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「ただいま」
「夕利、いつまで遊んでたの。もう日が暮れてるじゃない」
「ごめんなさい、ちょっと雨宿りしてたから遅くなっちゃった」
家に入り早々飛んできた母親の小言に、あたしは平気な顔で理由を言う。
「あら…そういえば服濡れてるわね。風邪引いちゃうから、お風呂入っちゃいなさい」
「はーい。あ、今日、晩ご飯いらないよ。外で食べてきたから」
部屋に入って着替えを手にし、ぺたぺたと足音を立てて風呂場に向かう。
そして服を脱ぎ風呂場の鍵を閉めて――あたしは、その場にへたり込んだ。
「…はあ…」
理由のどこにも、嘘は無い。雨宿りだって外でラーメン食べて帰ったのだって本当だ。
なのになんでこんなに胸がドキドキするのだろう。
*
「まあ、男に二言は無いからな。えーと、ネギチャーシューふたつ!あ、オレのは大盛りで!!」
「あ、ずるーい乾!」
競争の末に駆け込んだ先のラーメン屋で、あたしは水を飲みながら息を整える乾に文句を言った。
「何言ってんだよ。オゴるのはオレなんだから、ズルいも何もねーよ。
それに、さっさと食って出ねーと、もう日が暮れてんだぞ?オマエ、卒業式ん時だってやたら食うの
遅…」
途中まで口にして乾はしまった、という顔をした。思い出してしまったのだ。
――卒業式の日。あたしと乾が、はっきりと分かる形でフラれた日。
フラれた者同士、ヤケ食いしてパーっと忘れようぜって乾は誘ってくれたけど。
苦しさと涙でしょっぱくなったラーメンは、とてもじゃ無いけれど食べられる代物じゃなかった。
「…悪い、無神経だった」
呟いて、バツの悪そうな顔のまま乾はコップの水を飲み干した。
賑やかな店の中、あたしと乾の間だけ、しばらく時間が止まったみたいに静かになる。
「…ほんと、あの時のラーメン、おいしくなかったよね」
水差しに伸びた乾の手が止まる。あたしは、おしぼりを手で弄びながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「だからさ、今日は、ちゃんと美味しく食べようよ。前に残しちゃった分も。お腹空いちゃってるし、
…ね?」
お待ちどうさん。丁度いいタイミングで、目の前にネギチャーシューメンが二つ並ぶ。
ほわほわと立ち昇る湯気の温かさに、あたしは目を細めた。
「――…強えーな、一口」
ぱきん、と口で割り箸を割りつつ、乾が呟く。そしておもむろに自分の丼からチャーシューを三枚、
あたしの丼によそった。
「やる」
それだけ言うと、乾は黙々と大盛りのラーメンを啜り始めた。何で、とは思ったけれど、聞いちゃ
いけないような気がしたので、同じ
ようにあたしも黙って食べることにした。
乾と食べる二度目の食事は、お腹と胸にじんわり温かくて、こういうのも悪くないなって、少しだ
け心の隅で思った。
*
「――強えーな、か」
ノズルを固定し、頭からシャワーを浴びつつ、あたしは乾の言葉を反芻した。
本当は、そんな事無い。まだ全然振り切れてない。
だからこそ、今日だってとんでもない理由をつけて乾を振り回していた。
きっと断らない。心でそう決め付けて。
「…乾だって傷ついてるくせに」
つう、と背中に水滴が流れた。
――あの時と同じ、温かい滴。強く強く抱きしめながら流していた、涙。
正直苦しかった。ただでさえ馬鹿力な乾の力一杯の抱擁は、今もあたしの二の腕に痕を残している。
けれど、嫌じゃなかった。
乾の体温と、心臓の音がゆっくり体中に伝わってきて…どっちかって言うと気持ちよかった――。
…え?
「き、気持ちいいって、あたし何考えてんの?」
自分の思考にツッコミを入れ、シャワーの栓をさらに緩める。
ざあああああっ。
全身に強い飛沫を浴びつつ、あたしは一番思い出すのが恥ずかしい記憶を必死で消そうとした。
それなのに、忘れようとすればするほど明瞭に思い出してしまう。
そうだ、あたし、裸の乾に裸のカラダ、抱きしめられてたんだ。…ううん、それだけじゃない。
――あたし、乾のおちんちんを自分のアソコにくっつけてたんだ。
途中、乾が「女の子がそんな言葉使っちゃいかーーーーん!!!!」と叫ぶ姿が思い浮かんだが、コン
マ1秒で追い払う。
問題はそこじゃない。
「ちょっ、ちょっとあたし何て事しちゃったのーーーー!!!?」
あたしはあまりの恥ずかしさに絶叫し、再び風呂場にへたり込んだのだった。
*
「夕利どうしたの?お風呂で叫んだりなんかして」
「…ん、なんでもない。ちょっと変な虫がいて驚いちゃっただけ」
ふらふらになりつつ、風呂の外で目を丸くさせてた母親にぼんやりと言葉を返す。
「おやすみ」
「あら、もう?昼間に録っといた『アタック25』観ないの?」
「…それ明日観るから。絶対消さないでよ」
前科のある母親にクギを刺し、自分の部屋に入る。
今日のアタックチャンス面白かったのにねーとぼやく親の独り言もそこそこに、あたしは部屋の中
電気も点けず、ぼふんっと頭からベッドに突っ込んだ。
「はぁ…」
どうしてくれんのよ。さっきから頭ん中離れてくんないじゃない。
そりゃあたしが原因だってわかってますよ。ええ。
わかっててお酒飲んだのも、乾のチンコ貸してって言ったのも…それをアソコにくっつけたのも全
部あたしよ。
けれど。…けれどねぇ…。
「あんなにおっきいなんて思わなかったわよーーーーっ!!!!乾のバカーーーっ!!」
足をバタつかせ、枕に顔を押し付けながら、あたしは叫んだ。
(もちろん、声は枕の中でモゴモゴとくぐもった声に変わっている)
――乾のアレは、大きく、図太く、重く、そして大雑把すぎた。それはまさに肉塊だった。
更に乾自身はといえば、全く自覚が無かったのだから、本当に始末に負えない話だと思う。
「あんなの…入らないよね…」
というか、まず壊れる。『処女殺し』どころの騒ぎではない。
となると、あの時フロントから電話がかかったのは自分にとっては正に、天の助けだったとしか言
えない。
…着替え中に悶絶していた乾には悪く思ったが。
「……」
――…それでも。
それでも、あの時は受け入れていいと、本気で思ったのだ。
「気の迷いだけどーっ!!一瞬の幻覚だけどーっ!!」
枕の中で必死に打ち消しても空しさばかりが残る。
…ああもう、何でこう思い出したくないことばかり思い出しちゃうんだろう。
「…はあ」
今日何度目かの大きな溜息で顔を押し付けた枕に熱がこもる。あーあ…これってヤバいのかなあ?
あたしどんな顔して明日、アイツに会えばいいんだろう。
*
『~♪』
カバンに入れっぱなしだった携帯電話から着メロが鳴ったのは、そんな時だった。
曲名は『LA BOHEME』――この曲だと、相手は。
ピッ。「…乾?」
『出るの遅せーよ一口。どうせまたあのオッサン臭い着メロ聴いてたろ』
着信ボタンを押して早々、なぜ人の着メロにケチを付けられないといけないのだろう。
「別に中森明菜はオッサンじゃないもん。それより何よ急に」
『ん?あー…まあ、急用って訳でもないんだけどさ…』
歯切れの悪い乾の言葉に、あたしはだんだんムカムカしてきた。
何でこんな奴のことであんなに悩んでたんだろう。
「急用じゃなかったら、明日学校で話せばいいじゃん。じゃあ、切るよ」
『わーっ!待て待て!!…えーと、今日はありがとな』
「え?――…何が?」
電話の向こうでぐっ、と息を詰まらせる音が聞こえた。
『何がって…その、色々と。…あ、ホラ、矢射子先輩絡みで踏み込んだ話できんの、オマエだけだし』
どきん。
意味は違うってわかってても、最後の言葉に心臓が強く音を立ててしまう。
本当、勝手だなあ。自分で自分の体のコントロールもできないなんて。
『そ、そうだ!…その、アレ…内緒だからな』
「乾が全裸であたしに抱きつきながら、ボロボロ泣いてた事?」
『っ…!!それもそうだけどっ!!…ヘンな言い方すんなよな。――…先輩が阿久津とラブホ入ってった
事だよ。あんなの周りに知られたら問題じゃねーか』
内容が内容なだけに、乾の声が小さくなる。
そしてあたしはといえば――分かっていた話の筈なのに、なぜか胸に穴が開いたような、ジェット
コースターの下り始めのような、何とも表現しにくい気持ちになった。
ああ――そうだよね。
乾の一番好きな人も、お姉さまなんだ。
『聞いてんのか?…一口?』
「…聞いてるよ」
あたしはあくまでも、同じ相手が好きなライバルで、同好の志とかいう類に過ぎない。
あの時流した涙だって、お姉さまに向けられたものだった。
断じて、あたしにじゃない。――やだなぁ。何変な勘違いしてたんだろ。
『…泣いてるのか?おい、泣くなよー』
沈黙に、電話の向こうから乾のオロオロした声が聞こえる。
ばか。
「――…泣いてないよ、バカ犬」
泣く訳ないじゃない。あんたの為なんかに。
泣くもんか。
今さっきまで感じていた胸の高鳴りが、嘘のように引いていく。
――大丈夫だ。これであたし達はまた、いつも通り。
何も変わってない、いつもの二人になれる。
「ありがと」
あたしはそっと目を閉じ、一言だけ礼を言った。
乾には上手く伝わらなかったのか、しどろもどろな言葉が返ってきたが。
それから、明日の小テストの範囲や近く行われる体育祭の事など、他愛もない話をしばらく続け、
電話を切った。
携帯電話のディスプレイを閉じたあとの部屋は真っ暗で、カーテンを開けっ放しにしていた窓から
見える星空が、やけにはっきりと見えた。
******
「――…ふう」
充電器に電話を突っ込み、大きく息を吐く。
電話先の一口は、オレの心配など不必要なほどに、いつも通りの一口だった。
…家に帰ってしばらく、今日起こったとんでもない出来事について考えていたらどうにもならなく
なり、意を決して電話をかけたのが1時間前。
――結果、一口の態度のおかげで、オレ自身ようやくいつものペースを掴むことが出来た。
多分、一口にはオレがそれまで何を考えていたかなんて、これっぽっちも伝わってないだろう。
けれど、これでいいんだ。
オレと一口が今まで通りの関係であり続けるために。
いつかは雨が止むと分かっていながら動くことの出来ない、雨宿りの二人で居続けるために。
ヘタレの言い訳だってのは百も承知だ。
――…けれど、オレは本当に馬鹿だから、他に方法が見つからない。
「……」
オレはしばらく目を閉じ、大きく息を吸い込むと、ベッドの上に散らかしていたスウェットとパー
カーを着込み、部屋を出た。
「ちょっと、ランニング行って来る」
言い残して玄関の鍵を持ち、オレは夜中の住宅街へと足を踏み出した。
昼間の雨が嘘のように空は晴れ、頭上にはいくつもの星が瞬いている。
けれど、オレにはその星々が、未だ降り止まぬ雨粒のように見えた。
最終更新:2008年02月01日 13:43