教育ニ関スル勅語

教育ニ関スル勅語』(きょういくにかんするちょくご)は、明治時代日本教育の根幹をなすものとして発表された勅語である。『教育勅語』(きょういくちょくご)ともいう。

内容

教育勅語は、明治天皇が国民に語りかける形式をとる。まず、歴代天皇が国家と道徳を確立したと語り起こし、国民の忠孝心が「国体の精華」であり「教育の淵源」であると規定する。続いて、父母への孝行や夫婦の調和、兄弟愛などの博愛、学問の大切さ、遵法精神、事あらば国の為に尽くすことなど12の徳目(道徳)が明記され、これを守るのが国民の伝統であるとしている。以上を歴代天皇の遺した教えと位置づけ、国民とともに明治天皇自らこれを守るために努力したいと誓って締めくくる。

これは、西洋の学術・制度が入る中、軽視されがちな道徳教育を重視したものである。もちろん、西洋文明にも宗教(キリスト教)を背景とした道徳教育は存在するが、それを直接日本人に適用するわけにもいかず、かといって伝統的に道徳観の基本として扱われてきた儒教仏教を使うことも明治新政府以降の理念からすれば不適切であった。このため、伝統的な道徳観を天皇を介する形でまとめたものが教育勅語とも言える。こうした道徳観は、伝統的な儒教とは異なるものであり、江戸時代の水戸学からの影響が指摘されている。

発布の経緯

1890年明治23年)10月30日に発布された教育勅語は、山縣有朋内閣のもとで起草された。直接の契機は、山県の影響下にある地方長官会議が同年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる。明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、榎本武揚文部大臣が道徳教育の基本方針を立てるよう命じられた。ところが榎本はこれを推進せず、更迭された。後任の文部大臣に山県が腹心の芳川顕正を推薦したのに対して、明治天皇は難色を示したが、山県が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得した。文部大臣に就任した芳川は、女子高等師範学校学長の中村正直に原案を起草させた。

この中村原案を山県が内閣法制局長官井上毅に見せて意見を求めたところ、井上は中村案の宗教色を理由に猛反対。山県は、政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼した。井上は、中村案を全く破棄し、「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」ことを前提として、宗教色を排することを企図して原案を作成した。井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対したが、山県の教育勅語制定の意志が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。この井上原案の段階で後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。

一方、天皇側近の儒学者元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、この時も儒教に基づく独自の案を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調した。井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した。

発布は1890年明治23年)10月30日。国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉という意味合いから、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されていない。井上毅は明治天皇が直接下賜する形式を主張したが容れられず、文部大臣を介して下賜する形がとられた。

発布後

発布翌年の1891年(明治24年)の内村鑑三による教育勅語拝礼拒否(不敬事件)をきっかけに、大切に取り扱う旨の訓令が発せられた。また、同じく1891年(明治24年)に定められた小学校祝日大祭日儀式規定(明治24年文部省令第4号)や、1900年(明治33年)に定められた小学校令施行規則(明治33年文部省令第14号)などにより、学校などで式典がある場合には奉読(朗読)されることとなった。1907年(明治40年)には、文部省が英語に翻訳し、そのほかの言語にも続々と翻訳された。これを機に、イギリスをはじめ各国から高く評価され、自国の教育指針を決定する際にあたって、この勅語を参考にした国もあったといわれているTemplate:要出典?

その一方で文部大臣西園寺公望は、教育勅語が余りにも国家中心主義に偏り過ぎて「国際社会における日本国民の役割」などに触れていないという点などを危ぶみ『第二教育勅語』を起草したものの、西園寺の大臣退任により実現しなかった(西園寺による草稿は現在立命館大学が所蔵)ことなど、教育勅語は発布当時から神聖視されていたのではない。

昭和時代に入ると国民教育の思想的基礎として神聖化された。教育勅語は、ほとんどの学校で天皇皇后の「御真影」(写真)とともに奉安殿・奉安庫などと呼ばれる特別な場所に保管された。教育勅語の文章を暗誦することも強く求められた。特に戦争激化の中にあって、1938年昭和13年)に国家総動員法(昭和13年法律第55号)が制定・施行されると、その態勢を正当化するために利用された。そのため、教育勅語の本来の趣旨から乖離する形で軍国主義の教典として利用されるにいたった。

第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) は教育勅語が神聖化されている点を特に問題視し、文部省1946年(昭和21年)に奉読(朗読)と神聖的な取り扱いを行わないこととした。その後1948年(昭和23年)6月19日に、衆議院では「教育勅語等排除に関する決議」が、参議院では「教育勅語等の失効確認に関する決議」が、それぞれ決議されて教育勅語は排除・失効が確認された。

教育勅語はその後、軍人の規律を説く軍人勅諭と同列におくことで軍事教育や軍国主義をほうふつとさせる傾向があるとされ、戦後日本においては公の場で教育勅語を聞くことはほぼ皆無となっているが、時折、何らかの形で注目されて教育基本法の存在もふまえた議論が起こるときもある。

文部省・文部科学省中央教育審議会(中教審)、市区町村における教育関連の研究会・勉強会などでは、教育勅語が勅令ではなく法令としての性質を持たなかったこと、教育基本法が教育勅語を形骸化するものとなった一方で法令であること、教育勅語が過去に国会で排除・失効確認されていること、教育勅語の内容は道徳的な記述がなされているに過ぎない、等々をふまえ、教育基本法を論じる際には比較・参考の資料とされることも多く、一部では部分的な復活についての話題が出ることもあり、見直され、評価されることもある。教育勅語を教育理念の中に取り入れ、生徒に暗唱させている学校もある南港さくら幼稚園公式HPより。。

文法誤用説

教育勅語に文法の誤用があるという説がある。すなわち、原文「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉ジ」部分の「アレバ」は、条件節を導くための仮定条件でなくてはならず、中古文法では「未然形+バ」、つまり「アラバ」が正しく、「アレバ」は誤用である、とする説である。大正初期に中学生だった大宅壮一が国語の授業中に教育勅語の誤用説を主張したところ教師に諭された、と後に回想している大宅壮一『実録・天皇記』鱒書房、1952年、はしがき(大和書房〈だいわ文庫〉、2007年、343頁、資料一)。。

これに対して、「アレバ」を誤用でないとする説もある。順接の仮定条件を表す「未然形+バ」の代わりに「已然形+バ」を用いる用法は中世にあらわれ、室町・江戸時代を通じて用例が増え、明治には「已然形+バ」で仮定条件を表すことがあるという八木(2001)、197-198頁。。

脚注

参考文献

  • 大原康男 『教育勅語 教育に関する勅語』 ライフ社、1996年10月、ISBN 4-89730-034-7。
  • 佐藤秀夫 『教育の文化史4 現代の視座』 阿吽社、2005年11月、ISBN 978-4900590830。
  • 清水馨八郎 『「教育勅語」のすすめ 教育荒廃を救う道』 日新報道、2000年1月、ISBN 4-8174-0457-4。
  • 杉浦重剛著、所功解説 『教育勅語 昭和天皇の教科書』 勉誠出版、2002年10月、ISBN 4-585-10365-1。
  • 八木公生 『天皇と日本の近代(下)「教育勅語」の思想』 講談社〈講談社現代新書〉1535、2001年1月、ISBN 4-06-149535-6。
  • 海後宗臣『教育勅語成立史の研究』東京大学出版会, 1965年 のち『同著作集. 第10巻』東京書籍, 1981年

関連項目

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外部リンク




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月15日 (日) 08:54。












     

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最終更新:2009年03月10日 22:52
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