{{大統領 | 人名=ハリー・S・トルーマン | 各国語表記=Harry S. Truman | 画像=Harry S Truman, bw half-length photo portrait, facing front, 1945.jpg | 代数=33 | 職名=大統領 | 国名=アメリカ合衆国 | 副大統領職=あり | 副大統領=アルバン・W・バークリー | 就任日=1945年4月12日 | 退任日=1953年1月20日 | 代数2=34 | 職名2=副大統領 | 就任日2=1945年1月20日 | 退任日2=1945年4月12日 | 国名2=アメリカ合衆国 | 元首2=フランクリン・ルーズベルト | 出生日=1884年5月8日 | 生地=ミズーリ州ラマー | 生死=死去 | 死亡日=Template:死亡年月日と没年齢? | 没地=ミズーリ州カンザスシティ | 配偶者=ベス・トルーマン | 政党=民主党 | サイン=Harry S. Truman signature.png }}
ハリー・S・トルーマン(Harry S. Truman, 1884年5月8日 - 1972年12月26日)は、アメリカ合衆国の第34代副大統領および第33代大統領。ルーズベルト大統領の死を受けて1945年に副大統領から大統領に昇格。公民権革命を行った初めての大統領である。日本への原子爆弾投下については、彼が投下書類(投下命令書)を承認したNHK総合 「模擬原爆パンプキン~秘められた原爆投下訓練~」2008年8月27日放映。
第二次世界大戦の終了、冷戦の始まり、国連の創成および朝鮮戦争など、トルーマンの大統領職は非常に多事だった。トルーマンは「the buck stops here」など多くの有名な句を創り出した打ち解けた大統領だった。
ハリー・S・トルーマンは1884年5月8日にミズーリ州ラマーでジョン・アンダーソン・トルーマンとマーサ・エレン・ヤングの息子として生まれた。トルーマンが6歳の時、彼の親はミズーリ州インディペンデンスに引っ越した。そこで人格形成の時期の大部分を費やした。1901年に高校を卒業し、その後銀行の事務職に就いたが、1906年に父親を手伝うために就農した。彼は大学卒業以上の学歴を持たない最後の大統領だった。
第一次世界大戦へのアメリカの参戦に際して、トルーマンは州兵に参加し士官となり、フランスで連隊を指揮した。戦争終結後インデペンデンスに戻り長年の恋人ベス・ウォーレスと1919年に結婚した。間もなく一人娘のマーガレットをもうけた。
トルーマンは最初の選挙戦に於いてクー・クラックス・クランの支援を得るため同団体に加入した。しかしクー・クラックス・クランのローマ・カトリックに対するスタンスを知り、その考えを変更した。クー・クラックス・クランへの加入と、衣類販売業を共同で行った戦友でありユダヤ人のエディ・ヤコブセンとの友情を保つことは、トルーマンとユダヤ人との複雑な関係のスタートだった。近年発見された彼の日記には、「ユダヤ人は実に利己的」といった記述があり、彼がユダヤ人に対する嫌悪感を持っていたことを証明している。
1922年にトルーマンは、カンザスシティの民主党員トム・ペンダーガストの支援を受けジャクソン郡の裁判官に選任された。1924年の再選には失敗したが、1926年には再び選任された。郡裁判官としての主な業績の一つは、道路の改良であった。彼は計画案を作成し、資金提供のための債券発行を承認した。彼が離任するまでにジャクソン郡には200マイル以上の新しいコンクリートの道路が完成していた。
1934年にトム・ペンダーガストはトルーマンをミズーリの上院議員として選出するために支援した。選挙戦は激烈で、トルーマンは40,000票を得て予備選挙を勝ち抜いた。ミズーリで民主党の予備選挙を勝ち抜くことは本選挙で勝つことよりも困難なことであった。上院議員に当選したトルーマンは、ルーズベルト大統領のニューディール政策を支持して活動した。その後1940年には再選に挑んだが、すでにペンダーガスト機械は倒産し、その支援なしで選挙を戦わなければならなかった。
再選の後1941年には、軍事費の不正使用に関して調査報告を行い「トルーマン委員会」が設立された。その後の委員会の調査報告で150億ドル近い浪費が押さえられ、彼の知名度は全国的に上昇した。1944年の大統領選が近づくと共に、トルーマンは副大統領候補としてその名が浮上した。当初彼は副大統領としての指名を望まなかったが、ルーズベルトからの電話で指名を受諾することにした。ルーズベルトは先例のない4選を果たしそれに伴いトルーマンは副大統領に就任したが、ルーズベルトが1945年4月12日に急死しトルーマンは大統領に昇格した。副大統領としての任期は82日間であった。
大統領就任後、トルーマンは外交政策に没頭した。1945年7月にはポツダム会談に参加した。26日にはアメリカ・イギリス・中華民国の3国による「ポツダム宣言」が発表されたが、三カ国代表のサインはトルーマンによって書き上げられた物であった。それには太平洋戦争の勝利をソ連抜きで行おうという意図があった。
1945年4月の時点で原爆の完成予定を知っていたトルーマンは、核の力でソ連を抑止できるという考えがあった。日本への原爆投下命令はポツダム宣言発表の一日前、7月25日に行われていた。共和党の大物の面々が日本への原爆使用に反対していたこともあって、トルーマンは投下決定を共和党側には伏せたまま、先にスターリンに知らせた。共和党や共和党系と見なされていた将軍たちに原爆投下決定が伝えられたのは投下の二日前であり、これは「反対を怖れるあまり自国の議員よりも先にソ連に知らせた」と共和党側をさらに激怒させた。この原爆の日本への使用については、後に共和党大統領となるアイゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者の米陸海軍の将軍たち(マッカーサーも含む)は全員が反対意見を具申している。アイゼンハワーに至ってはスティムソン陸軍長官に対し「米国が世界で最初にそんなにも恐ろしく破壊的な新兵器を使用する国になるのを、私は見たくない」(一九六三年の回想録)と何度も激しく抗議していた。
トルーマンが原爆投下を決定した背景として、アメリカ軍の損失を最小限に止めること、実戦での評価、戦後の覇権争いでソ連に対して優位に立つという目的があったとする一方、「潰れた洋品店の親父」の様な風貌などという酷評にさらされた自らを男らしい決断力のある存在として誇示する考えと、人種的偏見があったとする説もある。トルーマンは二発目の長崎投下後「さらに10万人も抹殺するのは、あまりにも恐ろしい」として、3発目以降の使用停止命令を出した。トルーマンは公式的な場では原爆投下を正当化し続けていた。またトルーマンが日本へ計十八発もの原爆投下を承認していた事実がワシントン.ポスト紙にスクープされている。陸軍の完全な機密保持下に行われた原爆開発は戦後見直しを計られ、トルーマンは1945年10月に議会に対し原子力に関する教書を送った。それは原子力開発に関する管理体制についての物であった。翌年の8月には原子力法案が成立し、原子力委員会(AEC, United States Atomic Energy Commission)が作られた。1953年1月7日にトルーマンは、水素爆弾の開発を発表した。
第二次大戦終結後の共通の敵の不在が、米ソの利害の対立につながると悟ったトルーマンは、ソ連に対して強硬路線をとることを明確にした。また、ウッドロウ・ウィルソンの意を継ぎ国際連合の設立を強く支援し、前ファーストレディ、エレノア・ルーズベルトを含む代表団を最初の国連総会に派遣した。彼の外交知識を疑う者もいたが、マーシャル・プランに対する広い支援の獲得と、トルーマン・ドクトリンによってヨーロッパにおけるソ連の軍事力を牽制し、外交面での成果を上げた。また、米軍の統合に関する大統領令を出した。
1948年の大統領選でトルーマンは自身の政策を「フェアディール政策」と呼び、民主党員としてルーズベルトのニューディール政策を受け継ぐ立場であることを強調した。その政策は社会保障、公民権、タフト・ハートレー法の撤廃などを内容とするものであった。トルーマンの敗北が広く期待されたが、彼は猛烈にキャンペーンを行い共和党候補トマス・E・デューイを破り、真の大統領としての任期を得、大統領選挙史上で最も大きな混乱のうちの一つを切り抜けた。シカゴ・トリビューン紙は混乱した大統領選の結果を「デューイ、トルーマンを破る」との見出しで誤報した。その見出しをトルーマン本人が掲げて笑うスナップは有名である。
二期目の就任直後にトルーマンはフェアディールの諸政策を議会に提示したが、議会多数を占める共和党や民主党保守派には受け入れられなかった。その後の朝鮮戦争の勃発で、再び外交政策へ注力せざるを得なかった。戦況は停滞し、1950年11月国連軍総司令官のダグラス・マッカーサーは中国本土への核攻撃を主張したが、トルーマンは戦争の拡大を恐れマッカーサーを解任した。それはトルーマンの人気に大きく影響した。朝鮮戦争の行き詰まり、中華人民共和国の存在、ベトナムのフランスからの独立運動などによる人気の低下で、再選の可能性がわずかになったことを悟ったトルーマンは次の大統領選不出馬を決定した。民主党の大統領候補はアドレー・スティーブンソンに決定した。
他の大統領と異なり、トルーマンはその任期中のほとんどをホワイトハウスで過ごさなかった。ホワイトハウスはその構造分析で19世紀前半の英軍による火災が原因で崩落の危険が示され、改築を行うことになり、コンクリートと鋼材を使用して基礎部分から再建された。再建で造られた新しいバルコニーは現在トルーマン・バルコニーとして知られている。ホワイトハウスの改築中、近くのブレア・ハウスがトルーマンにとってのホワイトハウスとなった。
トルーマンがブレア・ハウスに滞在中の1950年11月1日午後2時過ぎに、プエルトリコの国家主義者グリセリオ・トレソーラとオスカー・コラッツオが大統領の暗殺を試みた。 しかし、警察官とシークレット・サービスによって阻まれ未遂に終わった。トレソーラは警官三名を銃撃したが射殺された。銃撃を受けた警官の一名は病院で死亡した。コラッツオは負傷したが身柄を確保され、裁判後に服役した。
thumb|right|200px|[[朝鮮戦争への介入を宣言する宣誓書へのサイン]]
職名 | 氏名 | 任期 |
アメリカ合衆国大統領 | ハリー・S・トルーマン | 1945 - 1953 |
副大統領 | 無し | 1945 - 1949 |
アルバン・W・バークリー | 1949 - 1953 | |
国務長官 | エドワード・ステティニアス | 1945 |
ジェームズ・F・バーンズ | 1945 - 1947 | |
ジョージ・C・マーシャル | 1947 - 1949 | |
ディーン・アチソン | 1949 - 1953 | |
財務長官 | ヘンリー・モーゲンソウ・ジュニア | 1945 |
フレデリック・ヴィンソン | 1945 - 1946 | |
ジョン・スナイダー | 1946 - 1953 | |
陸軍長官 | ヘンリー・スティムソン | 1945 |
ロバート・ポーター・パターソン | 1945-1947 | |
ケネス・クレイボーン・ロイヤル | 1947 | |
国防長官 | ジェームズ・V・フォレスタル | 1947-1949 |
ルイス・A・ジョンソン | 1949 - 1950 | |
ジョージ・C・マーシャル | 1950 - 1951 | |
ロバート・A・ラヴット | 1951 - 1953 | |
司法長官 | フランシス・ビドル | 1945 |
トム・C・クラーク | 1945 - 1949 | |
J・ハワード・マクグラース | 1949 - 1952 | |
ジェームズ・P・マクグラネリー | 1952 - 1953 | |
郵政公社総裁 | フランク・C・ウォーカー | 1945 |
ロバート・E・ヘネガン | 1945 - 1947 | |
ジェシー・M・ドナルドソン | 1947 - 1953 | |
海軍長官 | ジェームズ・V・フォレスタル | 1945 - 1947 |
内務長官 | ハロルド・L・アイクス | 1945 - 1946 |
ジュリウス・A・クルーグ | 1946 - 1949 | |
オスカー・L・チャップマン | 1949 - 1953 | |
農務長官 | クロード・レイモンド・ウィッカード | 1945 |
クリントン・プレスバ・アンダーソン | 1945 - 1948 | |
チャールズ・フランクリン・ブラナン | 1948 - 1953 | |
商務長官 | ヘンリー・A・ウォレス | 1945 - 1946 |
W・アヴェレル・ハリマン | 1946 - 1948 | |
チャールズ・W・ソウヤー | 1948 - 1953 | |
労働長官 | フランシス・パーキンス | 1945 |
ルイス・B・シュウェレンバック | 1945 - 1948 | |
モーリス・J・トービン | 1948 - 1953 |
トルーマンはワシントンD.C.からミズーリ州インデペンデンスの自宅に戻った後、数多くの講演を行い、回想録を執筆した。だが1964年、自宅バスルームでの転倒事故で不幸にも半身不随となってしまい、大統領図書館で毎日の仕事を継続することが困難となってしまった。1972年12月26日に死去(Template:没年齢?)し、28日に大統領図書館の庭に埋葬された。当時アメリカはベトナム戦争とウォーターゲート事件で揺れ動ていたが、トルーマンは偉大な元大統領としての評判を受けた。ポップ・グループの「シカゴ」は死を悼み、トルーマンに関する歌を書いた。
ニミッツ級航空母艦の8番艦ハリー・S・トルーマン(USS Harry S. Truman, CVN-75) は彼にちなんで命名された。
thumb|left|結婚式にて([[1919年6月28日撮影)]] トルーマンは6歳の時、教会で一人の少女に出会った。後の夫人、エリザベス・バージニア(ベス)・ウォーレスである。彼は会ったとたんに一目惚れをしてしまい「将来結婚する」と心に誓った。しかし「生い立ち」にある如く、家は大変貧しく結婚にこぎつけたのは1919年のことだった。結婚の9年前である1910年から1959年までの49年間、2人は結婚をはさんで「いとしのベス」「いとしのハリー」で始まる手紙をやりとりしていた。その手紙を収録した書簡集『Dear Bess』は、576ページの厚さに及ぶ。
トルーマンはミドルネームではなくイニシャルだけを持っていた。フル・スペルのミドルネームの代わりにイニシャルだけを付けることはミズーリを含む南部の州でしばしば行われていたという。トルーマンは、イニシャルが彼の祖父アンダーソン・シップ・トルーマンとソロモン・ヤングの名前の折衷であると語った。彼は「S」はイニシャルではなく「エス」というミドルネームだとジョークを言い、それにはピリオドを付けないのだとしたが、すべての公文書、彼の大統領図書館もピリオドの付いた名前を使用している。ハリー・S・トルーマン図書館は、トルーマンの生涯を通じての様々な場面で、彼が「S」の後にピリオドを付けた署名を行った多数の明白な例が存在すると公に述べている。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月6日 (土) 11:13。