彼から聞いた異世界の僕は、黒い詰襟の学生服に身を包み涼宮さんに付き従っていたらしい。最初その話を聞いた時は、怪しげな洋館から出る事を最優先に考えていた為、正直な所深く考える余裕は無かった。無事脱出し、予定通りのミステリーを演じ自宅に辿り着いて久しぶりのオフに、僕は気が緩んでいたのかも知れない。
持ち込んだ覚えの無い黒い学生服を、自室のクローゼットの中に見つけた時それを訝しがる気持ちと共に、何故か身に付けてみたい衝動に駆られた。単に魔が差したとも言えるだろう。その学生服は、まるであつらえたかのように、僕の体にぴったりと合っていた。詰襟を首元まできちんと閉めて、僕は部屋に置いてある大きな鏡の前に立った。そこに映ったのは、当たり前だけど、いつものブレザー姿とは違う僕の姿。見慣れた自分の顔なのに、衣服が違うだけで受ける印象が違っていた。彼から聞いていた、別の自分の話を思い出す。この姿の僕は、涼宮さんを好いていたと。彼はそう言った。
「超能力と言う属性を失った僕は、涼宮さんに惹かれるんでしょうか」無意識の呟きが僕の口から零れる。涼宮さんの事は嫌いでは無い。寧ろ人として好んでいる方だとも言える。だけど、僕は彼女をそういう目で見た事は無かった。考えてみた事も当然無い。立場が違い過ぎるのだ。では仮に、僕が普通の一高校生だとしたらどうなったのだろうか。仮定として考えてみようとしたけれど転校生と言う以外の肩書きを持たない自分が想像出来なかった。
鏡に映る考え事に耽ろうとする僕の顔は無表情で衣服のせいで別人のようだ。こんな顔は僕らしくない。そう思い、笑みを浮かべてみようとしたけれどそこに映ったのは、明らかに何かが違う僕の笑顔だった。異世界の僕はこんな顔だったのだろうか。「顔は同じはずなのに不思議なものですね」誰に言うでも無い独白に、鏡の中の僕が笑みを深めたように見えた。
──惹かれるはずですよ。何処からか声が聞こえた気がして、僕は驚いて辺りを見回した。僕は一人暮らしだ。今はTVも付けていない。携帯も静かなままだ。気のせいだと思い直し、そろそろこの制服を脱ごうと鏡に目をやった時だった。鏡の中の僕が笑っていたのだ。笑顔は、確かに癖になっていると言っても過言では無い。だが、今の僕は笑っているつもりは無かった。思わず自分の顔に手を添えた。鏡の中の僕も同様に手を添える。そう、同じ動きをする。だけど。何かが違う。鼓動が早まっていくのを感じる。──そんなに驚かなくても良いでしょう?また声がした。何処から響くのかすら解らない。言い様の無い悪寒を感じて、僕は鏡から目を逸らし背を向けた。見渡した室内は、いつもと同じだ。それでも視線を感じる。何処だ。一体何処から。──そんなに怖がらなくても良いじゃないですか。こちらですよ。苦笑しつつ宥めるような声。それが何処からなんて、考えなくたって。──おや、寒いんですか?震えていますよ。そう、声は真後ろからだ。真後ろの……鏡から。──大丈夫ですか?くすくすと笑い声が聞こえてくる。意を決して僕は振り向いた。
そこには、当然鏡に映った僕が居る。小さく笑いながら、僕を見ている僕が居る。思わず僕の口から小さく声が漏れた。非日常的な事柄には慣れていると思っていた。だが、予想だにしない出来事を目の当たりにしてしまうと驚きに身動きが取れない。この時の僕は恐怖を感じていたと言っても良いだろう。
──そこまで怯えられると少々傷つきますね。鏡の中で苦笑を浮かべる僕は、明らかに僕とは違う。別人だった。──僕は自分自身に危害を加えるつもりはありませんよ。安心して下さい。自分自身。鏡の中の僕はそう言った。表情だけは違うが、それは確かだろうと思った。「……あなたは何なんですか」そうだ、僕は驚いてばかりは居られない。何故こんな事になっているのか、せめて事態を把握しなければ。──何、と言われても。僕は一介の高校生なので何とも言い様がありませんね。肩を竦める僕。それに見入っている僕はそんな動作はしていない。鏡の中の僕は、いつの間にか表情だけでなく、自由にその体を動かしていた。──あなたの方が、こういう事には詳しいんじゃないんですか?僕が詳しいのは閉鎖空間に関してだけだ。それにこんな事は異常事態も甚だしい。ベッドサイドに置いてある携帯に目を走らせる。機関に連絡するべきだろうか。──そうですか。それは残念。その声は本当に残念そうだった。
──ところでここは何処なんでしょうね。何だか狭いのでそちらに行きたいのですが。こちらに来たいと言う僕。それは鏡から出たいと言う事なのだろうか。どうすれば出られると言うのだろう。──自分からは行けそうに無いので……そうですね。引っ張ってくれませんか?鏡を軽く叩く動作をする僕。ぺたりと手が添えられた。鏡の中の僕の、いや、彼の言う通りにして良い物なのだろうか。現状の異常性は理解している。敵対組織の犯行かとも考えたけれど、普通の人間にこんな事が出来る訳が無い。この鏡は昨日まではただの鏡だったはずだからだ。
迷っているのを察したのだろう。彼が口を開いた。──勿論、ただでなんて言いませんよ。自分をここから出してくれるのならば……と言う物だ。そこまで考えてふと気付く。これでは、まるで何かの童話みたいでは無いか。鏡の僕を主人公を誑かそうとする悪魔の誘いとすれば、唆された主人公は痛い目に遭うのだ。現実と童話を混ぜるつもりは無いけれどこれまでの僕の人生は、どう見ても事実は小説より奇なり、だった。──とは言え、僕には救出の代償として差し出せる物があまりにも少ない。彼の言葉は続く。──僕の知っている情報。そうだな……涼宮さんの話なんて如何です?涼宮さんに関してならば、機関がそれこそ総出で調べ上げている。彼女について知らない事は無いと言える程だった。だけども。──でもこちらの涼宮さんはご存知無いですよね?会話を続けるうちに、彼が何なのか、朧げに察しが付いてきた。先日彼の言っていた異世界の僕なのだろう。何故その僕が、今僕の目の前に現れるのかは解らないけれども。「あなたがこちらに来たらバランスが崩れるのでは無いでしょうか」僕の問いかけに彼は目を瞬かせた。──それは大丈夫ですよ。その根拠は何だろうか。──そちらの涼宮さんは神様なんでしょう?──なら神様が居る限り、そちらの世界は安泰なんじゃないんですか?何処か皮肉げに、彼はそう言った。
「……いえ、そうでもありません」鏡の中の僕は知らないのだろうか。機関に属する僕らが日々何の為に東奔西走しているのかを。「神は無自覚ですから。何が起こるとも解りません。我々はそんな世界を守る為に──」──守ろうと思えて守る事が出来るのなら、遥かにマシですよね。説明しようとした僕の言葉を遮って、鏡の中の彼が呟いた。──世界が不可抗力のままに当然終わったとしたら、どう思います?僕は言葉を失った。それは、ある意味三年前に僕が経験した事だ。ただ、僕の場合は何も無い平凡な日常の世界が突如無くなり非日常の世界に足を踏み入れただけだが。「あなたの世界は……今どうなっているんですか?」洋館で説明してくれた際、彼は異世界についてどう言っていただろうか。肝心な所が思い出せない。彼も自分が居なくなった後、その世界がどうなるのか解っていなかったのでは無いかとも思える。
僕の問いに、鏡の中の僕は口を笑みの形に歪めただけだった。──ここは狭くて寒いんですよ。出られるのなら出たいものです。その言葉には切実な響きがあった。──あなたなら解りますよね?突如日常を奪われるこの理不尽さが。解らなくは無い。だけど、今の僕は現状に不満は持っていないのだ。
──それは本当ですか?何も不満が無いと?声に出したつもりは無いのに、彼がさらに問う。僕は今の自分に不満は無い、はずだ。機関も、SOS団も、既に僕の中では欠かせない物になっている。──好きな人が居る事を自覚すら出来ないのに、ですか?急に話が飛んだ。そう思った。「僕に意中の相手は居ませんよ」それだけは確かなはずだ。僕に好きな人は、居ない。それなのに、鏡の僕は僕を見て笑う。──可哀相に。自分を騙し続けているんですね。そんなつもりは無い。そう思う。──では、僕をここから出してくれたら、本当のあなたを教えて差し上げますよ。それでどうですか?と鏡の中で手を差し伸べる。──僕はここから出られる。あなたは自分自身をもっと理解出来る。悪くないと思いませんか?本気にしてはいけないと、頭では理解していたはずなのに。
──僕をここから助けてくれませんか。素直に助けを求める僕が、何故か気になって。この時、僕は異世界の自分を哀れんだのだろうか。助けてやりたいと、思ったのだろうか。僕は躊躇いながらも鏡に向けて手を伸ばし。本当に鏡に映したように左右間逆の手と手が触れ合う。その瞬間、鏡の中の僕が目と口を三日月のように歪めたのが見えた。
直後視界が暗転した。
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