太平洋戦争-2

前半は太平洋戦争参照


連合軍の攻勢(1944年)

ビルマ方面では日本陸軍とイギリス陸軍との地上での戦いが続いていた。3月、インド北東部アッサム地方の都市でインドに駐留する英印軍の主要拠点であるインパールの攻略を目指したインパール作戦とそれを支援する第二次アキャブ作戦が開始された。スバス・チャンドラ・ボース率いるインド国民軍まで投入し、劣勢に回りつつあった戦況を打開せんとする9万人近い将兵を投入した大規模な作戦であった。しかし、補給線を無死した無謀・杜撰な作戦により約3万人以上が命を失う(大半が餓死によるもの)など、日本陸軍にとって歴史的な敗北となった。これ以降、ビルマ方面での日本軍は壊滅状態となる。

5月頃には、米軍による通商破壊などで南方からの補給が途絶えていた中国戦線で日本軍の一大攻勢が開始される(大陸打通作戦)。作戦自体は成功し、中国北部とインドシナ方面の陸路での連絡が可能となったが、中国方面での攻勢はこれが限界であった。6月からは中国・成都を基地とするB-29による北九州爆撃が始まった。

連合国軍に対し各地で劣勢に回りつつあった日本の陸海軍は、本土防衛のためおよび戦争継続のために必要不可欠である領土・地点を定め、防衛を命じた地点・地域である絶対国防圏を設けた。

しかし、6月にその最重要地点であったマリアナ諸島にアメリカ軍が来襲する。日本海軍機動部隊はこれに対し反撃すべくマリアナ沖海戦を起こす。日本機動部隊は空母9隻という日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し、米機動部隊を迎撃したものの、圧倒的な工業力を基に空母を多数竣工させていたアメリカ側は15隻もの空母を基幹とし、更に日本の倍近い艦船を護衛につけるという磐石ぶりであった。航空機の質や防空システムでも遅れをとっていた日本機動部隊はアメリカ海軍の機動部隊に惨敗を喫することとなる。旗艦であった大鳳以下空母3隻、その他多くの艦載機と熟練搭乗員を失った日本機動部隊は文字通り壊滅した。しかし、戦艦部隊はほぼ無傷であったため、10月末のレイテ沖海戦では戦艦部隊を基軸とした艦隊が編成されることになる。 陸上では、猛烈な艦砲射撃、航空支援を受けたアメリカ海兵隊の大部隊がサイパン島テニアン島グアム島に次々に上陸。7月に海軍南雲忠一中将の守るサイパン島では3万の日本軍守備隊が玉砕し、多くの非戦闘員が両軍の戦闘の中死亡した。続いて8月にはテニアン島グアム島が連合軍に占領され、即座にアメリカ軍は日本軍が使用していた基地を改修し、大型爆撃機の発着が可能な滑走路の建設を開始した。このことにより日本の東北地方の大部分と北海道を除くほぼ全土がB-29の航続距離内に入り、本格的な本土空襲の脅威を受けるようになる。実際、この年の暮れには、サイパン島に設けられた基地から飛び立ったアメリカ空軍のB-29が東京にある中島飛行機武蔵野製作所を爆撃するなど、本土への空爆が本格化する。

これに対して、アメリカやイギリスのような大型爆撃機の開発を行っていなかった日本軍は、この頃急ピッチで6発エンジンを持つ大型爆撃機「富嶽」の開発を進めるものの、当時の日本の工業力では完成は夢のまた夢であった。そこで日本軍は、当時日本の研究員だけが発見していたジェット気流を利用し、大型気球に爆弾をつけて高高度に飛ばしアメリカ本土まで運ばせるといういわゆる風船爆弾を開発し、実際にアメリカ本土へ向けて数千個を飛来させた。しかし人的、物的被害は数名の市民が死亡し、ところどころに山火事を起こす程度の微々たるものでしかなかった。また、日本海軍は、この年に進水した艦内に攻撃機を搭載した潜水空母「伊四〇〇型潜水艦」により、当時アメリカが実質管理していたパナマ運河を搭載機の水上攻撃機「晴嵐」で攻撃するという作戦を考案したが、戦況の悪化により中止された。

各地で劣勢が伝えられる中、それに反してますます軍国主義的な独裁体制を強化する東条英機首相兼陸軍大臣に対する反発は強く、この年の春頃には、中野正剛などの政治家や、海軍将校などを中心とした倒閣運動が盛んに行われた。それだけでなく、近衛文麿元首相の秘書官であった細川護貞の大戦後の証言によると、当時現役の海軍将校で和平派であった高松宮宣仁親王黙認の上での具体的な暗殺計画もあったと言われている。しかしその計画が実行に移されるより早く、サイパン島陥落の責任を取る形で東条英機首相兼陸軍大臣率いる内閣は総辞職に追い込まれた。

この頃日本は、相次ぐ敗北により航空および海軍兵力の多くを失ない、その上、大量生産設備が整っていなかったこともあり武器弾薬の増産が思うように行かず、その生産力は連合軍諸国の総計どころかイギリスやアメリカ一国のそれをも大きく下回っていた。しかも本土における資源が少ないため鉄鉱石や石油などの資源をほぼ外国や勢力圏からの輸入に頼っていた上に、連合国軍による通商破壊戦により外地から資源を運んでくる船舶の多くを失っていたために、戦闘機に積む純度の高い航空燃料や空母、戦艦を動かす重油の供給すらままならない状況であった。

10月には、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への進攻を開始した。日本軍はこれを阻止するために艦隊を出撃させ、レイテ沖海戦が発生した。日本海軍は空母瑞鶴を主力とする機動部隊を米機動部隊をひきつける囮に使い、戦艦大和武蔵を主力とする戦艦部隊(栗田艦隊)でのレイテ島への上陸部隊を乗せた輸送船隊の殲滅を期した。この作戦は成功の兆しも見えたものの、結局栗田艦隊はレイテ湾目前で反転し、失敗に終わった。この海戦で日本海軍は空母4隻と武蔵以下主力戦艦3隻、重巡6隻など多数の艦艇を失い事実上壊滅し、組織的な作戦能力を喪失した。また、この戦いにおいて初めて神風特別攻撃隊が組織され、米海軍の護衛空母撃沈などの戦果を上げている。 レイテ沖海戦に勝利したアメリカ軍は、大部隊をフィリピン本土へ上陸させ、日本陸軍との間で激戦が繰り広げられた。戦争準備が整っていなかった開戦当初とは違い、M4中戦車火炎放射器など、圧倒的な火力かつ大戦力で押し寄せるアメリカ軍に対し、日本軍はなすすべも無く敗走した。

レイテ沖海戦で日本海軍はほぼ壊滅状態となり、以後は組織的な作戦行動は出来なくなった。一方、特攻は過大評価され、そのまま日本海軍の重要作戦として位置づけられ終戦まで続けられることになる。この神風特攻はアメリカ海軍の乗組員達を恐怖に陥れはしたが、戦局を変えるには至らなかった。

最終局面(1945年)

アメリカ軍はレイテ島の戦いに勝利を収め、1月にはルソン島に上陸した(マッカーサーは1月9日にリンガエン湾に上陸)。フィリピン全土はほぼ連合軍の手に渡ることになり、日本は南方の要所であるフィリピンを失ったことにより、マレー半島やインドシナなどの日本の勢力圏にある南方から日本本土への船艇による資源輸送の安全確保はほぼ不可能となり、自国の資源が乏しい日本の戦争継続能力が途切れるのは時間の問題となった。

日本軍は、1940年のドイツによるフランス占領より、親枢軸的中立国のヴィシー政権との協定をもとにフランス領インドシナに駐留し続けていたが、前年の連合軍によるフランス解放ならびに、フランス新政権(フランス共和国臨時政府)を率いるシャルル・ド・ゴールによるヴィシー政権と日本の間の協定の無効宣言が行われたことを受け、駐留していた日本軍は3月9日に「明号作戦」を発動してフランス植民地政府および同政府軍を武力によって解体し、ベトナム帝国、ラオス王国、カンボジア王国をそれぞれ独立させた。なお、この頃においてもインドシナに駐留する日本軍は戦闘状態に置かれることが少なかったため、かなりの戦力を維持していたので、連合国軍も目立った攻撃を行わず、また日本軍も兵力温存のために目立った戦闘行為を行なわなかった。

2月から3月後半にかけて硫黄島の戦いが行われた。圧倒的戦力を有する米海兵隊と島を要塞化した日本軍守備隊の間で太平洋戦争中最大規模の激戦が繰り広げられ、両軍合わせて5万名近くの死傷者を出した(米軍の死傷者が日本軍のそれを上回った唯一の地上戦)。最終的に日本は硫黄島を失い、アメリカ軍は硫黄島をB-29爆撃機の護衛のP-51D戦闘機の基地、また日本本土への爆撃に際して損傷・故障したB-29の不時着地として整備することになる。この結果、サイパン島に築かれた基地から飛び立ったB-29への戦闘機による迎撃は極めて困難となった。

3月10日には大規模な無差別爆撃である東京大空襲が行われ、10万人もの尊い命が失われた。それまでは高高度からの軍需工場を狙った精密爆撃が中心であったが、カーチス・ルメイ少将が在マリアナ空軍総司令官に就任すると、民間人の殺傷を第一目的とした無差別爆撃が連夜のように行われるようになった。あわせて連合軍による潜水艦攻撃や、機雷の敷設により制海権も失っていく中、東京、横浜大阪名古屋福岡富山徳島熊本など、東北地方北海道を除く多くの地域が空襲にさらされることになる。室蘭では、製鉄所を持ちながらも、迎撃用の航空機や大型艦の配備が皆無に等しいことを察知していたアメリカ軍は、艦砲射撃による対地攻撃を行う。

迎撃する戦闘機も、熟練した操縦士も、度重なる敗北で底を突いていた日本軍は、十分な反撃もできぬまま、本土の制空権さえも失っていく。日本軍は練習機さえ動員し、特攻による必死の反撃を行うが、この頃になると特攻への対策法を編み出していた米軍に対し、あまり戦果を挙げられなくなっていた。

この頃満州国は、日本軍がアメリカ軍やイギリス軍、オーストラリア軍と戦っていた南方戦線からは遠かった上、日ソ中立条約が存在していたため、ソ連との間は戦闘状態にならず、開戦以来平静が続いていたが、この年に入ると、昭和製鋼所鞍山製鉄所)などの重要な工業基地が、中華民国領内から飛び立った連合軍機の空襲を受け始めるようになった。

同じく日本軍の勢力下にあったビルマにおいては、開戦以来、元の宗主国であるイギリス軍を放逐した日本軍と協力関係にあったビルマ国民軍の一部が、日本軍に対し決起した。3月下旬には「決起した反乱軍に対抗するため」との名目で、指導者であるアウン・サンはビルマ国民軍をラングーンに集結させ、即座に日本軍に対しての攻撃を開始した。同時に他の勢力も一斉に蜂起し、イギリス軍に呼応した抗日運動が開始された。最終的には5月にラングーンから日本軍を放逐した。

4月、連合軍は沖縄諸島に戦線を進め、沖縄本島へ上陸し、沖縄戦が開始される。多数の民間人をも動員した凄惨な地上戦が行われた結果、両軍と民間人に死傷者数十万人を出した。なお、沖縄戦は日本国内での降伏前における唯一の民間人を巻き込んだ地上戦となった。日本軍の軍民を総動員した反撃にも拘らず、連合軍側は6月23日までに戦域の大半を占領するにいたり、すでに濃厚であった敗戦の見通しを決定づけた。また、支援の名目のもと、沖縄に向かった連合艦隊第2艦隊の旗艦である戦艦大和も、4月7日に撃沈され、残るは燃料にも事欠いた、わずかな空母や戦艦のみとなり、ここに日本海軍が誇った連合艦隊は完全に壊滅した。

5月、有力な同盟国であったドイツが連合国に降伏し、ついに日本はたった一国でイギリス、アメリカ、フランス、オランダ、中華民国、オーストラリアなどの連合国と対峙して行くことになる。このような状況下で連合国との和平工作に努力する政党政治家も多かったものの、この期におよび、敗北による責任を回避しつづける大本営の議論は迷走を繰り返すばかりであった。一方、「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲げて、「日本国民が全滅するまで、一人残らず抵抗を続けるべきだ。」と唱えた。日本政府は当時日ソ中立条約によって国交のあったソビエト社会主義共和国連邦による和平仲介に期待したが、黙殺される。

既に一国のみでの孤独な戦いを続ける日本の降伏は、もはや時間の問題となった。この前後には、ヤルタ会談での他の連合国との密約、ヤルタ協約に基づくソビエト連邦軍の北方からの上陸作戦にあわせ、アメリカ軍を中心とした連合国軍による、九州上陸「オリンピック作戦」と、その後に行われる本土上陸作戦が計画されたものの、日本軍の軍民を結集した強固な反撃により、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想され、計画の実行はされることがなかった。11月に計画されていた「オリンピック作戦」には、福岡、長崎の市街戦において、アメリカ軍としては初めてとなる、化学兵器毒ガス)の使用が予定されていた。

アメリカのハリー・S・トルーマン大統領は、最終的に、本土決戦による自国軍の犠牲者を減らすという名目と、日本の分割占領を主張するソビエト連邦の牽制目的、さらに非白人種への人種差別意識の影響、且つ人体実験を目的とした放射能による影響計測のため、史上初の原子爆弾の使用を決定する。8月6日広島へ投下、次いで8月9日長崎への投下が行われ、投下直後に死亡した百万人弱にあわせ、その後の放射能汚染などで、現在までにあわせて百万人以上の死亡者を出した。なお、日本でも原子爆弾の開発を行っていたものの、制海権を失ったことなどに起因する開発に必要な原料の調達が捗らなかったことなどから、ドイツやイタリアからの亡命科学者を中心に開発を行っていたアメリカに先を越されることになった。

その直後に、1941年4月より日ソ中立条約を結んでいた共産主義国であるソビエト連邦も、上記のヤルタ会談での密約(ヤルタ協約)を元に、締結後5年後の1946年4月まで有効である日ソ中立条約を破棄し、8月8日対日宣戦布告をし、満州国へ侵攻を開始した(8月の嵐作戦)。ソ連による調停の望みはここに絶たれる。

ソ連軍の侵攻に対して、当時、満州国に駐留していた日本の関東軍は、主力部隊を南方戦線へ派遣し、弱体化していたため総崩れとなり、敗退した。

逃げ遅れた多数の日本人開拓民のうち、多くがソ連軍に殺害され、強姦された女性も多数存在した。また、日本への引揚の混乱の中で家族と生き別れ、中国人に拾われた子供は、中国残留孤児として残ることとなった。

このソビエト参戦により、満州と南樺太などで行われた戦いで、日本軍の約60万人が捕虜として捕らえられ、シベリアに抑留された。その後この約60万人は、過酷な環境とソ連政府による強制労働私刑の犠牲となり、6万人を超える死者を出した。

このような事態に至ってもなお、日本軍上層部は降伏を回避しようとし、御前会議での議論は迷走した。しかし鈴木貫太郎首相が天皇に発言を促し、昭和天皇自身が和平を望んでいることを直接口にした事(いわゆる「御聖断」)により、議論は収束した。これを受け1945年8月10日、日本政府は同盟通信社及び日本放送協会の短波を利用して、「天皇の大権が侵されない」ことを条件に、ポツダム宣言の受諾を全世界に通告、8月14日に御前会議において宣言の受諾を正式に決定し、8月15日、昭和天皇の声明を録音したレコードで、全国に同宣言の受諾を国民に知らせる玉音放送が行なわれた。この後鈴木貫太郎内閣は総辞職した。

敗戦と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還をもくろみ、8月15日未明に宮内省などを襲撃(宮城事件)し、鈴木首相の私邸も襲われる事件があったものの、玉音放送の後には、厚木海軍飛行場にあった第三〇二海軍航空隊の小園安名大佐率いる将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの他には大きな反乱は起こらず(同反乱も8月22日に終息)、日本軍は戦闘を停止した。

翌16日には、連合国軍が中立国のスイスを通じて、占領軍の日本本土への受け入れや、各地に展開する日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼し、19日には日本側の停戦全権委員が一式陸上攻撃機でフィリピンのマニラへと向かう(8月21日に帰還、26日・28日の米軍厚木基地到着の文書をもたらす)等、イギリス軍やアメリカ軍に対する停戦と、武装解除は順調に遂行された。しかし、少しでも多くの日本領土の略奪を画策していたスターリンの命令により、ソ連軍は8月末に至るまで南樺太千島・満州国への攻撃を継続した。そのような中で、8月22日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、「第二新興丸」、「泰東丸」がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没し、多数の犠牲者を出した。

また、日本の後ろ盾を失った満州国は事実上崩壊し、8月18日に退位した、皇帝の、愛新覚羅溥儀ら満州国首脳は、日本への逃命を図るも、侵攻したソ連軍によって身柄を拘束された。その後8月28日には、連合国軍による日本占領部隊の第一弾として、アメリカ軍の先遣部隊が厚木海軍飛行場に到着し、8月30日には、後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として連合国による日本占領の指揮に当たることになる、アメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も同基地に到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍などの日本占領部隊も到着した。

9月2日には、東京湾内に停泊したアメリカ海軍の戦艦ミズーリにおいて、イギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリア、フランスやオランダなどの連合諸国17カ国の代表団の臨席の元、日本政府全権重光葵外務大臣と、大本営全権梅津美治郎参謀総長による対連合国降伏文書への調印がなされ、ここに、太平洋戦争はついに終結した。しかし、沖縄南洋諸島においては、兵士達による局所的な戦闘が散発的に続けられ、南樺太千島列島では、9月4日までソ連軍との戦闘が行われた。



日系人の強制収容

戦争中にアメリカ、ペルーをはじめ南米13カ国日系移民をアメリカ本国や自国の強制収容所に強制移動させられた。詳しくは日系人の強制収容を参照。

戦後処理

right|200px|thumb|昭和天皇との会見(1945年[[9月27日フェレイス撮影3枚のうち29日新聞掲載された写真]] 戦後、東京にアメリカ陸軍の元帥であるダグラス・マッカーサーを総司令官とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が置かれた。沖縄奄美諸島小笠原諸島トカラ列島は日本本土から切り離されアメリカ統治下におかれた。千島樺太歯舞、色丹はソ連に軍事占領されたが、未だに日本固有の領土であることを認められていない。

戦争裁判

まず初めに戦争責任を追及する東京裁判が開かれ、元総理の東条英機陸軍大将、外交官で元総理の広田弘毅らが連合国により戦犯として裁かれ、7名がA級戦犯として死刑(絞首)に処されたほか、元内大臣の木戸幸一、元陸軍大臣の荒木貞夫らが終身刑、元外相の東郷茂徳は禁固20年、元外相の重光葵は禁固7年となった。なお、昭和天皇は裁判を免れたほか、岸信介児玉誉士夫笹川良一正力松太郎らは不起訴となった。また、フィリピンや中華民国など各地で同じように戦争裁判(B、C級戦犯)が行われた。一部の人々は、これらの裁判に対して、裁判の体を成していないものも多く、多くの無実の人も罪に問われ処刑されたと、批判している。その理由は全てが事後法による裁きのためである。また、連合軍は無差別攻撃(東京大空襲等や原爆投下)等の国際法違反行為に対する裁きを受けておらず、勝者による一方的な裁判であるとの批判もある。

改革

GHQは大規模な国家改造を行い、大日本帝国の国家体制(国体)を壊滅した上で、新たに連合国(特にアメリカ)の庇護の下での国家体制(戦後体制)を確立するために、治安維持法の廃止や日本国憲法の制定を行った。また、内務省の廃止や財閥解体農地改革など矢継ぎ早に民主化と称し、日本の国力をなくし米国への抵抗力をなくすための改革を行ったが、民主化政策はその後の冷戦体制のため変更され、警察予備隊の設置や共産党員の公職追放(レッドパージ)が行われた。その後締結された1952年サンフランシスコ講和条約により連合国総司令部は廃止となり、戦後処理は終了した。

戦争の評価(日本)

太平洋戦争の評価については、これの戦後以来ずっと歴史家だけでなく知識人、作家、一般市民などを巻き込んだ議論の的となっており、さまざまである。

もともとアジア圏は欧米諸国に植民地されていた歴史を持ち、日本がこの体制を解放させる立場なのか、それとも新たな植民地政策国として居座ることを目したものかという、相反する見方によって議論が引き起こされる。

加害者としての見方

加害者としての見方は、日本がアジアの近隣諸外国に対して行った侵略や植民地化などの行為を、誤った政策とし、太平洋戦争を否定的にとらえるものである。

この見地にたつ人々の一部は、日本が太平洋戦争の被害者の立場(長崎市・広島市の被った原子爆弾投下など)を強調し過ぎるものとし、侵略者=加害者としての立場からの反省が足りないと、主張している。

これに関連して、中華人民共和国、韓国、アメリカを中心とした日本に対する戦争責任の追及については、単なる反日教育によるアジテーションという見方は皮相的で、実際はアジア諸国に見られた閉鎖的で抑圧的な独裁体制の下にあって、権利を主張することができなかった当事国の民衆が、権利意識の高まりによって戦争の当事国である日本に国家、権力者の過ちによる戦争での被害の権利回復を求める運動の一環と主張する人が多い。

近年になって日本の加害責任の追及の声が大きくなっていることについては、こうした点が背景にあるとの意見が加害責任を追及する人々を中心に主張されている。

解放者・自衛戦としての見方

解放者としての見方は、アジア諸国が太平洋戦後に独立を果たせたのは、アメリカやイギリスなどの植民地化政策を行った国々との間での戦争であることが要因の一つであるとし、太平洋戦争そのものを肯定的に評価する立場である。この見地にたてば、日本は加害者であるという戦争理解や、近隣アジア諸国に対する謝罪への要求といった事態は、自虐的過ぎるということになる。

また、自衛戦としての見方は、ABCD包囲網によって日本が圧迫され、これを打開するために対英米蘭戦に踏み切ったとするものである。また、アメリカが日本の大陸利権を否定することで圧力を加え、併せて人種的偏見による移民規制や、日系アメリカ人に対して人種差別的な政策を行ったことが、日本人の反米感情を刺激し、対米戦へと踏み切らせたとの考えもある。

だが、どの資料を見てもABCD包囲網やそれに類する条約が結ばれたと言う証拠はない。故に、旧帝国が戦争を正当化するために恣意的に使用したとも考えられる。

両方の面があるとする見方

この戦争には「2つの側面」があるという研究者がいる。きっかけは中華民国への侵略や勢力拡張を目的とした仏印への進出だが、結果としてそれを理由にした米国の石油をはじめとする対日全面禁輸は、日本を予想だにしていなかった国家崩壊の危機に直面させた。すなわち、貿易全依存国である日本は石油がなければ船舶を動かすことはできず、船舶が動かなければ工業材料はおろか、食糧まで一切輸入することはできず、そうなれば産業崩壊はもちろんのこと餓死者さえ出かねないのである。また動かなくても排水の為に常に石油を消費する海軍は当然のことながら壊滅してしまい、もし日本が事態を放置して無抵抗状態になった時に、米西戦争の時のように、米国が何らかの口実で日本に宣戦布告をしてきた場合、日本は満足に戦闘さえできないことが懸念された。

そのうえ、米国の最後通牒と呼ばれたハルノートには日本との交渉再開の条件として中国からの撤退(原案では満州を除くという但し書きがあったが、米国側は手交前に敢えて削除した。)というおよそ短期間には実現不可能な条件が記されており、しかもその見返りは「交渉を再開する」というだけであり、禁輸解除は記されていなかった。したがって、ハルノート受諾を含む外交による事態打開を目指しても、日本が破滅的な状況に直面する公算は極めて高いと予想され、進退窮まった日本は強行策として欧米植民地の資源地帯の軍事力による強制奪取とその防衛を目的とした東南アジア・太平洋地域への戦争を開始した。

このようにアヘン戦争アロー戦争と似たような構造の侵略戦争である日中戦争と、米国や米国が指導した全面的な経済制裁に対する自衛が目的としての対米英蘭戦争という、目的・性質の異なった二つの戦争が併存していたのが太平洋戦争であるという見方である。

戦争の評価(アジア)

実際に日本が侵略した中国(当時は中華民国、現在は中華人民共和国)や、日本に併合されていた朝鮮半島(現韓国北朝鮮)(以下これらを特定アジアと称す。)においては日本の責任を厳しく問う意見が強い。しかし、かつて植民地・占領地でありながらも日本から直接被害を受けていない特定アジア以外のアジア諸国からは、日本を加害者とする評価だけではなく、それ以外の評価を見ることができる。加害者とする以外の評価があるのは、アジアには多民族国家が多く各集団によって世界観が大きく異なるためであるとも言われている。そのうち、直接に被害を受けていない地域では日本を評価する声があるとも、実際のところは少数派であるとも言われている。これには、当地の人々にしてみれば独立は主として自分たちの力で達成したものという意識が反映していることに加えて、すでにそれぞれが以前に比べて国民国家化していることも関係する。

一部のアジア諸国で日本の責任を厳しく問う意見が弱い理由については、純粋に日本の侵攻が独立に貢献したと評価されているケース、建国の功労者に、日本の後押しで権力の座に就いた者がいるケース、戦後の独立戦争において旧日本軍人が指導・協力したケース、また単純に反米的なイデオロギーを持っていたケース、あるいは軍事政権の雛形として評価せざるを得ないケースなど様々であり、その理由を一概にまとめることは難しい。日本の責任を厳しく問う意見が弱い理由として、日本の支配が強圧的であれども旧宗主国のそれに比べれば相対的にマシなものであったからという説もある。また、そもそも旧宗主国の植民地支配によって蒙った被害があまりに甚大であるが故に支配期間においては圧倒的に短い日本による被害が問題にされにくいという面もある。これとは逆に、日本の支配ののちに侵入してきた支配者への反感から日本への責任を問う声が比較的厳しくないという地域もある。

また、日本に協力する人々がいた一方、宗主国に協力して日本と敵対する人々もいた。この場合は、戦争が終わったのち、親日派も宗主国協力派も独立のために戦ったケースが多い。

台湾島における評価が相対的に高い理由

当時は日本による統治下であった台湾島では戦時中、アメリカ合衆国軍による空襲等はあったが、地上戦は行われなかった。また、台湾自体が兵站基地であったため、食糧など物資の欠乏もそれほど深刻ではなかった。

戦後になって大陸から入ってきて強権政治を行った過去のある中国国民党に対する批判により、相対的に日本の植民地政策を評価する人もいる。(「犬(煩いかわりに役には立つ)の代わりに豚(食べるばかりで役たたず)が来た」と言われている)また、それらの大日本帝国を評価する勢力の一部には太平洋戦争についても「解放戦争」であったと位置付けている人もいる。

台湾中華民国ないし中華人民共和国の一部であると主張する勢力の中には、日本の支配を中華民国への侵略行為に過ぎないと評し、太平洋戦争も侵略であったと評する意見がある。

戦時には台湾でも徴兵制や志願兵制度などによる動員が行われ、多くの台湾人が戦地へと赴いた。これについての評価も分かれている。当時は日本国民であったのだから当然とする人もいれば、不当な強制連行であったと批判する人々もいる。「当時は日本国民であったのに死後靖国神社に祀られないのは差別である」と批判をする人もいれば、その反対に「靖国神社への合祀は宗教的人格権の侵害である」として日本政府を提訴している人々もいる。また、戦後、軍人恩給の支給などについて日本人の軍人軍属と差別的な取り扱いがなされたことに対する批判もある。

また、中華民国にも大韓民国フィリピン共和国オランダ王国などと同様従軍慰安婦になることを強いられた女性達がいるとして、日本国政府を相手に損害賠償を求める動きも出ている。なお「従軍慰安婦」という言葉自体、議論の対象になっている。つまり自発的にそれになったもしくは怪しげな業者にだまされたりしたものであり、日本軍が強制連行したなどの資料は一切見つかっていない。一例として当時のいわゆる従軍慰安婦は軍票の簿価の総計だけのみで換算して「当時の日本の総理大臣をはるかに上回る収入を得ていた」とする試算もある。現在台湾では、太平洋戦争・その前段階の日本統治時代についてどう評価するかについては政治的な論点のひとつとなっている。日本の支配に対する評価についての詳細は、日本統治時代 (台湾)にある戦後の評価の項を参照。

(なお、台湾島での戦争観を語る際に、台湾本省人親日であり日本支配肯定論、外省人反日抗日的であるとの見方があるが、実際はそれほど単純ではない。省籍矛盾については特定の政治家選挙運動で煽ることによって起こる面も否定できず、そうした背景を理解しないで台湾の戦争観を論じると誤解が生じるおそれがある。本省人には、福建系と客家系がいること、また台湾人を語る際には台湾先住民の問題が欠けている傾向が見られること、省籍については近年外省人福建系をはじめとした本省人の垣根が解消される傾向にあること、外省人はエリートと低所得層との格差が激しく多様であること、低所得層の外省人台湾先住民との婚姻のケースが多いなど単純ではない、という意見もあるが、そのように詳細に見て行けばおよそ概説は不可能であり、つまるところ学問的考察は不可能になる)。

脚注

参考文献

  • 『太平洋戦争の謎 魔性の歴史=日米対決の真相に迫る』佐治芳彦 大日本帝国文芸社 ISBN 4-537-25080-1
  • 斎藤充功『昭和史発掘 開戦通告はなぜ遅れたか 』新潮新書 新潮社 ISBN 4-106-10076-2
  • 『八月十五日の神話 終戦記念日のメディア学』佐藤卓己 筑摩書房 ISBN 4-480-06244-0

関連項目

外部リンク



  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年1月22日 (火) 00:28。










    

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最終更新:2008年07月10日 00:04
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