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11

 廊下を行く夏焼に声がかかる。
「悪いねー。何から何まで世話になって。」
 そこには壁にもたれる熊井の姿があった。
「停学の期間はまだ―――。」
 突然熊井が右足で前蹴りを繰り出した。
 夏焼は咄嗟にその足首に右手を回し、脇へと受け流した。
 ハッとして、熊井は流れに乗っかる形で肘鉄を仕掛けようとしたが、
 これは夏焼の顔面に入る前に寸止めされた。ほんの刹那のやりとりである。
「いきなり何をするんだい。」
「気に食わねえ。」
「弱い者いじめはよしてくれ。」
 夏焼の言葉に熊井は口を歪ませた。笑みだ。
「俺の蹴りを捌けるヤツなんざ、そう、ざらにゃいねーぜ。」
「本気じゃないよね、これは。」
 熊井の足を手放した夏焼の目がぎらついた気がした。
「その眼だ。あの時もその眼で見ていた。」
「あの時?」
「駐輪場で雑魚片付けたあと、お前と会ったな。あの時も一瞬そんな目になった。」
 夏焼はため息をついた。
「大方須藤くんあたりから何か吹き込まれたんだね。」
「須藤って誰だ?」
「……番長さ。他になんて呼んだらいいかよくわからない。
ああいうのを番長って言うんだろうね。……ともかく、僕はただの風紀委員だ。」
 もう一度ため息をつくと夏焼は、
「全部言いがかりだよ……。」
「次は、本気でやんぞ。」
 熊井は立ち去り際に告げた。
 彼の後姿を見送りながら、夏焼は自らの内に込み上げるものを感じていた。
 あのまま振り切られれば確実にこちらの頬骨に入っていただろう肘の衝撃を想った。

 嗣永は校門の方へ歩いて行く熊井の背中を見つける。なにかしらの勇気を振り絞り、
「く、くまいくーん! くまいくうーん!」と嗣永は叫ぶと、熊井はピタリと留まった。



12

 また夏焼を呼び止める声がした。
 菅谷がこちらを睨みつけていた。ズボンに入れた手で股間を掻いている。
 夏焼はもぞもぞ蠢くその部分に気を取られたが、
「君は確か須藤くんの……。」
「1年の菅谷だ!」
「悪いけど後にしてくれないか、校長先生に呼ばれているんだ。」
「須藤さんの停学を解け。」
 夏焼は白々しく小首をかしげる。菅谷の表情は険しく、微動だにしなかった。
「僕に権限はないよ。菅谷君。」
 こう夏焼が告げた途端、菅谷は彼の胸倉に掴みかかった。
「いつまでシラ切れると思ってんだ!? スカしやがって!」
 菅谷に押され、夏焼は壁に叩きつけられた。
「須藤さん弄んで裏でコソコソ動き回りやがって。テメー何企んでやがんだよ!?」
「落ちついてくれ。」
 血走る相手の眼を、夏焼は見つめ返しながら諌めた。
 しかし、逆上させるばかりで埒が明かない。
 夏焼は一つ溜息をついてから、
「ここじゃ先生が通るよ。」と言った。
「関係ねえよ。」
「君が須藤君のために暴力沙汰を起こしたら、彼は悲しむよ。」
 菅谷が躊躇を見せた。
 夏焼はすかさず近くのトイレを指す目配せをした。
 誘導されるように、菅谷は夏焼を掴んだままトイレへ入った。
 わずかに物音が聞こえる。
 数十秒後。夏焼が一人でトイレを出て来た。
「大将は厄介だが。そろそろ揺さぶりから決戦に入ってもいい頃合いかも知れないね。」
 呟いた夏焼は、何事もなかったかのように廊下を歩き始めた。

「……で? 俺に何の用?」
 ベロアの赤いソファに腰掛け、テーブルに足を組むと、熊井は切り出した。
 オドオドとした様子で対面の嗣永も腰掛ける。
「おい。ガキ、なに店のテーブルに足のせとんねん。しばくぞ。」
 カウンター越しからサングラスをかけた男が叱りつけて来た。
「あ。マスター俺焼きそばね。」
「話きけや。お前ベリ高やろ。オレの後輩……。」
「んで、なんだよ。さっさと言えよ。」
「あ、うん。」
「おい。」
 熊井と嗣永の間になかなか割って入れないもどかしさでマスターはイラついた。



13

 熊井と嗣永は小テーブルを隔て、互いに向かい合っている。
 ここは喫茶店だった。表の看板には『喫茶 BerryFields』と出ている。
 二人は学校を途中で抜け出して来ていた。正確には嗣永が、
 帰ろうとする熊井に引っ張られた形だ。
 嗣永は、熊井に用を尋ねられてから、しばらく黙りこんでいた。
 どうやら自分の口からは言いだしづらいことのようだった。
 サングラスをかけたマスターが、細い腕で熊井の頭を叩いた。後ろから。
「痛えな。なんだよ、おっさん。」
「焼きそば食いたかったらその無駄に長い足どけろや。」
 マスターは焼きそばの載った皿を掲げた。
「あるんだ。焼きそば。」と熊井が足を退かせながら言うと、
「アホ。ベリ高の荒ぶる鷲と呼ばれた俺をなめんなや。焼きそばくらいあるわ。」
「おっさんベリ高のOB?」
「せや。たいせい言うからよう覚えとけ。」
「で、話ってなんなんだよ。」
「なにさらっと聞き流しとんねん。」
 横で吠えるマスターたいせいを嗣永が気にかける。
 熊井は気にするなとばかりに視線で話の続きを催促した。
 たいせいは諦め、悪態をつきつつカウンターへ帰った。
「これ、本当は、ぼくの口からは言いづらいんだけど、
実は、清水くんと夏焼くんのことで、熊井くんに話しておきたいことがあって……。」
「何か関係あんの?」
「清水くん、去年大怪我したんだ。ううん、させられたんだ。」
「ふーん。風紀委員に?」
 嗣永は水を一口飲んでから頷く。
「正確には夏焼くんの子分にだけど。」
「……あー、お前に絡んでた三年生か。」
「あの人たちだけじゃないんだ。もっと沢山の人に囲まれて、……。」
 話しているうちに清水の怪我が思い出され、嗣永は言葉に詰まる。
「どうしてボコられたんだ?」
「話せば、長くなるんだけど。」
「じゃいいや。」
 熊井は箸に手をつけた。
「あっ待って! 簡単に話すと、清水くんと夏焼くんは中学時代からの友人なんだ。
それで、それで、えと、夏焼くんの横暴を止めようとしたんだ。清水くんは……。
カツアゲさせたお金を貢がせていたから。……けど、足を折られて、……清水くん、
ダンス部を立ち上げて頑張ってたのに、半年もマトモに活動できなくなっちゃって……。」
「よくわかんねえけど、そんなに暴れてたら誰かが止めんじゃねーの?
なんだっけ、須藤とかいう番長がいるって話じゃん。」
「須藤くんは強いし頼りになるよ。ぼくらが絡まれていたら助けてくれるし。
夏焼くんの息のかかってない人とかは須藤くんをたのみにしてるんだ。
……でも、夏焼くんは凄く上手くたち回るから。……ホラ、風紀委員でしょ、夏焼くん。
先生からも信頼が厚くて、いくら須藤くんでも学校の後ろ盾のある相手じゃ……。」
「カンタンに手は出せねーと。」
 先回りした熊井の言葉に嗣永は頷いた。
「しかも今回、一方的に停学にされて、これまで須藤くんについて来た人たちの何人かも、
夏焼くんの方へ流れて行きそうなんだ。須藤くんも夏焼くんの掌の上で転がされてる――
って感じた人がけっこう多かったみたいで……。これは清水くんから聞いた話。」
「で、それが俺とどう関係してくるんだよ。」
「だから、……熊井くんもあんまり夏焼くんには……。」
「逆らうなって?」
「だって、怪我するかもしれないし、……退学にされちゃうかも知れないんだよ。」
 熊井は白けたように、話を最後まで聞かず立ち上がった。
「待ってよ、熊井くん。」
「めんどくせー。3分でケリつけてやるよ。」
「熊井くん!」
「うっせーな、オメーはそこで震えてろ。」
「熊井くん、焼きそば!」
 嗣永が叫んだ。
 出て行こうとしていた熊井は慌てて翻し、焼きそばに食らいついた。



14

 嗣永に絡んでいた三年生の一人が小便器で用を足していたところ、
 背後から不意に自分よりも大きな影がかぶさったので、振り返ってみれば、
 そこには熊井の姿があった。
「よう。先輩。」
 微笑みかける熊井。
 驚きの余り左右どちらに動くべきか迷い、三年生はびくびくと蟹股をステップさせた。
「そうだな、小便はゆっくりしたいよな。待っててやるよ。」
 し終えると、三年生は個室に連れ込まれた。
 相手の襟首を掴み上げながら熊井は「夏焼を呼び出せ。」と命じた。
 三年生は最初しらをきろうとしたが、顔面を熊井のその長い指で掴まれると、
 震え上がって頷き「なに、なにするつもりなんだよ。」と尋ねた。が、
「口の利き方気をつけろ。」と更にアイアンクローの手を強められたので、
「ど、どうされるおつもりなんですか!?」と声も裏返り気味に言い直した。
「いいから黙って言う通りにしろよ。」
「手で前が見えね―――ッ。」
「今言ったよな、口の利き方気をつけろって言ったよな? ん?」
「はい、はい、あの、でも前が……っ。」
「しょうがねぇな。」
 熊井は空いた方の手で三年生の制服から携帯を取り出した。
「オラ、どれだ、……あー、これか? 説明書ねーと使い方分かんねーな。お前やれ。」
 アイアンクローの手を離し、熊井は携帯を三年生に返した。
 ついでに腕ひしぎを軽く極め、残る片手で夏焼に向けてメールを送らせた。
 しかし、この場に熊井がいる事は伏せられた。
 そのかわり須藤がいると、メールにはそう記された。
「よーし、よし、よし。んじゃ、来たら解放してやる。」
「で、でも来るかどうか分かりませんよ。夏焼さん気まぐれだか―――ッあがが。」
 腕の締まりが強まったため、途中で言葉が呻き声に変わった。
「無駄口はいらんよ。」
「ァハ、ハヒ、……。」
 三年生は涙声になっていた。

 嗣永は教室に戻り、清水と徳永に挟まれている。
 近くに夏焼が座っているので囁くような声で話していた。
「何で勝手に言うんだよ。」と清水が追及すると、
「ごめん、……。けど、一応忠告しておいた方がいいかなって……。」
「どこまで話したんだ?」
「えと、あの、清水くんが話してくれたところまでだよ。ホントにごめんよ。」
 清水は嗣永の釈明を聞きながら夏焼の様子を見やった。
 席に座ったまま、夏焼は携帯を手に眺めていた。
 夏焼は逡巡するように目を泳がせると、おもむろに立ち上がる。
 清水が目で追いながら、
「どっか行くぞ。」
「また校長室?」
 徳永はあてずっぽうに言った。

 夏焼はトイレへ赴き、
「やっぱり君か。熊井君。」
 窓から差し込む陽光を背に、熊井が腕を組みながら佇んでいた。




15

 熊井はこきこきと首を鳴らしながら、
「わりと早かったじゃねーか。意外と子分思いなんだな。」
 個室から三年生が涙目で這い出て来るや「夏焼さん、赦して下さい。」と詫びた。
 夏焼は冷たくそれを一瞥して、また熊井に目を移した。
「どういうつもりだい?」
「なに。こいつはテメーを呼ぶための餌だよ。」
 熊井は三年生の尻を蹴り、蹴られた相手は地べたを這い這い夏焼にすがりつく。
「お前、この学校の裏番なんだってな。聞いたよ。」
「誰に?」
「善良な一市民からの通報だ。」
 熊井の答えに、夏焼は小さく吹き出した。
「警察にでもなったつもりかい?」
「子分にダンス部の清水の足折らせたそうじゃねーか。」
「成程、彼から聞いたのか。」
「いや。」
 熊井の即答が、一瞬、奇妙な沈黙を生んだ。
「清水君の敵討をするのかい?」
「それも違うな。別に親しくもねーし。義理もないからな。ただ、―――。」
 と言うと溜息を一つつき、
「めんどくせーから。とりあえずお前蹴って終わりにしようと思ってんだ。」
 熊井は手をポケットに入れ、気怠そうに足をぶらぶらとさせ、
「ま、その後は停学なり退学させるなり好きにしろ。」と告げた。
 夏焼は、納得したように二三度頷くと、三年生を外へ逃がし、
「そう。じゃあ、やる前に一つ僕から訂正させてもらおう。
彼の足に、清水君に手を下したのは、彼らじゃない。
……この僕自身だよ。熊井君。」と言いながら微笑んだ。
 途端。目の色が変わる。
 それは熊井も同様、否、彼が速かった。
 夏焼が目視出来たのは熊井の爪先が自分の間近に迫り、空を薙いだ瞬間だった。
 標的を失った熊井の足は個室のドアに穴をあけた。
 激しく仰け反り、後ずさった夏焼は愕然として声も出ない。
 予想外の迅さ――――ッ!
 だが、奇襲は躱した。次はこちらの番だ。
 体勢を立て直し、……。
 ここで夏焼は下半身を失くしたような感覚に襲われる。
 膝は霧散し、腰は溶け落ちたようだ。
 視界が揺らめいている。
 これは一体? 夏焼は立ち上がることが出来なかった。
 まさか。と思い、顎の感覚を確認する。感じない。
 異様な浮揚感。
 脳震盪。それだ。
 僅かばかり顎をかすめたのか、……。
 夏焼の思考はそこで途絶えた。
 床でへたばっている夏焼を見下ろして、熊井は既についた勝負を止めなかった。
 一撃で夏焼を葬った足を使って、容赦なく何度も彼を踏みつける。
 夏焼は無意識に丸まり、熊井の猛攻を弱々しく防いでいた。
 個室から突然、菅谷が躍り出た。さきほど熊井の足が刺さった箇所だ。
 菅谷は目の前の光景に我が目を疑う。
「な、……んで、夏焼が? お、おい!」
 あまりの凄惨な光景に、菅谷は我に返り、止めに入った。
 そこへ、清水等も駆け付けた。
 四人に取り押さえられ、それでも振り回した挙げ句、ようやく鎮まった熊井は、
「俺の名前には友って字が入っててな。それ大切にしねぇ奴は許せねーんだ。
覚えとけ。風紀委員。」と吐き捨てた。
 しかし、当の夏焼は血まみれの顔で仰向けに寝たまま、完全に失神していた。
 美貌の少年はタイル張りの床に砕け散った。




16

 トイレは惨状を露わにしていた。
 菅谷は未だ信じられなかった、目の前の夏焼がボロ雑巾の有様でいることに。
 夏焼をそんなふうにした、当の熊井は、涼しげな表情を取り戻していた。
「ホントにあんたがやったのか?」
 熊井は菅谷の問いかけには答えず、夏焼を担ぎあげた。
 清水、徳永、嗣永は、かける言葉も見つからず、ただ熊井の後について行った。
 だが清水だけ途中で立ち止まると、
「なぁ、さっきさ、熊井、友がどうのって言ってなかったか?」と尋ねた。
 菅谷は小首を傾げながら返事をする。
「いや、……よく聞いてなかった。」
「そうか。」とだけ返すと、清水はまた熊井を追って歩き出した。
 残された菅谷は、首をさすりながら違和感を和らげた。

 熊井が夏焼を担いで来た場所は保健室。
 大江は急な来訪に慌てて振り向くと、
「あら熊井、……くん。……な、なに担いでるのかしら?」
 それには回答せず、熊井は荷卸しのように夏焼をベッドに横たえた。
 純白のベッドに下ろされた夏焼は糸の切れた操り人形のようにバラバラと落ちた。
 大江は小さな悲鳴を上げた。
「やだ。夏焼くんじゃない。どうしたの? この傷、……?」
「死んでなきゃ生きてる。怪我の訳はそいつから聞いてくれ。」
 それだけ言うと、熊井は後に続いて来た徳永と嗣永の間をすり抜け出て行った。
 嗣永は一寸、熊井を追おうとしたものの、近寄れない雰囲気を感じたのでやめた。
「とにかく救急車呼ばなきゃ。」
 呆然と立ち尽くしていた大江がはっとして言うと、
「ご安心を。オレが呼んどいたカラ。気が利くでしょ。」
 徳永は大江に向けて携帯を掲げ、得意げに振ってみせた。
 一方嗣永は、気を失ったままベッドに横たわる夏焼の様子を窺っていた。
 綺麗に通っていた鼻筋は赤く腫れ、血が黒く鼻孔に溜まりをつくっている。
 顔の下半分は肩の陰にあってよく見えない。制服にはしっかりと足跡がある。
 その足跡群に気が付いた時、嗣永は咄嗟に袖で拭いとった。
 なんとなく、熊井の痕跡は消しておきたかったのだ。

 その頃、清水は追いついて来た菅谷と廊下を行きながら話していた。
「じゃあ、夏焼に締め落とされたの?」
 清水が訊くと、菅谷は悔しげな面持ちで頷いた。
「あっという間にね。胸倉つかんでたのこっちだったのにさ。くるっとひっくり返されて、
気がついたら便所の中で寝てた。いきなりでかい足がドアに突き刺さってんだぜ。」
 事態を呑み込みきれていない、どこか浮ついた口調で菅谷は語った。
「倒された夏焼が踏まれてるトコからしか見てないけど、―――。」と清水が切り出すと、
「こっちもだ。」と菅谷が肩をすくめた。
 清水は続ける。
「―――、あれはかなり早く決着付いたんじゃないかな。」
「ああ。」菅谷も首肯する。
「夏焼は相当強いはずだ。そいつを無傷で倒すなんて、……バケモンかよアイツは。」
 うんざりした表情で菅谷が窓の外を眺めると、秋空で雲がのどかに流れている。
「熊井って、須藤よりも強いのかな。」
 ふと清水が呟いた。
 その刹那、いきなり菅谷が清水に喰ってかかった。
「バカヤロー! んなワケねーだろ。いくら先輩でも言っていいことと悪いことがあるぞ。
須藤さんは誰にも負けねーんだよ! 須藤さんはなぁ! 須藤さんは、……!」
 菅谷は清水の胸倉を掴んで揺さぶる。
 清水は焦るあまり、
「わかった。わかったから金玉掻いた手はヤメテーッ。」
「畜生。インキンだからってバカにしやがって! ……いや、それはまだいいよ。
けど須藤さんを侮辱しやがったら次は承知しないからな。わかったか。」
 物凄い剣幕でまくし立てられたので、清水は縮みあがってしまう。
 バツの悪くなった菅谷は再びズボンへ手を入れると、蟹股で歩み去って行った。
「あいつコワイなぁ。」
 菅谷を見送る清水はひとりごちた。



17

 仄暗い一室。
 ガーゼで鼻を覆われた夏焼の頬を愛撫する男の手。
「病院から連絡があった時は驚いた。全身打撲、肋骨罅裂、右足首捻挫、
鼻梁骨折、門歯破損。……派手に壊されたようだね。雅。」
 男の穏やかな口調が部屋に響いた。
 夏焼の手首にベルトが巻かれる。
「戦闘のダメージは脳震盪だけさ。距離を見誤って、爪先が僕の顎をかすってしまった。」
 男は話を聞きながら、夏焼の美しい流線型の下顎を親指で可愛がったかと思うと、
 四本の指でぬらぬらと艶めく夏焼の素肌を柔らかく撫で下ろしてゆく。
 肋骨に沁みるのか、単にくすぐったいのか、夏焼は逃れるように身を捩じらせた。
「見苦しい、言い訳かな。お前らしくもない。」
 夏焼の足首にもベルトが巻かれた。
「まさか。ただ、敗けたとは思っていないだけさ。」
 声こそ毅然としているが、男へ向ける夏焼の眼差しは愛を乞う娼婦に似ていた。
 夏焼の唇は弓型につりあがり、それは痙攣と共に歪みを増した。
「彼はゴルディオスの結び目を断ち切るアレクサンドロスの如く僕を蹴りつけた。
だから、―――。」
 鉄の磔台が立ち上がり、夏焼の裸体はX字を描いて曝された。
「―――、これは終わりじゃない。けして終わりじゃないよ。これが始まりなんだ。
アレクサンドロスは結局アジア征服を成し遂げられなかった。そして、彼も、……、
君も僕を屈伏させることなど出来ない。熊井君。まだ君は僕を斃せてはいないのさ。」
 うわごとのように述べる夏焼の口をボールギャグが塞ぐ。
 夏焼の瞳は輝きの度を増した。
「五日間も待たされた。まずは醜く伸びた体毛から掃除しなければならないね。」
 男は穏やかなまま、しかし断定的な物言いで迫る。
 夏焼は目元を潤ませながら、その目尻に艶笑を覗かせた。
「今夜はたくさん啼いておくれ。」
 夏焼に目隠しが施され、顎を涎が伝った。

 ベリーズ高校。三限目の休憩時間。
 教室では清水を囲んで徳永と嗣永が集まっていた。
「あれから出てこないな。夏焼。」
 徳永が言った。
「入院したわけじゃないみたいだから怪我で来られないってわけじゃなさそうだけど。」
 清水はどこか不安げに漏らした。
 いきなりドアが開き、熊井が入って来た。
「今頃登校かよー。あっ、そうだ。熊井は処分とかなかったの?」
「別に。」
 徳永と熊井のやりとりはあっけなく終わった。
 熊井は既に窓の外を眺め始めている。
「そういや明日は須藤が出て来るな。」
 脈絡もなく、清水が言い出した。徳永はいやな顔をした。
「マジで? あ~、なんかスッゲ嫌な予感がする。」
「エッ、どうして?」
 嗣永が尋ねたが、徳永は面倒なのか取り合わなかった。
「オレ気分悪くなってきたから保健室行ってくるわ。」
 と告げながら徳永が立ち上がると、清水が小突くように、
「麻理子ちゃんに会いたいだけだろ。」と言い当てる。徳永は弾むように出て行った。



18

 明くる日、須藤が登校して来た。
 彼を慕う子分十四五人が校門で出迎える。以前はもっといた。
「お勤めごくろうさまです。」
「あのな、ムショぶち込まれてたわけじゃないんだからな。
……。ところで梨沙夫のやつの姿が見えんが、どうした?」
「菅谷なら今日は来てないみたいです。」
「そうか。珍しいな。」
 須藤はいつものように屋上で屯しながら停学中にあった出来事の報告を受ける。
 なにしろ彼は学校のことは全て校内で済ませる主義というのだから、
 当然、学校にいない間は校内の情報が一切耳に入らないわけだ。
 熊井が夏焼をぶちのめしたという“噂”を聞かされた須藤は、思わず聞き返した。
「夏焼派はなんつってんだよ?」
「なんも言えないっすよ、熊井とやってるトコ見た奴いませんし、
当の本人たちもなんにも言いませんしね。菅谷は現場にいたみたいっすけど。」
「見てないのか?」
「言いたがらないんすよ。」
「他に現場にいた奴はいないのか。」
「清水たちも駆け付けたそうです。」
 報を聞くや須藤は動き出す。
 停学を食らう前と比べても、取り巻きへの影響力は少しも衰えを見せていなかった。
 教室。
 須藤の到来に、清水と徳永はたじろいだ。
「よう。熊井はどこだ?」
「い、今、桃とツレション、―――。」
「バカお前言うなよ。」
 清水が徳永の発言を制したが、須藤は舎弟の一人を熊井を連れて来さすように遣った。
「だって、言わなきゃボコられそーじゃん。どうせ戻って来るしさァ。」
「それで。お前らも夏焼がやられたらしい現場にいたそうじゃないか?」
「いたって、言っても。オレらは、……。」
「あいつぶっ飛ばされたのがそんなに悔しいのか。」
 おびえる徳永を救った熊井の声。彼は須藤が呼びに出した舎弟を逆に捕えていた。
 熊井の脇には嗣永がひっそりとしている。
 舎弟を引き取りながら須藤は熊井を睨み据え、
「余計なことをしてくれたな、新入りよ。」
 熊井はそれには答えず、普段そうしてる通り、気怠そうに自分の席に着くと、
「ガキの喧嘩だろ。」と一言放った。
「無邪気なもんだな。」須藤が重々しげに言い返した。
「どうやら夏焼の狙いはこの学校の番格になるとか、そんな次元じゃねえ。」
「じゃあなんだよ?」
「……。昼、屋上に来い。」
「おれも行くよ。」と清水が口を挿む。
「焼きそばパン三個だ。」
 熊井の口調は相手の足元を見るような言い方だった。
「何?」
「何? じゃねーよ。焼きそばパン三個で話聞いてやるって言ってんの。」
「テメー何様のつもりだコラ!」
 須藤の舎弟が怒鳴りつけたものの、すぐさま熊井の眼光が威圧する。
 予鈴が遮った。
「焼きそばパン。三個。」
 指に三を作り、熊井が一方的に切り上げてしまったので、須藤は憮然とする他なかった。



19

 熊井は屋上にて須藤の舎弟から焼きそばパンを受け取ると、
 約束の品をよこした者の案内を受け、出入口から離れた一番奥までやって来た。
 須藤は何をするでもなく風景を眺めながらぼんやり佇んでいたが、待人に気づくと、
「まあ、楽にしてくれや。」
 熊井は取り巻いている須藤の子分たちを脇へ追っ払いつつ腰を下ろした。
「実はな、熊井。」
「なんだよ。」
「先に礼を言いてぇ。」
 予想外の言葉に、熊井はぎょっとした。
 須藤は熊井の前へ座し、頭を下げた。衆人がどよめく。
「清水から聞いた。舎弟のカタキ取ってくれたんだってな。」
「何のことか知んないけど、話ってのはそれかよ。」
「いや。本題はここからだ。」
「待ってくれ。」と、ここで清水が現れた。
「おれから説明させてくれ。あいつについては。」
「悪いがお前らはちょっと出て行ってくれ。あと屋上には誰も入れるな。」
 須藤が人払いをした。屋上には熊井、須藤、清水の三人だけが残った。
「もったいぶらなくていいから、さっさと話せよ。めんどくせーな。」
 急かされ、清水が口を開いた。
「まず、夏焼一派の現状を教える、―――。」
「ヤクザ紛いの組織作ってんだろ。番長もお手上げだってな。嗣永から聞いたよ。
自分はいい子ぶって、舎弟にカツアゲさせた金を貢がせてるとかなんとか、……。」
 熊井が言う事に一々頷いた後、言い倦んだ様子で清水は少し沈黙してから、
「あいつの、夏焼のバックには、どうやらかなりの勢力を持った暴力団がついてる。
内々で忠誠を誓わせた一部の子分を最終的には組の構成員にするつもりらしいんだ。」
「ああ、紛いどころか本職なのね。」
「ただあいつは表向き優等生を装っているし、絶対に不良生徒とはつるまないから、
実際のところ何人の手勢がいるのかわからない。今聞かせた話の出所の人間も、
酔った勢いで広めたのが夏焼にばれたらしくて、とっくに追放されてしまってる。
しかも、それだけのことをしても、学校側は誰も夏焼に口を出さない。いや、そもそも、
追放の件だって、言ったそいつはいきなり暴力事件の冤罪を吹っかけられて一発退学。
文句言う間もなくどこかよその街に移って行ったって話だ、―――。」
 熊井は一つ目の焼きそばパンの包みを開きつつ、
「清水。お前夏焼に大怪我させられたんだってな。取り巻きじゃなく、夏焼自身に。
けど嗣永なんかには周りの人間にボコられたって話になってるみたいじゃねーか。」
 清水は俯き気味になり、返事を先延ばそうとした。
「恐いから言いふらさなかったのか。……それとも、ダチだから庇ってるのか?」
「どっちも正解だよ。」
 不意に迷いのない語気で飛ばした。その清水の視線は暗く熊井に向けられていた。
「あいつの悪評を流せばすぐに嗅ぎつけられて潰される。それに、おれもあいつの……、
雅のあんな姿認めたくなかった。本当はあいつ、こんなこと出来る奴じゃないんだ。」
「みやびって言うんだ。女みてーな名前だな。悪い悪い、それはともかくだ、―――……。
お前が認めたくないっつったって、やつがお前を踊れなくしたのは事実なんだろーが。」
「それでもおれは、今でも、……。」
 清水の様子を見かねたのか、黙って話を聞いて来た須藤が割って入り、
「大分話が立て込んできたが、この先は俺に話させてくれ。いいな、清水も。」
「……、ああ。」
「熊井。お前は気が短そうだからコンパクトに話すぞ。ここまでに至る経緯をな。
俺らが入学した頃、この学校は今よりずっと荒れてたんだがな。それをまあ俺がまず、
一年から三年までの目ぼしい連中を締め上げていたわけなんだが、当時の夏焼はな、
本当に地味な生徒だった。まぁ最初の方だけ。だが俺が喧嘩でベリ高をまとめていると、
いつの間にか風紀委員になっていた夏焼に従う生徒が増えて行ったんだ。変だろ?
あいつら普通マジメな生徒の言うことなんて聞きゃしないし、俺が命じたわけでもない。
でもしばらくはそれで何となく上手く行っているように見えた、―――――。」
「あのよ。ちょっとジュース買って来ていいか。喉かわいてきた。」
 空気の読めない熊井の発言に、須藤と清水は憮然とする。
「お、おれ買ってくるよ。」
「そーか、悪いな。」
 清水が走り出した。



20

 熊井は屋上で須藤から夏焼についての話を聞かされていた。
「清水は三年が集団でカツアゲした金を夏焼に上納したと知ったんだ。」
「よくキャッチできたな、そんな情報。」と熊井は妙な感心を見せる。
「茶店で仕入れたんだろ。あいつベリーフィールズってトコで働いててな、―――。」
「あー、あのグラサンのおっさんがやってるとこか。」
「そこ夜までやってて、結構うちの生徒が出入りするから、まあ噂を耳にしたんだろうな。
んで、清水はウラもとってないのに夏焼を問い詰めたんだ。そしたら、……。」
「やられたのか。」
「ああ。更に何故かやられた清水が停学処分を受けた。先に手を出したことになってな。
清水の立ち上げたダンス部も廃部になりかけたが、これを夏焼が救った形だ。」
「いやらしい野郎だな。」
「さすがに俺も頭に来たからよ、もう前後の見境関係なしにやつをやろうと思ったよ。
だが、清水がそれを止めたんだ。まだ信じたいんだろうな、ヤローのことをよ。ったく。」
 ここに当の清水が帰って来た。
「ごめん遅くなって。炭酸売りきれてたから、トマトジュースになるけど。」
 熊井はいきなり立ちあがった。そして、清水からトマトジュースの缶を奪い取るや、
 全力を以て彼方へ蹴り飛ばした。
「なっなんでっ!? せっかく買って来たのに……。」
 清水は泣きたくなった。
「殺されたくなかったら俺の前で二度とその名を口にするんじゃねー。」
「嫌いなのか、トマト。」
「聞こえなかったか須藤。その名を口にするなって言っただろ。」
「……、まいいや話続けるぞ。どうやら清水がやられた頃からだろうな、
生徒の中でじわじわ夏焼の悪評が広まりつつあったんだが、うちの舎弟がよ、
噂を聞いて、居ても立ってもいられなくなってな、清水の仇討って大義名分で、
夏焼に喧嘩を仕掛けたんだ。そうしたら夏焼はアッサリと殴り倒されちまった。」
「殴ったやつの方は例の追放か。」
「まあ、追放というか一発退学だ。その後また夏焼を襲ったって聞くが、
もういなくなっちまったし、逃げるように街を出て行ったらしくてな、……。
俺も一度そいつを捜してみたんだが行方は結局わからず仕舞いだ。」
「それでお前も恐れをなして手を出せなくなったってか。番長さん。」
「色々言い訳はあるが、要はそういうことかも知れんな。まあ、お前が来るまでは、
いや、ついさっきまで俺は自分の実力でベリ高のバランス取ってたつもりでいたが、
この間の停学にしたって俺も夏焼の駒の一つでしかないってのを証明しちまったからな。」
 腕を組みながら胡坐をかいていた須藤は、天を眺め、ため息をひとつついた。
「でもよ、あいつ、夏焼。どうして優等生ぶる必要があるんだ?」
「えっ?」熊井の切り出した疑問に、清水が食いついた。
「だって夏焼は実質この学校を支配っつうかコントロールできるらしいんだろ?
じゃあわざわざ猫かぶってなくたっていいじゃねーか。意味が分かんねーよ。」
「それもそうだな。今まであんま考えなかったが。」
 須藤が納得し、熊井の提示した難題が唐突に膨れ上がった。
「それに、なんで俺には処分が来ないんだ。今までの流れなら“一発退学”だろ。」
 熊井が自らの疑問に追い打ちをかけて見せると、
 清水は悪寒が走ったように身震いし「嫌な予感がする」と徳永のように呟いた。
 その気分が伝わったのか、須藤も険しい表情になって、
「お前、熊井。ひょっとしたら蜂の巣をつついちまったかもしれねえ。」
 熊井には言葉の意味が伝わらなかった様子で、きょとんとした表情を浮かべていた。

 二日後。須藤らの不安をよそに夏焼が登校して来た。
 既に昼時であった。鼻梁が癒えておらず、まだガーゼをしたままだ。
 竹刀を持って見回りをしていた生活指導教諭の斉藤が夏焼をみとめると、
「おお、夏焼じゃないか。久しぶりだな、なんだ、怪我したのか。大丈夫か?
珍しいじゃないか、お前が欠席したり遅刻するなんて、……。ってお、おい?」
 だが、夏焼は自分への呼び掛けを涼やかに躱すと斉藤を素通りした。
 西風が銀杏の葉を揺らす。


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