対華21ヶ条要求(たいか21かじょうようきゅう)は、第一次世界大戦中、日本が中国政府に行った21か条の要求と希望。二十一か条要求などとも呼ばれる(中国語版では「二十一条」)。
第一次世界大戦勃発後の1915年(大正4年)1月18日、大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)が中華民国の袁世凱政権に5号21か条の要求を行った。主に次のような内容であった。
5号条項は秘密・希望条項とされていたが、中国側が21ヶ条要求を突きつけられたと喧伝し、国際的、主にアメリカからの批判を浴びた。日本は5号条項を後に撤回した。中国国内でも反対運動が起こったが、日本側は5月7日に最終通告を行い、同9日に袁政権は要求を受け入れた。21か条要求はドイツに代わり、列強の一員として中国侵略を強化・本格化しようというものであったため、中国国民はこれを非難し、要求を受諾した日(5月9日)を国恥記念日と呼んだ。
一方、孫文は3月中旬、外務省の小池に書簡を送り、日中盟約案として提案した。その内容は第五号の4、5、6条の趣旨に符合するものであった。また、進歩派知識人の代表格であった吉野作造は「事ここに至れば最後通牒を発するの他にとるべき手段はない」と断じた。在華米国公使を務めたラインシュは親中反日派であった。
この要求の草案は非常に短時間で作られたものであり、要求は希望条項を除いて、現在から、過去に起こった事項に関する事へと順に遡って記述されるという特徴的な構成となっている。
交渉の結果、第5号希望条項は棚上げされ最終的には十六ヶ条が5月25日、条約として結ばれた。
締結直後に中国は「懲弁国賊条例」を公布した。これは日本人に土地を貸したものは公開裁判なしに死刑に処すもので、土地商租権は調印と同時に早くも空文と化した。 中国の門戸開放(Open door)を唱えるアメリカは、日本の対中政策との妥協点を求め、1917年に石井・ランシング協定を結んだ。1919年、大戦後のパリ講和会議でも日本の要求が認められたが、中国国内では学生デモを発端に各地でストライキが起こり、軍閥政権は屈服した(五四運動)。日本の中国政策を批判する国際(特にアメリカの)世論が高まり、ワシントン海軍軍縮条約の場を借りた二国間協議で、日本は山東省権益などを放棄した。
対華21ヶ条要求には正式な名称は存在しない。したがって、次のような言い方は、いずれも"通称"であり、いずれも間違いとはいえない。
これらの通称を用いる場合には、通称であることを明確にするため、「いわゆる」を言葉の前につけることがより望ましい、とする考え方もある。
なお、このような通称が用いられるようになった経緯(いつ誰がどのような形で使い始め、どのような過程で一般的な用語となっていったのか)は、不明である。
ちなみに、岩波書店から出版されている4つの年表(いずれも横書き)を見るだけでも、「5号21か条の要求」(『近代日本総合年表 第四版』2001年)、「対華21か条要求」(『世界史年表 第二版』2001年)、「対華21か条の要求」(『日本史年表 第四版』2001年)、「対中21ヵ条要求」(『近代日中関係史年表』2006年)と、表現はまるでばらばらである。
また、最近の中学校等で扱われる教科書で掲載されているものには、『二十一か条の要求』と表記されている場合が多い。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月28日 (金) 19:16。