人間宣言(にんげんせんげん)は、1946年1月1日に官報により発布された昭和天皇の詔書の通称である。当該詔書の後半部には天皇が現人神(あらひとがみ)であることを自ら否定したと解釈される言及部分があり、狭義にはその部分を表現する名称としても用いられる。
ポツダム宣言受諾による戦争終結(敗戦)から4か月余、まだ大日本帝国憲法の施行下にあり神聖不可侵の現人神・八紘一宇思想等の影響が残っていた日本にあって、占領統治主体のGHQからの要求による(必ずしも自発的ではなかった)ものながら、天皇が詔(みことのり)においてそれら神格等の否定に明確に言及したことは、当時の国民・社会全般に大きな影響を与え、その詔書の当該部分が、後には詔書全体が「人間宣言」と一般に呼称されるようになった。
この詔書には公用文としての「題名」は付されておらず、題名に準ずる「件名」は「新年ニ当リ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス国民ハ朕ト心ヲ一ニシテ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ」(官報目録)及び「新年ヲ迎フルニ際シ明治天皇ノ五箇条ノ御誓文ノ御趣旨ニ則リ官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、新日本ノ建設方」(法令全書)と2度にわたり付与されているもののともに冗長で引用に不便なものであるため、一般には、詔書後半部の天皇神格・日本民族優性思想の否定に関する部分に着目した通称として、学術・教育(教科書)・報道等の場でこの「人間宣言」、「天皇人間宣言」、「神格否定宣言」などが用いられ、国立国会図書館においても「人間宣言」の名称で所蔵されている。一方、この詔書の前半部には明治天皇の御誓文(五箇条の御誓文)を引用した部分があり、また、詔書全体の文意としては神格等否定を踏まえつつも終戦後の新日本国家の建設を国民に呼びかけたものでもあるため、特定部分に依拠しない通称として「新日本建設に関する詔書」、「年頭、国運振興ノ詔書」などを用いる例もあり、国立公文書館では片仮名の「新日本建設ニ関スル詔書」の名称で所蔵されている。
Tanaka Memorialへの信仰と確信を色濃く残したままの連合国軍総司令部 (GHQ/SCAP) と民間情報教育局 (CIE) は天皇の勅語によって、日本が他国・他国民を支配する神聖な使命も持つことを明確に否定し、この観念の根拠となった家系・血統によって天皇は他国の元首に優越し、日本国民は他国民に優越すると主張する国家神道の教義も明確に否定することを企図していた。
詔書中の「朕ト爾(なんぢ)等国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(あきつみかみ)トシ、且(かつ)日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」の部分から、天皇による神話と伝説と伝承と歴史と日本民族の否定であり、天皇の人間宣言であるとして検閲可能な占領下での新聞社による画一的な一斉報道で名称固定され、以後そのまま通用することになった。
GHQの要求を受け、幣原喜重郎首相は前田多門文相に原案を依頼した。以下、木下道雄侍従次長の『側近日誌』を元に再現する。
しかし、日本語で発表されたものは天皇が神の末裔であることを明確に否定したものではなく、「現御神」(現人神)であることを否定するものであった。これに対し、原案の英文は「the Emperor is divine」を否定するものであった。「divine」は王権神授説などで用いられる「神」の概念である。英文の詔書は2005年に発見され、2006年1月1日の「毎日新聞」で発表された。渡辺治(一橋大大学院教授・政治史)は同紙に「資料は、草案から詔書まで一連の流れが比較検討でき、大変貴重だ。詔書は文節ごとのつながりが悪く主題が分かりにくいが、草案は天皇の神格否定が主眼と分かる。草案に日本側が前後を入れ替えたり、新たに加えたりしたためだろう。」というコメントを寄せている。
この詔書は一部の人たちに強い衝撃を与えたが、一般的な国民は、天皇が現人神ではなくただの人間であると以前から思っていたので、さして驚かなかったようである。とはいえ、天皇がその後、公的に現人神として敬われることがなくなったことは、日本社会の変革に多大な影響を与えたものと推測される。
また、諸外国ではかなり好意的にこの詔書が受け入れられ、日本の主権回復への大きな一歩となった。
昭和天皇は、1977年8月23日の会見で記者の質問に対し、GHQの詔書草案があったことについては、「今、批判的な意見を述べる時期ではないと思います」と。また、詔書のはじめに五箇条の誓文が引用されたことについては、「それが実は、あの詔書の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。当時はアメリカその他諸外国の勢力が強く、日本が圧倒される心配があったので、民主主義を採用されたのは明治天皇であって、日本の民主主義は決して輸入のものではないということを示す必要があった。日本の国民が誇りを忘れては非常に具合が悪いと思って、誇りを忘れさせないためにあの宣言を考えたのです。はじめの案では、五箇條ノ御誓文は日本人ならだれでも知っているので、あんまり詳しく入れる必要はないと思ったが、幣原総理を通じてマッカーサー元帥に示したところ、マ元帥が非常に称賛され、全文を発表してもらいたいと希望されたので、国民及び外国に示すことにしました」と発言された。この発言により、この詔書がGHQ主導によるものか、昭和天皇主導によるものかという激しい議論が研究者の間で起こったが、1990年に前掲の『側近日誌』が刊行され、GHQ主導によるものとしてほぼ決着した。
当時、侍従長であった藤田尚徳は英語で起草された文を和訳した経緯もあり風変わりな詔書となったが、昭和天皇の真意を示すことができたと述べている。また藤田は、明治維新と個性有る明治天皇の登場により明治以降天皇は人間として尊敬されていたが、大正末期から天皇の神格化が行われるようになり、昭和天皇はこれを嫌っていたという見解を示している藤田尚徳『侍従長の回想』「人間宣言と退位をめぐって」P.213-P.215。
昭和天皇による神話と伝説の否定、天皇の人間宣言という解釈については、神道界や右派勢力の一部からは疑義が提出されている。
大原康男は「日本語の「且」には並列的意味のほかに「その上に」という添加的な意味もある」ことを指摘し、「その上に」という意味で使われていると仮定した場合には「架空ナル観念」は「日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ス」であって、天皇が「現御神」であること自体を「架空ナル観念」とはしていないと解釈できる可能性を提起している(「天皇の人間宣言とは何か」1986年10月「諸君!」)。大原は更に仮定の補説として「現御神」・「現人神」の観念は記紀・万葉から存在することを指摘し、「人間宣言」は「民間信仰にまで広くつながる日本人の伝統的な神観念を根底から損ねかねない」ものであるから、「人間宣言」をしているはずが無いという趣旨の発言をしている〈同評論〉。
また大原康男は視点を変え、皇室では元旦の宮中祭祀のために通例は詔書が出されなかった事を指摘し、さらにこの詔書はGHQによるものであることを検証し、日本人の神観念・天皇観を根底から変革した「人間宣言」の無効を主張している〈『天皇―その論の変遷と皇室制度』1989年、展転社〉。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月8日 (火) 10:13。