ラダ・ビノード・パール(Radha Binod Pal, राधाबिनोद पाल, 1886年1月27日 - 1967年1月10日)は、インドの法学者、裁判官。日本では主に、極東国際軍事裁判(東京裁判)において判事を務め、同裁判の11人の判事の中で唯一、被告人全員の無罪を主張した「意見書」(通称「パール判決書」)の作成者として知られている。教科書や文献、新聞などでは、『パル』表記も多い。
パールは「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。“裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、国際法上、日本を有罪であるとする根拠自体が成立しない”という判断によるものである。“パール判事は親日家故に日本に有利な主張をした”という説は事実誤認であり、自身も否定している。またパールは判決書の中で残虐行為について敗戦国の日本やドイツと戦勝国のアメリカを分け隔てなく批判した。南京事件については「すでに本官が指摘したようにこの物語の全部を受け入れる事は、 いささか困難である」と十数万~数十万もの大虐殺に関する証言や証拠に強い疑問を呈した上で「残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた 戦時ふ虜に対し犯したものであるという証拠は圧倒的である」として一定の犯罪行為が存在した事を指摘した。そして「弁護側は、南京において残虐行為が行われたとの事実を否定しなかった。彼らはたんに誇張されていることを愬ているのであり、かつ退却中の中国兵が、 相当数残虐を犯したことを暗示したのである」という弁護側の主張で締めくくっている。尚、南京事件の責任を問われた松井石根に対しては無罪を宣告している。米国による原爆投下については非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてのナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであるとして痛烈に批判した。
このようにパールは戦争に於ける各国の残虐行為を強く批判する主張を展開した。
自由主義史観派など東京裁判の判決を不当であると主張する人々や歴史家から称賛されていることはいうまでもないが、そのような立場を取らない国際法学者からも「法の不遡及原則に法った判決を下した人物」として評価されている。また国際連合国際法委員会委員を歴任するなど国連でも貢献し、国際的に高い評価を得ている。
その一方、ネルー首相(当時)は意見書に対して非公式ではあるが「パールの意見書はあくまで一判事の個人的見解であり、インド政府としては同意できない箇所が多々ある」と不快感を示している。1948年12月6日付けのベンガル州知事への書簡。(内藤雅雄「M.K.ガーンディーと日本人」『アジア・アフリカ言語文化研究』63号(2002年)) しかし、2006年12月14日、来日したマンモハン・シン首相は日本の衆議院の国会演説で「戦後、ラダ・ビノード・パル判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています。こうした出来事は、我々の友情の深さと、歴史を通じて、危機に際してお互いに助け合ってきた事実を反映するものです」と公式に好意的な意見を述べている。
神奈川県箱根町には下中彌三郎・パール両名を記念するパール下中記念館があり、東京裁判で用いた法服などが展示されている。
パールは『パール判決書』(裁判の際に提出した意見書)の中で、
「戦争に勝ち負けは腕力の強弱であり、正義とは関係ない。」
と記述している、また。
「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。すなわち『ハル・ノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう』。『東京裁判・原典・英文版 パール判決書』 国書刊行会 1999年7月 ISBN 978-4336041104 」
とA.J.ノックの言葉を引用している。これについて、日本の保守系論者(伊藤哲夫:日本政策研究センター)は「『戦争を始めたのは日本ではなく、アメリカなのだ』ということを意図したものである」と主張している。
パールの意見書に接し、裁かれた被告が歌を遺している。
1952年11月3日に広島市を訪問した際に、広島平和記念公園の慰霊碑の碑文にある「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」のうち、通訳の言葉から「過ちは」を「日本人」が主語であると解釈し、「原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と発言した。このパルの慰霊碑の解釈を根拠として、慰霊碑の主語をめぐる論争が1970年代になって広島で巻き起こった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2007年9月26日 (水) 02:46