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thumb|300px|[[小栗上野介屋敷跡(東京都千代田区神田駿河台)]]
通称は、又一(任官前)。安政6年(1859年)、従五位下豊後守に叙任。のち文久3年(1863年)、上野介(こうずけのすけ)に遷任。小栗上野介とも称される。新潟奉行・小栗忠高(小栗氏の当主)の子、生母はくに子。
安政6年(1859年)に目付。万延元年(1860年)、34歳にして日米修好通商条約批准のため米艦ポウハタン号で渡米、地球を一周して帰国した。その後勘定奉行、軍艦奉行など多くの奉行を務め、財政再建やフランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
徳川慶喜の恭順に反対し、大政奉還後も薩長への主戦論を唱えるも容れられず、慶応4年(1868年)、罷免されて領地である上野国(群馬県)群馬郡権田村(高崎市倉渕町権田)に隠遁。東善寺を住まいとし学問塾の師事や水田整備の日々を送った。同年、薩長軍に逮捕。翌日烏川のほとりで斬首。
逮捕の理由には多数の説がある。大砲2門・鉄砲20挺の所持と農兵訓練。また勘定奉行時代に徳川の大金を隠蔽した説(徳川埋蔵金説)。しかし実態は創作であり、明治政府が発足した当時坂本龍馬や勝海舟などを英雄視した反面、小栗の風評が下がる結果となったが、近代になり小栗忠順の評価は見直された。作家司馬遼太郎は「明治の父」と記した。
文政10年(1827年)、新潟奉行・小栗忠高の子として江戸駿河台邸に生まれる。幼名は剛太郎。8歳の頃から文武に抜き出た才能を発揮し、自身の意志を誰憚ることなく主張する事から「天狗」と揶揄される事もあった。
天保14年(1843年)、17歳になり登城。その文武の才に注目されるのに時間はいらず、若くして両御番となり手腕をふるう。その率直の言い方が疎まれて、官職を変えられることも幾度もあったが、やはり才腕を惜しまれ幾度も官職を戻される。その頃から官職を変えられても結果を残すなど、その多才は発揮されていた。
嘉永6年(1853年)アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀来航。その後、多くの異国船が来航するのに対処する詰警備役となったが、戦国時代そのままの関船しか所持していない状態では同等の交渉もできず、開国の要求を受け入れることしかできなかった。この頃から造船所を作るという発想を持ったと言われている。その2年後、父である忠高が死去。家督を相続する。
安政7年(1860年)、遣米使節目付(監察)として、正使の新見正興が乗船するアメリカ海軍軍艦ポーハタン号で渡米。随行艦として咸臨丸に勝海舟が乗っており、奉行従者には福澤諭吉がいた。2ヶ月の船旅でサンフランシスコに到着し、歓迎される。代表は新見正興であったが、目付の忠順が代表と勘違いされ、行く先々で取材などを受け、新聞などにも忠順の名が上がっている。勘違いの理由として、多くの同乗者は異人と接したことがなく困惑していたが、詰警備役として異人との交渉経験がある忠順は落ち着いていたために、代表に見えたと言われている。
またフィラデルフィアでは通貨の交換比率の見直しの交渉に挑んだ。これは日米修好通商条約で定められた通貨の交換比率が不適当で、経済の混乱が生じていた為である。忠順は小判と金貨の分析実験を行って交換比率の改定に成功し、多くのアメリカ新聞は絶賛の記事を掲載する。また忠順がアメリカの造船所を見学した時、日本との製鉄技術の差に驚愕し記念にネジを持ち帰った。
その後ナイアガラ号に乗り変え、大西洋を越えて世界一周し、品川に帰国。帰国後、外国奉行や勘定奉行などの要職を歴任。財政立て直しを指揮する。当時の最大の出費は幕府が瓦解するまでに44隻の艦船を諸外国から購入していたことであり、その総額は実に333万6千ドル(現在の340億円以上)に上った。そこで駐日フランス公使レオン・ロッシュとの繋がりを作り、造船所の具体的な提案を練り上げた。
文久3年(1863年)12月8日、造船所建設案を幕府に提出。多くの反発をうけたが、小栗はそれまでの手腕によって徳川慶喜の絶大なる信頼をうけており反対派は沈黙。11月26日に実地検分が始まり建設予定地は横浜に決定された。費用は4年継続で総額240万ドル(現在の300億円)。これが徳川埋蔵金説につながったとも言われている。建設に多くの鉄を使用するにあたって、群馬県下仁田町中小坂で鉱山採掘施設との建設ラインを引く。これにより建設日数が短縮された。
慶応元年(1865年)11月15日、「横須賀製鉄所」(後の海軍工廠)の建設開始。規模と建設費用を考えると当時のアジア最大の建設計画である。28歳のフランソワ・レオンス・ヴェルニーを首長に任命。幕府公認の事業では初の外国人責任者だった。それにより職務分掌、雇用規則、残業手当、社内教育、洋式簿記など近代経営の基礎が日本に流通された。また製鉄所の建設きっかけに横浜仏蘭西語伝習所という日本初のフランス語学校を設立。ロッシュの助力もあり、フランス人講師を呼ぶ本格的な授業をしていた。卒業生には明治政府に貢献した人物が多い。
慶応3年(1867年)、陸軍奉行になった小栗は海軍だけではなく、陸軍の力を増すためにフランス師軍事顧問団の指導を受けさせ、洋式による陸軍を日本に広めた。事業や軍隊強化などを成功させた小栗だが、激務で死期を早めたという説もある。大隈重信が後年、「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」と発言したほどの人物だった。
慶応3年11月9日、将軍・徳川慶喜は朝廷に大政を奉還。その後、鳥羽・伏見の戦いを経て、江戸城にて主戦派と恭順派の議論が繰り返されていた。議論といっても恭順派は勝海舟など少数であり、ほとんどの人間は主戦派であった。小栗は主戦を説いたと言われているが、倒幕を容認する発言もしている。
慶応4年(1868年)1月27日に罷免されると、小栗は「上野の権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出し、一族そろって権田村の東善寺に移り住む。当時の村人の記録によると、水路を整備したり、学習塾を開くなど、静かな生活をしており、農兵の訓練をしていた様子はない。しかし3ヶ月後、官軍により小栗忠順は捕縛された。
同年閏4月6日朝4ツ半(午前11時)、小栗は取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に3人の家臣と共に引き出され、斬首された。享年42。死の直前、大勢の村人と明治政府の役人が口論となると、小栗は「お静かに」と言い放つ。それが最後の言葉と言われている。
忠順は遣米使節目付として渡米する直前、いとこの鉞子(父忠高の義弟日下数馬の娘)を養女にし、その許婚として駒井朝温の次男・小栗忠道を養子に迎えていた。しかし、忠道も高崎で斬首されてしまった。小栗家は、忠順の遺児・国子が成人するまで駒井朝温の三男で忠道の弟である小栗忠祥が継ぎ、その後、国子は矢野龍渓の弟・小栗貞雄を婿に迎えて家督は貞雄に譲られた。
※日付=旧暦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月25日 (木) 13:42。