岩崎 弥太郎(いわさき やたろう、天保5年12月11日(1835年1月9日) - 明治18年(1885年)2月7日)は日本の実業家で、三菱財閥の創業者。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。
土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人・岩崎彌次郎とその妻・美輪の長男としてうまれた。地下浪人とは郷士の株を売って居ついた浪人のことである。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。 幕末、土佐藩参政吉田東洋、後藤象二郎の知遇を得て、吉田東洋の元で脱藩士の探索などに従事する。脱藩士を追い同僚の井上佐一郎と共に大坂へ赴くが、尊王攘夷派が勢いを増す京坂の情勢から捕縛の困難を悟り、任務を放棄し帰国、職を辞した。その後、後藤象二郎により土佐藩の長崎留守居役に抜擢され、坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が設立されると、隊の経理を担当した。 最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立され全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前にキャッチした弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であるが、いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍した。今でいうインサイダー取引である。
1873年に後藤象二郎の知遇で現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立(「三菱」が土佐藩(山内氏)の家紋である三つ柏を模していることはつとに有名である)、弥太郎の死後、政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となった。このような経緯から日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。なお弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出している。単に財閥家族と血縁関係にあったり財閥の娘婿というだけの首相は他にもいるが、財閥創業者の娘婿が2人も首相になった例は他の財閥にはなく、三菱と国家の密接な関係を証明しているといえる。三菱商船学校(のちに官立の東京商船学校を経て現国立東京海洋大学海洋工学部)創設者である。
岩崎弥太郎とその弟・岩崎弥之助(三菱の2代目総帥)から始まる岩崎家は経済界の代表的な名門家系として知られている。三菱の3代目総帥・岩崎久弥は弥太郎の長男であり、4代目総帥の岩崎小弥太は弥之助の長男、すなわち弥太郎の甥にあたる。また弥太郎の孫には入江相政(侍従長、エッセイスト)の妻・君子やエリザベス・サンダースホームの創設者・沢田美喜、経済評論家の木内信胤らがおり、曾孫には鎮西清高(古生物学者、京都大学名誉教授)の妻・由利子やその兄で鎮西と同じく古生物学者の岩崎泰頴(熊本大学名誉教授)、泰頴・由利子兄妹の又従兄で東山農事(小岩井農牧の親会社)の社長を務める岩崎寛弥(岩崎弥太郎家の当主)らがいる。家紋は重ね三階菱。
なお弥太郎の死後、嫡男の久弥が父の業績に対し男爵を授けられた。岩崎家の2つの本家は華族だが、弥太郎の存命中は岩崎家は華族に列していなかった。
国広達宣 加藤高明 ┃ ┣━━━━加藤厚太郎 ┏━━勢津子 岩崎弥次郎 ┏━━春路 ┃山村泰弘 ┣━━━┳岩崎弥太郎━━╋岩崎久弥 ┃ ┃ 美和 ┃ ┃ ┣━━━┳岩崎彦弥太 ┣━━昭子 ┃ ┃ 寧子 ┃ ┣━━━╋岩崎寛弥 ┃ ┃ ┃ 操子 ┃高島孝之 ┃ ┃ ┣岩崎隆弥 ┃ ┃ ┃ ┃ ┣岩崎恒弥 ┗━━美智子 ┃ ┃ ┃沢田廉三 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━沢田信一 ┃ ┃ ┣━━美喜 ┃ ┃ ┃甘露寺方房 ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┃ ┣━━澄子 ┃ ┃ ┃福沢堅次 ┃ ┃ ┃ ┣━━━━福沢雄吉 ┃ ┃ ┗━━綾子 ┃ ┃木内重四郎 ┃ ┃ ┣━━━━木内良胤 ┃ ┣━━磯路 ┃ ┣岩崎豊弥 ┃ ┃早尾惇実 ┃ ┃ ┣━━━━━━幸子 ┃ ┣━━富子 ┃ ┣岩崎秀弥 ┃ ┃幣原喜重郎 ┃ ┃ ┣━━━━幣原道太郎 ┃ ┣━━雅子 ┃ ┣━━照子 ┃ ┣岩崎康弥 ┃ ┗岩崎正弥 ┗岩崎弥之助 ┣━━━━━岩崎小弥太 後藤象二郎━━━━早苗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』2008年4月3日 (木) 13:18。