昨日のサンドイッチ食べてな』
 はっとして翔は壁時計を見上げる。
 既に時計の針は十一時に差し掛かろうとしていた。

「嘘だろ!?」

 完全に寝坊してしまった事をようやく理解する。
 慌てて翔は部屋に戻ろうと階段まで差し掛かった辺りで足を止める。

「オレ、時計は動かしてない。それに、遅刻しそうになったなら何でハジメ兄ぃは起こさなかったんだ?」

 加えて、ダイニングのテーブルの上に置いてあった書き置き。
 どう考えてもハジメの仕業としか思えない。
 そもそもこの時期は目が覚めた時に陽が差している時点でそれなりの時間が経っているのだから。

「ハジメ兄ぃ…。バカ」

 これもハジメの優しさなのだろうが、ここまで来ると優しさを通り越して甘過ぎるのではないだろうか。
 しかし、こう言った平日に学校に行かないのは滅多にある機会では無い。
 今日一日だけでも使わせて貰う事にする。
 ようやく理解出来たのだから。
 “人を好きになる事”を。
 ハヤトの言う『恋』と言うものを。

「………あれ?」

 初めて覚える違和感。
 それに気付いた時、翔の思考は一瞬止まった。

「オレは…」

 その対象は自分の感情。
 つまり

「“一体誰が好き”なんだ?」

 『恋』を知り“人を好きになる事”を知る。
 しかし、その相手が誰なのか分からない。
 初めて本当の友達として触れ合った空。
 初めて身体を重ね合い、ずっと自分を気に掛けてくれているハジメ。
 自分を慕ってくれる後輩であるみつきとハヤト。
 自分の恋慕の矛先が誰に向けられたものなのか。
 それが自分でも分からない。
 確かに翔はその全員が『好き』ではあるが、それが転じて『恋』に繋がると言う訳では無い。

「何だこれ…。どう言う事だよ……」

 この局面に来て、翔は正解まで歩き続けて来た足を止めてしまう。
 もしかすると、自分は何処かで大きく足を踏み外してしまったのではないか。
 そう思えて…怖かった。
最終更新:2010年04月17日 15:24