旅順攻囲戦

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旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん, Siege of Port Arthur, 1904年8月19日 - 1905年1月1日)は、日露戦争における戦闘の一つ。ロシア帝国が太平洋艦隊の母港としていた旅順を守る要塞を、日本軍が攻略した。

背景

日本が日露戦争に勝利するためには、朝鮮半島周辺海域の制海権を抑えることが必須であった。旅順を母港とするロシア海軍の旅順艦隊(第1太平洋艦隊)と、開戦時にバルト海にあったバルチック艦隊(第2・第3太平洋艦隊)とを合わせれば、日本海軍の倍近い戦力があった。もし両艦隊の合流を許せば、制海権はロシア側に奪われ、日本本土と朝鮮半島間の補給路は絶たれ、満州での戦争継続は絶望的になる。そのため日本軍は、バルチック艦隊が極東に到着する前に旅順艦隊を撃滅する必要があると想定していた。

開戦後、日本側からの何度にもわたる挑発にも乗らず、旅順艦隊は港を出ることなく、戦力は保全され続けた。日本海軍は旅順港の封鎖を狙って旅順港閉塞作戦を実施し、三度に渡り計16隻の船を旅順港口で自沈させたが、悪天候と陸上からの砲撃などにより不成功に終わった。以後、旅順艦隊の行動の自由を制限するために日本海軍は旅順港口に張り付かざるを得なくなり、陸上から旅順を攻撃する必要性が増していくことになる。この直接封鎖中、日本海軍の保有する六隻の戦艦のうち二隻を触雷により一挙に失う深刻な事態も生じた。

これを受けて、日露開戦当初から陸軍の旅順参戦を海軍は頑なに拒み続けてきた方針を撤回せざるを得なくなり、艦隊を旅順港より追い出すか砲撃によって壊滅させるよう7月12日に海軍軍令部長から参謀総長に要請をし、大本営も陸軍に対して旅順攻撃を急ぐよう7月31日に通達する。

ロシアは、1898年の遼東半島租借以降、旅順艦隊を守るため、旅順港を囲む山々に本格的な永久要塞を建設していた。日本陸軍(満州軍)は、旅順要塞は包囲するだけで充分であると考えていたが、もともと満州の平野での決戦を想定して編成され、6月6日大連へ上陸し進軍していた第3軍(満州軍に所属)に旅順攻略を急遽命じることになった。第3軍には、第1師団第9師団第11師団の3個師団が配属され、司令官には日清戦争で旅順攻略に参加した経歴があった乃木希典大将が、参謀長には砲術の専門家である伊地知幸介少将が任命された。

旅順半島に侵入した第三軍が対峙したのは、日清戦争時からは想像もつかない敵だった。要塞構築に長けるロシア軍は旅順を守るべく近代要塞を築城しつつあった。また、世界陸戦史上初とされる機関砲の大量装備をしていた。

経過

前哨戦

第三軍は、7月に入り、ロシア軍の前進陣地の攻撃を開始。8月には死傷者1,000人以上を出したが、旅順要塞の包囲が完成した。海軍はこれを受けて黒井悌次郎海軍中佐率いる海軍陸戦重砲隊による旅順港の砲撃を開始。旅順要塞への攻撃が濃厚になった8月、ロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)司令ヴィトゲフトは砲撃による艦隊の損傷を避けるため、ウラジオストクへ回航しようと旅順港を出た。だが旅順艦隊は日本の連合艦隊と黄海海戦で交戦して損害を受け、回航を諦めて旅順港へ引き返した(ただし一部損傷艦船はドイツの租借地であった山東半島に逃げ込んだが、同盟国であったドイツはこれら艦船の武装解除を行なった)。こうして旅順艦隊はバルチック艦隊の到着まで旅順要塞による艦隊の保全を決めた。このため、日本軍の旅順攻撃はさらに不可避のものとなった。

第一回総攻撃

8月19日、日本第三軍は、旅順要塞に10万発以上の前例の無い大砲撃を加えたのち、要塞東北部への歩兵による肉弾突撃を開始する(第一次旅順総攻撃)。しかし、砲撃が山砲・野砲などの小口径のものに限られたため、砲撃による要塞の破壊はほとんどなく、突撃する日本兵に容赦なく機関銃が浴びせられた。それでも8月24日には東鶏冠山第二保塁を確保。しかしロシア軍の反撃にあい撃退されてしまう。その後、一部の保塁を占拠するが、砲弾が尽き、死傷者の数が激増したため攻撃を中止する。この攻撃で日本軍は戦死者5,000、負傷者10,000の大損害を受けた。これはほぼ一個師団分の兵力である。

乃木らは、突撃による攻撃では要塞陥落はできないと判断。要塞前面ぎりぎりまで塹壕を掘り進んで進撃路を確保する戦法に切り替える(正攻法併用による攻撃計画の策定)。9月には第二回総攻撃の前哨戦を行い、203高地以外の戦略目標の占領に成功する。

第二回総攻撃

第一回総攻撃失敗後、大本営は、有坂砲で有名な有坂成章少佐の発案で、日本の主要な港に配備していた二八センチ榴弾砲(当時は二八サンチ砲と呼ばれた)を送り込む。通常はコンクリートで砲架(砲の台座のこと)を固定しているため移動が難しく、まして戦地に設置するのは困難とされていたが、工兵の努力によって克服している。10月26日、二八センチ砲も参加し、第二回旅順総攻撃を開始。その前に旅順港の一部が見渡せる観測点を確保していたので(南山披山の占領)、旅順港に対する砲撃も行い旅順艦隊に損害を与える。しかし、要塞の主要な防衛線を突破するには至らず、要塞攻略は失敗。戦死者1,000を数えた。

第三回総攻撃

10月バルチック艦隊がウラジオストックに向かったという報を受け、陸軍は海軍から矢のような催促を受けるようになる。陸軍は内地に残っていた最後の現役兵師団の精鋭、第7師団を投入して第三軍に第三回旅順総攻撃を指令した(11月26日)。11月28日、有志志願による白襷隊という突撃隊を作って、中村覚少将の指揮のもとに攻撃を行う。夜間だった為敵味方を識別するために隊員全員が白襷を着用し、決死の突入を試みるが、山の頂上からライトを照らされ、その白襷が反射し要塞を突破できなかった。

当初の攻撃計画が頓挫したところで、第三軍は目標を要塞正面から203高地に変更した。この後、ロシア軍と日本軍は203高地を巡って何度も奪い奪われを繰り返した。11月29日、戦況の不振を懸念した満州軍総参謀長児玉源太郎大将が旅順方面へ南下する。途上、203高地陥落の報を受けたが後に奪還されたことを知るや児玉は大山に電報を打ち、北方の沙河戦線より歩兵第17連隊を南下させるように要請する。

日本軍は12月1日から3日間を攻撃準備にあて、攻撃部隊の整理や大砲の陣地変換を行なった。12月4日早朝から203高地に猛撃を加え、203高地の2つある頂上の東北角、西南角を1時間半ほどで占領、そして山頂に機関銃を配備してロシア軍の逆襲を撃退し、第三回攻撃は成功裏に終了した。戦死者は約5,500。ロシア太平洋艦隊の全滅を確認した児玉は煙台にある満州軍司令部へと戻った。

ロシア軍の降伏

12月15日、ロシア軍内の人望高かったロマン・コンドラチェンコ少将が戦死したことでロシア軍の士気は非常に落ち込み、首脳部においても抗戦派は勢いを失う。12月31日未明より日本軍は重要拠点である望台への攻撃を開始、1905年1月1日にロシア軍は降伏を申し入れた。1月5日、旅順要塞司令官アナトーリイ・ステッセリと乃木は旅順近郊の水師営で会見し、互いの武勇や防備を称えあい、ステッセリは乃木の2人の息子の戦死を悼んだ。この様子は「水師営の会見」として広く歌われた。

影響

thumb|right|240px|戦艦[[レトウィザンの被害状況]] 旅順要塞の攻略によって旅順艦隊は撃滅された。

日本軍には本格的な攻城戦の経験が少なく、しかも乃木と参謀であった伊地知幸介は、野戦向きで攻城戦は不慣れであった。要塞攻略に必要な坑道戦の教範の欠如に関しては、上原勇作少将が戦前工兵監として整備しようとしてできなかったため、この戦いの苦戦があると思われ、上原少将はこの反省から明治39年坑道教範を作成し、小倉に駐屯していた工兵隊にてはじめての坑道戦が敵味方に分かれて実施されている。

軽量化が図られた上に毎分500連発と実用性の高い機関銃であるマキシム機関銃は、この戦闘で世界で初めて本格的に使用され威力を発揮した。機関銃の威力の前に歩兵の正面突撃は無力であり膨大な屍を築くだけである事が証明されたのである。この状況を打開する攻撃法はすぐには見出せず、それがこの戦闘における試行錯誤となって現れたと言える。

当時の日露両軍は世界的に見ても例外的に機関銃を大量配備していた。同時代のヨーロッパ各国はごく少数配備していただけで運用法も確立されていなかった。この戦闘における機関銃の威力は各国観戦武官によって本国に報告されたが、辺境の特殊事例としてほとんど黙殺された。ヨーロッパ各国がこの事実に気づくのは第一次世界大戦が開始されてからの事となる。

参加兵力

日本軍

  • 第3軍 - 司令官:乃木希典大将、参謀長:伊地知幸介少将
    • 第1師団東京) - 師団長:大将伏見宮貞愛親王
      • 歩兵第1旅団(歩兵第1、第15連隊)、歩兵第2旅団(歩兵第2、第3連隊)、騎兵第1連隊、野戦砲兵第1連隊、工兵第1連隊
    • 第9師団金沢) - 師団長:大島久直中将
      • 歩兵第6旅団(歩兵第7、第35連隊)、歩兵第18旅団(歩兵第19、第36連隊)、騎兵第9連隊、野戦砲兵第9連隊、工兵第9連隊
    • 第11師団善通寺) - 師団長:土屋光春中将
      • 歩兵第10旅団(歩兵第22、第44連隊)、歩兵第22旅団(歩兵第12、第43連隊)、騎兵第11連隊、野戦砲兵第11連隊、工兵第11連隊
    • (1904/11~)第7師団旭川) - 師団長:大迫尚敏中将
      • 歩兵第13旅団(歩兵第25、第26連隊)、歩兵第14旅団(歩兵第27、第28連隊)、騎兵第7連隊、野戦砲兵第7連隊、工兵第7連隊
    • 後備歩兵第1旅団
      • 後備歩兵第1、第15、第16連隊
    • 後備歩兵第4旅団
      • 後備歩兵第8、第9、第38連隊
    • 野戦砲兵第2旅団
      • 野戦砲兵第16、第17、第18連隊
    • 攻城砲兵司令部
      • 野戦重砲兵連隊、徒歩砲兵第1、第2、第3連隊、徒歩砲兵第1独立大隊

ロシア軍

旅順攻囲戦に関する論点

203高地

203高地は、旅順攻囲戦において重要な鍵を握る場所だったとされる。この理由として、旅順要塞外から旅順港内のロシア艦艇を砲撃する場合の観測所として203高地が最適な場所であり、203高地が攻略されたことで旅順艦隊は砲撃によって壊滅し、旅順要塞も存在意義を失って降伏したのだとされる。203高地の攻略を陸軍に進言したのは海軍の秋山真之少佐だったともいわれる十一月二十七日、…(省略)…コノ際思切ツテ二〇三高地ニ向ヒ全力ヲココニ専注セラルルコト至極必要ト在候 (海軍軍令部編纂『極秘・明治37、38年海戦史』中の書簡)。山本権兵衛・山県有朋らの大本営も203高地に執着11月14日御前会議において203高地奪取の御裁可を得た旨を満州軍に対し伝達。11月19日乃木宛親書で203高地占領を要請。11月22日203高地占領を望む勅語を乃木に対し伝達。した。

他方、多くの見解は観測所設置は203高地以外でも可能であったとする説である。第1回総攻撃以前の7月30日に日本軍が占領した大孤山でも着弾観測は可能であり、7月以降の大孤山を観測所とする砲撃に耐えかねたために、旅順艦隊は旅順港を出て黄海海戦に至ったという事実から、正当な見方といえる。乃木の第3軍が所属する満州軍総司令部も最後まで203高地攻撃には徹底して反対満州軍総参謀長の児玉源太郎も、満州軍作戦部長の松川敏胤も強く反対した。した。日露開戦後の1904年6月に現地総司令部として満州軍が設置されたが、大本営も指令を出し続けたため、陸軍の指揮系統が錯綜していたことが、203高地攻略の位置付けからもわかる。

12月6日の203高地占領から1月1日の要塞降伏までは1か月弱が開いており、203高地の占領それ自体がロシア軍降伏の主要因とは言えない。要塞自体の降伏は、ロシア軍が予備兵力を消耗し切ったことにより戦線を支えられなくなったためといわれる。この点で203高地は、ロシア軍の他の陣地から距離があるため、予備兵力の消耗を誘う上では最適の戦場であった別宮暖朗『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦―乃木司令部は無能ではなかった』。しかし、現実には要塞司令官ステッセルは戦力に十分な余力がありながら降伏時、兵員1万人、砲弾8万発、銃弾200万発が残っていたとする資料があり、他の資料も概ねこの前後の数を差している。スミノルフ中将、ゴルバトフスキー少将ら首脳陣の多くが徹底抗戦を主張したが、ステッセルはほぼ独断で降服を決定したため、戦後厳しく糾弾された。(大江志乃夫「世界史としての日露戦争」ほか)降服したことを理由に軍法会議で死刑を宣告されているし、そもそも203高地の戦略的目的は、あくまで「旅順艦隊の殲滅」であり要塞陥落ではなかったことから、降服までの期間で203高地の戦略的軽重を推し量ることはできない。

満州軍司令部が旅順攻略につき要塞東北正面が主目標であったことから、満州軍に所属する乃木の第3軍は第1回総攻撃では203高地を主目標とはしなかった(大本営からの指令も、海軍からの進言・要請もなかった)。しかしロシア軍は3線からなる縦深性防御陣地を構築しており、このとき仮に203高地を攻撃・占領できたとしていても、十字砲火を受けこれを維持することは困難であったという説もある。事実、第2回総攻撃でも1度は大迫尚敏中将らが203高地を占拠したが奪い返されているし、第3回総攻撃では壮烈な争奪戦の結果7回も奪い返されているもちろん、より多くの火力・兵力を203高地に集中させれば攻防回数はより少かっただろうが。。さらに、2月6日の日露開戦当初から陸軍の旅順参戦を拒み続けた海軍は、7月12日に海軍軍令部長から参謀総長に対して旅順参戦を申し入れ、7月31日の満州軍総司令部宛の大本営通達で陸軍にもようやく旅順参戦の指令があり、乃木第3軍の第1回総攻撃が8月19日と遅れた。

このあたりが旅順攻囲戦における乃木軍司令部の評価を分かれさせているところである。もしも、第1回総攻撃で203高地を主目標とし、第3次攻撃で行ったような攻撃方法を最初から実施していたら、1回の攻撃としてはより多くの損害を受けていたと指摘されている。しかし、第2回総攻撃以降にロシア軍が行った203高地の要塞化・増兵による被害拡大はなかったし、戦略目的(旅順艦隊殲滅)を果たした後は急いて無理攻めをする必要もなくなる。 第一回総攻撃で203高地に兵力を密集させた場合、より多くの将卒が機関銃の前に斃れたであろうとの指摘がある。また、旅順艦隊を殲滅しても、要塞を攻略できなければ、第三軍が北上するのは難しく、やはり正攻法による要塞攻略を行ったと思われる。

旅順攻略については、各論として陸軍、特に乃木第3軍の分析が多いが、海軍の失敗を陸軍が挽回したというのが総論として近年定着している。

乃木希典

旅順攻囲戦で日本軍が膨大な膨大とはいえ、児玉源太郎が指揮した奉天会戦の死傷者に比べれば圧倒的に少ないのだが。戦死者を出したのは第3軍司令官乃木希典と参謀長伊地知幸介の無為無策が原因であるとされる。この説は、日露戦争中からたびたび新聞等にも取り上げられ、広く世間の知るところであったが、やがて乃木がその徳行から偉人として認識されるようになり、また、旧陸軍の精神論を語る上で重要な存在となったこともあり、乃木に対する非難は次第に語られなくなった。

司馬の乃木無能論を非難する乃木擁護論者の論拠のほとんどは、実は多くが『坂の上の雲』や『殉死』の中で既に司馬が述たものである。(坂の上の雲(四)「旅順」「旅順総攻撃」(五)「二〇三高地」「水師営」ほか)。明治当時から現代にいたる乃木無能論の主な根拠は以下の通りである。

  • 単純な正面攻撃を繰り返したといわれること。上級指令部の指令による第1次総攻撃が失敗した後は、乃木は塹壕戦を活用する正攻法を主戦法に切り替えたことが『機密日露戦史』に記載がある。しかし、そもそも大量の機関砲(毎分500発のマキシム機関銃)を装備した要塞に対して白兵戦を挑むこと自体尋常でない。大本営も、この時点では西方からの強襲策をとるという程度の認識しか持っていなかった(『機密日露戦史』)が、第1次総攻撃の損害に愕然とした。また、白襷隊の特攻にみられるよう、第2回総攻撃以後も正面攻撃・強襲を続けており、特に第3回総攻撃時の正面攻撃については大本営も「既に鉄壁下に二万余人を埋めて見れば、何とか攻撃の方法を考えそうなものである」(機密・二一六)とあからさまな疑問を投げかけた。しかし、一方で煙台(満州)総司令部は第三軍の方針に概ね賛同していたことが11月9日の電報から読みとれる。現地軍と大本営の間の意見相違が窺われる。(『機密日露戦史』)。
  • 兵力の逐次投入、分散という禁忌を繰り返したこと。特に痛恨だったのは、第2回総攻撃において203高地の一部を制圧した時で、この時、「1個師団ほどの戦力を注入していれば、203高地は陥落した」とする説も多い。しかし、乃木司令部は援軍を小出しに送っては機関砲の標的となり、やがて撤退した。この後、以前から203高地を危惧していたステッセルが、203高地の防御力を強化し、世界陸戦史に残る損害を産んだ203高地攻防戦に至った。第2回総攻撃において、第3軍が203高地を重点攻撃目標としていたという説が疑問視されるのはこのためで、攻撃目標の一つにしていたのは間違いないが、重要性をどの程度認識していたかは疑問が残る。
  • 総攻撃の情報がロシア側に漏れていて、常に万全の迎撃を許したこと。『機密日露戦史』では、この件に対する大本営への応答で、機材の準備期間が丁度1ヶ月に当たる点、南山の攻略日が26日だったこと、偶数で割り切れることを兵卒は喜ぶことを理由に挙げている。攻撃日が予測される可能性については、抑も要塞は常に準備して用心しているため、他の日に変えても不意を突くことはできないと述べている。ロシア側もなぜか1ヶ月おきに総攻撃が仕掛けられることを知っており、例えばステッセルは「20日頃から偵察を出せば、必ず大攻勢の動きを確認できた。」と述べている。これは、当時の物資補充では大規模な攻勢に出ると、弾薬などの補充が一か月ほどかかったことも理由である(宝島社『激闘!日露戦争』)。
  • 旅順攻略の目的は、ロシア旅順艦隊を陸上からの砲撃で壊滅させることであったにも関わらず、要塞本体の攻略に固執し、無駄な損害を出したこと。もっとも当初、大本営から第三軍に与えられた目的は「旅順要塞を速やかに攻略すること」(『日露陸戦新史』)であった。しかし、のちに大本営が203高地の重要性を認識し、目標転換を求めたにもかかわらず、その手当てが不十分すぎたため、参謀次長・長岡外史は第7師団(大迫尚敏師団長)を第3軍に充てる条件として、203高地へ主攻変更するよう要求したほどであった。一方、後年の陸大における検討で、大本営の下命方針に不手際があったことも指摘されている(『機密日露戦史』)。第3軍参謀の中でも不満が相次ぎ、第2回総攻撃前の9月5日参謀長会議においては、第1師団参謀長・星野金吾大佐から「攻撃の目的は要塞の奪取ではなく、港内のロシア艦隊の壊滅のはずである。」と戦略方針を再確認する発言があった。(司馬遼太郎『坂の上の雲』、波多野勝『井口省吾伝』ほか)。
  • 初期の段階ではロシア軍は203高地の重要性を認識しておらず防備は比較的手薄であった。他の拠点に比べて簡単に占領できたにもかかわらず、兵力を集中させずこれについては要塞司令官のスミルノフも「日本軍が何故203高地に攻撃重点を指向しないのか、包囲された当時からいつも疑問に思っていた。」と述懐している。(I・I・ロストーノフ『ソ連から見た日露戦争』)、ロシア軍が203高地の重要性を認識し要塞化したため、多数の死傷者を出したこと。
  • 旅順を視察という名目で訪れた児玉源太郎が現場指揮を取り、目標を203高地に変更し、作戦変更を行ったところ、4日後に203高地の奪取に成功したと伝えられること。
  • 戦後、乃木自身がみずからの不手際を認めるがごとき態度を取ったこと。

一方で、乃木を擁護する意見も根強い。要塞構築に長じるロシアが旅順要塞を本格的な近代要塞として構築していたのに対して、日本軍には近代要塞攻略のマニュアルはなく、急遽、欧州から教本を取り寄せ翻訳していた。旅順要塞を甘く見ていたのは第3軍だけではなく大本営も満州軍も海軍も同様である。日露開戦以来陸軍の旅順参戦をさせず、ようやく7月に第3軍に対して第1回総攻撃を急遽しかも早期に実施するよう指示したほか、弾薬の備蓄量を日清戦争を基準に計算したため、第3軍のみならず全軍で慢性的な火力不足、特に砲弾不足に悩まされていた大本営は「先ず旅順を攻略し、雨期前には鳳凰城の線に進出する」というようなことを述べており、旅順要塞の防御力を実際より軽視しており、攻城準備を省略して、西方から奇襲して陥落させるという方針であった。一方で乃木は大本営参謀に対し「攻城計画の順序を省略し、奇策を用い又は力攻を勉むる如きは全局の利害に鑑み、責任を以て決行するを得ず」と述べ、攻城準備を行った上で第1回総攻撃を行ったが、おびただしい死傷者を出す結果となった。(『日露陸戦新史』、『機密日露戦史』)。。

第3軍は第1回総攻撃は横隊突撃戦術を用い大損害を被ったが、第2回総攻撃以降は塹壕には塹壕で対抗する、という正攻法に作戦を変更している。日本軍の損害のみが大きかったのは第1回総攻撃だけであり、第2回・第3回総攻撃での日本軍の損害はロシア軍と同等もしくは少数である203高地攻防戦を第3回総攻撃に含めると、第3回がもっとも死傷者が多い。。また、戦車も偵察機も存在しなかったこの時代は防御側が有利であり、要塞攻略に人的損害が伴うのは避けられない。実際、第一次世界大戦塹壕戦で各国の軍隊が受けた損害無論、戦車や火炎放射機の出現など、要塞や塹壕を突破するための技術が躍進した第一次世界大戦と単純比較できないのは言うまでもない。と比較すれば、旅順攻囲戦の損害は軽いともいえる。

第3軍では多くの死傷者を出したにもかかわらず、最後まで指揮の乱れや士気の低下が見られなかったという現場では第1回総攻撃後、自傷兵(自らを傷つけて戦線を退こうとする兵)が多発し、第2回総攻撃前の9月25日付けで自傷兵を後方へ送還することを一事見合わせるよう通達が出ている。(鶴田禎次郎『日露戦役従軍日誌』)。また乃木がみずから失策を悔やみ、それに対する非難を甘受したことは、乃木の徳といってよいだろう。

司馬の指摘では、乃木や第3軍参謀士官について、その軍事的能力以前に、旅順要塞が堅牢な要塞であることを、認識する前にもした後にも要塞についてほとんど何も学ばなかったことを挙げている。白襷隊前述。中村覚少将率いる志願兵3105人よりなる奇襲部隊。保塁を奪取した後、旅順市街に突入するという荒唐無稽な作戦をもって突撃したが、直ちに発見され1時間でほぼ壊滅。中村少将も重傷を負って後送された。この作戦が実施された背景については諸説あるが、いずれにしても乃木は承認した。(司馬遼太郎『坂の上の雲』ほか)の惨戦のような明らかな誤断もあり、評価が一定しない一因となっている。

さらに、陸軍としての第3軍を指揮した乃木の能力云々のほかに、ぎりぎりまで陸軍の旅順参戦を拒み続け、陸海軍の共同和合を軽視無視した海軍の方針、乃木第3軍参戦(第1回総攻撃)までの旅順攻略における海軍の作戦失敗の連続2月9日対地砲撃敗退、2月24日第1回港口閉塞作戦失敗、3月27日第2回港口閉塞作戦失敗、5月3日第3回港口閉塞作戦失敗といった、海軍の不手際旅順における陸軍参戦を海軍は頑なに拒んだ。(島貫重節『戦略日露戦争』ほか)日露開戦前年にようやく軍令機関として陸軍と海軍が並列対等となったことも影響していると見る向きも多い。も無視できない。また、日露開戦後に現地陸軍の総司令部として設置された満州軍の方針と、大本営の方針が異なり、それぞれが乃木第3軍に指令通達を出していたという軍令上の構造的な問題にも乃木は悩まされた。

児玉源太郎

旅順攻囲戦においては児玉源太郎満州軍総参謀長の功績が語られることが多い。日本軍が203高地を攻略したのは児玉が旅順に到着した4日後であった。これを、児玉の功績によってわずか4日間で攻略されたとみるか、既に数次に渡る第3軍の攻撃でロシア軍は疲弊しきっていたロシア軍の疲弊度については見方が別れる。戦力としては203高地陥落時にもなお2万の兵士が健在で銃弾・砲弾も豊富にあった。一方で、野菜が不足しはじめたため壊血病がまん延し、士気が低下したことも確かである。点や、乃木第3軍の試行錯誤を経た後だった点などから児玉の功績や関与をどの程度と評価するかは、見方が分かれるところであろう。また、日露開戦当初から7月まで陸軍の旅順参戦を頑なに拒んだ海軍の意向を、現地陸軍の総司令部機関である満州軍総参謀長としての立場にも関わらず妥協して受け入れたという負の評価も存在する。

坂の上の雲では、第3回総攻撃に際し、児玉は大山巌の訓令を受けて乃木から第3軍の指揮権を委譲させ、自ら作戦を指揮したと著述されている。第3軍は、児玉源太郎が来る前に203高地を主目標とする方針に転換していたが、第3回総攻撃の大胆な攻城砲起用など、なんらかの形で児玉の関与があったとする見方が根強い。もっとも機関銃が本格的に大量使用された陸戦史上初の攻防であったことから、毎分500連発のマキシム機関銃の前に乃木も児玉も有効な対応策が無かったという冷静な見方も少なくない。

東郷平八郎

乃木と共に日露戦争後に英雄化・神格化された東郷平八郎については、日本海海戦の輝かしい戦果の影響からか、旅順攻囲戦における分析および評価が、乃木に比して圧倒的に少ない。日露開戦直後の対地砲撃作戦敗退、3回に及ぶ港口閉塞作戦失敗、敗退ではないが詰めが甘く失敗と評される黄海海戦、海軍の作戦全般を指揮した東郷平八郎も旅順攻囲戦においては目立った戦績はない。陸軍の乃木の評価と共に、旅順攻囲戦での海軍の東郷の評価も必要という声も少なからず存在壊滅させた敵艦についても、海軍の東郷よりも陸軍の乃木の方が質的にも量的にも勝っていた(佐藤晃『太平洋に消えた勝機』)という評価も存在する。する。また評価はどうあれ、旅順要塞に乃木(陸軍)も東郷(海軍)も苦しめられたことは史実として残る。

逸話

  • ロシア軍の敗因として、ビタミンC不足が原因の壊血病による戦意喪失が一因として挙げられている。旅順要塞内の備蓄食料には大豆などの穀物類が多く、野菜類は少なかった。大豆を水に漬けて発芽させればビタミン豊富なもやしができるが、ロシアにはもやしを作って食べる習慣が無かった。ロシア軍に一人でも栄養学の知識が豊富な人物がいれば、もやしを作って食べることにより、兵士はさらに健闘しただろうと言われる。一方、日本陸軍はビタミンB1欠乏による脚気によって、全軍で患者25万人、死者2万人余を出してこちらも苦しんでいた。これについては軍医部長だった森林太郎(森鴎外)の責任が大きいのは有名である(高木兼寛の食事改善策を採用した海軍の脚気患者はわずか87名)ただし森林太郎は肉や野菜の十分に補給するように提言しており、それが実行できれば結果として脚気の患者は出なかったはずである。高木兼寛の麦飯食は、あくまで副食が十分に無い状態において、主食のみでビタミンB1を摂取するものでしかない。。いずれにしても病人軍隊という意味では旅順の日露双方は同様であった。
  • 与謝野晶子は、旅順包囲軍の中に在る弟籌三郎を嘆く内容の『君死にたまふことなかれ』を1904年9月に『明星』で発表した。しかし実際には弟は第4師団所属であり、旅順攻囲戦には参加していない。

脚注

参考文献

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  • 司馬遼太郎坂の上の雲』全8巻(文春文庫、1999年)
  • 児島襄『日露戦争』全8巻(文春文庫、1994年)
  • 別宮暖朗『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦―乃木司令部は無能ではなかった』(2004年) ISBN 4890631690
  • ジョン・エリス『機関銃の社会史』(平凡社、1993年)
  • 入江春行『与謝野晶子とその時代』(新日本出版社、2003年)
  • 日本博学倶楽部『日露戦争・あの人の「その後」』(PHP文庫、2004年)
  • 沼田多稼蔵『日露陸戦新史』(芙蓉書房、2004年) ISBN 4829503467
  • 谷寿夫『機密日露戦史』(原書房、2004年) ISBN 4562037709



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月13日 (土) 09:35。












     

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最終更新:2008年09月14日 00:32
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