ロンドン海軍軍縮会議(ロンドンかいぐんぐんしゅくかいぎ)は、1930年に開催された列強海軍の補助艦保有量の制限を主な目的とした国際会議。イギリス首相ラムゼイ・マクドナルドの提唱により、イギリスのロンドンで開かれた。開催期日は1月21日から4月22日。当初、アメリカ(以下米)・イギリス(英)・日本(日)・フランス・イタリアで会議がもたれた。
1922年に締結したワシントン海軍軍縮条約(以下前条約)では、巡洋艦以下の補助艦艇は建造数に関しては無制限であった。そのため、各国とも前条約内で可能な限り高性能な艦、いわゆる「条約型巡洋艦」を建造することになる。特に日本の建造した妙高型重巡洋艦は、他国のそれを上回る性能を持ったため、これを制限するために開催された。
本会議では補助艦の制限について討議されたが、この3年前にもジュネーブ海軍軍縮会議で同じ問題についてが話し合われていた。しかしジュネーヴ会議は米の比率主義と英の個艦規制主義が対立したため決裂に終わっていた。
当時の濱口内閣は経済の実態に合わない第一次世界大戦前の相場水準による金解禁を実施したばかりであり、為替相場を戦前水準のまま維持させるためには大幅な歳出削減を伴う緊縮財政を必要としていた。このため、内閣の立場からすれば日本と他の列強との軍事的なバランスを考慮しつつも軍縮を推進して海軍予算を削減する事が望まれていた。
日本側は若槻禮次郎(首席全権)・斎藤博ら政府代表を派遣、英米も首相ラムゼイ・マクドナルド、国務長官ヘンリー・スティムソンなどが政府全権として交渉に当たった。先の会議では軍人を主においたため、政治的判断で決着を望むことになったためである。交渉は各国の意見対立などにより難航したが、前条約を基本としつつ最終的に以下のように決定した。
日本の内閣としては、提案した7割に近い妥協案を米から引き出せたことで、この案を受諾する方針であり、海軍省内部でも賛成の方針であったが、軍令部は重巡洋艦保有量が対米6割に抑えられたことと、潜水艦保有量が希望量に達しなかったことの2点を理由に条約拒否の方針を唱えた。同年10月2日にロンドン海軍軍縮条約の批准にはこぎつけたものの、海軍内部ではこの過程において条約に賛成する「条約派」とこれに反対する「艦隊派」という対立構造が生まれた。また、野党や枢密院も明治憲法内の「天皇は陸海軍を統帥す(条文は平仮名訳)」(統帥大権)を盾に、政府が軍令(=統帥)事項である兵力量を天皇(=統帥部)の承諾無しに決めたのは憲法違反だとするいわゆる統帥権干犯問題が発生した。
また、新造艦艇を条約の制限内に納めるための無理な設計の結果、日米では重心があがったトップヘビー構造の艦が建造され、日本国内で友鶴事件・第四艦隊事件を引き起こす原因となる。
1935年(昭和10年)12月第2回の会議が開催されたが、日本は翌1936年(昭和11年)1月15日に脱退、軍縮時代に終止符が打たれた。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月9日 (火) 09:22。