伊勢神宮(いせじんぐう)は三重県伊勢市にある神社。神社本庁の本宗(ほんそう)とされ、正式名称は神宮。ほかの神宮と区別する場合には伊勢の神宮と呼ぶ。神階が無く全国の神宮で神階が無いのは、伊勢神宮・日前神宮・國懸神宮の3宮だけである。、また明治時代から戦前までの国家神道における近代社格制度で別格とされたため、格付けはされない。
建物は皇大神宮(こうたいじんぐう)と豊受大神宮(とようけだいじんぐう)からなる。通常は皇大神宮を内宮(ないくう)と呼び、豊受大神宮を外宮(げくう)と呼ぶ。内宮は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、外宮は豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祭る。近世江戸時代を除いて、古代から政治的権威と結びつくことが多かった。
広くは、別宮(べつぐう)、摂社(せっしゃ)、末社(まっしゃ)、所管社(しょかんしゃ)を含めた一連の社宮を神宮と総称する。この場合、所在地は伊勢市にとどまらずまたがる。
神宮が管理する宮社が125あり、俗に神宮125社と呼ぶ。125社の頂点は外宮・内宮の両正宮で、14の別宮、43の摂社、24の末社、42の所管社がある。伊勢市だけでなく、度会郡大紀町・玉城町・度会町、志摩市磯部町、松阪市、鳥羽市、多気郡多気町の4市2郡に分布する。
別宮は「わけみや」の意味で、神宮の社宮のうち正宮に次ぎ尊いとされる。
延喜式神名帳に記載されている神社(正宮、別宮を除く)を摂社とする。定義では摂社は全て式内社となるが、戦国時代にほぼすべてが廃絶となり、江戸時代の1630年代から明治初頭の1870年代にかけて復興されたため、式内社の比定地とされる場合がある。
「神宮儀式帳」に記載されている神社(正宮、別宮、摂社を除く)を末社とする。
正宮・別宮・摂社・末社以外の神社を所管社とする。
神宮の所有する土地の大部分は森林で、俗に神宮林と呼ばれる。神宮での名称は宮域林である。神宮林は神路山、島路山、高倉山を主体とし、面積は5,410 ha。約2,500 haのと天然林と、将来の神宮式年遷宮で使用される予定のヒノキの植林を行なっている人工林に2分される。
神宮の本殿などは、20年ごとに全く同じ形で建て直される。これを神宮式年遷宮(じんぐうしきねんせんぐう)(単に式年遷宮、正遷宮などとも)という。これは、第一に社殿の清浄さを保つためで、掘立柱建物である伊勢神宮の建物としての耐用年数と関係がある。他に建築技術の伝承、伝統工芸の伝承などの意味があるとされる。
立て替えられたあとの古い建築材は、神宮内の他の社殿や施設に使用したり、日本各地の神社に譲り渡されたりして再利用される。
垂仁天皇(紀元前69年-70年)の皇女倭姫命が天照大御神を鎮座する地を求め旅をした。倭姫命は倭国から丹波国、倭国、紀乃国、吉備国、倭国、大和国、伊賀国、淡海国、美濃国、尾張国、伊勢国の順に移動し、伊勢国内を移動した後、現在の五十鈴川の畔に五十鈴宮という名で鎮座した。移動中に一時的に鎮座された場所は元伊勢と呼ばれているが、記紀神話に従った伝説であって、考古学的資料に基づくものではない。
皇室の氏神として、天皇、皇后、皇太子以外の奉幣は禁止された。
朝廷の衰微に伴い皇室にとってのみの氏神から、日本全体の鎮守として武士たちから崇敬された。神仏習合の教説において神道側の最高神とされた。また、外宮側の度会家行より伊勢神道(度会神道)が唱えられた。戦乱の激化により神宮領は侵略され、経済的基盤を失った神宮は衰微して、式年遷宮は停止せざるを得なかった。神宮の信者を獲得し、各地の講を組織させる御師が台頭し始める。
お蔭参りが流行した。多くの民衆が短期間の間に神宮に押し寄せた。
遷宮に関しては神宮式年遷宮を参照。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月7日 (日) 01:17。