ケビン×セシル2

 ボク達の始まりが突然だった様に、終わりもまた突然にやって来る。
 最初から理解していた筈なのに、いざそれに直面すると凄く怖くなって。
 いつまでもボク達の時間が続けば良いのに。
 一緒に手を、身体を重ね合わせていられたら良いのに。
 そう思うのは罪ですか。
 それとも。
 そう思った罰ですか。
 好きな人と一緒に居たいと思うのは許されない事ですか。
 だとしたら神様。
 ボクは一生あなたを恨み続けます。
 不条理だらけなこの世の中を憎み続けます。
 でも。
 もし今まであった事が全て夢であったなら。
 ずっとボクを目覚めさせないで。
 眠ったままで良いから。
 いつまでも甘い夢の中に居させてください。


「う~ん…」

 その日が始まってまだ時間も殆ど経たない内からケビンは頭を悩ませていた。
 理由は簡単。
 明日は撮影所に行かないといけないのだ。
 要はそこにセシルも同伴させて良いのかどうかで悩んでいるのである。

「監督に言えば大丈夫かな。でも、前に友達連れて来た子が怒られてたからなぁ…」

 ケビンの監督と言うのが普段は優しいのだが、事作品の話になると人が変わったかの様に雰囲気が豹変する。
 無論、そこがプロと言われる所以でもある事は誰もが理解している。

「…ボクの事なら気にしなくて良いよ。留守番だけなら出来るから」

 実に申し訳無さそうな様子がセシルから見て取れる。
 只でさえ自分の事で悩まれるのは苦手だと言うのにケビンは一度考えると深くまで沈んでしまう為、セシルにとっては非常に肩身が狭い。

「それが…明日の撮影が朝早くから夜遅くまであってさ、戻って来れるか分からないんだ」
「あぁ、そうか。人の家にそんなに長い間一人で居る訳にはいかないもんね」
「あ…」

 実際はセシルが言った通りなのだが、ケビンはそれを言いたく無かった。
 セシルの事情は知らないし、詮索する好奇心も持たない。
 自分はただセシルの気持ちを利用しているだけ。
単純に、セシルともっと一緒に居たいだけ。
「ううん、ケビンは気にしないで。ボクが我儘言ってるのが原因なんだから」
寂しそうなセシルの笑みが胸に痛い。
折角今この時を一緒に居られるのだから、セシルにはそんな悲しい表情はして欲しく無い。
「違う…違うんだよ。我儘なのは僕なんだ。セシルが帰りたく無いっていうのは分かってる。分かってそれを利用している。僕だってセシルと一緒に居たいから」
真剣な表情でその実物凄い言葉を話すのに何の躊躇いも無い。
逆にセシルの方が恥かしさで潰れそうだった。

「あぅ、その…。ありがとう…」
「どうしたの?顔、すっごい真っ赤だよ?」
「そ、それは…。ケビンが悪いんじゃないか!」
「えぇ!?」

 本当に自覚が無いらしい。
 それがケビンらしいと言えばらしいのだが。

「ケビンってさ、時々凄い事を平気で言うよね」
「僕?」
「そうだよ。ボク、恥かしくて仕方が無いんだから」
「えぇ!? …そうなの?」

 ケビンの様子から初めて疑問に突き当たった様だ。
 自覚が無いと言うものがどれ程怖いものなのかをセシルは痛感する。
 特にケビンのそれは最たるもので、放っておけばどんどんエスカレートしそうな勢いである。

「…でもね、ボクは正直に言ってケビンが羨ましい」
「ふぇ?」

 セシルの言葉が余程意外だったのか、ケビンは素頓狂な声を上げた。
 それが可笑しくて、セシルは小さく吹き出す。

「ボクってさ、何もかもを勝手に溜め込んじゃって、それで何もかもを駄目にしちゃうから。だから、ケビンみたいにいろんな事を言えるのが凄く羨ましい」
「あ…えっと。ちょっとそれは違う様な…」
「ううん。ボクには勇気が無いんだ。だから、言いたい事があっても言えなくなる」
「セシル…」

 随分と自分を過大評価している様だがセシルの言い分も尤もではある。
 ケビンにしてみても、もっとセシルの事を知りたい。
 それには、やはりセシルの方から教えて貰わなければならない。

「そうだね。何でも話す…ってのはちょっと同意はしないけど、僕もセシルとはもっといっぱい話したいな」
「うん。頑張ってみる」

 両手をお互いの両手を合わせて頷き合う。
 御互いが御互いを知り合いたいと思う衝動はますます大きくなる。

「…って、何となく脱線しちゃったけど、現実問題。どうしよう…」
「そ、そうだね…」

 いろいろと纏めかかっていた話を現実に引き戻す。
 結局は何も終わっていない。
 同時に、最良の選択肢に辿り着くのも無理な気がした。

「やっぱり、僕が頼んでみるよ。事情を説明すれば、許して貰えるかも知れないから」
「かも知れない…って、やっぱり許してくれない事もあるって事?」

 可能性と言う言葉が有る限り、それぞれの事象はどちらも起こり得る。
 確率的には不遇でも、未来はその時になるまで何も分からない。
 つまり、この場合は確率論の概念は存在せず、五分五分の賭けになるのである。

「やるだけの事をやるしか無いよ。それに、何だかんだで結局は追い出されたりはしないんだから」
「あ、あぁ…。なるほど」

 要はケビンにはケビンなりの打算があるのだろう。
 しかし、それは自分には特に利害も無く、ケビンのみが変動する事象に巻き込まれるだけ。
 最初から、ケビンは自分の立場を考慮に入れてはいない。

(ボクの為に、そこまでしてくれなくても…)

 喉まで出かかった言葉を何とか飲み込む。
 それを言ってしまうと、ケビンはまた悩み込んでしまう。
 それで余計に身を滅ぼし兼ねない選択肢を選ばれたらかなわない。

(ボクは、ケビンに酷い無理をさせているんだ…)

 それが嫌なら、自分の取るべき選択肢は一つしか無い。
 だが、それは…

(嫌だ…帰りたく無い……)

 考えただけでも背筋が凍り付いてしまいそうだった。

(あそこに戻ったら、もう二度と…)

 方針が確定して朝食を作り始めたケビンの方を見る。
 一気に気が楽になったのだろう、鼻歌を歌いながら鍋の上のスクランブルエッグを泳がせていた。

(二度と…ケビンに会う事は無くなっちゃうんだ)

 たった一日だけで、セシルの中はケビンで満たされていた。
 知らないものを沢山与えてくれた、初めて出会った本当の『友達』。
 初めて本当の意味で愛を抱いた『恋人』。
 自分達よりももっと小さな子供達の飯事程度のものでしか無くても、それを知る切っ掛けになったのは間違い無い。

「出来たよ」

 自信作な様で、眩しい程の満面の笑みが可愛らしい。

「わぁ…美味しそうだね」
「セシルに敵うかどうかは分からないけど、僕なりの力作…かな?」
「そ、それはもう良いよ」

 これ以上褒められると本当の意味で死んでしまいそうな気がする。
 既に軽く一年分褒め倒されている身としては、それが近い将来に実現していそうで、正直怖い。

「じゃあ明日の事なんてもう抜きにして、今日は何しようか?」
「えっと…今日?」
「うん。折角今日はこんなに晴れているのに、家に籠ってばっかりじゃ身体にも悪いよ」

 確かに、ケビンの言う事は尤もだ。
 セシルはこの辺りの地の利は無いし、何より万一明日撮影所を追い出された場合の時間潰しの場所は確保しておくべきだろう。

「じゃあ、ボクあまりこの辺りは詳しく無いからさ、いろいろと案内して貰いたいかな?」
「お。そういう事なら任せてよ。この辺りじゃ僕程詳しい人は居ないからね」
「ははっ、頼もしいなぁ」
「むぅ、信じて無いな?」
「そんな事無いよ。じゃあ今日はそんな物知りなケビンにいっぱい案内して貰おうかな?」
「…言ったな。じゃあ、覚悟してね?」
「………え?」

 言葉にはいろいろと危険が伴う。
 セシルは正に今この瞬間それを痛感していた。
 子供のテリトリーと言うものは、たとえ同じ子供同士でも想像の範疇を遥かに超えたものになる事がある。
 ケビンはそれに加えて、役者であるが故か近所の付き合いが非常に広く、ケビンの言った通り街中を巣を作った蜘蛛の様に這い周る事になった。
 朝のそれなりに早い時間から家を出た筈なのに、気が付けば辺りはもう薄暗くなり始めていた。

「す、凄いんだね。ケビンの情報網は…」
「どう? これで納得した?」
「十分過ぎる位だよ。はぁ…」

 公園のドーム型の遊具に寝転がり、大きく息を吸う。
 冷たい空気とそれに冷やされた石造りの遊具が気持ち良い。
 街を一望出来る程の高台に位置している為か、少し風が強かった。

「もうこれで全部…かな?」
「うん。…と言いたい所だけど、もうちょっとだけ待って」
「ま…まだ何処か行くの?」

 既に数十キロと歩かされたセシルは、もう家に戻る意外で歩くのは御免だった。

「もうここで最後だよ。だから、もうちょっとだけ…。ほら」

 ケビンが何かを指差しているのを見て、セシルは身を起こす。
 それを目の当たりにして、初めてセシルはケビンの言葉の意味を理解した。

「わぁ…」

 感嘆に溢れてセシルはそれに釘付けになる。
 世界を朱に染める、地球の親とまで言われている。
 それが海に飲み込まれて金色に輝いている。

「凄い、綺麗な夕陽…」
「僕達の街ではこの場所は有名なんだ。夜は夜で、凄く綺麗だよ」
「うん。それも見てみたいな」

 昨日の夜は酷い雨が降っていた為に、そんなものを見ている余裕は無かった。
 ただ雨を凌げれば良いと、この遊具の中に逃げ込んだ。
 独り。
 何よりもその時が一番冷たく、寒かった。
 気を紛らわす為にアコーディオンの音を出鱈目に鳴らした。
 知っている曲を弾く様な気力も無かったし、それによって思い出すのも嫌だった。
 寒さが身体を蝕んで行く。
 あぁ、死ぬのか。
 不思議と恐怖は無かった。
 いや、もう何もかもがどうでも良いと思ったからそうだっただけだろう。

(そして、ボクはケビンと出会った…)

 貸してくれたコートは雨に濡れて非常に冷たかったが、寒さは感じなかった。
 何も関係の無い、その時その場で出会ったばかりの自分に、自分は直接雨に濡れてまで貸してくれた。

(だから? それだからボクはケビンが好きになったのかな…)

 違う。
 いや、きっとそれだけが理由じゃない。
 もっと別の何か。
 自分が一目で惹かれる程の何かがケビンにはあるのだろう。

(…どうしちゃったんだろう、ボクは)

 生まれて一度も他人に好意など持った事の無い自分が、“人を好きになる”と言うフレーズを使う様になるとは思いもしなかった。
 だからと言って、これが人間的に欠陥だとは思わない。
 寧ろ、廃棄人形同然に荒んだ自分がこんな感情を持てた事は、ある種の奇跡と言っても言い過ぎでは無いと思う。
 陽はあっという間に沈んで行く。
 公園の街灯が点灯し始めた頃、セシルは肩に重さと温もりを感じた。

「ケビン…?」

 小さな息遣いが聞こえる。
 セシルの問い掛けに、ケビンは応えない。

「…そうだよね。疲れてたのはボクだけじゃ無いんだから」

 海と空と街。
 それらはそれぞれ鏡の様に、光を映している。
 暗闇に恐怖した昔の自分。
 それがケビンが隣りに居るだけで、暗闇の中でもこんなにも美しいものがあると気付ける様になる。

「ありがとう、ケビン。大好きだよ」


「あれ、僕…」
「あ、起きちゃったんだ」
「せ、セシル!?」

 セシルが一歩足を踏む度に、ケビンの身体が揺れる。
 両腕には堅い感触があり、足は地に付いていない。
 つまり、ケビンはセシルに背負われていた。

「あのまま僕寝ちゃって…」
「ケビン、沢山疲れてたみたいだからね。しょうがないよ」
「お、降りるよ!」
「駄目だよ。ケビンは明日は撮影で大変なんだから、今日はちゃんと休まなきゃ」

 ケビンを抱えるセシルの力は、その儚い未成熟な子供の腕からは想像出来ない程に固くがっしりとしていた。
 だからケビンが多少暴れた所でセシルがケビンを落とす様な事は無い。
 こうなるともうケビンには抗う術も無く、セシルに従っているしか無い。
 セシルからケビンの表情は伺う事は出来無いが、こちらは容易に想像出来る。

「ねぇ、ケビン…」
「何?」
「今だから聞くね。どうして昨日はボクを連れて帰ろうなんて思ったの?」

 昨日は雨の中をケビンがセシルの手を引いて走った道を、今度は星空の下をセシルがケビンを背負って歩く。
 全く状況は違っている様で、実は似ている。

「どうして、そんな事聞くの? セシル、やっぱり…僕の家に来た事後悔してる?」
「違うよ、その逆。凄く、嬉しかったんだ。ボクを見付けてくれて、ボクを何も聞かずに連れて行ってくれた事。だから、聞きたい」
「それは…」

 それからケビンの言葉は途切れてしまう。
 その理由は聞かない。
 自分が家から出て来た理由を言わないのと同じ。
 言いたくなければ言わなくて良い。
 でも、いつかケビンの本心をケビンから直接聞きたい。
 いつか自分も本当の事を言える勇気が欲しい。

(ボク達って…秘密だらけだ)

 お互いがお互いの秘密を持っていて、それは自分で打ち明けるもの。

(じゃあ…秘密を明かしたらボク達の関係って、成り立たなくなるのかな)

 所詮一夜で作り上げた付け焼き刃の関係である。
 それだけに、一度叩けば脆い部分から次々に崩れてしまう。
 精錬していない鉄程脆い金属は存在しない。

「…音が、聞こえて来たんだ」
「ケビン…?」

 家まで後は角一つとなる時点で、ケビンはそっと呟いた。
 唐突だった事もあり、セシルは意味を読み取れない。

「聞こえたんだ。セシルのアコーディオンの音」
「あぁ、気を紛らわす為に適当に弾いてたんだ」
「うん。その音が…ね、その…。僕を呼んでる様な気がしたんだ」
「音が、ケビンを…?」
「とても小さくて、雨にも消えてしまいそうな音だったのに、僕にははっきりと聞こえた。吸い寄せるんだ。まるで、音が生きている様に僕の両手を引っ張る。泣いている子供の様に、小さな両手で」

 的を射ていない様で、それでもセシルはそれが何か知っている。
 ケビンを呼び寄せた、その正体を知っている。

「それは…」

 自分の中に居るもう一人の自分。
 操り糸に絡め取られた、道化の操る道化。
 自分の糸に逆に支配されてしまった、糸が身体を引き千切るまで永遠に逃れられない磔人形。

(ボクだ。ボクなんだ…。ボクが、ケビンを呼んだんだ)

「アコーディオンの音だってのは分かってた。でも、やっぱり生きていると思った。そして、君を見付けた…」

 何となく、セシルはケビンに惹かれる理由が分かった気がした。
 磔にされた人形の糸と言う名の鎖を切る事は出来無い。
 では、磔台から開放する方法は何か。
 答えは単純にして明快。
 その磔台の枷から開放するだけ。
 そして、その鍵を持っていたのは。

「ケビン…」

 既に門の手前に到着していたので、セシルはケビンを肩から下ろす。
 ケビンは門を開け、家の鍵を開けた。
 セシルもケビンの後に付いて行く。

「…最後に、一つだけ聞いて良い?」
「えっと、何…かな?」
「こんな事言ったら、ケビンは怒るかも知れないけど。ケビンは…ボクを見付けた時、後悔した?」
「それ、絶対に言わないからね」
「…ありがとう」

 まるで(と言うか現に)全く成長しない子供だと、自分自身を卑下する。
 ケビンから自分は後悔しているかと聞かれたばかりなのに。

「そっか…」

 お互いがお互いを気に掛けている。
 それの意味する所は。

「何も、問題なんて無いんだ」
「え? 何が?」
「ううん、何でもないよ」

 ケビンは自分達を歯車みたいだと言った。
 実際その通りの様で、自分達は突き出ている部分とへこんでいる部部をがそれぞれ違うらしい。
 歯車。
 もっと軟解に考えれば、パズルと言った所だろうか。
 人形の喩えは使わない。

「さてと、今日のご飯は何にしようかな?」
「駄目だよ。ケビンは明日撮影なんだから。順番的に考えても、ボクの番だからね」
「え…作ってくれるの?やったぁ!」
「そ、その代わり!」

 慌ててセシルはケビンを制止させる。
 このまま放っておけば、昨日の二の舞いになりかねない。

「作った物に関しては、一切のコメント禁止!良いよね?」
「えぇ? 何―」
「良・い・よ・ね?」
「………はい」

 その日は朝からたった二人しか居ないのに非常に騒がしかった。

「ケビン! 起きてよ!!」
「ふあぁ~」

 この世の平和を象徴してるかの様なお気楽な声が、ケビンから漏れる。
 本人は未だに夢の中を彷徨っているらしく、いくらセシルが身体を揺すっても一向に起床の兆しは見られない。
 普段からこうなのか、それともセシルが居るから神経が緩みまくっているのかどうかは分からないが、この状況は非常に宜しく無い。

「このままじゃ完全に遅刻だよ!」

 最早ベッドから引き摺り落とす勢いでケビンの身体を揺すっても、やはり目覚めそうにも無い。
 こういう時程時間は足早に過ぎて行く。
 時計の針が一周する度に、セシルは焦りを募らせて行く。

「こうなったら…!」

 …
 ……
 ………
 …………
 ……………

「んっ!?」

 閉じていた目が一気に開き、その勢いを殺さずにケビンは身体をがばっと起こした。

「し、死ぬかと思ったじゃないか!」
「起きない方が悪い。そ、そんな事より。時計! 注目!!」
「え…?」

 セシルに指差され、従うままに首を動かす。
 そのまま固まる事時計の針三回。

「わああぁ!? 完全に遅刻だよぉ!!」
「だから言ったじゃないか! ほら、早く着替えて…」
「あれ、セシル…。顔、真っ赤だよ?」
「なっ…」

 いくらケビンを起こす為だとは言え、やはりその方法はとてつもない問題を抱え込んでいた。
 自分の取った行動を未だに受け入れられず、何とも言えない複雑な感情がセシルの中で渦巻いていた。
 そんな時にケビンに心配そうに顔を近付けられたら…

「良いからさっさと準備しろ!! この大馬鹿やろー!!!」
「は、はいぃ!?」

 収容所から逃げた囚人の様に、ケビンは部屋を出て行く。
 それから少し経つと、セシルも寝室を出てリビングへ下りた。
 相変わらず上ではバタバタとケビンが走り回る音がリズムを刻んでいる。
 その間にセシルは身支度を済ませ、万が一の時の為に作り置きをしていた朝食を小さな容器に詰め込む。
 その万が一に直面した事に対して、セシルは大きく嘆息する。
 次第に音が大きくなってきた。

「ご飯は!?」
「弁当箱に入れたから、何処かで食べよう。もう時間も無いし」
「あ、ありがと…」
「ほら。安心して無いで、急いで行かなきゃ」
「そうだった! セシルも急いで!」

 ケビンに引っ張られるまま、二人は家を飛び出す。
 巡回する路線バスをも追い越し、二人は街道を駆け抜けた。
 運悪く、今朝は渋滞に見舞われているらしい。
 だが、これは逆に好都合だった。
 遅れた分の言い訳として十分にでっち上げる事が出来る。

「い、いつも歩いて行くの!?」
「違う。普段はバス…なんだけど……」

 今日の様に遅刻しそうになったら街中を全力疾走するのである。
 ようやく撮影所の建物が見えて来た辺りで、二人は速度を落とした。

「はぁ…はぁ…」
「つ、着いたの…?」
「うん。入ろ?」

 ケビンに促され、セシルも付いて行く。
 撮影所と一括りに言っても、やはり一般的なコンサートホールと同等のロビーがあり、多目的に使用出来る旨を書いた表がフロア中央の掲示板に大きく貼ってある。

「おはようございま~す…」

 若干様子を伺い気味に、ケビンは控え目な声で奥のカウンターに座っている女性に声を掛けた。

「おぅ、おはようケビン。また走って来たんだろう?」
「えっと、へへ…」

 悪戯がバレた様な仕草で、ケビンは乾いた笑いを零す。
 どうも彼女の話だと、ケビンがこうやって走って来るのは珍しい事では無いらしい。

「まぁ結局遅刻は遅刻だけど、一番乗りは私を除いたらあんただよ。皆から連絡が来てさ、どうも大掛りな交通規制があって思う様にバスもタクシーも動かないみたい。だから、徒歩で来たあんたは正解だよ」
「そうなんだ…」

 一目見ただけで、彼女が気の強いタイプの女性だとは分かる。
 だが、セシルは奇妙な違和感を覚える。
 そして、恐らくそれはケビンも同じだろう。

「んで、そんな世間話はどうでも良いとして…」

 刹那。
 一瞬にしてその場の空気が極限まで張り詰めた。
 地から足が浮く程に、セシルの心臓は跳ね上がる。
 あぁ、そうか。
 何も言わなくても分かる。

「“あの子”は一体誰なんだろうねぇ」

 ケビンの言っていた『監督』なのだ。

「前にあ~んなにキツく言ったのに、まだ分かっていないんだぁ」

 柔らかくなった口調に反して、その眼は全く笑っていない。
 明らかに普通の人間が放出する威圧を凌駕している。
 いつ自分の目の前に来たのだろう、その仕草すら認識出来無かった。

「あ、その…ボクは……」
「待って!」

 彼女との間に割って入ったケビンの声で、ようやくセシルは我に返った。
 両手を広げ、それ以上の侵攻を絶つ。
 果たしてそれに効果があるのかどうかは期待出来無いが。

「どう言うつもりかな?」
「監督が言いたい事は分かるよ。前にあんな事があったにも拘らず友達を連れて来た。確かに僕はそんなに頭は良くないけど。それがどう言う事かも監督がどんなつもりであんなに厳しく言ったのかも理解している」
「何? じゃあケビンはそれを承知の上で彼を連れて来たって事?」
「そうだよ」

 身体が震えている。
 何かにしがみ付いていないと、威圧で押し潰されそうだった。
 それでもケビンは両足がガクガクと震えながらもその場を譲らない。

「へぇ…。君、名前は?」
「あ…えっと。…セシル」
「成る程」

 それだけを聞くと彼女はふっと小さく鼻を鳴らし、二人に背中を向ける。
 呆然と二人が見守る中、彼女はカウンターの奥の棚から黒いファイルを取り出した。
 白のラベルに書いてあった文字を見て、二人は唖然とする。

「監督、それは…」
「団員名簿…?」

 得意気に笑う彼女の思考を読み取れず、ただ困惑する。
 そんな中、彼女は気持ち良さそうに名簿にペンを走らせていた。

「ケビンが私に向かってそこまで強気な態度に出たんだ。だったら私もそれなりの返しをするのが美徳ってものだろう?」
「監督…」
「だけどね、特別扱いなんてしない。甘やかすのはあんたの為にならないし、何より私の趣味じゃない」
「ど、どうするの…?」
「知れた事。あんたの…いや。あんた達の意志を試させてもらう。私にあんた達がどこまで本気なのか、ぶつけてみなさい」
「は…」
「はい!」

 ケビンが返事するよりも先に自分の方が早く声が出た。
 その事にケビンも、監督すらも唖然としていた。

「セシル…」
「ボク、やってみます。何をすれば良いのか、正直何も分からないんですけど…。でも、どんな事でも頑張ってみせますから!」
「ほぅ。これはまた随分と威勢が良いじゃないか。セシル…と言ったっけ? あんた、何か得意な事はあるかい?」
「得意な、事…?」
「あんた達がどう思ってるか知らないけど、私もいきなり舞台に立て何て言う程鬼じゃ無い。それに、だ。出来無い事を無理にやらせたら、それこそ逆効果なんだよ。歌でも踊りでも武道でも…楽器でも良い」
「あ…」

 示し合わせた様に二人はユニゾンでハモる。
 お互いの顔を見合わせて、頷く。
 怪訝そうな表情を監督は浮かべた。

「あの、ボク…アコーディオンなら少し出来ます。それじゃ、駄目ですか?」
「アコーディオン…か。成る程、それで良い。もうすぐ他の皆も到着するだろう。自己紹介してもらうから、その時に披露してもらおうか」
「い、いきなりそう来るんだ…。セシル、大丈夫?」
「えっと…。ボクなら、大丈夫だから。ね?」

(いつも使っているアコーディオンじゃ無いなら、平気…)

 無理矢里な笑顔を取り繕ってみせる。
 何が一体大丈夫なのか。
 それは自分の脆くなった支柱。
 アコーディオンを弾くと言う自分と、本当に向かい合えるかどうか。

「お、や~っと皆着いたか」

 バタバタと大人から子供まで、沢山の人達が正面玄関に現れる。
 目敏くその場に居る筈の無いセシルと、にも拘らず鬼神化していない監督にそれぞれ違和感を覚えた様だ。

「お~い、あんたら全員注目」

 彼女の弾む様な手拍子で一斉にざわめきが止む。
 無意識に背筋が伸びるのも、やはり彼女の醸し出す雰囲気の賜物だろうか。

「今日から私達の仲間に入るセシルだ。…と言っても、まだ右も左も分からない状態だから見習い扱いだけどな」
「あ、あの…ぼ、ボクはセシルと言います。まだいろいろ分からない事ばかりだけど、一生懸命頑張りますので…よ、よろしくお願いします!」

 一度勢い良く頭を下げると、もう見上げる事は出来無くなった。
 皆はどんな目で自分を見ているのだろう。
 それを確認するのが、怖くて堪らなかった。
 そんな中、ぱちぱちと小気味の良い音が自分の後ろから聞こえた。
 次第にそれはドミノ倒しの様に、あっと言う間にフロアに響き渡った。
 はっとして、セシルは顔を上げる。
 始めは困惑していた者も、今は何度も両手を叩いてくれている。

「あ、ありがとう…」
「良かったね、セシル」
「うん」
「よしよし。んじゃ、早速どんな役がハマるか試してみようか」
「う…」

 苦い顔を浮かべるセシルに、理由を何も知らない団員は次々に首を捻った。
 状況を理解しているのは元から居た三人しか知らないのだから当然なのだが。

「おい、配役決め…って言っても、もう次の役決め終わったじゃないか。どうするつもりだ?」
「いんや。まぁ見てなって。きっと、誰もが納得いくだろうからさ」
「ん?」

 明らかに怪訝そうな表情を浮かべる。
 今度はケビンやセシルも含めた全員が首を捻った。

「良いから良いから。それじゃ、ここで立ち話もアレだし、スタジオの方に移動するか。セシルはちょっと付いてきな。他の奴等は椅子にでも座って待っててくれ」

 それぞれが了解の返事をする中、ケビンはセシルの元へ駆け寄る。

「良かったね、セシル」
「うん。そうだね」
「あんた達、安心するのはまだまだ早過ぎるんじゃないの? ほら、行くよセシル。見せてくれるんだろう?」
「あ、そうだった。じゃあ、頑張ってね」
「うん」

 他の団員の中に消えて行くケビンを見届けると、セシルも監督に付いて行く。
 当然の様に皆から質問責めを食らっているだろうが、心の中で御詫びを言うしか今のセシルには出来無い。
 同時に、次は自分も同じ目に合う事を暗喩していた。

「どいつもこいつも、遠慮と言うものを知らないんだから。あんたも覚悟しときなよ」
「あ、はは…。あれを見て諦めましたよ」
「まぁ、それはそれとして…だ。ほら、着いたよ」

 監督が親指で何度か叩いたプレートを見上げる。

「楽器庫…」
「これでも一応劇団なんだ。一通りの物は揃ってるし、ちゃんと手入れもしている。自分に合った物を使うと良いよ」
「凄い…。アコーディオンだけでもこんなに…」

 楽器の大きさは兎も角としても、オーケストラ団体並みの貯蔵量を誇っている。
 セシルの手にも丁度当て嵌まるアコーディオンはすぐに見付かった。
 この時、セシルは改めて思い知る。
 ケビンの属しているこの劇団は、道楽で行ってる訳では無い、本物の『プロ』と呼ばれる業界なのだと。

「どうした? もう怖気付いたのか?」
「ち、違うよ! ただ、頑張らなきゃ…って思っただけ」
「よしよしその意気だ。そんじゃ、参りますか」
「は、はい!」

 監督に指示される通り、廊下の更に奥を直角に曲がる。
 建物の構成から見ると、そのまま舞台袖へと続いているのだろう。
 つまり、このままちょっとした演奏会が開かれると言う事。
 今更ながらに息を飲む。
 大勢の前で“いつも通り”鍵盤を叩く。
 彼女に試されているのは、自分の腕だけでは無い気がした。

(ボク自信を、あの人は試している)

 それが唯一の道なのなら

「進むしか、方法は無いよね」

 重い扉を身体で開ける。
 雑談を交わしていた団員達も扉を開く音に気付いた様で、途端に静かになった。
 案の定、自分が今立っている場所はステージの上。
 撮影に使用する大道具に囲まれた、瓦礫の街の中心。
 観客達を一望し、静かにお辞儀をする。
 顔を上げると、最前列に座っているケビンと目が合った。
 優しく、可愛らしく微笑んでくれる。
 若干遠目ではあったが、ケビンの口の動きは簡単に読み取る事が出来た。 

  頑張れ


 出来る限りの笑顔で、ケビンに応える。
 指を最初の位置に置く。
 鍵盤を押しただけではアコーディオンは音色は出ない。
 ポンプを開閉して空気を送る事に因って初めてその音色を引き出す事が出来る。
 だから自然と身体が動く。
 寂れた街中の隅に響く、三拍子の旋律。
 煉瓦造りの街道を歩く一人の少年をイメージした、調の違う三部構成の旋律。
 題名の無い。
 幻想的。
 けれども幻想曲とは呼ばない、モノクロフィルムの中の一枚。
 当然の様に最後はリタルダントしながらアコーディオンのポンプを閉じた。
 もう一度一礼をし、曲の終わりを宣言する。

「今、ボクに出来る事はこれだけ。たったこれだけしか出来ません。でも、だからこそボクは挑戦してみたい。大切と思える人と、一緒に居たい。それがボクと言う、たった一人の想いです。どうか…宜しくお願いします」

 もう一度、セシルは頭を下げる。
 一つ。
 また一つと、次々にホール中に拍手が鳴り響く。
 あぁ、今初めて知った。
 自分から進んで演奏した後の喝采は、こんなにも暖かいものなんだ。

「成る程、そう言う事か。随分と漠然としていたが、監督の目的がようやく理解出来たよ」
「おぉ、理解が早くて助かるね。賢い子は大好きだよ」

 一人の青年が何かを納得し、それを監督は肯定する。
 しかし、セシルやケビンを含めた他の子供達は、二人の話の意図を読み取る事が出来ないで取り残されたままだ。

「どう言う事?」

 皆の代表として、ケビンが問う。
 監督の放つ不敵な笑みに、思わずセシルは後退った。

「よし、決めた。早速で悪いけど、次の映画にはセシルも出て貰うよ」

 沈黙。
 呆然。
 驚愕。
 それぞれが何れかのリアクションを取りつつも、まるで時間が凍り付いたかの様に全員が固まる。

「へ…?」

 誰かの鉛筆が床に落ちた音が、無駄に大きく響く。
 そしてその数秒後、ホール中に「ええぇ!?」と言う大合唱が勃発した。

「ま、待ってください! つい先刻無理はさせないって言ったばかりじゃないですか!!」
「言ったさ。何も間違った事は言って無いだろう?」
「十分無茶だって…」
「いや」

 セシルの言葉を遮ったのは、先刻監督に同意した青年だった。
 その落ち着いた雰囲気。
 その何もかもを見抜く眼光から、彼もかなりの実力と実績を持つと分かる。
 監督が作品を纏める立場だとすれば、彼は団員を纏める立場に当たるのだろう。

「俺は無茶だとは思わない。寧ろ、お前にしか出来無い。そう思っている」
「あぁ。あんた達も、次の話の台本を読んでるならすぐに思い当たる筈だよ」
「次の話…? あっ!」

 ケビンを始め、子供達は次々に納得したらしい反応を浮かべる。
 結局何も分からないセシルただ一人が取り残される。

「あっはは。流石に今日入ったばかりじゃ分かる筈も無いか」
「次の映画はね、親の虐待で生きる事に疲れた男の子が街角で楽器を弾く子供に出会う。それから少しずつその子と触れ合うに連れて、やっと前向きに生きて行こう…って言う話なんだ。その子供に、セシルのイメージはぴったりだと思うんだ。そうだよね?」
「ケビンの言う通り。内には子役は数居れど、そう言ったノスタルジックな雰囲気を持つ子は残念ながら難しいんだよ。だけどね、セシル。あんたならその雰囲気も出せる」
「ち、ちょ…ちょっと待って!」

 いつの間にやらとんでもない話に発展し続けていた。
 もっと大事にならない内にセシルは待ったを掛ける。

「そ、それ…すっごく重要な役じゃ無いですか! まだ何も分からないのに、そんな役をボクに任せて大丈夫な筈は…」
「大丈夫」

 セシルの言葉を割り、影を縫い付けた様にセシルを動けなくする程、監督のその一言は強大だった。
 何も無い所から何かを生み出す事は不可能だと誰かから聞いた事がある。
 しかし彼女の言葉には、その何も無い所から何かが込み上げて来る力がある気がする。

「ほら、あんたはその太鼓判があれば良いんだろう?だったら、後は何も問題無いじゃないか。それに、だ。いくら重要な役とは言え、出番数(コマ)は本当に僅かでしかない。それとも何か?あんたは…」
「待って!」

 今度はセシルが監督の言葉を遮る。
 監督の唇が僅かに歪んだのをセシルは見逃さなかった。

「自分で言ったから、頑張れるって言ったから。やるよ。ボクはやってみせる」
「セシル…」
「ここまで言えば大丈夫でしょう?だから、それより先は言わないで」

 一度決めた事を、公言した事を無かった事にはしない。
 頑張れるって言ったから。

「よし、良く言った。だったらもう一人、覚悟を決めて貰わないとね。ケビン?」
「へ…?」

 これまでの流れを完全に沈下する程素頓狂な返事をケビンは返す。
 パターンは違えど事の運びは同じ。
 寧ろ、その中心人物に問題があると言って良い。

「あんたはまだいろいろと分かっていないセシルのサポートをして貰う。その方が、何よりセシルが素を出し易いからね。そこで、だ。次の主役を演じるのは…ケビン、あんただよ」
「え? あの、ちょっと…」
「新人のセシルがあんなに意思表示してくれたんだ。だったら、先輩のあんたもそれなりな所を見せてくれなきゃ、示しが付かないだろうが?」
「でも、もう配役は全員決まったんじゃ…」
「練習中の役変更は舞台ではよくある事だ。しかも、まだ誰も一度も練習してないんだから、そこに全く問題は無い」

 ようやくセシルはこの女性の本当の得意技を理解する。
 それは、対象となる人物の言葉の隙を付いて言葉で相手を捩じ伏せる事。
 要はただの揚足取り。
 並大抵の言い訳では彼女には通用しないだろう。
 と言うより、彼女の本命は寧ろこちらの方にあったのかも知れない。
 しかし、この場合は反って好都合と言うもの。
 理由はどうあれケビンと一緒に舞台に立てるなら、それこそ自分の最も望む形。
 慣れて行く上でも非常に効果的だろう。

「だってさ。一緒に頑張ろ、ケビン?」
「う、あぁ………うん」

 この時監督は『してやったり』な表情でガッツポーズを取り、隣に居た青年は露骨に溜め息を付いていた。


「うゆ~…」
「だ、大丈夫?ケビン…」

 初めての大役に精神的にかなり来るところまで来ているケビンを、隣のパイプ椅子に座ってセシルは看病していた。
 この日は台本の台詞を一通り読み通し、そのインスピレーションを元に演技を考えていくと言う内容。
 …に、なる筈だった。
 ぎこちない部分はあるが、確実にキャラクターのイメージを描くセシル。
 それに引き換え、ケビンの方は台詞は棒読み。
 不自然な部分で噛むと言う、初心者以前の失態を見事に何度も披露し、周りを爆笑と失笑の渦に巻き込んだ。
 それは監督すらも腹を抱えさせる程で、実質まともな成果を出したのはセシルだけと言って良い。
 これは敢えて黙っておいた事だが、今のこの抜け殻状態が正に『生きる事に疲れた』状態なのだろうとセシルは思った。

「あー楽しかった。そんじゃ、今日はここで引き上げにしようか。そこの抜け殻君も、明日はこんな調子じゃ済まないからね」
「ふ、ふぇ~い」
「そんじゃ、ちょっとセシルは私に付いて来て貰える?」
「え、ボク?」
「そうそう。今日一日どんな感じだったかって聞くだけだけど」
「あ、分かりました」
「僕は?」
「ケビンはロビーにでも待ってな。全員この形でやってるんだから、今更変える事は出来無いだろ」
「…と言う事らしいから、ちょっと待ってて。ね?」

 ようやく現実に戻って来れたらしいケビンは一度考える様な素振りを見せ、そして何かを観念した様に「分かったよ」と言った。
 監督と言う人間の手前、自分一人では不安な所もあるのだろう。

「じゃあ、悪いけど椅子だけ片付けて貰えるかな?」
「うん。待ってるから」

 そうして監督が手招きしている部屋までセシルは駆ける。
 促されるまま部屋に入ると、そこは二重窓と壁に無数に開いた穴のある部屋だった。
 これは楽器を始めとした様々な大きな音を外へ漏らさないための防音設備だとすぐに気付く。

「狭苦しい部屋で悪いけど、空気だけは良い筈だから、我慢してくれ」
「大丈夫です。埃に弱いって身体でも無いんで」
「そう言ってくれると助かる。まぁ、そこら辺の椅子に座って?」

 確かに空気はきれいな様だが、正直な印象部屋がきれいだとは言い難い。
 壁隅には機材道具が詰めてあり、パイプ椅子が無造作に開きっ放しで、こういったカウンセリング以外はもっぱら機材置き場と化している事が目に見えて分かる。
 取り敢えず、一番出口に近い椅子を選んで座った。

「んで、単刀直入に聞くけど…。ぶっちゃけ、今日はどうだった?」

 そう言いながら彼女は防音扉のレバーを降ろし、セシルと向かい合う位置の椅子に座る。

「えっと、何て言うか…その。楽しかった…かな?」
「まぁ、確かに私もケビンの迷言連発には久しぶりに笑いまくったけど、さ。正直な印象、まだ良く分からなかったんじゃないかい?」

 確かに、これは飽くまで初日の話であって、実際は今日とは比べ物にならない程に大変なのだろう。
 そこは、素人でも分かる。

「だけど、とても初めて人前に出る人間とは思えなかったよ。大概の奴ならそれだけで身体が竦み上がってしまうのに」
「あ、それは…っ!?」

 今の一瞬で、背筋が氷結してしまいそうな感覚に襲われた。
 それは、朝に一度セシルに襲いかかったものと同じ。
 いや、明らかにそれを凌駕する。
 知っている。
 自分はこれがどんな人物に対する感覚なのかを知っている。

(この人は、ボクの…)

 敵。

「本能的に臭いを嗅ぎ取ったか。今まで長い間浴びて来た空気だからね。そりゃ、敏感にもなるだろうさ」
「あ、あなたは…?」
「冷静になって考えてもみなよ。公に晒す映画に普通その日入ったばかりで人前に出た事も無い新人を起用する筈が無いだろう。まして、楽戯団志望なら兎も角、役者希望者に皆の前で楽器を演奏してくれ。…何て言うか?」

 気持ちの悪い嫌な汗が全身を伝う。
 咄嗟に自分の背後にあるこの部屋唯一の出入り口のレバーに手が掛かる。
 しかし、何かに引っ掛かって一向にロックが外れない。

「無駄さ。ドアノブにちょっとした仕掛けをしておいた。簡単には出られ無い」
「お、お前は…誰だ!」
「お前、か。成る程…。薄汚れた裏社会で生きて来た子供の眼だな。とっくに他界した世界的有名な女性アコーディオン奏者の息子、セシルと言う名前は私達の業界ではそれなりに有名だ。繊細で独特の雰囲気を持つその演奏、その危うさと隣り合わせの美しさ。
演出家にしてみれば、喉から手が出る程その人材は欲しいからね」
「最初から…知ってたの?」
「アコーディオンでセシルと名前が出て来れば、嫌でも結び付くさ。それに、あんたが居るとなれば、あの不自然な交通規制も納得がいく。余程、あんたを連れ戻したいらしいな」
「っ!」

 声にならない声、と言えば良いだろうか。
 悲鳴とも取れそうなその声が一瞬漏れた刹那、気が付けば既に両腕を片手で壁に押しつけられていた。

「本当、母親に似て綺麗な身体してるよな。さぞかし、薄汚い男共に抱かれた事だろうよ」
「何で、そんな事まで…」
「どうだ? たまには女の身体も悪くは無いと思うぞ?」
「ひぁっ!」

 余ったもう片方の手で、彼女はセシルの顎や頬を撫でる。
 どんなに意識を集中させても、身体は反応してしまう。
 もう駄目かと眼を瞑った時、頬から手が離れた。

「…何て。私にその趣味は無い。が、ここで本題に入らせて貰う」

 彼女なりに洒落たつもりだったのだろうが、未だに気は抜けていないらしい。
 押さえられた腕がそれを暗示している。

「単刀直入に…って、これはもう二度目か。まぁ良い。私が聞きたいのはただ一つ。何故あんたはケビンと一緒に居る?」
「え…?」

 どうしてここでケビンの名前が出て来るのか、セシルはすぐには思い当たらなかった。
 しかし、彼女が自分の正体を知っているのなら、分からないでも無かった。

「あんたが何処へ逃げようと、私の知った事じゃ無い。だけどね、ケビンが関与しているなら話は別だ。悪いが、黙秘権は無いぞ」
「それは…」

 偶然、と言えばそれで正解だ。
 だが果たしてそれで信じて貰えるだろうか。
 縦しんばそれで罷り通ったとしても、同時に自分はケビンと一緒に居る資格を失う気がした。

「悪いけど、教えない」
「ほぅ。言った筈だよな? あんたに黙秘権は無いんだよ」
「だけど、もしボクが理由を教えたとして、それでケビンに危害が加わるかも知れない」
「…腑に落ちないな。何故私に理由を話した所でケビンに危害が加わる?」
「簡単な話だよ。あなたがボクの正体を知っていた事。交通規制の理由も推測出来るのなら、まず“あいつ”の関係者だと思って間違い無い。だったら当然内通事情を疑うに決まっている。ただそれだけの事。あなたが何を思ってケビンの話を持ち出したかは知らない。
けど、もしケビンにまで危険な目に合わせるのなら、ボク一人なんかどうなったって構わない。それだけ」

 セシルのその眼は目の前の女性を敵として捕らえている。
 もし彼女がこのまま痺れを切らして自分の身体をズタズタに侵そうが、自分が生きている限りは刺し違える覚悟だってある。
 仕掛けを施しているのは、決して自分だけでは無いのだから。

「成る程。境遇を知っているからこそ、私を疑うのか。しかも、それも全て自分では無くケビンの為…。しかし、どうも論点がずれてるな。私はケビンの身を案じてあんたに問い詰めている。しかし、あんたもケビンの身を案じて回答を拒む。
先の目的は同じだが、まるでその方法は逆だ。まるで、この場を凌ぐ為の口実にしか聞こえない」
「それはボクも同じだよ。ボクから言わせて貰えば、あなたがケビンを人質として取ってるようにしか思えない」
「そうか。じゃあ…」
「結局、正しいのはそれぞれ自分自身でしか無いんだよ」

 それぞれの言い分に筋が通る為に起こる衝突。
 ただし、どちらにも信憑性は無い。
 そもそもどちらも本当である可能性すらあるのだからそれが余計に事態をややこしくさせている。
 だが。

「ふ…」

 小さく鼻で笑うと、彼女はセシルの両腕を開放した。
 膠着状態が突然崩れ、セシルは状況を把握出来無い。
 しかし、彼女は何かを納得した様だった。

「あんたの言い分は尤もだ。成る程、流石はあの愚弟の息子な抱けあって頭の回転は早い」

 独り言の様に呟く彼女の言葉をセシルは聞き逃さなかった。
 愚弟と言う単語は、セシルにとって意外でしか無い。

「愚弟って、まさか…」
「あぁそうだよ。あんたのクソ親父は私の弟。あの馬鹿野郎の悪癖はよく知っている。だからあんたの事も、何となく分かってしまうのさ。だから、逃げて来たんだろう?」

 どうやら本当に知っているらしい。
 しかも、目の敵と言える位に毛嫌いしている様だ。
 親戚の事は余り覚えてはいないが、少なくともどうしようも無い父親との折りが合うとは思えない。

「…悪い。どうやらケビンを盾にしているのは私の方らしい」
「でも、ある意味それはお互い様だと思う。ボクも何だか、都合の良い部分だけ切り出して偽善を振り翳しているだけの様な気がする」
「ふふ…。お互い、それぞれ黒い部分は持ち合わせているらしい。だが、やはり傷を舐め合った所で理由は教えては貰えないか?」
「それは…」

 父親と彼女の関係が判明した所で、彼女が敵では無いと判断する材料にはならない。
 しかし、これは何の強制力も持たない純粋な『願い』でしか無い。
 だったら…

「偶然、なんだ」
「ん?」
「本当に偶然。ボク達が一緒に居るのは、行き場も無くて公園のトンネル遊具で閉じ籠っていたボクをケビンが見付けてくれたから。多分、ケビンはボクの事を何も知らない。話して無いから。ボクが理由を言えるまで、待ってくれているから。本当にそれだけなんだ」

 何故だかこの女性は信用出来る。
 不思議とそう思える。
 言葉の一つ一つに躊躇いは無かった。

「…そうだったのか。ケビンが、か」
「これだけで、良いの? と言っても、これ以上の説明は出来無いけど」
「あぁ。十分だ」
「どうして?」
「っ!」

 もし自分と彼女の立場が逆なら、今の自分の言い分だけで納得出来る筈が無い。
 つまり、それだけで納得出来るもう一つの理由を彼女は知っている事になる。

「…全く、本当に鋭い所はあの馬鹿にそっくりだな」
「言ったよ。ボクはケビンを危険な目に合わせたくない。ケビンを悲しませたくないんだ。あなたの方が、悔しいけどボクよりもずっとケビンの事を知っている筈なんだ。きっと、それはすごく大事な事の様な気がする」
「然り。私は…いや、あんたには知る義務や権利がある。そして、それを話す上であんたに頼みがあるんだ」
「頼み?」
「あぁ。あいつは…」
「………え?」


「おかえり。随分と長く話してたね。まぁ新人が入った時はいつもの事なんだけど」
「そ、そうなんだ…」

 苦い表情で出て来たセシルを気遣う為か、ケビンは出来る限りの笑顔で迎えた。
 既にロビーに人気は無く、朱に染まっている。

「セシルが入って大幅にスケジュールが変わったから、結局いつもより早く帰れるよ。皆、早く終わって良かったってすごく安心してた」
「それ、安心して良いの?」
「…だよね。さぁ、僕達も帰ろ?」
「うん」

 自分達以外の全員が帰ったと言う事は、もう忌々しい交通規制は解除されている筈だ。
 後は、その残党に気取られぬ様に帰るだけ。

「今日はどっちが作る?」
「じゃあ、今日は僕が準備するよ。本当は、セシルの歓迎会を開くつもりだったんだけど、今日は色々初めてで大変だろうって。それで、次の休みになっちゃったんだ」
「そんな、そこまでしてくれなくて良いよ」
「そう言わずに。多分皆集まって遊びたいだけだから」
「そ、そうなんだ…」

 素の顔と役者の顔。
 その二つを使い分けて、初めて本物の役者と言えるのだろう。
 そう思えば、成る程自分には合っている様な気がする。

「何だあんた達、まるで夫婦みたいじゃないか」
「か、監督!」
「夫婦って…。ボク達どっちも男なんだけど」

 少し遅れて部屋から戻った監督が二人を囃立てる様にけたけたと笑いながら指差す。
 ケビンは顔を真っ赤に。
 セシルは彼女の持つ二面性に呆れを通り越して素直に感心していた。

「まぁ細かい事は気にしない気にしない。そんじゃ、セシル。…ケビンの事、頼むよ」
「あ…。はい」
「何でセシルの方に言うのさ」
「そりゃあんた。目覚時計がわんわんと響く中揺すっても起きない奴が、誰かの面倒を見れる訳無いだろう」
「なっ…、何で知ってるんだよ!」
「ありゃ図星か。適当に言っただけなのに」

 やはり只者では無いらしい。
 彼女なりに言葉の意味を探られない様に工夫している。

「ケビン…」

 何か一言言い返そうと必死に思考を捻らせているケビンに聞こえない様に、セシルはそっと呟いた。

「絶対に、独りにはさせないから…ね」
最終更新:2010年05月30日 11:19