中原大戦(ちゅうげんたいせん)とは、中国の中原において、1930年に、軍閥が蒋介石に対して起こした戦争のこと。中原会戦(ちゅうげんかいせん)、または、中原戦争(ちゅうげんせんそう)と呼ぶこともある。
1928年に完了した北伐は、中国国民党によりというよりは、各地の軍閥を抱き込むことにより成し遂げられたという面が強かった。その結果、北伐後の国民政府は、軍閥混合的な色彩の政府(政府の軍は、軍閥の寄せ集めであった)であり、中国国民党の立場は弱いものであった。
これに対して、蒋介石は、中国国民党および自己の権力を強大化させるため、1929年1月に国軍の整理を開始した。これは、旧軍閥の兵士を削減することにより、軍閥の影響力を失わせ、蒋介石側の勢力の巻き返しを図ろうとするものであった。
ここに及んで、北伐に協力した軍閥は危機感を覚え、蒋介石に対して、次々と兵を起こし、戦乱が繰り返された。そのような時期が、1932年の新国民政府成立まで続くわけであるが、その中で、最も大きく、かつ、蒋介石に大きな危機をもたらした戦争を中原大戦と呼ぶ。中原大戦において、蒋介石に反旗を翻した主要な軍閥は、閻錫山・馮玉祥・李宗仁の3人(いずれも、北伐において、大きな活躍をしている)であった。
蒋介石は、最終的に張学良の協力によりこの戦争に勝利することができたが、その結果、最大の(しかし、最後ではない)危機を乗り切り、1932年以降の政権への大きな一歩を踏み出すことができた。
北伐完了以降中原大戦終了までの状況
- 1928年6月 北伐完了(北京入場)→12月 易幟
- 1929年
- 1月 国軍再編会議(軍隊整理会議、編遺会議?)
- 3月 中国国民党・三全大会(南京)
- 3月 蒋桂戦争(張発奎・李宗仁・白崇禧・李済琛・広西派・広西軍・桂軍)→5月 粤桂戦争(蒋介石・陳済棠(広東軍)VS李宗仁(護党救国軍))→いずれも李宗仁の負け
- 5月 馮玉祥(護党救国軍・西北派・西北軍)・蒋馮戦争→唐生智が蒋介石側についたので馮側の負け(閻は、揺れ動く)
- 10月 宋哲元・孫良誠(西北軍・西北派)・閻錫山・馮玉祥・蒋馮戦争→閻の寝返りで蒋の勝利
- 12月 唐生智・石友三(護党救国軍)→蒋と閻の勝利
- 1930年
- 3月 三期三中全会(南京)
- 4~5月 閻錫山(総司令)・馮玉祥(副総司令)・李宗仁(副総司令)・傅作義
- 8~9月 北平国民政府(主席・閻錫山)(北平拡大会議・中国国民党中央(党)部拡大会議)+改組派(汪兆銘・陳公博)・西山会議派・安福派
- →中華民国約法草案(いわゆる太原約法草案)の起草
- 9月 張学良、南京政府擁護の通電
- 11月 三期四中全会(南京)
- 蒋の勝利後、汪兆銘・陳公博は、香港へ。改組派も解散
中原大戦の始期と終期について
中原大戦の始期と終期については、日本語の各文献において、大きく異なる記述が見られる。例えば、以下のとおりである。
- 中国近現代史・小島晋治・丸山松幸・岩波新書(黄336)・1986年
- 5月から半年間(125ページ)、4月開始(巻末年表の15ページ)
- 蔣介石・保阪正康・文春新書040・平成11年
- 9月1日(蒋の総攻撃開始)から12月(148ページ)
- 中華民国・横山宏章・中公新書1394・1997年
- 5月から(178ページ、303ページ)8ヶ月以上(181ページ)
- 中国近現代史(上・下)・姫田光義他・東京大学出版会・1982年
- 3月から10月(上343ページ)、5月(閻・馮への総攻撃を発令)から10月(下・年表34ページ)
- 中国の歴史10・菊池秀明・講談社・2005年
- 4月から(285ページ)10月には大勢が決した(287ページ)、5月から9月(巻末年表、ページ数の記載はなし)
- 近代中国関係史年表・岩波書店・2006年
- 5月11日(蒋、閻・馮への総攻撃を命ずる。463ページ)から11月4日(閻・馮、太原の陸海空軍司令部解消を通電。465ページ)
- 世界歴史大系・中国史5・山川出版社・2002年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月11日 (木) 13:45。
最終更新:2009年03月03日 22:34