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 その人の名前を知ったのは、生徒会選挙の日。
 共学で、女子の生徒会長候補者なんて、珍しさから結構気後れしてしまうものなのに、演説の壇上に
上がったあの人の瞳は真っすぐで、あくまで毅然としていて。
 ――この人が会長になるんだ。投票前からあたしは確信していた。
 実際会長に決定した時、あたしは自分の事のように嬉しくて、その日は眠れなかった。
 いつかあの人に近づきたいと思っていた。
 あの人の傍に立って、あの人に振り向いてもらって、あの人に触れて――。

 ――けれどあの人は、あたしじゃない、違う人を見ていた。
 それは、誰よりもあの人を見ていたあたしが知る、残酷な真実。

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「ふあぁ…あああふっ」
 朝もやも漂う通学路には、学生の姿なんてまだない。運動部の朝練に向かう部員が関の山だ。
 そんな中を大あくびしつつオレは、早朝の補習を受けに学校へと向かっていた。

 ――元々お前は身体的に推してしかるべき能力を有している。が、私の推挙を得るならば、もう少し
鍛えた方が良いだろう。

 数週間前の体育教官室で鉄アレイ(12キロ)を軽々と持ち上げながら、体育教師・ルリーダが微笑み
と共に語りかけた言葉に端を発するこの補習だったが、何か騙されている気もしなくないのは、オレの
考えすぎだろうか。
 ――いや、疑っちゃいけないよな。
 先生だって放課後は部活があるからって、わざわざ朝に時間割いてくれてるんだし。
 でもなんで先生の机、『打倒 あいす』なんて貼り紙がしてあるんだろうな?

 つれづれと考えつつも、気が付けば学校にたどり着いていた。
 ――おっと、ダメだ。今日は直接体育館に行っちゃいけないんだよな。
 慌てて向きかけた足を職員室方面へと向き直し、オレは立ち止まった。

 ――っ、もう…家すぐそこだから。

 昨日、オレが何の気もなく出した手を拒んだ一口の表情が、脳裏をよぎる。
 一瞬だけ見えた、泣きそうな、困ったような顔。
 オレのうしろめたい部分をえぐるような目をしていた。
「…」
 気付い…たのかな。放課後の教室で、オレがやっちまったコト。
 何であんな事をしたのか、自分でも理由が分からないのが更に苛立たしい。

「失礼します」
 職員室の扉を開け、声を掛けると丁度クラス担任が電話応対をしている所だった。
 いくつもの鍵が掛かっているコーナーから自分のクラスの鍵を取り出し、そのまま出て行こうとした
時、かちゃりと受話器を下ろす音がした。
「おい乾、ついでに日誌も持って行け。――今日、一口休みだから」
 ――え?
「休み、ですか?」
「うん。風邪だって、さっき連絡が入った。残念だったなあ。あいつ今まで皆勤賞だったのに」
「…はあ」
 学級日誌もついでに受け取りつつ、オレは担任の独り言をぼんやりと耳にしていた。
 やっぱり、体調崩していたのか。妙に赤い顔してたもんな。

 でも。
 それでもやっぱり、アイツが休んだのはオレのせいじゃないかなって、心の隅で思った。
 多分、それは間違いじゃない。

******
 ぴぴぴぴ。ぴぴぴぴ。ぴぴぴぴ。

「38度2分、結構高いわねえ。…お母さん休んで病院いこうか?」
「いいよ別に…けほっ、薬飲んだし寝てたら治るから」
 枕元で中腰の姿勢のまま顔を覗き込む母親に、あたしは咳き込みながら言葉を返した。
「パートだって、そんな気軽に休めるものじゃないんでしょ?」
「でも夕利、ここ数年風邪なんて引かなかったじゃない」

 子離れ出来てないなあ。

 冷却シートを額に貼る、ひやりとした指先を心地良く感じながらも、ちょっとだけむず痒さを憶えて
しまう。
「大丈夫だって。あ…そうだ、仕事の帰りに桃ゼリー買って帰ってくれると嬉しいな」
 半分割りのがごろんってしてるの。

 そう言うと母親は、根負けしたのを認めるかのように大きく溜息を吐くと、お粥は台所にあるからね、
と呟いて立ち上がった。
「それじゃ、体はあっためなさい。――行ってくるから」
 ぱたん。部屋のドアが閉まり、あたしはゆっくり目を閉じた。

 頭の中がもやもやする。寝ているのに陽炎の中に立っているような、変な感じ。

 …風邪で学校休むなんて、何年ぶりだろう。
 少なくとも高校に入ってからは一度も休んだ事はなかった。
「けほっ」
 寝返りを打つついでに、枕元の充電器に差し込んだままの携帯電話を手にする。
「――…ごめんなさい」
 着信履歴には、一件の不在着信。
 『お姉さま』と書かれた着信履歴に向け、あたしは小さく謝った。

 昨日は、結局電話には出られなかった。
 何度もポケットの中で鳴る『DESIRE』を聞きながら、あたしは、あたしの中でざわめいていたよく分
からないものに対して戸惑う事しか出来なかったのだ。
 そんな状態ではマトモな受け答えなんて出来やしない。
 ――きっと、余計お姉さまを困らせる。

 それは、嫌だった。
 今までの自分なら、どんなにいっぱいいっぱいでも、無理して喋っていただろうから尚更に。

 お姉さま。今のお姉さまを受け止められるのは、あの男だけなんですよね。
 ――あたしじゃ、ないんですよね。
 考えて、涙が出た。一人だけの考え事は、感傷的になりすぎて困る。
 今の『かわいそうな自分に酔う自分』を止めたいのに、いつまでたっても止まらない。

 せめて、隣にアイツが居てくれたらいいのに。
 悲劇の主人公はオマエだけじゃねーだろって、軽くたしなめてくれたらいいのに。

******
 頭の芯がぼんやりする。…眠い。体中に回った疲労感が眠気を更に助長させる。

 ルリーダ先生の今日の補習内容はウォーミングアップ代わりの鉄球避け30セットの後、徒手空拳組手
10本だった。――これ本当に補習だよな?
 どういう推薦の仕方をするのか少し気になるのだが…それより今は眠気と闘うのが先決だ。
 オレは、日誌の一ページをシャーペンの頭で叩きながら、気を抜くとがくりとなってしまう現状を、
崖っぷちスレスレで耐えていた。

「乾珍しいじゃーん。今日は寝てなかったよ」
「やれば出来る子だったんだねえ。エライエライ」
 …子ども扱いするなよなあ。同級生なのに。
「オレだって、鼻にキンカン塗るなんて言われたら起きるっつーの」
 くさりつつ言い返すと、今時キンカンって、と笑われた。
 あれ?キンカンって一般的じゃないのか?

「あ、今日一口さん休みだっけ。乾日誌ちゃんと書いてんの?」
 手元の学級日誌を目ざとく見つけた女子が、尋ねる。
 書いてるよ、と答えると、他の女子がそっかーじゃあ今日はSMショーは無しかー、とぼやいた。
「あれ面白いんだけどねー。アタシ達だと『えっ?いいの!?』って気になるけど、一口さん、いい意味
で遠慮ないから」
「そうそう」
 かつん。ページを叩く手が止まる。
 …改めてクラスメイトからアイツが休みだと聞かされるのは、何か変な気分だ。
 目の前の席は、ただの机と椅子でしかないなんて。

「…」

 何考えてんだろオレ。溜息を吐きつつ、オレは席を立った。
「あれ?乾どこ行くのー?」
「…眠気覚ましにトイレ行ってきます」
 何で敬語まじりなんだろ。多分これも眠気のせいだ。

 眠気覚ましついでに顔でも洗うか。
 軽い気持ちで足を踏み入れた三年男子トイレには、2名の先客が居るようだった。
「…でもよー。ここのSS、オレ出番少なすぎじゃね?オレ一応本編じゃ主役よ?」
「しょうがありませんよ。何せ王子の場合、ハードルが高いともっぱらの評判ですから。コレの書き手
など、『刺身セットの菊みたいなモンで、食っていいかどうかさえためらう』と周りに愚痴っていたそ
うですし」
「菊ぅー?あれ手抜いてるヤツってプラスチック製じゃねーの?…ハッ!つまりオレは三次元でこそ映
えるプラスチックドールってやつなのか?」
「違います」
 F組の百手太臓と安骸寺悠の二人は、普段から良く分からない会話を交わしているが、今日のはとり
わけ分からない。
 いつもならもう一人居るはずのツッコミ役の姿が居ない事もその理由だろうか。

 …まあ関係ないけど。オレは気にせず隣に立ち、小用を始めた。

「今だったらオレが傷心の伊舞なぐさめるSSリクエストするね…っと。…ムフフ、宏海のヤツも、今の
フヌケ状態なら簡単に伊舞引き渡しそうだしな」
「そうですね。身から出た錆とはよく言った物ですが。…矢射子と伊舞に同時に嫌われるとは、とこと
ん不運な男ですね」

「――!!」
 眠気が吹っ飛んだ。微妙に説明臭い会話だったが、そんなのはどうでもいい。
 阿久津が――矢射子先輩に嫌われた?

「そ、それどういう事だよ!!」
 オレは振り返り、既に手洗い場に立った二人に向け叫んだ。

 三年男子トイレに「ソルカノン充填120%!!?」「ヤツの弱点は雷です!!王子、早くサンダラを唱えて
ください!!」という絶叫が響いたのは、また別の話だ。

******
 最初に好きになったのは、物怖じしない強いまなざしだった。
 凛とした表情を、更に強く見せる眼光――あたしの周りにそんな人、今まで居なくて。

 だから好きになった。

 性別がどうとか、関係なかった。ただ、触れたいと、欲しいと思った。
 形のいい唇からこぼれる、メゾソプラノの声も、白くて細い指も、ポニーテールに結い上げた髪も、
全部、全部。

「…んっ」
 いけないコトだと分かっていながら、自分で自分のカラダを弄る事を覚えたきっかけも、お姉さまを
想ってだった。
 声が漏れないよう、布団の中に潜り込んで、パジャマのボタンの隙間からそっと胸を触る。
 薄っぺたいあたしの胸は、汗でじっとりとしていた。

 お姉さまの胸はすごく大きくて柔らかい。
 服の上からしか触った事ないけれど、桃みたいな甘い香りがする柔らかな谷間は、あたしの頭ですら
すっぽりと包んでくれそうだった。

「はっ…あ、くふっ…」
 吐息で熱がこもる暗闇の中、あたしの指は更に下へと降りていく。
 片手を胸に当てたままショーツの上から触れた部分は、じっとりと熱くなってて、指先がすこしぬる
ついた。

 ――ぷちゅん。

「……っ!!」ショーツに手を入れ、濡れた場所に直接触れた瞬間、快楽に背がくうっと引きつった。
 女の子なら誰でも持ってる、熱い部分。
 あたしにも、そしてお姉さまにだってある、大切なトコロ。
 ――今、あたしの指は、あたしを弄びながら、お姉さまをも弄んでいる。
 そう思うとドキドキが止まらなかった。
 ぷちゅくちゅと粘ついた水音が耳を、布団中を熱くする吐息が肌を責め立てていく。
「…っ、あっ、あっ、くぅっ、ん――…」
 お腹の底が切なく疼く。波が、もうすぐ、来――。

 ――…先輩が例え阿久津のモンになっても、先輩はオレの憧れだ。

「っ!!」
 いきなり頭の中に飛び込んできた声に、あたしの指が止まった。
「い…ぬい…?」
 布団から顔を出し、名前を呟く。外気の冷たさが火照った頬に容赦なく染み込んでくる。

 それは、昨日の記憶だ。放課後の教室で、アイツがあたしに向けて真っすぐ言い放った言葉だ。
 けれど、今のいけない一人遊びを止めるには十分な力を持つ言葉でもあった。
「…シャワー浴びよ」
 のろのろと起き上がり、すっかり用をなさなくなった冷却シートを額からはがす。
 時計の針は既に正午を回っていた。

『~♪』
 携帯電話から再び『DESIRE』が流れたのは、そんな時だった。

******
「…じゃあ、一口も話聞いたのかよ」
 放課後の誰も居ない教室は、意外と声が響く。
 オレは気が付いて慌てて声のトーンを落とした。
「いや、オレのは安骸寺たちからの又聞きだけど…じゃあもう少し話、詳しく聞かせてくれるか?」
 風邪をひいて喉を痛めているにも関わらず、一口はオレの要求に応えて、昼間掛かったという矢射子
先輩からの電話内容を教えてくれた。

 この前の日曜の事だ。
 その日、矢射子先輩は阿久津の家に招かれたという。
 家族――阿久津は父親と二人暮しらしい――との初めての顔合わせとなった訳だが、多少緊張しつつ
も、顔合わせは和やかに行われていた。
 時折、阿久津とその父親の間に、過剰とも思えるスキンシップがあったらしいが、それはオレの知り
たい話じゃないので割愛させて貰った。

 さて、問題は昼に起きた。
 昼食時となり、料理の腕には自信のある先輩は、すすんで台所に立ち、三人前の昼食を手際よく作り
上げていった。

「…うらやましいな」
『あたしもそう思うけど、まだ話終わってないよ乾』

 その日の献立は、鶏の照り焼き、蕪とがんもどきの煮物、小松菜のおひたしに三つ葉を散らしたかき
たま汁――。

「…腹減ってきたんですけど」
『馬鹿言ってると切るよ?』

 前もって特訓していた甲斐もあってか(一口曰く、女の子の努力というらしい)阿久津の評価は上々、
父親も、口数少なくなりつつも、きちんと平らげたそうだ。
 そして、この父親は食後の茶を啜りつつ、こう言った。
 ――いやあ今度の彼女が料理上手で良かった。前の彼女はとてもじゃないが、上手とは言えなかった
しな?宏海。

「今度の!?」
 オレはうっかり大声を出してしまった。電話の向こうで乾ウルサイと言われ、口を押さえる。
『なんかあたしが思うに…けほっ、そのお父さんが結構変わってる気がするんだけどね。…それでも、
お姉さまには寝耳に水な話よね』
「あー…確かに寝てる耳ン中にミミズ入れられたら驚くよなー」
『…切っていい?』

 なぜか怒りだした一口をなだめつつ、話は続く。
 がちゃん、と片付け中の食器を落としながら、先輩は当然阿久津に問い直した。
 ――宏海、前のってどういう意味?
 ――あ、そ、それはだな…その、説明するけど事情があってだな…。
 ――佐渡さんは、確かに器量は良いが、少々物言いがキツかったしなあ。はっはっは。
 ――うるせえバカ親父黙ってろっ!!や、矢射子勘違いするなよ。オレは…。

 ――言い訳なんて聞きたくないわよこの女たらしーーーーっ!!!!

 前の彼女というだけでもダメージ大な先輩。
 更に相手が阿久津に何かと縁のある佐渡あいすと来れば倍率ドン(←一口:談)である。
 先輩は、阿久津の頬を思いっきりひっぱたくと、割れた食器もそのままに阿久津の家を飛び出したと
いう。

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「けほっ…。それからお姉さまは、今の今まで予備校にも行かずに家に引きこもってるって訳。…で、
乾のほうは?」
 喋りすぎて痛くなった喉を押さえつつ尋ねると、乾は、オレが聞いたのはその続きだよ、と答えた。

 出て行ったお姉さまを追いかける為、とりあえず父親に数発拳を入れた阿久津くんは、アパートの入
口で一番あってはいけない人物に会ったらしい。

 ――…お兄ちゃん?朝、お父さんからメール貰ったんだけど。
 同じ色の髪をした少女――阿久津くんの実の妹で、伊舞ちゃんという――は、お姉さまが出て行った
方向をちらりと見て、尋ねた。
 ――お兄ちゃん、あいすさんと付き合ってたんじゃないの?何で急に相手変わってるの?
 ――いや…伊舞、良く聞け。オレは本当は佐渡とはそういう付き合いをしてない。今付き合っている
人が…オレの本当の彼女だ。
 阿久津くんは、腹の底を振り絞るような声で、妹に向けて言い放った。
 けれど、時は遅すぎた。

 目の前に立つ妹は、ぽろぽろと涙を落としつつ、こう言ったそうだ。
 ――じゃあ…あいすさんとは遊びだったんだ…それで、二股かけてたんだ…。
 ――わかってねえじゃねえか!なに勘違いしてんだ伊ぶべっ!?
 すぱぁん。お姉さまに叩かれたのとは逆の頬に、伊舞ちゃんのビンタが決まる。

 ――お兄ちゃんの馬鹿!最低!…お兄ちゃんなんか、大っ嫌いっ!!!!

「…そりゃ…すごいね」
『シスコンの阿久津からすりゃあ、そりゃもう死刑宣告よりひどい仕打ちだったらしくてよ。こっちも
日がな一日生ける屍みたいになってるって話だぜ』
 昨日見かけた『燃え尽きた阿久津宏海の図』が多分それに当たるのだろう。
『正直、自業自得って気もするけどな。阿久津が前もって説明していれば、先輩も妹も泣かさずに済ん
だんだしなー…けどさ』
「…うん」
 そうだ。問題は、起きてしまった過去を問い質し、責める事じゃない。
 お姉さまと阿久津くん、この二人のこれからの関係がどうなるかだ。
 
 あたしは、ためらいながらも、今考えている事を乾に話そうとした。
『一口…』「あのさ…」
 奇しくも同時に声を出してしまい、同時に黙り込む。
『…何だよ』
 乾のすすめる声に、あたしは小さく咳払いをした。
「…あのね、乾怒らないで聞いて。あたしは――二人の仲を戻したいって思ってるの」
『!!』
 電話口の乾が、息をのむ。当然の態度だ。

 あたしも乾も、お姉さまのことが一番大好きで、だったら、今こそ振り向いてもらう絶好のチャンス
なのだから。
 そんな時にわざわざヨリを戻させようなんて、馬鹿げているのかもしれない。
 
 けれど。

『一口…それでいいのか?』
 しばらくしてから返ってきた乾の声は、静かな響きがあって、無理に感情を押し殺しているようにも
思えた。
「…だって、お姉さま電話口で泣いてたんだもん。…っく、あ、あたしじゃっ、今のお姉さまの涙っ、
止められないんだもん」
 ――どうしてもっときちんと話を聞けなかったんだろうって、何度も何度も悔やんでいた。
 切ない、メゾソプラノの声。
 あたしは、布団の上に涙を落としつつ、昼間の自分を恥じた。
「ごめん、乾。本当に嫌だったら…今の話聞かなかった事にして」
 ぐしゅっ、と鼻をすすりつつ、あたしは乾の返事を待った。
 さすがに今回は、あたしのわがままで乾を振り回せない。そう思いながら。

 けれど、あたし一人の手で仲を取り持つ事になっても構わない、と思う気持ちも強く持っていた。

 ――ややあって、はーーっ、と長い溜息が携帯電話から聞こえた。
『…ばかやろう。病人がちょろちょろ動き回ったところで、風邪ぶり返すのがオチじゃねーか』
 電話先の乾の声は怒っていた。
 当たり前か、なんて思っていたら、乾は怒った声のまま、オレのセリフ取るんじゃねーよと呟いた。
「――…?それって…」
『オマエにばっか無茶な事させるかってーの。…オレも乗るぞその話。今さら断るなよ?あともう泣く
なよ』

 詳しくは明日な。
 そう言って切れた電話を握り締めながら、あたしはこぼれ落ちる涙を止める事が出来なかった。
「…っ、ごめん、ごめん乾…ありがと…」
 部屋のカーテンの隙間からは、あの日と同じあたたかな色の夕陽が差しこんでいた。

******
「……」
 充電切れスレスレの携帯電話のディスプレイを眺めつつ、オレは、しばらくさっきの会話を反芻し
ていた。

 ――あたしじゃ、今のお姉さまの涙止められないんだもん。

 それは、一口だけじゃない。きっと、オレにも出来ない事だ。
 悔しいけれど、矢射子先輩が好きなのは阿久津の野郎だけであって、オレたちの姿なんか眼中に無い
のは、事実だった。
「…仲を取り戻す、か」

「面白そうな話をしているな」

「うひゃおわっ!!!?」――がたたんっ。
 背後でいきなり聞こえた声に、オレはどこかの新喜劇よろしく椅子から転げ落ちてしまった。
「うむ。今のリアクションは中々いいぞ。往年の上島R兵を髣髴させる」
「あ、安骸寺…!?なん…」
 何で、と言いかけた口は、安骸寺のヒマだからだ、というセリフに遮られた。
「王子が時間ギリギリまで補習を受けている間退屈でな。何かないかと思ったら、一(はじめ)が興味
深い会話をしてるのが聞こえてな」
「それって盗み聞きって言うんじゃ…」
「そんな事より、今の話は例の二人に関してだな?」

 安骸寺の表情の読めない眼がオレを捉える。
 脳裏になぜかアナコンダと豆柴の向き合う図が浮かんだが、何故なのかよく分からない。

「あ…ああ、矢射子先輩と阿久「伊良子と藤木の対決…俺もREDは毎号買っているが、あれだけは先が
読めん」
「違げーよ!!何でそこでシグルった話になる訳?オレたち虎眼流!?つかせめてジャンプキャラでボケろ
よ!!」
 口走ってはっとなる。うっかり反射的にツッコミを入れてしまったが、少々言い過ぎた。
 安骸寺はうつむき、ふるふると震えている。
「…あ、悪い…」
「合格だ。今のつっこみ、協力に値するぞ一」
 へ?あまりの超展開に、頭の中が真っ白になってしまった。

「ど…どういう…」
「宏海と矢射子を復縁させようというのだろう?俺もその話に乗ったという事だ。…つっこみ一つ出来
ん宏海をこれ以上見るのもつまら…もとい、忍びないしな」
 安骸寺はそう言うと、にやりと口元だけで笑みを作った。
「よくわかんねーけど、協力してくれるなら助かる。…ありがとう」

 不気味ささえ感じる笑顔からわずかに目を逸らしつつ、オレは礼を言った。
 あの眼はどうも苦手だ。
 何というか、余計な部分まで覗かれている気分にさせられる。

「こっちは遅かれ早かれ動くつもりだったんだがな…俺にしてみれば一、オマエの方がよく分からんぞ?
今だったら矢射子の心など、労せずとも落とせるだろう。人の心は移ろいやすいからな――…そんな目
で睨むな。冗談だ」
 眉間に皺をよせ安骸寺はうそぶいたが、冗談にしてはタチが悪い。
「…義理立てすると思うのもいいがな、たまには自分の気持ちを冷静に見つめてみろ、という話だ。
今のオマエからは義理以上のものも伺えるぞ?」

 ――は?小難しい口調のせいか、理解するのに時間がかかってしまった。
 というかまだよく分からない。誰が誰に義理以上の…。
「ふむ、時間だな…失礼する。――安心しろこんな面白事、そう簡単に口外せん」
「え、いや…ちょっ、待て安骸寺…」
 オレの言葉をはね返すように、ぴしゃりと扉が閉められ、同時に下校放送が教室に鳴り響く。

 オレは、閉められた扉を睨みつつ、やっぱりあの眼は苦手だと思った。
 ――余計な部分まで、覗き込むなんて。