憲兵 (日本軍)

憲兵(けんぺい)とは、旧日本陸軍において陸軍大臣の管轄に属し主として軍事警察を掌り兼て行政警察司法警察を掌る兵科区分の一種であった。

沿革

thumb|300px|憲兵[[下士官|下士上等兵たち(1935年)]]

日本陸軍においては、1881年(明治14年)、フランス国家憲兵制度(フランス国家憲兵隊)を範として、憲兵条例憲兵条例は明治31年勅令第337号によって全面改正された。更に、昭和4年勅令第65号により憲兵条例は憲兵令に改題された。により設置された。なお、この憲兵条例等により置かれる憲兵(以下、「勅令憲兵」という。)のほかに、軍令により編成され軍司令官の命令に服する憲兵(以下、「軍令憲兵」という。)があったが、以下特記のない限り勅令憲兵について記述する。

なお、明治時代に置かれていた屯田兵について、平時は、「屯田兵ハ徒歩憲兵ニ編制」(屯田兵例則)するものとされ、警察が十分に整備されていない開拓時代の北海道において治安維持に当るものとされた。そして、「屯田兵諸勤務ハ凡ソ憲兵ノ規則ニ據ルヘシト雖モ目下北海道ニ於テハ人民寡少事務閑暇ナルヲ以テ其細目ノ如キ之ヲ行フトキハ却テ径庭ヲ生スヘキカ故ニ各長官ノ適宜ニ処分スルヲ以テ可トスヘシ」(屯田兵例則)とされ、憲兵勤務は事実上、長官の自由な処分に委ねられた。その結果、屯田兵が実態として憲兵任務を担うことはなかった。詳細は「屯田兵」を参照。

任務

一般憲兵の任務

thumb|250px|right|Template:lang?を警護する憲兵(右端の憲兵腕章を着けている軍人)。太平洋戦争中の姿。]] 日本の憲兵制度は、フランスの国家憲兵隊制度を参考にしたため、陸軍大臣の管轄に属するとされながらも、海軍の軍事警察や行政警察司法警察も職務として、それらについては陸軍大臣以外の主務大臣の指揮を承るものとされた。

具体的には、憲兵は、陸軍大臣の管轄に属し主として軍事警察(軍事警察に係るものは陸軍大臣及び海軍大臣の指揮を承ける。但し外地においては特則あり。)を掌り兼て行政警察(行政警察に係るものは内務大臣の指揮を承ける。但し外地においては特則あり。)、司法警察(司法警察に係るものは司法大臣の指揮を承ける。但し外地においては特則あり。)を掌るものとされた。海軍には独自の憲兵は置かれず、海軍大臣は軍事警察に係るものについては憲兵を直接指揮できるものとされた。そのため、海軍の要人警護等には陸軍の憲兵が当たった。

憲兵は武装していたが、警察比例の原則から、暴行を受けたとき・その占守する土地若しくは委託された場所又は人を防衛するに兵力を用いるほかに、他に手段がないとき又は兵力を以ってしなくては抗抵に勝つことができないときにのみ、武器を使用することができるものとされていた。

韓国駐箚憲兵の任務

thumb|300px|right|[[憲兵警察制度 (朝鮮総督府)|鏡城憲兵隊本部前の集合写真。憲兵のほかに警察官等も写っている。]] 第三次日韓協約Template:和暦?7月24日締結)の非公式取極めにより、韓国における警察権が日本に委任されることとなり、「韓国ニ駐箚スル憲兵ニ関スル件」(明治40年勅令第323号)明治43年勅令第301号により改正され、朝鮮駐箚憲兵条例(明治43年勅令第343号)により廃止された。が制定された。これによると、内地の憲兵が軍事警察を主とするのに対して、韓国に駐箚する憲兵は治安維持に関する警察を主として兼ねて軍事警察を掌るものとされ、主従が一般と逆転していた。これは、日本国外である韓国内において普通警察では機動的な治安維持の任務を果たせないことに鑑みて、憲兵に普通警察の任を果たさせようとしたものである。

Template:和暦?7月1日には、人員の不足を補うために朝鮮人の憲兵補助員制度が創設された明治43年勅令第301号。。憲兵補助員は陸軍一等卒・陸軍二等卒の取扱いに準じるものとされた。

Template:和暦?9月10日には、「韓国ニ駐箚スル憲兵ニ関スル件」は廃止され、新たに「朝鮮駐箚憲兵条例」(明治43年勅令第343号)が制定された。こうして、韓国においては憲兵が警察官を兼任し、朝鮮駐箚憲兵隊司令官が朝鮮総督府警務部長を兼ねる状態が続いていたが、Template:和暦?にこの制度が廃止された。 Template:main?

配置編制

概要

全国の憲兵の頂点に憲兵司令官が置かれた。憲兵の部隊は、一般の部隊のように連隊大隊中隊小隊の編制を採らず、各地に配置される憲兵隊が基本単位となっていた。憲兵隊の下に、警察署に相当する憲兵分隊(分隊と呼称されるが数十名の人員が居る)があり、憲兵分隊の下に憲兵分遣隊がある。

明治28年当時

明治28年勅令第95号によって全面改正された「憲兵条例」によると、当時の憲兵の編成は次の通りであった。ここにいう「伍長」とは階級ではなく職名である。

  • 憲兵司令部(東京に1個)
    1. 憲兵司令官:憲兵大佐
    2. 副官:憲兵大尉・同中尉
    3. 軍吏
    4. 書記:憲兵下士、軍吏部下士又は属
  • 憲兵隊(各師管毎に置く。)
    1. 隊長:憲兵中佐・同少佐
    2. 副官:憲兵大尉・同中尉
    3. 軍吏
    4. 下副官(准士官):憲兵曹長
    5. 書記:憲兵下士又は軍吏部下士
  • 憲兵分隊(要地毎に置き、管轄区域を憲兵管区という。)
    1. 書記:憲兵下士
    2. 上等伍長(准士官):憲兵曹長
    3. 伍長:憲兵曹長
    4. 憲兵上等兵(憲兵上等兵5名ないし12名を以て1伍として、1伍又は数伍により憲兵巡察区を管轄する。)

明治29年以降

明治29年は憲兵司令官が陸軍少将からも任じられるようになった。憲兵管区が第1から第7まで定められるようになった。憲兵分隊が府県単位に置かれるようになった明治29年勅令第231号。。

明治43年以降

「朝鮮駐箚憲兵条例」(明治43年勅令第343号)が制定され、朝鮮駐箚憲兵に関する配置等が定まった。朝鮮駐箚の憲兵隊司令部は京城に置かれ、その職員としては次のものが置かれた。

  • 憲兵隊司令官
  • 憲兵隊司令部副官
  • 憲兵隊司令部附佐尉官
  • 憲兵下士
  • 経理部将校相当官・准士官・下士(任意的)
  • 軍医部将校相当官・准士官・下士(任意的)
  • 獣医部将校相当官・准士官・下士(任意的)
  • 蹄鉄工長(任意的)
  • 高等文官・判任文官(任意的)

また、各憲兵隊管区に1憲兵隊が配置された。憲兵補助員制度は引き続き残置された。

昭和20年以降

もっとも、昭和20年4月1日に憲兵の編成配置が大きく変更された昭和20年勅令第162号(同年4月1日施行)による憲兵令の改正。。これは軍備の急激な膨張に伴う軍要員の急激な増大に鑑み、憲兵機構の整備を図るため、各軍管区毎に「憲兵隊司令部」を置き、又西部軍管区の区域にあっては、別に広島師管区及び善通寺師管区の区域については、特に各別に憲兵隊司令部を置き、各憲兵隊司令部の管区内には憲兵隊地区を設け、各憲兵隊地区毎に「地区憲兵隊」を設けることとする等の必要があることによって所要の改正がなされたものである。

これによると、憲兵隊司令部が置かれる都府県はその憲兵隊直轄区域となるので、地区憲兵隊は、憲兵隊司令部が置かれない府県毎に置かれるが、北部憲兵隊にあっては旭川釧路函館樺太憲兵隊が置かれた。また、海軍の主要根拠地たる鎮守府には、そこを担当する地区憲兵隊が置かれた。即ち、東部憲兵隊では横須賀軍港境域のみを担当する横須賀地区憲兵隊が、中部憲兵隊では舞鶴軍港境域のみを担当する舞鶴地区憲兵隊が、中国憲兵隊では呉軍港境域のみを担当する呉地区憲兵隊が、西部憲兵隊では佐世保軍港境域のみを担当する佐世保地区憲兵隊が置かれた。

終戦時の憲兵隊配置

憲兵司令部隷下
憲兵隊司令部(軍管区) 地区憲兵隊
北部(北部軍管区旭川、函館、釧路、樺太
東北(東北軍管区青森、盛岡、秋田、山形、福島
東部(東部軍管区横浜、横須賀、千葉、甲府、宇都宮、浦和、水戸、前橋、新潟、長野
東海(東海軍管区富山、岐阜、静岡、津、金沢
中部(中部軍管区大津、福井、奈良、和歌山、神戸、京都、舞鶴
中国(中国軍管区岡山、鳥取、呉、松江、山口
四国(四国軍管区徳島、松山、高知
西部(西部軍管区小倉、佐賀、長崎、佐世保、熊本、大分、宮崎、鹿児島、沖縄
朝鮮(朝鮮軍管区羅南、咸興、新義州、平壌、海州、春川、清州、大田、大邱、釜山、全州、光州
台湾(台湾軍管区台南、花蓮港

満州方面には関東憲兵隊司令部の下、新京・奉天・大連・哈爾賓・チチハル・牡丹江・四平・錦州・間島・興安・承徳・孫呉・ハイラルの各憲兵隊と関東憲兵練習所があった。

戦地の軍令憲兵

中国大陸には北支那派遣憲兵隊司令部・中支那派遣憲兵隊司令部と南支那派遣憲兵隊、開封・漢口・九江・杭州・済南・徐州・上海・青島・石門・蘇州・蘇北・太原・張家口・鄭州・天津・南京・北京の各憲兵隊があった。この内、漢口憲兵隊は昭和20年7月26日第16方面軍憲兵隊への改編が決まっていたが、編成完結前に終戦となった。

北支那派遣憲兵隊司令官は、隷下憲兵隊とは別個に設置された北支那特別警備隊の司令官を兼ねた。北支那派遣特別警備隊は昭和18年8月24日軍令陸甲第81号によって設置され、唐山に司令部を置き10個大隊と1個教育隊で構成され特殊秘密作戦に従事した。秘密作戦という性格からか戦死率が高く、終戦までに800名を越す戦死者を出し、大隊長1名と中隊長3名を失っている。

この他、フィリピン・スマトラ等南方方面憲兵隊の任地域と上級部隊は下表の通り。

担任地域 憲兵隊名称 上級部隊
フィリピン 第14方面軍憲兵隊 第14方面軍
スマトラ 第25軍憲兵隊 第25軍
マレー 第29軍憲兵隊 第29軍
蘭印 第16軍憲兵隊 第16軍
ビルマ 緬甸方面軍憲兵隊 緬甸方面軍
セラム島 第5野戦憲兵隊 第19軍
ラバウル 第6野戦憲兵隊 第8方面軍
ハルマヘラ 第8野戦憲兵隊 第2方面軍
ソロン 第10野戦憲兵隊 第2軍
仏印 南方軍第1憲兵隊 南方軍
タイ 南方軍第2憲兵隊 南方軍
ボルネオ 第37軍憲兵隊 第37軍

終戦時の憲兵兵力は国内外の合計でおよそ36,000人であった。

人事

歴代憲兵司令官

初代憲兵司令官には、越後長岡藩出身の三間正弘陸軍憲兵大佐が就任した。但し、その後の憲兵司令官には主に陸軍中将(憲兵科を含む兵科少将以上には兵科区分がない。)が充てられたため、人事運用上、憲兵科出身ではない者も多く憲兵司令官に任じられた。

  1. 三間正弘 大佐(1889年3月20日 - 1893年4月5日)
  2. 春田景義 中佐(1893年4月6日 -) 心得
  3. 春田景義 大佐(1893年11月1日 -)
  4. 原田良太郎 少将(1897年9月28日 -)
  5. 山内長人 少将(1899年2月10日 -)
  6. 林忠夫 大佐(1902年9月16日 -)
  7. 谷田文衛 中将(1909年8月1日 -)
  8. 須永武義 少将(1910年11月30日 -)
  9. 南部辰丙 中将(1912年2月27日 -)
  10. 橋本勝太郎 中将(1915年2月15日 -)
  11. 小池安之 少将(1916年3月24日 -)
  12. 石光真臣 少将(1918年6月10日 -)
  13. 長坂研介 少将(1920年8月10日 -)
  14. 山田良之助 少将(1922年2月8日 -)
  15. 小泉六一 少将(1923年8月6日 -)
  16. 柴山重一 少将(1923年9月20日 -)
  17. 荒木貞夫 少将(1924年1月9日 -)
  18. 松井兵三郎 中将(1925年5月1日 -)
  19. 峯幸松 少将(1927年3月5日 -)
  20. 外山豊造 中将(1931年8月1日 -)
  21. 秦真次 中将(1932年2月29日 -)
  22. 田代皖一郎 中将(1934年8月1日 -)
  23. 岩佐禄郎 中将(1935年9月21日 -)
  24. 中島今朝吾 中将(1936年3月23日 -)
  25. 藤江恵輔 少将(1937年8月2日 -)
  26. 田中静壱 中将(1938年8月2日 -)
  27. 平林盛人 少将(1939年8月2日 -)
  28. 豊島房太郎 中将(1940年8月1日 -)
  29. 田中静壱 中将(1940年9月28日 -) 再任
  30. 中村明人 中将(1941年10月15日 -)
  31. 加藤泊治郎 少将(1943年1月4日 -)
  32. 大木繁 中将(1943年8月26日 -)
  33. 大城戸三治 中将(1944年10月14日 -)
  34. 飯村穣 中将(1945年8月20日 - 1945年11月1日)

階級

少将以上は兵科区分がないため、憲兵特有の階級としては陸軍憲兵大佐以下の官(階級)が設けられた。また、司法権の行使に密接に関与する特別な部門であることから、昭和15年に歩兵科砲兵科といった兵科区分が廃止された後も、各部と同様に憲兵のみ存続した。

明治12年10月10日当時、歩兵、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵では大尉及び中尉がそれぞれ1等及び2等に分けられ、また参謀当時は、参謀は独立した一つの兵科区分であった。は大尉のみ1等及び2等に分けられていたが、憲兵のみは大尉及び中尉とも1等・2等の分類はなされていなかった明治12年10月10日改正の陸軍武官官等表。。

長く、最下級の憲兵は憲兵上等兵とされていたが、昭和15年9月15日に旧「陸軍憲兵上等兵」は「陸軍憲兵兵長」(兵1級)と改称されたが昭和15年勅令第581号。、昭和17年11月17日に憲兵兵長の下に再度、新「陸軍憲兵上等兵」(兵2級)が設置された昭和17年勅令第798号。。

憲兵を設置した地方においては、憲兵将校及び憲兵下士は司法警察官として、憲兵卒は巡査と同じく司法警察の事務を行うものとされた「憲兵将校下士ハ司法警察官トシ卒ハ巡査ト同ジク司法警察ノ事務ヲ行ハシム」(明治15年5月布告第23号)

補充

憲兵は、他の兵科部(歩兵騎兵砲兵工兵輜重兵等)とは異なり、入隊時に憲兵科に指定される者はおらず、必ず他兵科からの志願者から充てられた。このように、在隊中の勤務態度が吟味され、また志願者のみで充足されることから、憲兵は規律正しく意欲旺盛な者が中心となっていた。

憲兵科軍人又は憲兵科へ転科する軍人に対する教育は、明治32年以降は憲兵練習所明治32年勅令第368号により設置された。で、昭和12年以降は陸軍憲兵学校昭和12年勅令第378号により設置された。で行われた(詳細は陸軍憲兵学校参照。)。

昇進

憲兵は、他の戦闘兵科と異なり、戦時の消耗が少なく、又目立つ任務ではないことから功績を挙げにくく、軍楽部と共に昇進が難しい兵科各部とされた。多くが伍長予備役編入、軍曹曹長准士官にまで昇進できるのはごく一部の者だけであった。そのため、監軍護法をスローガンに縁の下の力持ちに徹して、法令遵守を最目標とし、軍による反乱に際しては身を挺して職務遂行に当たった。

憲兵科軍人の処遇

の場合も専門教育を受ける(明治32年以降は憲兵練習所、昭和12年以降は陸軍憲兵学校で実施された。)ため憲兵上等兵以上となった(昭和15年-昭和17年除く)。憲兵は騎兵輜重兵等と同じく、帯刀・乗馬本分者とされ、下士官・兵であっても官給品として乗馬長靴及び軍刀を佩用することになっていたこのため、「乗馬兵科ノ者ヲシテ憲兵ノ勤務ヲ補助セシムルノ件」(明治38年勅令第208号)では、憲兵を補助するために指定される者は乗馬兵科に限られていた。「各兵科ノ者ヲシテ憲兵ノ勤務ヲ補助セシムルノ件」(大正12年勅令第441号)により、乗馬兵科に限られなくなった。。また、下士官・兵であっても憲兵は、適正な司法警察権の行使を完全ならしめるために営内居住ではなく、営外で居住した。また、私服での隠密捜査も多いため、丸刈りはあまり行われていなかったという。

憲兵科であっても、兵卒は国民の義務として兵役に服しているのであって、本来は官吏としての待遇を受けるものではないが、警察巡査判任官待遇を受けていることとの均衡から、明治28年7月15日に憲兵上等兵も判任官待遇を受けることとなった明治28年勅令第111号。。

昭和12年1月から憲兵上等兵候補者を全国から募集した。募集にあたって学歴を一切問わなかったというが、兵士の大部分が小学校卒であった時代において、実際の合格者に占める小学校卒の割合は一割程度だった昭和10(1935)年の旧制中等教育学校(旧制中学校・高等女学校・旧制実業学校)への進学率は18.5%に過ぎなかった。昭和初期においても8割以上が小学校卒だったということになる。。合格後の待遇は破格のもので、一般兵卒の月収が当時8円80銭、小学校教員の月収が46円(昭和4年)ほどだったのに対し、憲兵上等兵は基本給7円に加え、憲兵加棒7円50銭、営外加棒36円の支給を受け月額50円50銭の月収があった(昭和2年の陸軍給与令による支給規定)全国憲友会連合会編纂委員会『日本憲兵正史』全国憲友会連合会本部、1976年 P1411。

装備

既述の通り、憲兵の武器使用には制限があったため、平時は拳銃のみで武装しており、有事の際にはこれ加え下士官以下は騎銃を携行した。またこのほか、勤務手帳、呼笛、捕縄、包帯などを携帯することが定められていた。なお、朝鮮憲兵隊の一部は警備のため手榴弾の支給を受けることがあった。

補助憲兵

明治38年9月6日に「乗馬兵科ノ者ヲシテ憲兵ノ勤務ヲ補助セシムルノ件」(明治38年勅令第208号)が制定され、衛戍総督又は衛戍司令官は、乗馬兵科(騎兵科など。)の者を、憲兵分隊長等の指揮に属させ、憲兵の勤務を補助させることを認めた。この憲兵の勤務を補助する者には、憲兵条例が準用された。これによって指定された者は、所属兵科の服装を着用し、その上で左腕に赤布の腕章を着用した。

大正12年10月11日に「各兵科ノ者ヲシテ憲兵ノ勤務ヲ補助セシムルノ件」(大正12年勅令第441号)が制定され、必要により憲兵科以外の各兵科の者を「補助憲兵」とすることが認められた。補助憲兵は憲兵分隊長等の指揮に属し憲兵の勤務を補助するに過ぎないが、憲兵条例が準用された。これによって指定された補助憲兵は、所属兵科の服装を着用し、その上で白地に赤字で「憲兵」の腕章を着用した。

著名な憲兵

著名な憲兵としては次の者などがいる。

  • 甘粕正彦(歩兵科から転科。大尉時代の甘粕事件で免官。)
  • 大谷敬二郎(東京憲兵隊特高課長、東京憲兵隊長、東部憲兵隊司令官を歴任。)
  • 加藤泊治郎(砲兵科から転科。中将まで昇る。)
  • 四方諒二(歩兵科から転科。戦時中は東京憲兵隊長。終戦後に少将で復員。)
  • 代田銀太郎
  • 三浦三郎(歩兵科から転科。終戦後に中将で復員。)
  • 三宅篤夫(東京憲兵隊長、小倉憲兵隊長などを歴任。少将で予備役編入。)

憲兵に対する評価

陸軍軍人軍属違警罪処分例明治19年勅令第44号。により、陸軍の軍人・軍属の犯した違警罪は憲兵部(憲兵部が置かれていない地では警察署)で処分できたこともあり、一般兵にとっては、監軍護法のため何かとやかましい事を言う目の上のタンコブ的存在であり、また当時の警察官と同じく高圧的態度をとる憲兵も多かったため、嫌われがちであった。

また、1923年(大正12年)9月の関東大震災直後に東京憲兵隊渋谷憲兵分隊長兼麹町憲兵分隊長甘粕正彦陸軍憲兵大尉大杉栄伊藤野枝及び橘宗一を殺害するという問題を起こした(甘粕事件)。発覚後、憲兵隊の捜査により起訴された甘粕大尉及び森慶次郎陸軍憲兵曹長軍法会議で有罪判決を受けて服役する。また、監督責任を問われて憲兵司令官小泉六一陸軍少将らは停職となった。以上の一部憲兵による行為は法令に違背し憲兵の職務に悖るものである。

他方、憲兵は、司法警察権も掌ることから、治安警察法及び治安維持法等を、一般警察同様に一般国民に対しても適用する立場であり、次第に反戦思想取締りなど、国民の思想弾圧にまで及ぶこととなった。帝国議会の開会中は10名ほどの特務憲兵が詰め、議員の発言を確認していた。事前に政府や軍部に批判的な政党・議員の発言内容や攻撃材料を入手する事も憲兵の任務だったと言う。東條英機の首相在任中には憲兵をして反対派(中野正剛などが知られている)を圧倒し、東條もこれを積極的に活用した事からこれらを「東條憲兵」と呼んだ。戦後、東條は周囲に「憲兵を使いすぎた」ともらしたという。戦後のBC級戦犯裁判で有罪となり処刑された者は1,000名にのぼるが、その3割が憲兵だった。

これらのことから、戦後、憲兵に対して批判的な目が多く寄せられていたが、昭和44年4月に靖国神社境内に「憲兵の碑」が建立された。

ちなみに国民の権利抑圧に関して特別高等警察と共に語られる事も多いが、ゴーストップ事件に代表されるように軍部(陸軍省)と警察(内務省)は極めて仲が悪く、これは特高と憲兵隊の間でも同様であり、同じく司法警察・行政警察等に関与する機関であったが、捜査などで双方が協力し合うようなことは絶無であった。

もっとも、憲兵がその身命を賭して職務に忠実な事例も多い。例えば、相沢事件では永田鉄山陸軍省軍務局長を守ろうとした東京憲兵隊長の新見英夫大佐が重傷を負った。また、二・二六事件では、渡辺錠太郎大将を反乱部隊から守ろうとした憲兵が殉職している。

関連項目

外部リンク

  • 日本陸海軍史(憲兵司令官、東京憲兵隊長、朝鮮憲兵隊司令官及び関東憲兵隊司令官の各一覧がある。)

注釈

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月27日 (金) 14:40。












     

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最終更新:2009年03月16日 23:46
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