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 暗闇の中、ひたりと頬を撫でられる手の感触。
 それが自分の手で無いという事は、後ろ手に縛られた感覚から分かっていた。
 じゃあ、この手は誰のものなんだろう。頬を滑る指が半開きの口に潜り込む。

 ――くちゅ。

 ぞくっ。口の中を掻き回され響く水音に、軽く身が震えた。
 反射的に口をすぼめ、与えられているもどかしい快楽を逃さまいとする。
 …相手は誰なんだろう。
 心の底でちりっとした焦りを覚えつつ、それでもキモチ良さには逆らえないなんて。

 柔らかくて、細い指。…あなたは、誰なんですか?

 ――…い。
 ――ぬい。

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「乾一!いつまで寝とるか!!」
 三年C組に野太い怒声が響き渡るのと同時に、あたしの真後ろの席から、ごっごんと机に何かがぶつ
かる音がディレイで聞こえた。
「…っ、はい!何でしょう!!」
「何でしょうじゃない馬鹿者!あと元気がいいのは返事だけでいい!」
「へ?…!!」
 指摘され、二重の意味で立ち上がっていた乾が慌てて席に座る。
 同時に、クラス中に男子のげらげらという笑い声が満ちていき、恥ずかしさに、あたしまで頬が赤く
なった。

 やっぱり、男子って馬鹿。特に後ろの。
 何で寝てる時にまで――…。
「ばか」
 こっそり呟いた声は、授業終了のチャイムにかき消されたのだけど。

「乾ー、三年になって余裕だねえ。大学行かないの?」
「ただでさえアンタ学年ビリじゃん。え?何就職?」
「やめときなよー。今時高卒ってロクな仕事見つかんないよ?」
 休憩時間になって早々、乾の机の周りにクラスの女の子が集まってくる。
 みんな乾の『気のいい女友達』という感じの人々だ。
「好き放題言うなあ…オレだってそりゃ考えてるって」

 どうだか――あたしは心で悪態を吐きつつ、黒板の前に立った。
 週番の仕事が、今週はあたしの番なのだ。
 ついでに言えば、週番は男女二人組の仕事であり、あたしの相手は乾だったのだけれど。

「もし良かったら、知り合いんトコの現場で働くー?初心者カンゲーだって」
「だーかーらー、オレは進学だって言ってるじゃねーか」
 女の子に囲まれて、からかわれながらも笑う乾の姿を見て、声を掛けるのをやめた。

 別に乾自体はどうでもいい。
 けれど、こういう時下手に声を掛けて、周りの女の子から不必要な反感を買うのだけは避けたかった。
 女子の間柄というのも、かくもややこしいものなのだ。
 小さく息をこぼし、あたしは黒板消しを持った。

「い、一口さん、よかったらボクも手伝おうか?」

 ふと声に振り返ると、額から汗を流しつつ自分に声を掛ける大柄な少年の姿があった。
「坂田くん。…いいの?」
「ほ、ほらボク高いところも手が届くし、あの先生みっちり書き込むから…」
 坂田くんの言葉にも一理ある。
 平均よりはるかに低いあたしの背では、高いところに書き込まれたチョークの文字を消すのにも踏み
台が必要になる。はっきり言って、面倒くさい。

「じゃあ、お願いしていいかな。ありがとう」
 にこり。笑って応えると、坂田くんは更に汗を流しつつ、チョークの書き込みを消し始めてくれた。
 …あ。黒板にお腹くっついてるけど、いいのかなあ。
 服、汚れない?

******
 何へらへらしてんだか。
 オレは机に頬杖をつき、心で悪態を吐きながら、まだ抜けない睡魔と戦っていた。
 全く、古文なんて呪文の詠唱と同じだよな。それもラリホー系の。
「あ、坂田くんっ、汗、汗!!」
「え、あ、ご、ごめん!」
 あーあ。坂田の出っ腹で黒板水拭き状態じゃねーか。
 一口もニブいよなあ。アイツの下心気付いてないのかよ。
「いぬいー?聞いてる?」
「あ?何が?」
 やべ、聞いてなかった。
「だから最近乾、本当に授業中寝すぎじゃないかって聞いてたの。進学はいいけどさー、アンタもしか
してもう一回三年生やるの?」
「何かやってんの?あ、またバイトとか?」

 知ってどうすんだろう。
 思ったが、適当にいろいろだよ、とはぐらかした。

 オレは、今周りにいる女子がオレに対して何かを知りたいと本気で思っている訳じゃない事を知って
いる。
 TVの番組、雑誌の1コーナー、新譜のCD、2ちゃんの新スレ。
 日常を作るパーツの1つ。いや、最後のは特殊か。
 まあとにかく――そういう目でオレを見ているに過ぎない。
 別に不快じゃないけれど、だからといって心地良くもない、微妙な間というやつだ。
「あれ、乾また寝てんじゃない?」
「起きなよ――…」

 次は、丘の授業だっけ。…意識が遠のく中、オレは何かを忘れているような気がした。

「――もう三年も折り返しを越えてる時期だろうが。…オマエの場合はルリーダ先生からも話を聞いて
るが、教師全員寛容なわけじゃない。これ以上下手を打つと留年も洒落で済まなくなるぞ」
「…はい」
 ホーミングチョークでコブの出来た頭をさすりつつ、オレは職員室で丘の説教を聞いていた。
「わかったら教室に戻れ。次やったら鼻の下にキンカン塗るからな」
 アンモニア入りの為、鼻の下などに塗れば悶絶必至である。
 『目の下にメンソレータム』と双璧を誇る罰に青ざめながら、丘に頭を下げる。
「すみません。――失礼します」
 ぴしゃり。職員室の扉を閉め、オレは大きく溜息をついた。

「バカ犬」

「!!」
 ぼそっと肩の辺りから響いた声に、心臓を掴まれたかと思った。
「な、何だよ一口…驚かすんじゃねーよ」
 斜め下を見ると、変なマスコットの髪飾りとぴこんと跳ねる一つ括りの前髪が見えた。
 こんな頭の知り合いなど、周りには一人しか居ない。
「驚くのは、自分の行いの悪さのせいでしょ」
「つか何でオマエ職員室の前…うわっ!」

 どかっ。

 尋ねようとしたら、いきなり分厚いプリントの束を渡され、オレは危うくバランスを崩して転ぶとこ
ろだった。
 何なんだ一体。
「今日の5時限目、自習だからプリント取りに来たの。それ乾の持つ分だから、よろしくね?『週番
さん』」

 ――あ。

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「人が悪りーな一口。オレが週番だって、さっさと言えばいいのに」
「何言ってんの。朝は朝で予鈴スレスレまで教室来ないし、休み時間までぐーすか寝てばっかりだった
じゃない」
「…スミマセン」
 プリントを抱えたまま、乾が肩を落としつつ謝る。
 あまりにもしょんぼりした姿――人によっては『雨に濡れた子犬系』とでも名付け、愛でるのでは
ないだろうか――に、あたしは大きく息を吐き、明日からはちゃんとしてよね、と前を向き言った。

 ――そうだ。あたしはふと思った事に対し、尋ねてみた。

「乾、何で最近学校来るの遅いの?」
 二年の時はそうでもなかったように思っていたのだけれど。
 質問に乾はしばらく答えを探すように黙ったあと、ヤボ用だよと答えた。
「野暮?」
「い、いいだろ別に。ホラ早くしねーと、5時間目始まっちまうぞ」
 言い捨てて廊下を走っていく。
 一歩走るごとに揺れる、乾の一つ括りにした後ろ髪を眺めつつ、あたしは言い訳が下手なヤツ、と一
人呟いた。
「ちょっと、プリント落とさない――…ん?」
 ふと立ち止まった教室の前で、あたしは妙なものを見てしまった。
 いや、そのクラス――三年F組――は、クラスのメンバー上、妙なものがかなりの頻度で(ちなみに
その正体は、ほぼ間違いなく一人の人間離れした体格の変態だったりするのだけれど)見受けられるが、
今日見たものは、少々勝手が違っていた。

「…阿久津くん?」
 休憩時間のF組。
 がやがやとにぎわうクラスの中で一人だけ浮いてる…というか、燃え尽きている男の姿。
 いつも変なことに巻き込まれて、悲惨な目にあう確率の高い彼――阿久津宏海の真っ白になっている
姿が、あたしの視界に入ったのだ。
「……」

 いつもなら、良くある事と思って気にしない。けれど今日は何故か気になった。

「おーい一口!早くしねーとプリント配れねーぞ!」
 C組の扉から顔を出し呼ぶ乾に、はっと我にかえる。
「あ…わかったから大声で呼ばないでよ!」
 本当、デリカシーに欠けるヤツ。あたしは口をへの字に曲げつつ、その場を後にした。

 5時限目は英語の自習。
 プリントは仕上げられなければ即宿題と化すので、皆が居るうちに答えを写…教えてもらい、仕上げ
るのがお約束だ。
「…んがー…」
 …まあ、お約束に当てはまらない馬鹿も居るけれど。
 自分のプリントにペンを走らせながらあたしは、背後から聞こえるイビキに小さく溜息を吐いた。

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「んー…っ、はあっ」
 HR終了のチャイムと同時に背伸びをする。首を回すと、こきこきといい音が響いた。
 ここ最近の寝不足も少しは解消されただろうか。
「さてと…」
「帰んないでよ乾」
 帰るか、と言いかけたオレの口の動きは、くりんっ、と振り返った一口のセリフに遮られた。
 手には学級日誌のオマケ付きだ。
「忘れてたでしょ」
「あー…忘れてた。そういや書かなきゃなんねーんだよな。…なあ一口、1時限目って何やってたっk
あふっ!?」

 ばちーん。

 日誌のページをめくりながら尋ねると、いきなりビンタが飛んできた。
 見れば一口の額には青筋が浮かんでいる。
 
 バシバシバシバシバシ!!!!!
「結局アンタは一日中寝てばっかだったじゃないっ!一緒に組むあたしの身にもなりなさいっての!!」
「あっあっあっあっ!」

 このバカ犬、と罵りつつ繰り出される、スナップの効いた往復ビンタを頬に喰らいながらも、快楽に
背筋がぞくぞくと震えだすのをオレは止められなかった。
 いや、わざとじゃないんだけどな。
 ちなみにこの(誰が呼んだかは知らないが)『C組名物SMショー』は、クラスからも生温かい目で
受け止められている。

 変なクラス。

「はあはあ…本当、乾ってビンタされてる時輝いた顔するよね…」
「おう。ついでに言えばもう2、30発は貰っても平気だぞ」
 腫れた頬の、じんじんと痺れる痛みさえキモチイイと感じる――それがオレの特性なのだ。
「えらそーに言うなっ!…ああもうわかったよ。日誌はあたしが書いとくから、乾はこれ写しとけ
ば?」
「?」
 赤くなった右手をひらひらさせながら一口が差し出したのは、数枚のプリントだった。
 三行見ただけで眠りに落ちそうな言語は、間違いなく今日の英語のだ。
「その調子だと、宿題になってもやって来なさそうだしさ。あたしが日誌書いてる間にでも仕上げれば
いいんじゃないの?」
「……」
「…何?」
「いや、一瞬オマエの後に光が差したような気がして…」

 これが神か仏かってやつなんだろうか。だとしたら神仏はずいぶんフレンドリーなんだな。

「礼なら坂田くんに言いなさいよー?あたしの分かんないところ丁寧に教えてくれたんだから」
「……」
 …なんとなく、さっきのセリフを撤回したくなったのは気のせいだろうか。

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 かりかり。かりかりかり。

 クラスメイトが部活やら帰宅やらでどんどん席を立つ中、あたしと乾の間では、シャーペンが紙の上
を走る音だけが響いていた。
「なー、ここのwhatの使い方なんだけど…」
「ん?ああ、これねー…」
 説明すると、乾はふーん、なるほどなあ、と呟きつつ、再びプリントに向かう。
 時折、ペンを持った手を口に添えたり、ペンの頭をかつんと机に当てたりしながら。
 多分この乾の姿ですら、色んな女の子に見出されて、手垢の付いたものなんだろうなあ。
 難しく考え込んで寄せる眉も、伏せたまつ毛の長さも。

 ――ちくん。
 胸に、針で突付かれたような痛みを感じ、あたしはそれを全力で否定する。

「…なに考えてんだか」
「何か言ったか?」
「なーんにもー。それより乾、早くしないとあたしもう日記仕上げちゃうよ?」
「げ。待て待て、あと3枚だからなっ!」
 乾の慌てっぷりに小さく笑いつつ、あたしは日誌に目を落とす。
 本当は日誌なんて、とっくに書き上がっていたけれど。

「そういやさ、最近一口坂田と仲いいな」
 ぴたり、とペンを止め乾が尋ねる。
 『そういや』の流れなどない唐突な発言に、あたしはしばらく考えてしまった。
「そう…かな?時々手伝ってもらったりはしてるけど」
 いつも困ってる時にタイミング良く現れるんだよね。妖怪道中記のご先祖さまみたいな感じでさ、と
言ったら例えが古くて分かんねーよと返された。

 そんな古くないと思うけど。

「ふーん…オレはてっきり先輩に見切りつけたのかと思ったけどな」
「そんな訳ないでしょ」
 馬鹿げた質問をばっさり斬り捨てる。
「そういう乾はどうなのよ」
 仮にも、ドMでも『もて四天王』なんて呼ばれる男だ。
 引く手あまたなんて言葉も霞むくらい、本当は相手に困らない筈なのに。
「ねーな。先輩が例え阿久津のモンになっても、先輩はオレの憧れだ」
 どうして真っすぐあたしを見て答えられるのだろう。
「憧れ、ねえ」
「そゆこと」

 あたしは、憧れと恋が似て非なるものだと知っている。
 乾が強く想っているにも関わらず、阿久津くんからお姉さまを奪おうとしない理由も。
 だけど、言わない。それはコイツ自身気付いていないだろうから。
 そして、あたしも気付かない事を心の底で願っているから。

 ――本当、馬鹿だね。

 かりかりとペンを走らせる音を耳に心地良く感じつつ、あたしは西日の差し込む教室の中、ゆっくり
と眠りに落ちていった。

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 かつん。

 紙にピリオドの印を叩き込む音と共に、オレのプリントが完成したのは、西日が赤味を帯び始めた頃
だった。
「はー…出来た、っと。一口、そっちはど…」
 顔を上げ尋ねようとして、言葉が止まる。
 机をはさんで向かいに座る一口は、すやすやと微かな寝息を立てていたのだ。
「何だよ、自分だって寝てんじゃねーか」
 今と授業中が別物なのを棚に上げ、オレはひとり愚痴る。
「おーい一口、日誌書き終わってんのか?」
 へんじがない ただのし…じゃない、ずいぶん深い眠りについているらしい。
 週番の仕事で、朝一番に教室に来ていたという辺りに理由がありそうだが。
「…別にオレだって、遅刻してる訳じゃねーけどさ」

 それにしても、寝顔まで子供染みてるよなあ。無邪気っつーか、幼稚っつーか。
 くりっとした大きな目も、見た目に反して古臭い発言が目立つ口も、今はただひっそりとそこにある
だけだった。

「……」
 そっと、閉じられた学級日誌を手に取り、今日のページを捲ってみる。
 ちまっとした一口の字は既に書くべき全ての項目を埋めていた。

 ――なんだよ、とっくに書き終わってんじゃないか。

 ならば、いつまでも教室に居続ける理由はない。オレたち以外に誰も居ないなら尚更だ。
 立ち上がって揺り起こそうとして――オレは手を止めた。
 ふと、視界に留まった一口の手が、オレのおぼろげな白日夢を思い出させてしまったのだ。

 ――頬を撫でる、柔らかな掌。細い指先。

「…一口」
 一応呼んでみるが、相変わらず返事は無い。ど、くん。…どくん。どくん。
 早まるな、正気になれと頭の中のオレが叫ぶ。
 けれど体は叫び声に逆らうように、ゆっくりと一口の手を掴んでいた。
 小さくて、柔らかな一口の手。
 なんかコイツの体のパーツって、どこもかしこも小さいような気がする。
 オレは目を閉じ、静かに掴んだ手を自分の頬に寄せた。
 ほのかに温かい掌が、ひたり、頬を撫でる。
「……」
 ぞくっ。背中に軽く電流が走った。

 ――はっきり言って今の自分は、不審とかあやしいなんて言葉で片付けられないくらい変だ。

 もし今一口の目が覚めたなら、ビンタ100発どころの問題じゃない。
 分かっているのに、手が止まらなかった。
 オレは、夢の中のオレと同じで、触れられるキモチ良さに抗えないまま、ゆっくりと一口の指を自分
の口へと導こうとしていた。
 人差し指が唇を軽くかすめたその時――。

 ポーン。
『下校時刻になりました。生徒の皆さんは、すみやかに帰宅してください』

「!!」だんっ!反射的に手を机に叩きつける。
 ――義務的な下校放送の声により、オレは危うい倒錯の世界から、ギリギリのところで強制送還と相
成ったのだった。
「痛っ!?…あれ?あたし寝てた?…っていうか乾、何やってんの?」
「いや…何でも…」
 本当、オレ何やってんだよ。
 一口に背を向け、赤くなった顔と昼間同様に熱を持ってしまった股間を悟られまいとする姿は、間抜
け以外の何者でもない。

 いや本当に、何やってんだ。
 一口相手に。

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「おー、もう星出てるなー。秋の日は鶴瓶ポロリって言うけど本当だな」
「そんな言葉聞いたことないけど、本当、もう真っ暗だねー」
 街灯の光に、吐いた息が微かに白く染まる。いつの間にかそんな季節になったのだ。

 何も変わってないようで変わり続ける。冬服になって尚感じる寒さに、あたしは軽く身を震わせた。

「にしても、わざわざ送んなくていいのに。…乾ん家、方向違うでしょ」
「ばっか、季節の変わり目ってのは変なヤツが多いんだぞ?それに、帰るのが遅くなったのはオレのせ
いでもあるしな」
 変なヤツの中に自分を入れてない辺りが、乾の乾たるところである。
 そりゃ確かに、意外と紳士的なところは評価していいのだろうけれど。
「あ、それとな、朝の教室の鍵開け、明日からオレやっとくから。一口いつも通り学校来るんでいいか
らな」
「え?…乾いいの?」
 予鈴ギリギリから急に朝一番の登校は大変じゃないのかな。
「どうせ補習のついでになるしな。ちょっと遠回りになるだけだろ」
「補習?」
 初耳だ。あたしの言葉に乾はちょっと考えた顔をして、体育のだよ、と答えた。
「オレ、スポーツ推薦狙っててさ。でも部活入ってなかったから色々面倒な事になっててなー…。で、
困ってた時、ルリーダ先生から、新しく学科が出来た所が遅くまで積極的に募集してるからどうだって
話持ち掛けられて…」

 前を向きながら、照れ臭そうに語る乾の言葉はしかし、途中から聞こえなくなっていった。
「――…でもしなきゃオレ普通に大学行けねーもんな。…一口?」
「…え?」
「え?じゃねーよ。話振っときながらぼーっとしてさ。何だよ、風邪引いたか?」
 ――違う。けれど、言葉が出てこなかったので、代わりに首を振った。
「そうか?でもなんか顔色ヘンだぞ?やっぱ熱あんじゃねーの?」
 そう言って額に当てようとした乾の手を、あたしは反射的に身をよじり拒んでしまった。

「…!!」

 街灯に照らされた乾の顔が、不自然なくらいこわばる。あれ、あたし、何で。
「…っ、もう…家すぐそこだから、今日はありがとね」
 あたしは一気に言葉を放つと、振り向く事もせず走って乾の元を離れた。
 どくん。どくん。どくん。
 全力疾走の体に、晩秋の風が冷たい。けれど全然気持ちよくない。

 驚いてたのだろうか。
 ひそめた眉も、見開いた目も、堅く閉ざした口も、全部見覚えのある部分なのに、あたしの知らない
乾の表情だった。

 ――何も変わってないようで変わり続ける。
 さっき思い浮かんだ言葉が、呪文みたいに頭をぐるぐる回って離れない。
「…はあ、はあっ…けほっ」
 家のすぐそばで足を止め、息を整える。
 あんなに走ったのに、体がぞくぞくして、震えが止まらない。

 ――何も変わってないようで変わり続ける。
 乾も、お姉さまも、阿久津くんも、みんな、みんな。
 ――あたしは?

 ポケットの中の携帯電話から『DESIRE』の着メロが響いた。
 けれどあたしは、いつもならすぐに取るはずの、一番好きな人からの電話さえそのままに――。
 ただ道の真ん中で立ち尽くす事しか出来なかった。