九カ国条約

九カ国条約(きゅうかこくじょうやく、Nine-Power Treaty)は、1922年大正11年)のワシントン会議に出席した9カ国、すなわちアメリカ合衆国イギリスオランダイタリアフランスベルギーポルトガル日本中華民国間で締結された条約

四カ国条約が、列強による日本牽制の意味が強いことに対し、こちらはアメリカの権威拡大を象徴し、門戸開放・機会均等・主権尊重の原則を包括し、中国権益の保護を図ったものである。日本は、第一次世界大戦中に結んだ石井・ランシング協定を解消し、機会均等を体現し、この条約に基づいて別途中国と条約を結び、山東省権益の多くを返還した(山東還付条約)。

これ以後、国際社会は、ワシントン体制と呼ばれる、中国権益の侵害を忌む傾向に向かった。

日本とワシントン体制

ワシントン体制とはワシントン会議で締結された九カ国条約、四カ国条約ワシントン海軍軍縮条約を基礎とする、アジア・太平洋地域の国際秩序を維持する体制のことを言う。日本では、この体制を基盤とする外交姿勢を協調外交(幣原外交参照)と呼び、代々立憲民政党内閣の外相幣原喜重郎らによって遵守されてきた。

しかし、蒋介石北伐が開始されると、国内で協調外交に対する不満が大きくなり、とりわけ軍部は「協調外交」による外交政策を「弱腰外交」として強く批判した。そして、1931年昭和6年)の満州事変は九カ国条約で定められた中国の領土保全の原則に違反しているとして、各国から非難を受けた。それ以後もたびたび日本の行動は同条約違反と非難されたが、日本側は非難を受けるたびに本条約を遵守する声明を公表し続けた。

しかし、1937年(昭和12年)7月7日に起きた盧溝橋事件にはじまる日中戦争支那事変)でも不拡大方針を発表しているにもかかわらず、戦線が徐々に拡大していったので、日中和平を仲介すべく、1937年11月ブリュッセルで九カ国条約会議(ブリュッセル国際会議)の開催が急遽決定された。これを受けて、休戦を主張する石原莞爾らの協力もあり、第1次近衛内閣外務大臣広田弘毅トラウトマン工作を開始した。

しかし、日本側はこの会議への出席を拒否。これにより本条約は事実上無効となり満州事変が起きた時点で既に条約は無効となっていたとする説もある。、ワシントン体制は名実ともに崩壊したワシントン体制の一翼を担っていたワシントン海軍軍縮条約は1936年(昭和11年)12月に失効している。。

その後も、日本やその他加盟国も和平の道を探るも、1938年(昭和13年)1月16日には「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とする第一次近衛声明が発表され、和平への道は閉ざされた。

更に、近衛文麿内閣総理大臣汪兆銘政権を樹立し、石原莞爾らの独自和平工作を完全に阻止した。こうして、日中戦争は泥沼化し、日本の国際的孤立が加速することとなる。

脚注

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関連項目

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月1日 (月) 16:31。












     

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最終更新:2008年12月09日 22:58
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