生きていたかった。その言葉の意味を察し、冷たい汗が背中を伝う。昏い目の僕がこちらを見つめていた。少し前まで僕と同じ顔だったはずのそれは、落ち窪んだ眼窩に濁った鈍い光を宿し。闇に浮かぶ溶けて崩れかけた肉の色に、恐怖からか僕は目を瞑る。視界を閉ざしてしまえば、あとはただ声が聞こえるだけだった。いつもと変わらぬ僕の声。――僕はあなたが羨ましい。体のあるあなたが。ぬめる何かが僕に覆い被さる。嗅覚は働かないのか、聴覚と触覚だけでその存在を感じた。服の裾から入り込んだそれが這い上がってくる。首筋を、脇腹を撫で回し。僕の体の至る所に触れていく。――今も自分の意思で動く事の出来るあなたが。本来ならば嫌悪感があるだろうに、やはり相手は僕自身だからなのか要領を得た緩やかな快楽に、次第に思考が霞み始める。
それは僕の中に入り込んで何をしようとしているのか。想像は付いていたけれど、止める術が無い。いや、僕は止める気が無いのかも知れない。
何故なら、僕は異世界の自分を少しでも哀れんだからこそ鏡に手を伸ばしたのだろう。――僕は体が欲しい。やがてそれは体内に入り込み。追いやられた僕は、閉じた視界の中で瞬く光を感じた。
そこは何も変わらぬ僕の部屋だった。手元には乱れた誰の物かも解らぬ黒い学生服と、床に転々と零れた白い体液。見れば内腿や下腹部にも、まるで性行為、もしくは過剰な自慰を思わせる痕跡があった。白昼夢というには、余りに生々しく残されたそれらに僕は誰も居ない部屋で一人失笑を禁じ得なかった。
それ以来、僕は度々夢を見るようになった。登場人物は黒いブレザー姿の涼宮さんが主だった。夢の中で僕は彼女に恋をしている。しかし嫌われるのが怖くて、時間はあれど何も行動に移せずやがて突如として現れた彼に、例えようの無い羨望と嫉妬を覚えるのだ。
これは異世界の僕の記憶なのだろうか。詰襟に着替えて鏡の前に立ったとしてももうあの声は聞こえてこなかった。だが、まるで条件反射のように興奮している自分も居た。あの時与えられた快楽がそれ程に強烈だったのか。いや、それだけではない。あちらの僕は、涼宮さんに性的衝動をも覚えていたのだろう。そういう目で見れば。成る程確かに彼女は魅力的だった。異世界の僕の気持ちに浸りながら、僕は黒い詰襟を着て自慰に耽った。
想像の中の彼女は、いつか幻として見た白い体を淫らにくねらせている。彼女に触れるのは、僕の幻影であったり、また彼の幻影でもあった。僕はあちらの僕と違い、彼に憧れはしても嫉妬する事は無いのだ。彼や彼女と、僕は余りにも立場が違う。それを自覚しているかどうかが、あの僕との違いだ。僕の彼への感情は、否定的な物では無く、寧ろ。
「最近睡眠は足りているのか?」ある日部室で二人きりになった際に、彼が尋ねてきた。そんなに眠そうに見えたのだろうか。だとしたら失態だ。「大丈夫ですよ」軽く笑みを浮かべて椅子から立ち上がろうとしたはずなのに、視界が揺らいだ。「ほんとに大丈夫なのかよ」咄嗟に手を伸ばし僕を支えてくれた彼の顔が、至近距離にある。幻想の中で彼女に触れていた手が、今は僕に触れている。「古泉……?」不思議そうに彼が僕の名前を呟いた。あちらの僕は、涼宮さんに焦がれていたのだろう。しかし僕は違うし、また立場上彼女に手を出す訳にも行かない。そこで思う。彼にならどうだろうか。いずれ彼は彼女と関係を持つだろう。彼女がそれを望むはずだ。だとすれば、今のうちに僕が彼と関係を持てば異世界の僕の願望は、間接的に叶えられるのではないだろうか。それが間違った思考である事を感じながらも僕は彼の頬にそっと手を伸ばした。「この所、あまり良く眠れないんです」あなたの事を考え過ぎて。顔を寄せて事実を半分囁けば、彼の体が緊張に強張った。だが、僕を支える手は離されなかった。「……こいず」二度目の呼び掛けは途中までだった。僕の名前を形作ろうとした唇へと、触れた。
以前見せられた幻の中で、彼と交わる自分に不快感を覚えたはずだった。でもそれは、無意識に避けていた物を目前に突き付けられたが故の不快感だったのだと。この時、僕は気が付いた。
向こうの僕の言葉が脳裏に蘇る。あちらの僕と同様に、僕にもやはり好きな人が居たのだ。そしてそれはあちらの僕と違い、彼女で無かっただけの話だ。唇に彼を感じ、僕は明らかに充足感を覚えていた。
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