ポツダム宣言

thumb|240px|[[降伏文書に調印する梅津美治郎]]

ポツダム宣言(ポツダムせんげん、The Potsdam Declaration)は、ポツダム会談での合意に基づいてアメリカ合衆国中華民国および英国の首脳が、昭和20年(1945年)7月26日大日本帝国に対し発した第二次世界大戦大東亜戦争太平洋戦争)の終結に関する13条から成る勧告の宣言。

宣言を発した各国の名をとって「米英支ソ四国共同宣言」(玉音放送の原文では「米英支蘇」)ソ連は8月9日に対日参戦して宣言に参加したともいう。1945年8月10日、大日本帝国はこの宣言の受け入れを駐スイス大使館経由で連合国側へ申し出、またラジオトウキョウを通じてアナウンス。9月2日、東京湾内に停泊する米戦艦ミズーリの甲板で昭和天皇元首であり大元帥また正式には大日本帝国陸海軍大将)の裁可を受けた政府全権の重光葵大本営(日本軍)全権の梅津美治郎とが連合国への降伏文書に調印した。

経緯

ポツダム会談の途中で、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン原子爆弾開発実験の成功が密かに伝えられた。

会談に加わっていたソビエト連邦は、大日本帝国に対して中立の立場をとっていたため、宣言に加わらず、アメリカ合衆国英国中華民国の3カ国首脳の共同声明として発表された。英国代表として会談に出席していたウィンストン・チャーチル首相は、本国での総選挙敗北の報を受け急遽帰国、後継首相のクレメント・アトリーは総選挙後の後始末のために不在、さらに中華民国代表蒋介石もポツダムにいなかったため、トルーマンが自身を含めた3人分の署名を行った(蒋介石とは無線で了承を得て署名した)。

ソビエト連邦が宣言の具体的内容を知ったのは公表後であったためヨシフ・スターリンは激怒したというTemplate:要出典?8月8日ソ連対日参戦してから宣言に加わった。

概要

宣言の骨子は下記のとおりである。

  • 五條、吾等の条件は左の如し。吾等は右条件より離脱することなかるべし。
  • 六條、日本を世界征服へと導いた勢力の除去
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  • 八條、カイロ宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ
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  • 十條、日本人を民族として奴隷化、国民として滅亡せんとするに非ず。一切の戦争犯罪人の処罰
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  • 十三條、全日本軍の無条件降伏と日本国政府によるその保障
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冒頭第一條にて、日本国に対し戦争を終結する機会を与える(Template:lang?)とし、末尾第十三條において、全日本軍の無条件降伏と政府がそれを保障する事を受け容れられない場合は、(ドイツ同様の)迅速且つ完全なる壊滅あるのみ(Template:lang?)と声明している。

影響

ポツダム宣言に対する日本国政府の対応は、戦争終結の手段として検討する一方で、無条件降伏とされ、いわゆる国体護持(天皇制の維持)について言及されていなかったことから、宣言の受諾をするにしても、その点に関する確保を求める意見を中心に、政府の内部で激しい議論が起こった(原爆投下後に国体護持という条件が付与とされたため、宣言受諾へと意見が固まったという説もあるTemplate:要出典?無条件降伏参照)。

また、当時元首相の近衛文麿を昭和天皇の特使としてソビエト連邦に派遣して和平の仲介を求める構想が進められており、それに対するソビエト連邦政府の返事を待つとの見方もあり、結局、ポツダム宣言の黙殺を決めた(ソビエト連邦は受ける気はなかったものの、アメリカ合衆国・イギリスと協議しヤルタ協定でソ連対日宣戦布告まで大日本帝国の申し出を放置する事に決定していた)。

政府は、7月27日にポツダム宣言の存在を論評なしに公表し、7月28日に読売新聞で「笑止、対日降伏條件」、毎日新聞で「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」「白昼夢 錯覚を露呈」などと報道された。鈴木貫太郎首相は同日、記者会見し「共同聲明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず「黙殺」し、斷固戰争完遂に邁進する」(毎日新聞、1945年(昭和20年)7月29日)と述べ、翌日朝日新聞で「政府は黙殺」などと報道された。この「黙殺」は日本の国家代表通信社である同盟通信社では「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳され、またロイターAP通信では「Reject(拒否)」と訳され報道された。

なお、宣言の内容としては国務次官グルーと陸軍長官スティムソンによる起草段階では天皇制を維持する旨の条項が含まれていたが、当時はアメリカ合衆国政府内でもその是非について見解が定まっておらず、最終案では削除されていた。

8月6日広島市への原子爆弾投下が、3日後の8月9日には長崎市への原子爆弾投下がなされ、同日(一方でヤルタ協定中の秘密条項で「ドイツ降伏の日の2ヶ月または3ヶ月後を経」た参戦を約束しながら)日ソ中立条約を結んでいたソ連対日参戦により満州国へ侵攻が起こった(ソ連は条約の不延長・破棄を直前に通告して来ていたが、条約の有効期間は破棄後一年であり、明確かつ一方的に中立条約を反故にした上での侵攻)。ソ連の満州国侵攻に衝撃を受けた日本の戦争指導者たちは、8月9日の御前会議で「国体の護持」を条件に受諾を決定し、8月10日に連合国に打電した。翌11日アメリカ合衆国は「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」とし、また「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に従属する(subject to)」と回答した(「バーンズ回答」)。"subject to"の訳について「制限の下に置かれる」とする外務省と「隷属する」とする軍部の間の対立があった"subject to"の訳について「制限の下におかれる」とする外務省の説は、当時外務省条約局第一課長だった下田武三の翻訳である。後年、下田は"subject to"は「隷属する」の意味では有るが、これでは軍部が受け入れないので、「制限の下に置かれる」と意訳したと説明している。さらに、米国の回答には「日本国の最終的の政治形態は『ポツダム』宣言に遵い日本国民の自由に表明する意志に拠り決定されるべきものとす」となっていたところを、下田は「日本国の最終的の政治形態は」の部分を「最終的の日本国の政府の形態は」と訳し、天皇は無傷でその下の政府の形態が国民の意志で決められると取れるように改めた。(出典:下田武三/著 戦後日本外交の証言 上 1984(昭和59)年8月、行政問題研究所)。国体がどうなるかの確証はなく、軍部強硬派は国体護持が保障されていないと再照会を主張したために8月14日に天皇の命令で改めて御前会議を開き、宣言受諾が決定されて詔勅が発せられた。同日、在瑞西(スイス)加瀬俊一公使を通じて、ポツダム宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が連合国に伝えられた。

8月15日正午、玉音放送(「玉音」とは天皇の肉声の意)により、臣民大日本帝国陸軍大日本帝国海軍に降伏・太平洋戦争の終結が伝えられた。軍隊に停戦命令が出されたのは8月16日である。

なお、ポツダム宣言受諾前には日本国内で混乱が見られ、ポツダム宣言受諾が決定したという報が入ると、クーデターによって玉音放送を中止させて「本土決戦内閣」を樹立しようという陸軍青年将校の動きがあり、8月15日未明に一部部隊が皇居やNHKなどを占拠したものの、陸軍首脳部の同意は得られず失敗に終わった(宮城事件)。これとほぼ同時刻に陸軍大臣阿南惟幾割腹自殺をしている。

OSS部長アレン・ウェルシュ・ダレスはスイス駐在武官藤村義朗と接触を持ち、3月から終戦工作を進めていたが、指示を求める藤村の35本もの訓電は外務省が悉く握り潰し、ヒロシマナガサキの悲劇を回避する事は出来なかった。原爆攻撃を受けた日本政府は8月14日深夜(スイス時間の15日昼過ぎ)に漸く、交渉に応じるように海軍大臣副官を通じて国際電話で指示したが、ベルンの藤村のそばでこれを聞いたアメリカ側は「今頃になって何を! 100日遅い!」と吐き捨てたという(日本テレビ「知ってるつもり?」『消えた潜水艦とたった一人の和平工作』より)。

玉音放送の後も、ソ連・中国との間では戦闘が続いた。9月2日、天皇はポツダム宣言を受諾し調印すること、および、日本軍に対して無条件降伏することを命令。日本政府はミズーリ号の艦上で降伏文書(※文書名として正式なもの。末尾外部リンク参照)に調印。その後も日本軍残党と中国軍・アメリカ軍との小規模の戦闘は続いた。日本軍で最後まで戦闘を継続していたと認められた兵士は1974年に発見された小野田寛郎である。

ポツダム宣言と「無条件降伏」

署名後の1945年(昭和20年)9月6日に、米国トルーマン大統領からTOP SECRETであり事前に連合国各国の同意を得たものではなく、マッカーサーがこの文書が公開されることを望んだため、公表の事前に英ソ中各国政府に知らせる事を条件に大統領も同意した。なお対日占領政策の最高意思決定機関は極東委員会であり、その諮問機関である対日理事会の第一回会合は1946年4月5日。「連合国最高司令官の権限に関するマックアーサー元帥への通達」(JCS1380/6 =SWNCC181/2)(原文どおり)があり、その第1項で「天皇及び日本政府の国家統治の権限は、連合国最高司令官としての貴官に従属する。貴官は、貴官の使命を実行するため貴官が適当と認めるところに従って貴官の権限を行使する。われわれと日本との関係は、契約的基礎の上に立つているのではなく、無条件降伏を基礎とするものである。貴官の権限は最高であるから、貴官は、その範囲に関しては日本側からのいかなる異論をも受け付けない。」とあり、ここでは軍隊の無条件降伏と国家の無条件降伏の区別を行っていない米国の認識が示されている。詳細は無条件降伏参照。

その他

降伏文書として宮城県白石市白石和紙が用いられ、マッカーサー元帥が「紙は千年持つそうだが、この条約も千年持つように。」と言ったとされる。

参考文献

  • 江藤淳監修|栗原健|波多野澄雄編「終戦工作の記録」(上下)講談社文庫,1986
  • 江藤淳編「占領史録」(上下)講談社学術文庫,1995
  • 外務省編「終戦史録」(全6巻)北洋社
  • 外務省編「日本の選択 第二次世界大戦終戦史録」(上中下)山手書房新社,1990
  • 林茂・辻清明編「日本内閣史録 5」第一法規,1981
  • 鈴木九萬一監修「日本外交史 26」鹿島出版会,1973
  • 中尾裕次編「昭和天皇発言記録集成」(上下巻)芙蓉書房出版,2003
  • 重光葵「重光葵 手記」 正続  中央公論社 ,1986,1988
  • 重光葵「昭和の動乱」中公文庫上下 ,2001
  • 岡崎勝男「戦後二十年の遍歴」中公文庫,1999
  • 梅津美治郎刊行会「最後の参謀総長梅津美治郎」芙蓉書房,1976
  • 有末精三「ザ・進駐軍 有末機関長の手記」芙蓉書房,1984
  • 河辺虎四郎「河辺虎四郎回想録 市ヶ谷台から市ヶ谷台へ」毎日新聞社,1979
  • 加瀬俊一「加瀬俊一回想録」山手書房上下,1986
  • 加瀬俊一「ミズーリ号への道程」文芸春秋新社,1951
  • GHQ参謀第2部編「マッカーサーレポート 第1巻」現代史料出版,1998
  • 毎日新聞図書編集部訳編 「太平洋戦争秘史 米戦指導者の回想」毎日新聞社,1965
  • 荒敬編「日本占領・外交関係資料集 第1巻」柏書房,1991
  • 佐藤元英・黒沢文貴編「GHQ歴史課陳述録—終戦史資料」原書房(上下),2002
  • ダグラス・マッカーサー「マッカーサー回想録」 中公文庫上下、2001
  • ハリー・S・トルーマン「トルーマン回顧録」恒文社,1992
  • イーブン・A.エアーズ「ホワイトハウス日記1945-1950」平凡社,1993
  • 五百旗頭真「日本の近代6 戦争・占領・講和 1941〜1955」中央公論新社,2001
  • 五百旗頭真「20世紀の日本3 占領期−首相たちの新日本」読売新聞社,1997 中公文庫,2002
  • 河原匡喜「マッカーサーが来た日 8月15日からの20日間」新人物往来社,1995
  • 仲晃「黙殺 ポツダム宣言の真実と日本の運命」NHKブックス(上下),2000
  • 長谷川毅「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」中央公論新社,2006
  • 保阪正康「新版 敗戦前後の日本人」朝日文庫,2007

脚注

関連項目

外部リンク

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月14日 (火) 09:10。












     

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最終更新:2008年10月18日 00:47
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