その日。僕が部室の扉を開けると、机の上に散らばる栗色の長い髪があった。メイド服を纏ったその姿は相変わらず可愛らしく。しかし何故か衣服が多少乱れていて。一瞬何事かと凝視し、直ぐに安堵する。細い肩がゆっくりと上下していた。「……これは珍しいですね」部室には涼宮さんも長門さんも彼も居らず。朝比奈さんが一人で机に顔を伏せて寝ていたのだ。寝ていたと言うと平和的だが、朝比奈さんの姿は着替え途中と言っても差支えが無いくらいで。大きく開いた襟元から白い肩や首筋が覗いていた。何故こんな状態で彼女は寝ているのだろうか。「朝比奈さん……そのお姿は目の毒ですよ」驚かせないようにそっと話しかけてみる。反応は無い。もし僕が彼だったら、このまま朝比奈さんを目の保養にしてしまうのだろうか。いや、彼も案外初心だから早々に退室するだろう。何故彼女が寝ているのか解らないが、このまま眺め続けるのも問題があるような気がする。
しかし常識的に考えて、こんな寝方はおかしい。僕は朝比奈さんに近づいて、その顔を覗き込んだ。閉じた目蓋を縁取る長い睫。桜色の唇が濡れたように光り、半開きになっていた。思わず目を奪われる。──いや待て。見ている場合ではない。いつもの朝比奈さんを考えると、幾らなんでも着替え途中で寝る事は有り得ない。突如体調を崩したか。それにしてはどこにも不調の見られない安らかな寝顔だ。では誰かに襲われたのか。それなら何故朝比奈さんをこのまま放置してあるのか。これは本物の朝比奈さんなのか。まず疑うべきはそこだ。恐る恐る髪に手を触れる。さらさらと柔らかな感触。頬に触れれば体温を感じ、その肌理細やかな頬の弾力が微かに指を押し返す。本物としか思えない。
ではどうして寝ているのか。朝比奈さんに触れていたい気持ちを抑え、僕は現状の把握を優先させた。……考えたところで結論も出ないが。
「朝比奈さん。起きて下さい。朝比奈さん」こんな格好で寝ていたと知れば、恐らく彼女は驚くのだろうが、このまま寝かせておく訳にはいかない。どういう状況で寝入ったのか聞かなくては。僕の杞憂に過ぎないのなら、それはそれで良いのだ。しかし、どれ程に声を掛けても、肩を揺らしても、一向に起きる気配が無い。これは異常と言える。「朝比奈さん……!」揺さぶる手が滑り、滑らかな肩がより露になってしまった。どうしても手が止まる。服を戻さなければ。僕は出来るだけ肌を直視しないように、衣装に手を伸ばした。静かに引き上げる。こんな所を誰かに見られたら、なんと思われる事だろうか。それに、そろそろ誰か来てもおかしくない時間なのに、扉が開く気配も無い。明らかにおかしい。そう頭では解っているのに。「……こんな姿で無防備に寝ていては危険ですよ」それは現実逃避的な独白のはずだった。「どう危険なのかな?」何処かで聞いた事のある声がした。いや、何処かなどと言う物では無い。今目の前で寝ている人の声に近い。そして目の前の人物は眠っているのだ。話す訳が無い。おそらく僕の顔には緊張の色が浮かんでいただろう。「お久しぶり。ううん、こうやって会うのは初めまして、かな?」慌てて振り返った僕の前には佇むその人は今よりも大人びた綺麗な顔に艶やかな笑みを浮かべていた。
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