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 晩秋というより、もはや初冬に近い土曜の朝。
 雲ひとつない青空という陳腐な表現も、その通りなんだから仕方ないと開き直ってしまう程の快晴。
 なのに自分は何故、ここに居るのだろう。

「お姉さまー!次あれ乗りましょうっ!ジェットコースター今なら20分待ちですって!!」
 片腕に柔らかな感触を覚えつつ、百手矢射子は引きつった笑顔を浮かべていた。
「おい一口、あまり先輩にベタベタすんなよな!」
 矢射子を挟んだ向こう側で乾一が、矢射子と腕を組む一口夕利に向け文句を言うが、一口はどこ吹く
風のようだ。
「仮にも先輩は…「いいじゃない乾、お姉さまだって受験の合間の息抜きは必要よ。ね?お姉さま」
「あ…そ、そうね」
 そういう一口や乾も受験生じゃないのか。
 喉まで出かかったツッコミを、矢射子はぐっと飲み込んだ。

 関係のこじれた恋人、阿久津宏海との一件で塞ぎ込んでいた矢射子の元に、一口から誘いの電話が来
たのは、つい2日前の事である。
 気分転換に、との事で足を向けた遊園地だったが、胸に去来するのは、やはり空しさだった。
 ――そういや、宏海とはまだ、遊園地に来た事なかったっけ。

 …出来るなら宏海と来たかったなあ。

 ぼんやりと待ち時間に思い、溜息を吐く矢射子。
 その瞳にはいつも宿していた、凛とした光の姿は無かった。

「…ちょっと、本当に何とかなるんでしょうね」
 心ここにあらずの矢射子の後ろで、一口は更に後ろに並ぶ乾に向け、小声で囁いた。
「こっちは安骸寺にメール送ったぞ。あとは、向こうのメール待つだけだな」
 振り返る一口に、同じく囁き返す乾。
「何のんきな…」
「向こうにだって向こうの予定があるんだろうよ。――しかし」
 本当に、見てらんねーな。矢射子の背中を見て、乾はぽつりと呟いた。
 憔悴しきった矢射子の姿など、自分が一番見たくなかったものだった。
 けれど、今日はそれすら向き合わなければならない。
 心に受ける痛みなんて、全然気持ちよくないのに。

 ――頼むぞ阿久津。オマエじゃねーと、先輩は元に戻らねーんだからな。

 ぐっ、と目を閉じ、乾は心の中で一番頼りたくない相手に対し、祈った。

「……」
 所変わって遊園地『DESTINY LAND』入口。
 待ち合わせにやや遅れてやって来た阿久津宏海は、門の手前で揃ったメンバーに対し、しばし驚きの
まばたきを繰り返していた。

「遅いぞ宏海。どこぞのギャルゲーの如く『電車がモロ混み』だったのか?」
 まず声を掛けたのは、クラスメイト兼諸々の理由で腐れ縁の安骸寺悠だった。
「何メモリアルだよ。…いや、そうじゃなくて」

「そうよ赤毛!こんな乾いた空気の中で放置なんかされたら、アソコが切れちゃうじゃないの!」
『唇なら翠たま、さっきからリップクリーム塗ってたタマ』
 どうにも卑猥に聞こえる言葉遣いをするのは、悠の押しかけ何とか兼、妹の友人の魔法使い・地山翠。

 変わった語尾は翠の使い魔の精子(読みは『しょうこ』だ。読み違い厳禁)のものである。
「翠。…オマエはもう少しマトモな言い方覚えろ」

 そして。

「…はよ」
「…うす」
 姓は違うが、宏海の実の妹――星出伊舞。
 本来はニコニコとよく笑い、兄にじゃれつく妹ではあるのだが、今は仔細あって、互いの間には重苦
しい雰囲気が漂っている。
 ぼそりと掛けられただけの声も、宏海の胸に痛い。
 伊舞はくるりと宏海に背を向け、翠に、早くしないと混んじゃうよー?と声を掛けた。

「悠…あまり詳しい事言わねえと思ったら、こういう事かよ」
「Wデートだ。嬉しかろう」
 はっきり言って半分強制のようなものだった。
 今までの宏海の痴態が収められたDVDを盾に、『遊園地に来い』と脅されたのだ。
 ちなみにこの脅迫行為は原作でも割と頻繁に行われてるので、安心である。(何が?)
「妹相手はデートとは言わん。…気を遣ったのか?」

 ここ数日、不幸の重なった宏海の様子は、無残という言葉も生ぬるい程であった。
  普段人間関係に対し、冷めた目で見る悠でさえ、策を講じずに居られなかったのだろうか。

「…なんか、悪いな」
「いや。むしろ気を遣うのはお前のほうだろう」
 チケットを切りながら、悠は携帯電話を手に取った。

  何かチェックしているらしいが、宏海の位置からはよく見えなかった。

「なあ、そういえば今日、太臓はどうした?」
「王子なら一緒を呼んで、蔵出しAV鑑賞会をやっている。『10時間耐久抜かずレース』だそうだ。…何
だ、連れてきた方が良かったか?」
「全力で断る。――言いたくないが、『よくもありがとう』ってヤツだ」
 万年発情期のサルのようなあの変態が、今の状態でこの中に入ろうものなら、パニックに陥ること必
至である。
 即答した宏海に、悠は軽く笑い、ひねてるな。と呟いた。
「礼は受け取っておこう。…では、行くぞ」

 ゲートの向こうで、翠が大きく手を振る。
 男二人、ゲートをくぐりつつ宏海は、今日が平穏に過ぎますように、と心の奥で祈った。

「もー、悠さんたち遅いから、ジェットコースター1時間待ちになっちゃいましたよー?」
「すまんな。とりあえず軽めのから攻めてみるか」
「いやーん悠様ったら、朝から責めるなんてダ・イ・タ・ン」
『漢字が違うタマ』
 ――悠さんたち、か。微かな言い回しの違いすら、鋭い刃になって宏海の胸を刺し貫く。
「ここからなら、メリーゴーラウンドが近いな。今なら空いてるんじゃないか?」
「あはは、でも高校生になって回転木馬って子どもっぽくないですか?」
「そうでもないぞ。いい歳した大人だって三角木「馬鹿野郎!いきなり何言いやがる!!」
 ――いかんいかん。気を抜いている場合じゃなかった。
 コイツらに話を任せて、伊舞に良からぬ知識を植え付けるわけには行かない。

 たとえ関係がギクシャクしていようとも、宏海のシスコン魂は健在であった。だが。

「そうですよ!悠様、そんなの一般的では無いですわ!」
 珍しく、宏海の言葉を受ける形で翠が反論する。
「女の子だったらやっぱり騎乗「いいかげんにしろテメエら!!普通に遊園地の話しろよ!」

 微妙に単語が繋がっている辺りが、ツッコミの甘さを表していると言えよう。
 その位宏海は未だ本調子ではなかった。
 そして、そんな宏海の姿を伊舞は静かに見つめていたのだが――。
 鈍い宏海が、視線に気付かなかったのは、いつもの事だった。


「キャーーッ!!」ちょ、ちょっと乾、回しすぎ!!」
「まだまだっ!コーヒーカップの恐怖はここからですよ先輩!!」
 言うなり、乾は中央のボードを更に回した。
 遊園地の隠れ絶叫マシーン、コーヒーカップの醍醐味を知り尽くしたと豪語する乾は余裕の表情だが、
席を同じくした矢射子や一口はたまったものではない。
 矢射子のポニーテールも、一口の結った前髪も、真横にたなびいている。
「やーんお姉さまっ、クラクラしちゃいますーっ!!」
 ぽふっ、と音立てて、一口が矢射子の胸に倒れ込むのを目の当たりにし、乾の胸が鈍く疼いた。

 ――…一口は、本当はこうなる事を望んでたんだよな。
 先輩の傍に立って、先輩の声を聞いて、先輩の体に触れて。
 そりゃオレだって望んでいたけれど…一口の一途さは、オレなんかの比じゃないはずなのに。
 それでも、振り切るって言うのかよ。オマエ。

「…ほらっ、最大回転行きますよーっ!」
 ボードを回せるだけ回した矢射子達のカップは、もはや別次元の乗り物である。
「待って…あんっ!一口っ、どこ触ってんの!?」
 ――…本当に振り切る気、あるんだよな?一口。
 半ば押し倒し倒されの、青空レズビアンショー状態になってしまった二人を目に、乾の頬に脂汗がつ
たう。
 ポケットの中の携帯電話が震えたのは、その時だった。

「はあ…叫びすぎて喉が痛いわ…」
「乾ったら、やりすぎじゃない?…まだ頭がクラクラしてる…」
 カップから降りて、足をふらつかせる二人に背を向けると、乾はこっそり、先程着いたメールを確認
した。

 ――『アラビアン機械(マシーン)冒険譚ランプ・ランプ』前にいる。適当に言って別行動させろ。

 簡潔な文は、間違いなく悠のものである。乾は一息吐くと、携帯電話のディスプレイを閉じた。
「ちょっと乾、聞いてんの?」
「えっ、あ…あー、じゃあオレ飲み物買ってきますよ。おい一口、行こうぜ」
 え?と戸惑う一口を目でうながし、腕を引く。
「遅れるようだったら適当にうろついてて下さい!!何かあったらケータイで呼んで貰えたら、飛んでき
ますから!」
 一口を引きずりつつ、矢射子に向かって叫ぶ。
 …オレに出来るのはここまでなんだろうなあ。心中で呟き、乾は矢射子に背を向けた。

「いっ乾、痛いよ!手離して!!」
 背中に掛けられた声に、足が止まる。
「…悪い。変な力入ってたな」
 ぱっ、と離した手をスカジャンのポケットに突っ込み、乾は、一口の顔を見ずに謝った。
「メール、来たんだ」
「ん。今近くに居るって…あとは、阿久津に会う事さえ出来れば予定通りだ」
「そっか。…え?」
 納得しかけて、一口は首を傾げた――…会う事さえ出来れば?

「乾、それって会えなかった場合のフォロー考えてる?」
「…え?」
「「……」」

 二人の間にしばし沈黙が流れ、すぐさまさっき矢射子と別れた場所に駆け込む。
 しかし、時既に遅し。そこに矢射子の姿は無かった。
「せっ、先輩消えるの早すぎます!!」
「バカそうじゃないでしょっ!早くケータイで呼びなさいよ!!」
「お、おう、そうだった」
 一口に急かされるままに、乾はポケットから携帯電話を出し、ディスプレイを開く――と、同時に、
『ピー』という機械音が流れた。

「…充電切れ…」

「なんで出かける前にフルにしなかったの!?」
「い、いや一口、オマエのケータイは?」
「あっそうか」
 思い出したように一口は背中のリュックを下ろし、ごそごそと探しだした。
 しかし、探すばかりで見つからない。
 コートやジーンズのポケットも同様だった。

「…どうしよう。充電器に差し込みっぱなしだった…」

「オマエ人の事言え…ばぱあっ!!!?」
 反論しようとした乾の頬に、速攻でビンタが飛ぶ。
「何よ何よ何よっ!!!!!!元々アンタが連絡役だったんじゃないの!!だったら変なトコでポカなんかやら
かすんじゃないわよこのバカ犬!!!!」

 パパパパパパパパパン!!!!!!
「ああ~~~~~~んっ!!!!!!」
 一口痛恨の逆ギレ・スパンキン風林火犬の音とドM乾の嬌声が、デスティニーランドに響き渡った。

 …しかし矢射子の耳には、届いていなかった訳だが。


『お客様に迷子のお知らせを致します。アイボリーのシャツに、紺の上着とズボンをお召しになられた
5歳の――…』

 ――迷子放送だ。
 係員のよく通る声を耳にしつつ、伊舞は休憩用のベンチに腰掛け、通り過ぎる人々の姿をぼんやりと
眺めていた。
 土曜日の遊園地は、カップルもさることながら、やはり家族連れが多い。
 どこかで配っているのであろう、ヘリウム入りの風船を持つ子どもと、手を離さないように注意する
父親、それを温かな目で見る母親の姿が目に入り、伊舞は思わず目を細めた。
「――家族、か」
「おーい悠、買って来たぞー…あ、あれ?悠と翠は?」
 背後にいきなり掛かってきた声に、伊舞の体がびくんっと跳ねた。
「…悠さんたちなら、二人でゴーカート乗りにいったよ」
「ふ、ふーん…」
 女の子一人置いてくなよな、と愚痴をこぼしながら、宏海はそっと伊舞の隣に座り、注文のアイスク
リームを渡した。
「伊舞はバニラとチョコのダブルだったな。トッピングが出来たから、ついでにチョコチップ付けとい
たぞ」
 目の前に差し出された2段重ねのアイスに、伊舞の目が大きく見開かれる。
「――…」
「…何だ?お前チョコチップ嫌いになったのか?」
「う、ううん」
 そんな事はない。
 チョコチップ(正しくはチョコスプレーだが)の付いたアイスやデザートは、子ども染みていると思
いつつも、伊舞が昔から好きなものの一つだ。
 伊舞は受け取り、黙々とアイスを食べ始めた。
「悠が別行動始めちまったんならしょうがねえよな。…オレたちも他のモン乗りに行くか?」

 自分のぶんのアイスを食べ終え、遠くを見る宏海の横顔を、伊舞はちらりと見る。
 ――普段と変わらないようで、全然違う顔だ。

 ぱりん。
 口の中で最後のコーンカップのかけらが砕けたと同時に、伊舞の目にある乗り物が目に入った。

「――じゃああたし、アレ乗りたい」

 足元お気をつけて下さーい、という係員の言葉に従い、宏海と伊舞が乗り込んだのは観覧車だった。
 かつては国内最大級などとうたわれた巨大な観覧車は、頂上に差し掛かればデスティニーランド全体
は勿論、はるか遠くに離れたはずの逢魔市さえ望める。
「久しぶりだね。観覧車乗るの」
「ん?――ん、ああ」
 伊舞の言葉に、宏海は記憶の糸を手繰る。
 そういや前にここの観覧車に乗ったのは、いつの事だったろう。
「…憶えてる?昔、家族みんなでここに来た時、二人でこっそり観覧車に乗ったら、コレ結構時間が掛
かっちゃって、お父さんとお母さんがその間に帰ったらどうしようって、あたし泣き出しちゃったよね」

「――ああ」
「お兄ちゃん、あたしの手ぎゅって握りながら、父さんと母さんがオレたち置いてく訳ないだろって言っ
てたけど、足がくがく震えてて、…ふふっ、あたしよりもヒドい顔してたんだよ?」
 久しぶりに見る伊舞の笑顔だ――。
 思ったが、話の内容上、宏海はそうだっけ?とぶっきらぼうに返した。
 だが、かすかには記憶がある。

 まだ尻の青い鼻タレ小僧だった自分と、泣き止まない妹と、どんどん高みに上っていくゴンドラと。
 そのまま帰ってこれなくなったらどうしようなんて、今から見れば馬鹿馬鹿しいような恐怖に震えて
はいたけれど。
 小さな妹の手さえ握っていれば、一人じゃないから大丈夫だと信じていた。

「…あいすさんにね、昨日、聞いてみたの。お兄ちゃんに二股掛けられて悔しくないのって」
「なっ…!!?」
 無知とは、ある意味無敵と同義だ。
 もし宏海が同じ質問でもしようものなら、あの『氷の美少女』の事、そのまま絶対零度の中で絶命さ
せられる事請け合いであろう。
「それから、お兄ちゃんとケンカしちゃった事も――そしたらあたし、あいすさんに怒られちゃった」
「お、お怒られた?…伊舞、体のどこにも異常はないか?しもやけとか、凍傷とか」
 うろたえる宏海に、伊舞は首を傾げた。
「言葉でしもやけなんて出来ないよ?どうしたの?」
「い、いや…」
 ――それならいいんだ。と宏海は深く安堵の息を吐いた。
 伊舞は、膝に置いた指を遊ばせながら、その時の記憶をゆっくりと語り始めた。

『…私が、宏海に二股掛けられた?――どこからそんな与太話が出るのかしら』
『で…でも、あたし見ちゃったんです!お兄ちゃんがこの前、お父さんに違う女の人…その、前の生徒
会長さんを会わせてるのを。…あたし、お兄ちゃんがあんな人だなんて思わなかった…!!』

 昼下がりの学生食堂で、伊舞は告げるとそのままぽろぽろと涙を零した。
  あいすはそんな伊舞を見て、眉間に皺を寄せた。

 困惑と怒りが混じった表情のまま、こういうのを避ける為じゃ無かったのかしらあの馬鹿――と小さ
くこぼすと、すっ、と息を吸い、伊舞に向けて言葉を放った。
『伊舞…本来、私の口から説明するのは筋じゃないんだけれど、元々は、あなたの勘違いに付き合った
芝居よ。…私にも当然、付き合う相手を選ぶ権利はあるのよ?何が悲しくて不良と書いてクズと読むよ
うな男と付き合わないといけないのかしら?』
 許容も無く慈悲も無く――佐渡あいすの舌鋒ここに極まれり、である。

 ――ちなみにこの時食堂外の廊下で、真白木さんどうしたんスか急に打ちひしがれて!という声が響
いたのはまた別の話だ。

『あいすさん…』
『そもそも、家族を蔑ろにしたり、妹を泣かせたりする男なんて、論外よ。同じ血の繋がった人間一人
守れないのに、どうして他の女を幸せに出来るなんて思えるのかしら。傲慢極まりないわね。――まあ、
もっとも矢射子元会長みたいに、それでも想い慕う人も居るのだから、世の中は不思議なことばかりと
言えるけれど』
『…相手の事、知ってたんですか?』
『何かとあってね。私や翠も、縁を取り持つのに一枚咬ませて貰ったわ。そうでもしないと元会長には、
一生春なんて来ないでしょうし』
 涼やかに言い放つと、あいすはそのままストローパックの野菜ジュースを一口飲んだ。

 普段言葉少ない彼女が饒舌に語る図というのは大変珍しい。
 ――おそらく、彼女の琴線に触れる内容だったからなのだろう。

『……っ、あたし…』
『悔やむ事はないわ伊舞。元はといえば宏海の配慮不足が原因なんだから。――けれど、アレは鈍感で、
卑怯で、我を通す事が出来ない馬鹿だけど、それでも、あなたのお兄さんなんでしょう?それだけは、
忘れないで』

 ――家族。他人ほど隔絶されてなく、自分自身より確固でない、緩く温かな繋がり。
 間界人という特殊な素性から、血の繋がりのある存在を持たないあいすには、その響きは優しくも切
ないものであった。

 泣き止まぬ伊舞にそっとハンカチを差し出すと、私からも『キツく』注意しておくわ、と言い残して
あいすは席を立った。
『あのっ!』
 遠ざかろうとする背中に、伊舞は最後の質問をした。
『あいすさんとお兄ちゃんって――じゃあ、どういう関係なんですか?』
 涙でにじむ伊舞の視界の中で、あいすはゆっくり振り返った。
 表情はよく分からなかったが、やはり涼やかな声であいすは答えた。

「――…何て」
 宏海の問いに伊舞はすん、と鼻を鳴らし、首を振った。
「そこまで聞くのは野暮だよ。……でも、本当そうだよね。お兄ちゃんは考えなしで、すぐ人に流され
ちゃうけど…それでも、あたしには……世界に一人しか居ないっ、お兄ちゃんなんだよ、ね…ごめっ、
ごめんなさ…っ!!」
 きゅっと拳を握り、耳まで赤くなりながら涙を流す伊舞の頭を、宏海はそっと撫でた。
「いや…オレの方こそ、悪かった。オマエにつまらない勘違いさせて、泣かせちまったオレが悪いんだ
よ」
 ――そして、アイツにも。
 脳裏に浮かぶ、ポニーテールを風になびかせる女の姿に、宏海の胸が強く痛んだ。

 アイツに会いたい。直接会って、話がしたい。

 けれど、観覧車の回転は遅く、行くべき場所へは、未だたどり着けそうにも無かった。

 人ごみの向こうから見慣れた姿を見つけ、一口は息を切らしつつ、駆け寄った。
「い、乾、居た?」
「一口…ダメだ。オレの探したところには居なかった」
 まだ頬の赤味の取れない乾が、心底悔しそうに首を振った。
「…どうしよう、安骸寺くんたちも見つからなかったんだけど。…まさかお姉さまだけじゃなくて、皆
帰っちゃったんじゃ…」
 そうなれば計画は台無しである。

 元々、会話をする機会に恵まれない乾達と悠の間に、きちんとした計画を練る時間は無かったのだが、
それにしたって穴が多い。

「乾ゴメン、あたしがちゃんとケータイ持ってたらここまで…」
 青ざめた一口の目の端に光るものが見え、乾は痛みを堪えるように唇を噛んだ。
「…っ、そうだ!さっき通り過ぎちまったけど、ここ、展望台あるから…そこから探してみるってのは
どうかな?」
 いかにも苦し紛れな策である。
 だが、乾はこれ以上一口が泣く姿を見たくない一心で、手を握ると、そのまま走り出した。
「えっ?ちょ、いぬ…」
「いいから走れ!」

 ――走れって、アンタ、何いきなり手なんか握るのよ!?今までそんなコトした事無いじゃない!!

 言いたいのに、口が上手く言葉を紡いでくれない。
 繋いだ手を離したいのか離したくないのか、一口自身戸惑いながら、人ごみの中を二人は駆け抜けて
いった。

 ――…その場所を、携帯電話を見つめた矢射子が通りがかったのは、二人が走り去ってから、わずか
3分後の事だった。
 何ともお約束である。

「…はぁ」
 一口も乾も、本当どこ行っちゃったんだろ…。
 心の中で呟き、矢射子は飽きるほど見たアドレスのページを、もう一度見る。
 乾の電話からは、通話不可のアナウンスが流れ、一口の電話からは、何故か母親が出てきた。
 なんでも持って行くのを忘れたそうだ。
「……」
 ピッ。
 アドレスのカーソルを上げるのも数度やってみたが、その番号へは、未だかける勇気が出てこない。

 ――阿久津宏海。

 一時は食事の内容だの見てるTVだのといった、ささいな内容のメールだって交わせたのに、ここ一週
間、メールも電話もしていない。
「…こんな事で、ダメになっちゃうのかな。あたしたち…」
 振り返ってみれば、本当に瑣末なことなのに。
 自分が付き合う前のことなんて、今の自分たちに何の関係があったのだろうか。
 ――相手の名に傷ついたのは確かだったけれど、それでも宏海は、あたしにきちんと説明しようとし
た。
 それを激情にまかせて耳をふさいだのは、自分の方だったのではないか。
「……」
 もしこのまま、別れてしまったら。
 この数日、何度も想像してしまう悪夢が、矢射子の胸を締め付ける。
 考えたくないのに、自分の元を去る宏海の広い背中が、脳裏から離れない。

 展望台に着いた頃には、乾も一口もすっかり肩で息をするようになっていた。
「ぜえっ、ぜえ…こ、ここからなら見える、かな」
「は、はふっ…けほっ、風邪、ぶり返したら恨むからね…」
 よたよたと歩きつつ、二人は空いている双眼鏡の前に立ち、揃って覗き込んだ。
「見える?」
「いーや…やっぱ人多いからかなあ…。あっ、あれ阿久津じゃねーか?観覧車」
 どれどれ、と一口も同じ方向を覗いて見つける。確かにあの目立つ赤髪は、宏海のものだ。
「もう一人居るね…妹さん、かな?髪同じ色だし」
 下りに差し掛かったゴンドラの動きは、あくまで緩やかで、しばらく出てくる見込みは無い。
「矢射子先輩…は…やっぱり分かり辛いな。おとなしめの格好だったし」
 
たしか濃いベージュのコートに、黒のタートルネックとフレアスカートだったっけ。
 呟く乾を一口がキッと睨みつける。
「それを根性で見付けてこそのプティ・スールよ!心の眼で見つけなさい!!」
「…オレ男なんだけど」

 つーか、根性とプティ・スールと心眼って関係なくねーか?
 乾は思ったが黙った。
 乾にしては、賢明な判断と言えるだろう。
      

 ごんごんごんごん。

 観覧車の駆動音だけが響く室内で、伊舞は大きな手に頭を撫でられる感触を、くすぐったくも心地良
く受け止めていた。
 昔、繋いだ時と同じ、温かな手。
 出来るならこのままでいたいけれど。
「ねえ、お兄ちゃん。…今の彼女のこと、好き?」
 目を閉じ、返事を待つ。――返って来る言葉は分かってはいたけれど。
「ああ、好きだ」
 それさえ聞けたなら、もう充分だ。
「…ふふっ、もういいよ。――もう、大丈夫だから」
 小さく笑いながら、伊舞は宏海から身を離し、窓に頬をよせた。
 ひやりとした窓の冷たさが、今の頬に気持ちいい。
「…そうか」
 宏海も手を下ろし、窓の向こうを見る。空気が澄んでいて、随分遠くまで眺められる。

「ねえ、お兄ちゃん――あの観覧車の時の続き、憶えてる?」
「?」
 窓に顔を向けたまま、出された伊舞の問いかけに、宏海は首をひねった。
「そういや…思い出せねえな。オマエは憶えてんのか?」
「憶えてるよ。てっぺんを過ぎて、だんだん降りて行ってる時にね、二人して窓の外を覗き込んだの。
――これだけ高い所に居たら、お父さんやお母さんの姿も見えるだろうって、二人してさがして…で、
見つけた時、お兄ちゃんボロボロ泣き出しちゃった」

 …それは、憶えてなくて当然か。
 というより、消したくなる記憶に分類されそうだ。

 渋面を作りつつ、宏海は伊舞の向かいに座りなおし、同じように窓に顔を近付けた。
「…で、今日は何だ?悠たちでも下に居んのか?」
 あまりにも長い事窓に張り付く伊舞に尋ねてみると、伊舞は悠さんたちは居ないけど――と指差した。

 心なしか、その表情にはいたずらっぽい笑みが浮かんでいる。
「お兄ちゃんの大切な人なら、居るよ」
 こつん。
 人差し指が窓を叩く。指し示す先に目を遣り――宏海は絶句した。

 ――矢射子!?

 観覧車の真下、家族連れやらカップルやらで出来た人波にもまれるように、肩を落とした矢射子が歩
いている姿が、宏海の目にもはっきり見えたのだ。
「な、何でアイツが…!?」


「居た!!観覧車の真下!!」
「えっ――あっ、本当だ!!」
 二人揃って双眼鏡を占拠し、早十数分。プティ・スールの根性を見せた一口の声に乾も反応した。
「よし、オレちょっと行って先輩止めてくる!一口そこで待ってろ!!」
「えっ…」
 なんで、と尋ねようとした一口だったが、理由は単純だった。
「病み上がりのお前がこれ以上走ると、体に悪いだろーが。んじゃ、また戻るから」
 言うが早いか、乾はひらりと身を翻し、猛スピードで展望台を抜け出した。

 乾の脚力は、サイボーグ云々という馬鹿げた話を抜きにしても、全校中上位に食い込むほどの実力を
有している。
 言葉通り、『ちょっと行って』くる程度でも、すぐに矢射子の元にたどり着けるのであろう。

 遠ざかる足音を耳に、一口は胸がきゅうっと痛む感覚に襲われた。

「ずるいよ…乾」
 ――あんたは、あたしに無いものをいっぱい持ちすぎてて、時々、胸が痛くなる。
 無意識に繰り出せる行動が、羨ましくて、嫉ましくて、悲しくなる。

 うっかり、涙をこぼしそうになり、一口はきつく唇を噛んだ。
 ――アイツの為には泣かないと、かつて自分に言い聞かせていたから。
 一旦、ぎゅっと目を閉じ、再び双眼鏡を覗き込む。
 今、自分に出来るのは、矢射子と宏海を見守ることなのだ。
「――あれ?」