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*「動物化するポストモダン」 テレビつけたらやっていたヲタク番組のコメンテーターの代表作。大学生が読む批評と言ったらこれ!というぐらいに、若年層の読者を多く持った「批評家」だそうだ。というかそもそも、「批評」とはなんだろうか。辛口なんとかっていうアレなのか。これを読めばわかるだろうか。 とりあえず、本書についての記事を表紙とする。(H21 6/17) &bold(){読了} 批評とは、僕にとっては上記のように何か特定の作品に対して、「批」判し、「評」する態度全般のようなものであった。ただ漠然と、そう自称する人間が周りに居たりしたので、そう思っていた。付け加えるなら、なんとなく外側に立って、優位な場所から文句や評価を下してしまうような人格を指す、極めてネガティブなイメージを称する言葉としてあった。 だがどうやらそれは、(やはり)このアホザルの浅はかな理解だったらしい。 いや、厳密に言えば、「評する」部分はそれで間違いなかったのだけれど、「批」の字に対する印象は、愚かな先入観からくるものでしかなかった。 粗暴な解釈なのだろうが、あえて述べるなら、批評という言葉が意味するのは批判する態度などではなくて、比する行為だったようだ。その上、恐らく「行為」は比するに留まらない、極めて建設的な部分にまで及んでゆく。 ひょっとすると、世間の理解は最初からこうだったのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。すると僕は早速を恥を書き連ねたことになる。が、(サルなので)一向に臆することなく続けよう。 この「比する」という方法が、どうやらある種のアプローチを批評足らしめるらしいのだが、この場合の「比する」とはなんであろうか。僕の理解では、どうやらそれは(本書に限って言うならば)様々な文化的領域で起こる出来事を、学問的な知を背景に検証し、それぞれの「問題」を抽出、「領域内での関係性」を明らかにした上で、ついには「「問題」間の関係性」の発見も狙う、つまり「つなぎあわせる」試みのように思えた。 それは、ハードな論拠をとりながら、決して学術的な文法では許されぬ大胆な論法で、より正確な理解を迫る。故に、筆者の腕(あるいは個性)が試されるのは、正しく学問的な論法をとりながら、別次元への言及にジャンプする、その「繋ぎ目」の部分なのではないか。憶測でさらに述べるが、その部分にこそ、これらの文章の魅力(場合によってはメインソース)が凝縮されており、同時に容易く全体への信頼を直ちに失墜させるもの&bold(){であるからこそ、}そこに働きかけるは論理構成よりむしろ、「文学的な演出」であるように思えた。 そして、その「論理構成」へ向かわせるためにこそ、個々の領域での問題の抽出はもちろん、&bold(){その呼称こそが}文脈の中で調整し検討されるのであって、それらをゆっくりと段階的に加工しながら「繋ぎ目」へと向かわせているのだ。 と、このような身勝手な理解を押し進めてしまったのにも理由がある。 ようやく本書について触れるわけだが、それは、「動物化するポストモダン」の主な論旨の一つである、消費モデルを表した図版というものが、正にそのまま「批評」というジャンルそのものに向けて矛盾の無い内容のものであったからだ。(そのような展開は本書にはなかったが) ごく大雑把に、加えて私見を多分に含んだ解釈で本書をまとめてしまうならば、それはこうだ。 著者はまず、ここ80年の思想史を簡潔に振り返った上で、人々の社会へのアプローチ、同時にフィクションへの希求にはゆるやかでいて、しかし劇的な変化が世界的に起こったが、それは第一次世界大戦に端を発していると述べる。だが、一方で日本は敗戦と、その後に訪れた経済成長を経験した故、ひどく屈折した脆弱なアイデンティティを中途半端に確立させた。故に、それが過ぎ去った後にオタク文化に残ったのは、時代錯誤的にその半端なナルシシズムであったが、興味深いことにそれらは、同時に「近代」のあとにくるもの、つまり「ポストモダン」で横行すると予見された様々な現象を無自覚に発生させる複雑さをも持ち合わせていた。おおまかに言えば、それは二次創作や「おたく」と呼称しあうことそのものに見られるのだが、いわゆるオタク第三世代以降、より事態は進行し、その消費意識の根底にあるモデルは一つの形に落ち着きつつあるらしいのだ。しかもそれは、元来の、無秩序にシミュラークルが形成され氾濫するというものではなく、あくまでも「深層」たるものは配置されていて、それが有意味なコアではなく、無味乾燥なデータ群であるのだと氏は説明する。これを本書では「データベース消費」と表記している。 そこでは我々は、その「個人的な」世界と「現実的」な世界のズレを結びつけるために矛盾をはらんだ「大きな物語」を求めたり、あるいはそれを作ろうとはせず、「それぞれで持ち上がった問題をそれぞれで別個に解決し消化する」道を選んだ。(例に挙げるなら、それはギャルゲーのストーリーボードの「トラウマ語り」に相当する部分で涙しながらも、涙が枯れた後、その部分からコードを吸出し、演出を構成したBGMやキャラ絵、背景等を解体し、それらを目の前に泣きMADの構想を練る、といったようなものだろう。) …というか、それしか選びようがなかろう、効率的なのだから。むしろ、それが今まで実現してこなかったのは、単に技術や法の整備が早すぎただけで、人間の理解というか「割り切り」が追いつくのが遅かっただけなのではないか。(とまでは著者は述べていないが) ともかく、さらに氏は、その生き方はまるで「動物的」で、その上時折「解離性同一障害」を引き起こしているのではないか、と続けた。それもそのはずで、一方で「データベース」が茫漠と並ぶ様を深層に見据えながら、&bold(){しかしそれゆえ}そのジャンク達を自前で組み立てて限りなく消耗性の高い「表層の物語」を作り続ける、なんていうサイクルは、普通に考えて部分的に記憶喪失にならないとやってられない。 その上で著者は「深読み」であると断った上で、あるギャルゲー作品に、これら全ての論拠を相似化させ、しかもそれをプレイヤー達自身に自覚させるような作りをしている節が見られるのだが、その作品の「内部」それ自体もまた、ポストモダンの寓話であるかのように読め得る、と結論付けて論考を締めくくっている。 えらく長くなってしまったが、改めて本書を自分なりにざっと読んでみても、やはり自分にとっては「そんなに他人に対する期待値が高かったのか、昔は」という印象に尽きる。つまり、ストレスを感じることもなければ、感慨が沸いたわけでもないのである。読み込み、「理解」した上でだ。要するに、僕の年ともなると、いよいよそんな感覚なのだ。文字通りサルだし。 ただ、話を戻すと、超越的な視点や、あるいは深層、そしてその意味、データベースという呼称、「それをただ横滑りに消費する動物」という刺激的な指摘、これら全ては、当然「つなぐ」論考の批評という行為にも向けられるはずだ。そして、恐らく、著者はそのことに驚くほど自覚的だ。 これらを踏まえた上で、僕の関心は2つある。 ひとつは、自分の言説の「意味」の在り処を極めて不安定に、或いは消失させ、「行為」だけにした上で、その実在的な効果はどこに求められていくのか。単に生産ラインを組み込んだ消費運動としてだけなのか、ただのなんちゃって動員ゲームなのか、あるいは、また別の狙いがあるのか。 次に、本書の締めに繰り返される「自由」が、彼の望むところの「ぶっちゃけてゆく」ことであるとするなら、この「批評」は「比して評した」ものでもなければ何か政治的な言説でもない。あえて言うなら、これは、比して評することで見えた「普遍的な現象」を極めて論理的に解体し、「論理しか残っていない」骨だけの状態を取り出し、「普遍的な現象」を「含んでしまう」旧来の方法で論じ続けることで、例の図版モデルや「要素の関係性」、つまり&bold(){解析装置}のみが残るよう巧妙に仕向けられた、言説のようにふるまった装置の箱でしかない。しかもタチの悪いことに、批評という文章の性質上、その装置が対象を選ばないことはほぼ本文中で明らかな上、唯一の「矛盾の可能性」であった宿主すらも容易に解体して見せたのだから、その破壊力たるや折り紙つきである。 そういえば僕は小学生のころ、どんなに腐ったものを食べても腹を壊さなかったことから勝手に「胃液最強」を自負していた。「俺の胃液で溶かせないものはないかもしれない…」と真剣に自分が車酔いなどでうっかりゲロを吐いて地球に穴を開けたりしないようがんばっていたところを友人に、「お前の胃袋も溶かせないようじゃ駄目だろ、弱すぎる」と言われてあっさり納得したのを覚えている。思い出すと今でも寂しくなるものだが、これは要するに、当時の僕の腹をぶち破ってその「最強胃液」が流れ出てくるのと同様の出来事であったのだろう。 …話を戻す。 分析装置は、一体あといくつ組まれているのだろう? (6/18)
*「動物化するポストモダン」 テレビつけたらやっていたヲタク番組のコメンテーターの代表作。大学生が読む批評と言ったらこれ!というぐらいに、若年層の読者を多く持った「批評家」だそうだ。というかそもそも、「批評」とはなんだろうか。辛口なんとかっていうアレなのか。これを読めばわかるだろうか。 とりあえず、本書についての記事を表紙とする。(H21 6/17) &bold(){読了} 批評とは、僕にとっては上記のように何か特定の作品に対して、「批」判し、「評」する態度全般のようなものであった。ただ漠然と、そう自称する人間が周りに居たりしたので、そう思っていた。付け加えるなら、なんとなく外側に立って、優位な場所から文句や評価を下してしまうような人格を指す、極めてネガティブなイメージを称する言葉としてあった。 だがどうやらそれは、(やはり)このアホザルの浅はかな理解だったらしい。 いや、厳密に言えば、「評する」部分はそれで間違いなかったのだけれど、「批」の字に対する印象は、愚かな先入観からくるものでしかなかった。 粗暴な解釈なのだろうが、あえて述べるなら、批評という言葉が意味するのは批判する態度などではなくて、比する行為だったようだ。その上、恐らく「行為」は比するに留まらない、極めて建設的な部分にまで及んでゆく。 ひょっとすると、世間の理解は最初からこうだったのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。すると僕は早速を恥を書き連ねたことになる。が、(サルなので)一向に臆することなく続けよう。 この「比する」という方法が、どうやらある種のアプローチを批評足らしめるらしいのだが、この場合の「比する」とはなんであろうか。僕の理解では、どうやらそれは(本書に限って言うならば)様々な文化的領域で起こる出来事を、学問的な知を背景に検証し、それぞれの「問題」を抽出、「領域内での関係性」を明らかにした上で、ついには「「問題」間の関係性」の発見も狙う、つまり「つなぎあわせる」試みのように思えた。 それは、ハードな論拠をとりながら、決して学術的な文法では許されぬ大胆な論法で、より正確な理解を迫る。故に、筆者の腕(あるいは個性)が試されるのは、正しく学問的な論法をとりながら、別次元への言及にジャンプする、その「繋ぎ目」の部分なのではないか。憶測でさらに述べるが、その部分にこそ、これらの文章の魅力(場合によってはメインソース)が凝縮されており、同時に容易く全体への信頼を直ちに失墜させるもの&bold(){であるからこそ、}そこに働きかけるは論理構成よりむしろ、「文学的な演出」であるように思えた。 そして、その「論理構成」へ向かわせるためにこそ、個々の領域での問題の抽出はもちろん、&bold(){その呼称こそが}文脈の中で調整し検討されるのであって、それらをゆっくりと段階的に加工しながら「繋ぎ目」へと向かわせているのだ。 と、このような身勝手な理解を押し進めてしまったのにも理由がある。 ようやく本書について触れるわけだが、それは、「動物化するポストモダン」の主な論旨の一つである、消費モデルを表した図版というものが、正にそのまま「批評」というジャンルそのものに向けて矛盾の無い内容のものであったからだ。(そのような展開は本書にはなかったが) ごく大雑把に、加えて私見を多分に含んだ解釈で本書をまとめてしまうならば、それはこうだ。 著者はまず、ここ80年の思想史を簡潔に振り返った上で、人々の社会へのアプローチ、同時にフィクションへの希求にはゆるやかでいて、しかし劇的な変化が世界的に起こったが、それは第一次世界大戦に端を発していると述べる。だが、一方で日本は敗戦と、その後に訪れた経済成長を経験した故、ひどく屈折した脆弱なアイデンティティを中途半端に確立させた。故に、それが過ぎ去った後にオタク文化に残ったのは、時代錯誤的に半端なナルシシズムであったが、興味深いことにそれらは、同時に「近代」のあとにくるもの、つまり「ポストモダン」で横行すると予見された様々な現象を無自覚に発生させる複雑さをも持ち合わせていた。おおまかに言えば、それは二次創作や「おたく」と呼称しあうことそのものに見られるのだが、いわゆるオタク第三世代以降、より事態は進行し、その消費意識の根底にあるモデルは一つの形に落ち着きつつあるらしいのだ。しかもそれは、元来の、無秩序にシミュラークルが形成され氾濫するというものではなく、あくまでも「深層」たるものは配置されていて、それが有意味なコアではなく、無味乾燥なデータ群であるのだと氏は説明する。これを本書では「データベース消費」と表記している。 そこでは我々は、その「個人的な」世界と「現実的」な世界のズレを結びつけるために矛盾をはらんだ「大きな物語」を求めたり、あるいはそれを作ろうとはせず、「それぞれで持ち上がった問題をそれぞれで別個に解決し消化する」道を選んだ。(例に挙げるなら、それはギャルゲーのストーリーボードの「トラウマ語り」に相当する部分で涙しながらも、涙が枯れた後、その部分からコードを吸出し、演出を構成したBGMやキャラ絵、背景等を解体し、それらを目の前に泣きMADの構想を練る、といったようなものだろう。) …というか、それしか選びようがなかろう、効率的なのだから。むしろ、それが今まで実現してこなかったのは、単に技術や法の整備が早すぎただけで、人間の理解というか「割り切り」が追いつくのが遅かっただけなのではないか。(とまでは著者は述べていないが) ともかく、さらに氏は、その生き方はまるで「動物的」で、その上時折「解離性同一障害」を引き起こしているのではないか、と続けた。それもそのはずで、一方で「データベース」が茫漠と並ぶ様を深層に見据えながら、&bold(){しかしそれゆえ}そのジャンク達を自前で組み立てて限りなく消耗性の高い「表層の物語」を作り続ける、なんていうサイクルは、普通に考えて部分的に記憶喪失にならないとやってられない。 その上で著者は「深読み」であると断った上で、あるギャルゲー作品に、これら全ての論拠を相似化させ、しかもそれをプレイヤー達自身に自覚させるような作りをしている節が見られるのだが、その作品の「物語」それ自体もまた、ポストモダンの寓話であるかのように読め得る、と結論付けて論考を締めくくっている。 えらく長くなってしまったが、改めて本書をざっと読んでみても、やはり自分にとっては「そんなに他人に対する期待値が高かったのか、昔は」という印象に尽きる。つまり、ストレスを感じることもなければ、感慨が沸いたわけでもないのである。読み込み、「理解」した上でだ。要するに、僕の年ともなると、いよいよそんな感覚なのだ。文字通りサルだし。 ただ、話を戻すと、超越的な視点や、あるいは深層、そしてその意味、データベースという呼称、「それをただ横滑りに消費する動物」という刺激的な指摘、これら全ては、当然「つなぐ」論考の批評という行為にも向けられるはずだ。そして、恐らく、著者はそのことに驚くほど自覚的だ。 これらを踏まえた上で、僕の関心は2つある。 ひとつは、自分の言説の「意味」の在り処を極めて不安定に、或いは消失させ、「行為」だけにした上で、その実在的な効果はどこに求められていくのか。単に生産ラインを組み込んだ消費運動としてだけなのか、ただのなんちゃって動員ゲームなのか、あるいは、また別の狙いがあるのか。 次に、本書の締めに繰り返される「自由」が、彼の望むところの「ぶっちゃけてゆく」ことであるとするなら、この「批評」は「比して評した」ものでもなければ何か政治的な言説でもない。あえて言うなら、これは、比して評することで見えた「普遍的な現象」を極めて論理的に解体し、「論理しか残っていない」骨だけの状態を取り出し、「普遍的な現象」を「含んでしまう」旧来の方法で論じ続けることで、例の図版モデルや「要素の関係性」、つまり&bold(){解析装置}のみが残るよう巧妙に仕向けられた、言説のようにふるまった装置の箱でしかない。しかもタチの悪いことに、批評という文章の性質上、その装置が対象を選ばないことはほぼ本文中で明らかな上、唯一の「矛盾の可能性」であった宿主すらも容易に解体して見せたのだから、その破壊力たるや折り紙つきである。 そういえば僕は小学生のころ、どんなに腐ったものを食べても腹を壊さなかったことから勝手に「胃液最強」を自負していた。「俺の胃液で溶かせないものはないかもしれない…」と真剣に自分が車酔いなどでうっかりゲロを吐いて地球に穴を開けたりしないようがんばっていたところを友人に、「お前の胃袋も溶かせないようじゃ駄目だろ、弱すぎる」と言われてあっさり納得したのを覚えている。思い出すと今でも寂しくなるものだが、これは要するに、当時の僕の腹をぶち破ってその「最強胃液」が流れ出てくるのと同様の出来事であったのだろう。 …話を戻す。 装置は、一体あといくつ組まれているのだろう? (6/18)

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