ロシア帝国(ロシア語:Template:lang?、英語:Russian Empire)は、第一次世界大戦中の1917年にロシア革命によって打倒されるまで存在したロシアの政体のことである。「帝政ロシア」とも言われる。
厳密には1721年に、スウェーデンとの大北方戦争に勝利したロマノフ朝のピョートル1世が、元老院からインペラートル(皇帝)の称号を贈られ、国体を「帝国」と宣言し、対外的な国号を「ロシア帝国」と称したのに始まる。ただし、ロマノフ朝の前王朝リューリク朝のイヴァン3世が15世紀後半にツァーリ(これも「皇帝」と訳しうる)の称号を用いたころには、ロシア(モスクワ大公国)は帝国とみなされるような力を持っていたことから、「ロシア帝国」という言葉の指す時期は拡大して使われることもある。
ロシアの歴史を参照。
領土は、19世紀末の時点において、のちのソヴィエト連邦の領域にフィンランドを加えたものとほぼ一致する面積2000万km²超の広域に及び、1億を越える人口を支配した。
首都はサンクトペテルブルクに置かれた(「帝国」成立以前の1712年まではモスクワ)。
ロシア帝国は、ルーシの各地に存在した諸公国のうちのひとつから発展したモスクワ大公国に始まる。モスクワ大公国は14世紀から15世紀にかけて、タタールや周辺のルーシ諸国と戦って勢力を拡大し、イヴァン3世のとき、はじめて「ツァーリ」の称号を名乗った。
「ツァーリ」というロシア語の称号は、ルーシの社会ではもともと東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の皇帝に対して用いられていたものである。通説によれば、1453年にビザンツ帝国のパレオロゴス朝がオスマン帝国に滅ぼされた後、モスクワ大公イヴァン3世はパレオロゴス朝最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪を迎えて結婚し、ツァーリの称号を名乗る正統性を得たとされる。またこの時代には、モスクワにあった正教会の府主教座(現・モスクワ総主教庁)がコンスタンディヌーポリ総主教庁から独立を宣言しており、東ローマ帝国の滅亡に伴って、モスクワはローマ帝国のローマ、東ローマ帝国のコンスタンディヌーポリ(コンスタンティノポリス)に継ぐ「第三のローマ」であるという言説が見られるようになるなど、モスクワ大公国の中で「帝国」を自任する意識が生じていた。
1547年には、イヴァン3世の孫イヴァン4世が「全ロシアのツァーリ」を自称し、モスクワ大公国の君主が全ロシアの君主にしてローマ皇帝の継承者たるツァーリであるという宣言が行われた。ただ、この称号は国内的な自称にととどまり、ヨーロッパ諸国との外交関係では、ロシアの君主は長らく「皇帝」でも「王」でもなく、単なる「モスクワ国の大公」として扱われている。
150px|thumb|right|1882年の[[ロシア帝国の大紋章の中央部]] リューリク朝
ゴトゥノフ朝
偽ツァーリ
シューイスキイ朝
対立ツァーリ
ロマノフ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月27日 (火) 16:23。