勝 海舟/勝 安芳(かつ かいしゅう/かつ やすよし、文政6年1月30日(1823年3月12日) - 明治32年(1899年)1月21日)は、幕臣、政治家。明治期の枢密顧問官、位階勲等は正二位勲一等伯爵。
幼名は麟太郎(りんたろう)。本名義邦 (よしくに)、維新後改名して安芳</small>。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」をさけて同音(あ−ほう)の「安芳」に代えたもの。海舟は号で、佐久間象山から受領の篆刻「海舟書屋」からとったという。
父は旗本小普請組の勝小吉、母は信。幕末の剣客・男谷信友は従兄弟にあたる。海舟も十代の頃は剣術修行に多くの時間を費やしている。家紋は丸に剣花菱。
山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。哲学館(現:東洋大学)に対して多くの寄付をし、「哲学館の三恩人」の一人にも数えられる。
海舟の長女・逸(いつ)は、専修学校(現:専修大学)の創立者である目賀田種太郎に嫁いだ。この関係から、海舟は専修学校の学生に「律増甲乙之科以正澆俗 礼崇升降之制以極頽風」(大意:「法律は次々に多くの箇条を増加して人情の薄い風俗を矯正し、礼は挙措進退のきまりを尊重して頽廃した風俗を止めるものである」)という言葉を贈って激励し続けた。
海舟は1823年、江戸本所亀沢町現在の東京都墨田区両国の一部。当時の本所亀沢町と現在の墨田区亀沢とは町域が重なっていない。の生まれ。父・小吉の実家である男谷家で誕生した墨田区立両国公園(両国4-25)内に「勝海舟生誕之地」碑が建っている。また、墨田区役所敷地(吾妻橋1-23)内には勝海舟像が建つ。。
曽祖父銀一は越後国三島郡長鳥村現在の新潟県柏崎市の一部。の貧農の家に生まれた盲人であった。江戸へ出て高利貸し(盲人に許されていた)で成功し巨万の富を得、検校の位を買い、米山検校を名乗った。銀一の子は平蔵で、御家人株を入手して男谷家を興した。男谷家はのちに旗本に昇進した。その三男が海舟の父・勝小吉である。小吉は三男であったため、男谷家から勝家に養子に出された。勝家は小普請組という無役で小身の旗本である。勝家は天正3年以来の御家人であり、系譜上海舟の高祖父にあたる命雅(のぶまさ)が、宝暦2年累進して旗本の列に加わったもので、古参の幕臣であった。
幼少時、犬に睾丸を噛まれ、死にそうになったことがあった。そして、男谷の親類、阿茶の局の紹介で11代将軍徳川家斉の孫初之丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されている。一橋家の家臣として出世する可能性もあったが、慶昌が早世したためその望みは消えることとなる。
生家の男谷家で7歳まで過ごしたのちは、赤坂へ転居するまでを本所入江町(現在の墨田区緑4-24)で暮らした。
剣術は、実父小吉の本家で従兄弟の男谷精一郎の道場、後に精一郎の高弟島田虎之助の道場浅草港区で習い、直心影流の免許皆伝となる。師匠の虎之助の薦めにより禅も学んだ。
蘭学は、江戸の蘭学者の箕作阮甫に弟子入りを願い出たが断られたので、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住む永井青崖に弟子入りした。1846年(弘化3年)には住居も本所から赤坂田町に移る氷川に移ったのはさらにのちの1859年。。この蘭学修行中に辞書「ドゥーフ・ハルマ」を一年かけ、二部筆写した有名な話がある。一部は自分のために、一部は売って金を作るためであった。この時代に蘭学者佐久間象山の知遇を得たのちに妹の順子は象山に嫁いでいる。。象山の薦めもあり西洋兵学を修め、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開いたのちに日本統計学の祖となる杉亨二が塾頭となる。。
1853年、ペリーが来航(いわゆる黒船)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより、諸大名、町人から任侠の徒にいたるまで広く募集した。これに海舟も海防意見書を提出した。海舟の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、海舟は自ら人生の運をつかむことができた。
その後、長崎の海軍伝習所に入門した。伝習所ではオランダ語がよく出来たため教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。長崎に赴任してから数週間で聞き取りもできるようになったと本人が語っている。そのためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごす第一期から三期まで在籍したことを「勝は成績が悪く、三度落第した」とする文献もある。ただし、これは反勝派の旧幕臣から出たものであり、事実とは言いがたいという反論もある。オランダ教官からは非常に評価されているとのことである。。
この時期に当時の薩摩藩主島津斉彬の知遇をも得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなる。
1860年、咸臨丸で太平洋を横断しアメリカ・サンフランシスコへ渡航した。旅程は37日であった。妻には、「ちょっと品川へ船を見に行って来る」とだけ言ったらしい。この米国渡航の計画を起こしたのは岩瀬忠震ら、一橋派の幕臣である。しかし彼らは安政の大獄で引退を余儀なくされたため、木村摂津守が軍艦奉行並となり、勝は遣米使節の補充員として乗船した。
米海軍からは測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルック大尉が同乗した。通訳ジョン万次郎、木村の従者福沢諭吉も乗り込んだ。咸臨丸の航海を、勝も福澤も「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃しているが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説がある。船酔いでダウン寸前だった勝がアメリカが見えた途端に大いばりを始め、さらに自分の羽織を棒にくくりつけて練り歩こうとしたのをみっともないからやめろと同行者に止められたともいう。これは目撃した福澤が本に書き残している逸話であり、福澤が勝を軽蔑するようになった一因ともいわれる福澤の勝嫌いは、その著作『痩我慢の説』に端的にあらわれているこの時の勝の船酔いについては、実は勝が何らかの伝染病に罹っており、自らを隔離するために船室に引き籠もっていたとする説もある。。
福澤の『福翁自伝』には木村が「艦長」、勝は「指揮官」と書かれているが、実際にそのような役職はなく、木村は「軍艦奉行並」、勝は「教授方取り扱い」という立場であった。アメリカ側は木村をアドミラル(提督)、勝をキャプテン(艦長)と呼んでいた。アメリカから日本へ帰国する際は、勝ら日本人の手だけで帰国することができた。
帰国後、蕃書調所頭取・講武所砲術師範等を回っていたが、文久2年(1862年)の幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。 神戸は、碇が砂に噛みやすく、水深が比較的深いので大きな船も入れる天然の良港であるから、神戸港を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を、大阪湾巡回を案内しつつ14代将軍徳川家茂にしている神戸は平安時代末の平清盛以来の国際貿易港であったが、それは朝鮮・中国を相手にしたものである。その神戸を西欧諸国との貿易のために活かそうとした点で勝の提案は斬新だった。。
勝は神戸に海軍塾を作り、薩摩や土佐の荒くれものが出入りしたが、勝は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れたこの塾頭が坂本龍馬だった。さらに、神戸海軍操練所も設立している。
後に神戸は東洋最大の港湾へと発展していくが、それを見越していた勝は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしている。勝自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられてしまっている。
勝は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。勝はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだと言うただし逆にそうでない期間には本など読まなかったとも述べている。。
勝が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、1864年9月11日、大阪においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は勝を賞賛する書状を大久保利通宛に送っている
1866年、軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功し、勝がまとめた和議を台無しにしてしまった。勝は時間稼ぎに利用され、主君に裏切られたのである。憤慨した勝は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。
1868年(慶応4年)、官軍の東征が始まると、勝は幕府に呼び戻され、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として旧幕府方を代表する役割を担う。官軍が駿府城にまで迫ると徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。
先ず3月9日、山岡鉄舟が駿府で西郷隆盛と会談して基本条件を整えた。続く13日と14日には勝が西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行う。結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命は戦火から救われた。
この会談の後も戊辰戦争は続くが、勝は旧幕府方が新政府に抵抗することには反対だった。一旦は戦術的勝利を収めても戦略的勝利を得るのは困難であることが予想されたこと、内戦が長引けばイギリスが支援する新政府方とフランスが支援する旧幕府方で国内が二分される恐れがあったことなどがその理由である。
維新後も勝は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵を授予された。海舟が新政府から子爵叙爵の内示を受けた際、「今までは 人並の身と 思いしが 五尺に足らぬ四尺(子爵)なりとは」との歌と共に突き返した為、新政府側が慌てて伯爵に格上げしたとされている(伯爵叙爵の祝いの席に子爵叙爵と勘違いして来た客をからかって詠んだ歌との説も有り)。、政争の渦に巻き込まれる中、参議兼海軍卿を解かれた後、枢密顧問官となる。
勝はこうした新政府の役職を得ながらも、仕事にはあまり興味がなく、出勤して椅子に座り、ただ黙っているだけの日々を送っていたという。本人は「部下に仕事を丸投げして、判子を押すだけのような仕事しかしてないよ」と語っている。
座談を好み、特に薩長の新政府に対して舌鋒鋭く批判し続けた。西郷や大久保、木戸孝允の大きさを、その後の新政府要人たちの器と比較して語っている。
勝は日本海軍の生みの親のひとりに数えられる人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた日清戦争には始終反対の立場だった。連合艦隊司令長官の伊東祐亨や清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌は、勝の弟子とでもいうべき人物だった。丁は敗戦後に責任をとって自害しているが、勝は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿した。勝は戦勝気運に盛りあがる人々に、中国大陸の大きさや中国という国のありようを説いた。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟の予見の範囲だった。李鴻章とも知り合いであり、「政府のやることなんてぇのは実に小さい話だ」と述べている。
勝と徳川慶喜は、幕末の混乱期には何度も意見が対立していたが、晩年にはその慶喜を赦免させるよう政府に働きかけている。慶喜はこのおかげで明治天皇の特旨をもって公爵を授爵し、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許されている。その他にも旧幕臣の生活保護など、幕府崩壊による混乱を最小限に抑える努力を30余年にわたって続けた。幕末には寒村でしかなかった横浜に旧幕臣を約10万人送り込んで横浜港発展に寄与したり、静岡に約8万人送り込んで静岡の茶の生産を全国一位に押し上げたりしたのも勝の功績である。
晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、『吹塵録』(江戸時代の経済制度大綱)、『海軍歴史』、『陸軍歴史』、『開国起源』、『氷川清話』などの執筆・口述・編纂にあたったが、その独特な大風呂敷な記述を理解出来なかった読者からは「氷川の大法螺吹き」となじられることもあった。
1899年1月19日に脳溢血により意識不明となり、21日死去。最期に遺した言葉は「コレデオシマイ」であった作家の山田風太郎は、この最期の言葉を「最期の言葉としては最高傑作にあたる」と評している。
墓は勝の別邸千束軒のあった東京大田区の洗足池公園にある。千束軒はのちの戦災で焼失し、現在は大田区立大森第六中学校が建っている。
(明治5年12月2日までは旧暦)
回想録として吉本みのるによる『氷川清話』や巌本善治による『海舟座談』がある。これは海舟の談話を記者が速記したもので、海舟の話し方の細かな特徴まで再現されており、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることが出来る。ただし古い版では、当時の政治を批判した部分に、編集に当たった記者による歪曲・改竄のあとが見られるという。
膨大な量の全集があり、維新史、幕末史を知る上での貴重な資料となっている。海舟は相当の筆まめであり、かなりの量の文章・手紙等が残っている。この筆力には父親の小吉の影響もある。一人称に「俺」を使う独特の言文一致体的な語りは、父・小吉の自伝「夢酔独言」(東洋文庫)と同じである。「清」という登場人物は夏目漱石の「坊つちやん」の素材となっている。
ファンといっていいほど高い評価をする人がいる一方、成り上がりとして非常に毛嫌いする人も旧幕時代からいた。坂本龍馬の文久3年の姉(乙女)宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあり、西郷も大久保宛ての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」と書いている。龍馬や西郷のような人物から高く評価されていたことがわかる。
一方、江戸を無血開城した功績は感謝しているものの、旧幕府の高官でありながら新政府に勤めて立身していることに対する嫉妬や反感もある。その決定版が福澤の「痩我慢の説」である。そこでは、幕臣としての節操を護るべきであると非難されている。
勝海舟の仕事は江戸開城をもって終わりとする見方も多いが、明治に入ってからの32年間の行動(明治天皇と慶喜との和解・旧幕臣の名誉回復など)の研究が待たれる。
死の三日後、氷川邸に勅使が来て勅語を賜ったが、この勅語が人物評価の参考になるかもしれない。
海舟の嫡男・小鹿(ころく)は海舟の最晩年に40歳で急逝したため、小鹿の一子・伊代子に旧主徳川慶喜の十男・精(くわし)を婿養子に迎えて家督を継がせることにした。海舟はこれを見届けるかのようにしてこの世を去っている。精は実業界に入り、浅野セメントや石川島飛行機などの重役をつとめた。
海舟の長女・逸(いつ)は、専修学校(現:専修大学)の創立者である目賀田種太郎に嫁いだこの関係から、海舟は専修学校の学生に「律増甲乙之科以正澆俗 礼崇升降之制以極頽風」(大意:「法律は次々に多くの箇条を増加して人情の薄い風俗を矯正し、礼は挙措進退のきまりを尊重して頽廃した風俗を止めるものである」)という言葉を贈って激励している。。
財務省理財局長の勝栄二郎・世界銀行副総裁の勝茂夫の兄弟は曾孫にあたる。
小吉───安芳(海舟)──┬小鹿───伊代子 └逸 ┠────────────┬芳孝───芳邦 精 ├道子 (徳川慶喜十男:婿養子) ├善子 ├静子 ├中子 └當子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月3日 (土) 07:24。