宇垣一成

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宇垣 一成うがき かずしげ慶応4年6月21日1868年8月9日) - 昭和31年(1956年4月30日)は日本陸軍軍人政治家である。成城学校から陸軍士官学校陸軍大学校卒。陸軍大将従三位勲一等功四級拓殖大学第5代学長。元参議院議員

略年譜

事績

宇垣は大正後期から昭和初期にかけて陸軍の中心人物の一人として存在した。彼は戦闘の場での指揮官や軍略家ではなく、政治に長けた軍政家と言える。その彼の業績のうち歴史の表舞台に表れた代表的な出来事を2点記載した。

宇垣軍縮について

加藤内閣の陸軍大臣在任中、軍縮を要求する世論の高まりを受け、陸軍省経理局長・三井清一郎を委員長とする陸軍会計経理規定整理委員会を設けた(宇垣軍縮)。

具体的には21個師団のうち高田第十三豊橋第十五岡山第十七久留米の第十八の計4師団を廃止、これに伴い連隊区司令部16ヶ所も廃止となった。また陸軍病院5ヶ所、陸軍幼年学校2校も撤廃した。

だが、実はこれにより浮いた金額を欧米に比べると旧式の装備であった陸軍の近代化に回したというのが実情である。主な近代化の内容として戦車連隊・高射砲連隊各1個、飛行連隊2個、台湾山砲連隊1個の新設、自動車学校・通信学校の開校、飛行機戦車軽機関銃自動車牽引砲野戦重砲の配備を行った。

組閣流産について

組閣大命の下る前、昭和7年(1932年)の満州事変五・一五事件、翌昭和8年(1933年)の国際連盟脱退、昭和11年(1936年)には二・二六事件など、軍部による策謀や日本の国際的孤立化、さらには陸軍皇道派などによるテロ事件の発生などによって政情が不安定化していた。そして、それをきっかけとして軍部の政治への干渉が著しくなり、危険な戦争への突入が懸念された。

そこで加藤内閣の陸軍大臣であったときに内閣の方針によく協力し、軍縮に成功した宇垣の手腕を高く評価していた元老西園寺公望などに所望され、軍部に抑えが利く人物として昭和12年(1937年)1月に廣田内閣が総辞職した後、宇垣が総理大臣に推挙された。

しかし、石原莞爾大佐などの陸軍中堅層は軍部主導で政治を行うことを目論んでいた。宇垣の組閣が成れば軍部に対しての強力な抑止力となることは明白であったので、彼らは宇垣の組閣を阻止すべく動いた。軍部大臣現役武官制に目をつけた石原は自身の属する参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作した。かつては宇垣に近しい存在であった寺内寿一杉山元の両大将や部下の小磯国昭朝鮮軍司令官にも工作は成功し、陸軍大臣のポストは宙に浮き組閣は断念された。

ちなみに大正デモクラシーのさなかの第一次山本権兵衛内閣において軍部大臣現役武官制を予備役に拡大したときに、もっとも強行に反対し、陸軍首脳部を突き上げたのが当時陸軍省の課長だった宇垣であり、皮肉にも広田弘毅内閣の時に復活したその現役武官制により組閣断念に追い込まれたことになる(もし予備役でも陸相になることが可能であれば、宇垣自身が陸相兼任すれば内閣が発足できた)。

その後、日本はこの年の7月7日に起きた盧溝橋事件を皮切りに日中戦争へ突入することになった。近衛文麿首相は事変初期段階での収拾に失敗し(「爾後国民政府ヲ対手トセズ」)、戦火の拡大が懸念された。宇垣は近衛首相に請われて和平実現のために改造内閣(昭和13年(1938年)5月)に外務大臣として入閣、中国との戦争を短期に終結させるべく秘密裏に中国国民政府要人・孔祥煕(行政院長)との交渉を取り付けた。しかしこれも陸軍首脳らの画策により、対中外交を外務省から切り離す「興亜院」の設置が行われて(しかも近衛首相はそれに賛成した)交渉を阻止され、梯子を外された形となり大臣辞任の引き金となった。

人物評

200px|right|thumb|[[岡山県護国神社の宇垣の像]] 上記のように宇垣は優れた政治的手腕と極めて現実的な思考を持っており、当時の日本の置かれていた国際情勢を理解して無謀な戦争を行うことの愚かさを知っていた軍人の一人であった。しかし、陸軍の実力者であった彼をしても結局は時流に逆らえず、日本は敗戦への道をひた走っていったのである。

一方で、陸軍における二大勢力、薩摩閥と長州閥を巧みに利用し宇垣閥を形成していった。尉官時代には薩摩出身の川上操六の元で地位を上げ、川上の死後は長州出身の田中義一に付き昇進した。その実力ゆえに野心家と目され、警戒感を持つ向きがあったことも事実であり薩摩閥より「蝙蝠のような男」と揶揄された。司馬遼太郎はその著書『歴史を紀行する 8.桃太郎の末裔たちの国[岡山]』において宇垣の処世術を酷評している。しかしながら、尉官時代の宇垣は他人より出世が遅く「鈍垣」とあだ名されるほどであり、処世術が巧みであったとは言えなかった。

また「聞き置く」など曖昧な表現を相手によっては多用し、それが張鼓峰事件を引き起こしたと言われ、昭和天皇からは「この様な人を総理大臣にしてはならないと思ふ」(「昭和天皇独白録」より)と酷評されていたことが知られている。昭和天皇は三月事件の遠因も宇垣の言い回しが原因ではないかと思っていた節があったようである。

自他ともに認める首相候補であり、内閣流産後も幾度となく候補として名前が挙がったが、結局首相になれず候補のままで他界したことから「政界の惑星」と呼ばれるようになった。

関連書籍

関連項目

外部リンク



  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月26日 (水) 12:15。












     

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最終更新:2008年12月11日 00:06
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