憲政の常道

憲政の常道(けんせいのじょうどう)は「天皇による組閣の大命は衆議院の第一に下されるべきこと、ある内閣が失政によって倒れた時、組閣の大命は野党第一党に下される」とする大日本帝国憲法下の政党政治時代における政界の慣例。あくまでも慣例であり法的拘束力はない。

概説

大正デモクラシー期以降、民本主義思想とイギリス議院内閣制に倣い、「民意は衆議院議員総選挙を通して反映されるのであるから、衆議院の第一党が与党となって内閣を組閣すべきである。また、内閣が失敗して総辞職に及んだ場合、そのまま与党から代わりの内閣が登場すれば、それは民意を受けた内閣では無い。それならば直近の選挙時に立ち返り、次席与党たる第一野党が政権を担当すべきである。」という原理に基づいて元老による内閣首班の推薦が行われるようになった。これが「憲政の常道」と呼ばれる。衆議院第一野党の党首が政権を担当した場合には内閣の基盤を強化する目的で早期に衆議院を解散することもあった。

内閣の失政による内閣総辞職が条件のため、首相の体調不良や死亡による総辞職の場合、与党の新党首に組閣の大命が下される。

五・一五事件犬養毅首相が暗殺された後、軍部の意向を酌んだ妥協の結果として、斎藤実に組閣の大命がくだされ、海軍軍人を首班とする内閣の発足により、憲政の常道は崩壊した。

明治憲法下の政党内閣の推移

明治憲法下の政党内閣の推移
内閣政権政党総辞職理由
加藤高明内閣憲政会首相の病死
第1次若槻内閣憲政会昭和金融恐慌の処理問題
田中義一内閣立憲政友会張作霖爆殺事件の処理問題
濱口内閣立憲民政党首相の体調不良
第2次若槻内閣立憲民政党満州事変の処理問題
犬養内閣立憲政友会首相暗殺
政党内閣なし
幣原内閣日本進歩党日本自由党総選挙後に衆議院第二党に転落
第1次吉田内閣日本自由党・日本進歩党総選挙後に衆議院第二党に転落

日本国憲法下での憲政の常道

日本国憲法下でも「衆議院の第一党が内閣を担当すべきこと、ある内閣が失政によって倒れた時、その後継として内閣を担当するのは野党第一党である」とする大日本帝国憲法下での慣例が引き合いに出されることがある。例として、1947年の衆院選後の首班指名選挙ではほぼ全会一致という形で衆議院第一党である日本社会党委員長であった片山哲を選出していた事例や、芦田内閣総辞職後の首班指名でGHQ側から三木武夫が首相打診を受けた際に「憲政の常道」を持ち出して辞退した事例がある。

自由民主党政権では政局によって内閣が倒れた場合も引き続き後任の自由民主党総裁が内閣首班に指名されているが、この時に野党による選挙管理内閣を立てることを野党が主張し、自民党の政権持ち回りを批判することがある。

また、1993年には衆議院第一党の自民党の総裁ではなく、衆議院第五党の日本新党の代表を首相とする細川内閣が誕生し、非自民政権の細川内閣が倒れた後も連立与党の大方の枠組みが維持され衆議院第三党の新生党の代表を首相とする羽田内閣が立てられ、羽田内閣が倒れた後も非自民という与党の枠組みを維持しながら海部俊樹を首相に擁立することが試みられ、反与党からは衆議院第二党の社会党の委員長を首相に擁立して村山内閣が誕生している。

関連項目



  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月5日 (水) 10:37。












   

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最終更新:2008年11月20日 22:26
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