ワシントン会議 (1922年)

ワシントン会議(ワシントンかいぎ、1921年11月12日 - 1922年2月6日)とは、第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウオレン・G・ハーディングの提唱でワシントンD.C.で開かれた国際軍事会議

概要

国際連盟の賛助を得ずに実施され、太平洋東アジアに権益がある日本イギリスアメリカフランスイタリア中華民国オランダベルギーポルトガルの計9カ国が参加、ソビエト連邦は会議に招かれなかった。アメリカ合衆国における初の国際会議であり、歴史上初の軍縮会議となった。国際社会の主導権がイギリスからアメリカに移った会議としての意義があるTemplate:fact?

このワシントン会議を中心に形成されたアジア太平洋地域の戦後秩序をワシントン体制と呼ぶ。

アメリカ

ヒューズ国務長官に率いられたアメリカ代表団にとって、会議の主な目的は、西太平洋海域、特に戦略的に重要な島々の防備に関する日本海軍の拡大を阻止することだった。付随するいくつかの目的には最終的に日本の拡大を制限するのみならず、イギリスとの間に起こり得る対立に対する懸念を軽減する意図があった。それらは

  • 日英同盟の廃止による米英間の緊張を排除
  • 日本に対して劣位に立たない海軍軍備比率で合意
  • 中国における門戸開放政策の継続を日本に正式に受け入れさせる

の三点だった。

イギリス

一方、イギリスは、より用心深い姿勢で会議に臨んだ。英国代表は総合的な要求を会議に提出した。それは

  • 西太平洋の平和と安定の達成
  • アメリカ合衆国との海軍軍備拡大競争の回避
  • 英国の影響下にある地域への日本進出阻止
  • シンガポール香港等の自治領の安全の維持

というようなものであった。しかし、多くの要求をリストにして会議に参加するのではなく、合意の後に西太平洋がどのようになるのかの全体像について漠然とした構想を持っているだけであった。

日本

日本はイギリスより特定の点に集中し、2つの主要な目的を持って会議に参加した。それは、

  • 海軍条約を英米と締結
  • 満州モンゴルにおける日本の権益について正式な承認を得る

ことだった。また、その他にも日本代表は、太平洋におけるアメリカ艦隊の展開拡大に対する大きな懸念や、ヤップシベリア青島の支配を維持するべく強硬姿勢で会議に参加した。

しかし、日本政府から代表団への暗号電をアメリカが傍受・解読したことで会議はアメリカ有利に進んだ。アメリカは日本が容認しうる最も低い海軍比率を知り、これを利用してそこまで日本を譲歩させた。この成功はアメリカにおける初期の盗聴と暗号処理に対する活動のひとつであり、結果としてその分野の機関の成長につながった。

主力艦比率に関する決定は日本の敗北と受け取られたが、それでも経済規模に対する海軍規模の比率は日本が突出しており、海軍維持のための負担は経済成長の大きな阻害要因となった。

主な議決

関連項目

参考文献

  • 『日本の政戦略と教訓-ワシントン会議から終戦まで』(杉田一次著、原書房、1983年1月)ISBN 978-4562013487




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月30日 (日) 10:33。












     

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最終更新:2009年01月14日 23:12
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