宋美齢

{{中華圏の人物 | 名前=宋美齢

| 画像=

| 画像の説明= | 出生=1897年3月5日(諸説あり) | 死去=2003年10月23日 | 出身地=Template:QIN1890?上海 | 職業=中国国民党中央委員会委員
中国国民党航空委員会秘書長 | 簡体字=宋美龄 | 繁体字=宋美齡 | ピン音=Sòng Měilíng | 注音= | 和名=そう びれい | 発音= | ラテン字=Sòng Měilíng | 英語名=Madame Chiang Kai-shek }}

宋美齢(そう びれい、簡体字Template:lang?繁体字Template:lang?ピンイン:Template:lang?1897年3月5日1896年1901年3月5日など諸説あり)- 2003年10月23日)は、中華民国の指導者、蒋介石の妻。欧米ではマダム蒋介石/Madame Chiang Kai-shekと呼ばれた。

略歴

プロフィール

上流階級出身

1897年に上海で生まれた(海南との説もある)。父は孫文の支援者として知られる、清国有数の財閥である浙江財閥の創始者でキリスト教徒の宋嘉樹。姉の宋靄齢孔祥熙の妻で、宋慶齢は孫文の妻であり、この2人と共に「宋氏(家)三姉妹」としても有名となった。

9歳のときにアメリカに留学し、その後マサチューセッツ州にある名門女子大学のウェルズリー大学に入学し、1917年に首席で卒業した。この時に身につけた流暢な英語が、後に役に立つことになる。なお、この頃以来アメリカ系フリーメイソンリー関係のイースタン・スター結社の会員といわれる。

蒋介石との結婚

中華民国に帰国した後は、キリスト教の布教に熱心であった父の意を受けて同国内においてキリスト教の布教活動を行う。その後1920年中国国民党総統で中華民国の指導者であった蒋介石と出会い、1927年12月に結婚した。中華民国の若き指導者である蒋介石と、同国の名家の出身で欧米で教育を受け洗練された立ち振る舞いの宋の結婚は、中華民国のみならず世界各国で大きく報じられ、アメリカではニューヨーク・タイムズの1面を飾ったほどであった。

結婚式はキリスト教形式で行われたが、蒋が離婚経験者であることから牧師は立てず教会関係者がその代理役を務めた。披露宴は上海で有数の規模を持つ大華飯店(マジェスティック・ホテル)で行われ、参列者は日本ドイツアメリカをはじめとする各国の総領事や政財界の有力者など1,300名を超えた。

なお蒋介石は宋美齢との結婚を両親に承諾させるために、最初の妻及び愛人と別れ、宋とその両親と同じキリスト教に改宗することを約束しなくてはならなかった。実際に結婚後の1929年に、蒋介石はメソジストの教会で洗礼を受けた。

蒋介石への影響

結婚翌年の1928年に蒋介石が中華民国の主席となり、宋もその後1930年から1932年までの間は、蒋介石を後ろ盾に、中華民国立法院のメンバーとして、また国民党中央委員会のメンバーとして国民党内にも多大な影響力を持った。

また、1936年12月に起きた西安事件においては、張学良軍に捕えられた蒋介石の解放に向け西安に飛び、張学良や楊虎城との会談を行い蒋介石解放の手助けを行った他、蒋介石に張学良軍や共産党軍との統一戦線の構築(国共合作)による抗日を訴えるなど、生涯を通じて蒋介石の政治的な決定に影響を与え続けた。

1937年日本と中華民国との間に発生した日中戦争においては、アメリカからの軍事援助を受けるために、「国民党航空委員会秘書長」の肩書で、英語が話せない蒋介石の「通訳」として、駐中華民国大使館附陸軍武官のジョセフ・スティルウェルクレア・リー・シェンノートとの交渉に同席し、アメリカからの有形無形の軍事援助を引き出し、後に日本と対峙した「アメリカ合衆国義勇軍(フライング・タイガース)」の設立や中華民国空軍の近代化に大きく貢献した。

蒋介石のスポークスマン

220px|thumb|宋美齢(右)と[[エレノア・ルーズベルト(1943年)]] また、宋は親中派として知られるフランクリン・ルーズベルト大統領やその妻のエレノアと特に仲が良く、アメリカの対日政策に大きな影響を与えたと言われる。第二次世界大戦中の1942年11月から1943年5月には、ルーズベルトの招きを受けてアメリカに滞在し、アメリカ全土を回り自ら英語で演説し抗日戦への援助を訴え続けた。特に1943年2月18日には、アメリカ連邦議会において宝石をちりばめた中華民国空軍のバッジを着けたチャイナドレス姿で抗日戦への更なる協力を求める演説を行い、並み入る議員のみならず全米から賞賛を浴びその支持を増やした。

また、同時期に抗日戦への義捐金を募るためにカリフォルニア州ハリウッドで演説した際には、ハンフリー・ボガードキャサリン・ヘップバーンイングリッド・バーグマンなどのハリウッドスターから称賛と大きな支持を受け、タイム誌の表紙を飾るなど、第二次世界大戦中を通じて中華民国のファーストレディとして、そして夫である蒋介石のスポークスマン兼中華民国のロビイスト的役割を果たし、アメリカをはじめとする連合国における中華民国、そして日本に対する世論に大きく影響を与えた。なお1943年11月には、蒋介石とルーズベルト、イギリスウィンストン・チャーチルエジプトカイロに集まって戦後の対日処理を決めたカイロ会談にも蒋介石とともに同席した。

しかし一方で、アメリカ滞在中にホワイトハウスが手配した警護グループを買い物係にしたり、ホワイトハウスの絹のシーツを1日に4回も交換させる、それらに空き足らずヘンリー・ルースの設立した支援団体である「ユナイテッド・チャイナ・リリーフ」の寄付金で、自分のための毛皮宝石を買い漁りつつ、リゾートホテルの代金に流用していたといった俗物的な面を見せた。

この様な宋の性格に対して、セオドア・ホワイトは「冷淡でいわゆる愛人タイプの女性だった」、ルーズベルト大統領の次男のエリオット・ルーズベルトは「蒋介石夫人は男の歓心を得ることばかりに長く従事したので、今やそれが第二の性格のようになった印象を受けた。本来の性格は多分に恐ろしい者のように見え、正直言って怖かった」といった証言を残している。

第二次世界大戦後

220px|thumb|蒋介石とともに[[台湾島を訪問する宋美齢(1946年)]] 1945年8月に日本連合国に敗北し第二次世界大戦が終結したものの、その後中国共産党率いる中国人民解放軍との間に発生した国共内戦において、蒋介石と折り合いの悪いハリー・トルーマン政権下のアメリカからの援助が削減された中華民国軍が敗れ、1949年に蒋介石が台湾島へ遷都すると、宋も多くの中国国民党の首脳陣らとともに同行する。

その後1950年には自らが会長となり「中華婦女反共抗ロ聯合会」を設立し、1949年に中国大陸に設立された中華人民共和国の中国共産党政府の国際連合加盟反対のための活動を国内外で行うなど、冷戦下において中華人民共和国の中国共産党政府との対立を続ける蒋介石を、アメリカとの連携のもとに支え続けた。

また、これらの政治活動に併せて、キリスト教徒として国際赤十字運動の活動に対しての支援を国内外において積極的に行う他、国内外の各種保守派団体の要職を務めるなど、欧米において積極的に蒋介石、そして中華民国のスポークスマン兼ロビイスト的役割を果たし続け、その結果、1950年代から1960年代にかけて世界各国のマスコミでその動向が大きく取り上げ続けられた。

蒋介石死後

1975年4月に蒋介石が死去すると、後継者になることを期待したがそれは叶わず、蒋介石の前妻の長男である蒋経国が主席兼中央委員会常務委員会主席に就任し党内の支持基盤を確立、次期総統就任への準備が着実に進められた。宋はこれを受けて同年に中華民国を去りアメリカに住居を移し、ニューヨークロングアイランドの広大な屋敷に住まいを構えた。

その後1978年に、蒋経国は第5期総統代行である厳家淦の任期満了に伴い開催された第1回国民大會により第6期総統に指名され蒋介石の後を継いだ。しかし宋はその後も政治的野心を持ち続け、中国国民党内の保守派と密接な連絡を取り続けた。なお1981年5月に、姉で中華人民共和国名誉国家主席となっていた慶齢が危篤となった際には、同国の中国共産党政府から慶齢が入院していた上海の病院への見舞いのための入国を打診されたものの、同国との敵対関係が続いていたこともありこれを断っている。

1986年には蒋介石生誕100周年記念行事が台北で行われることを口実に帰国し、その後は再び台北に居を移し影響力の回復を図ることとなる。蒋介石の後を継いだ蒋経国が1988年1月に死去した際には、副総統で本省人である李登輝が事実上の後継者となる国民党主席代行に就任することに対して強く反対し、保守派の兪国華や李煥を後継者に押し出そうとしたがそれも叶わず、同年7月に李登輝が次期総統に就任した。

李登輝が総統に就任した後も宋は国民党党首就任問題時にも執拗に直接電話をかけるなどして圧力をかけていった。しかし李登輝は自らの北京語下手を逆手にとって、宋の側近に「彼女の北京語は折江訛りが酷いから、私に用がある時は文章で送ってほしい」と告げた。これにより物的証拠を得た李登輝は宋の影響力を確実に殺いで行った。

晩年

その後は、中華民国の民主化を推し進めると同時に、台湾島の本土化を推進した李が宋を冷遇したこともあり、これに失望した宋は1991年9月にアメリカへ再び渡ることとなった。この頃は自らの高齢もあり政治的な活動は少なくなったが、1995年7月には、第二次世界大戦終結50周年の式典のためにアメリカ政府の招待を受けてワシントンD.C.を訪れ演説を行った他、同年には生涯で最後の中華民国訪問を行った。

これ以降は高齢で独力で歩行することもままならなくなったこともあり、表舞台に登場することはほとんどなくなったが、2000年3月の中華民国総統選挙では、国民党候補の連戦に対する支持を文書で表明するなど、同国の政治への関与はその後も続けた。

なお同年には、長年暮らしたロングアイランドの屋敷を引き払い、マンハッタンのアッパー・イースト・サイドの高級アパート「グレイシー・ステート・アパートメント」に住まいを移した。

死去

その後2003年10月23日に、マンハッタンの自宅で老衰により105歳(106歳との説もある)で死亡した。その死去は世界各国で大きく報道された他、中華民国の「敵国」でもあった中華人民共和国の中国人民政治協商会議全国委員会の賈慶林主席からも弔電が送られた。

宋美齢が出てくる映画

関連項目




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月30日 (日) 12:26。











    

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最終更新:2009年01月09日 22:37
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