前半は日本海海戦参照
バルチック艦隊は33,340キロもの長大な距離を1904年10月15日から1905年5月27日まで半年以上航海を続けた。初めての東洋の海への不安、旅順艦隊を撃破した日本海軍への恐れは水兵の間に潜在的にまん延していた。カムラン湾出航後はウラジオストクまで寄港できる港がなく、またウラジオストクでも補給は期待できないことから、各艦は石炭を始め大量の補給物質を積み込んでいた。このためただでさえ実際の排水量が設計上の排水量をかなり超過しているロシア戦艦は更に排水量が増えてしまい、舷側装甲帯の水線上高さの減少や、復元力の低下につながり、日本海海戦における各戦艦のあっけない沈没の大きな要因となった。
長期の航海では船底についた貝やフジツボが船足を落とす。当時の軍艦は2か月に1回程度は船底の貝を落としていた。これは本格的にはドックに入らなければできない作業であったから、長い航海の間にバルチック艦隊は徐々に性能を落としていったといえる。
また、燃料である石炭も、無煙炭の確保に苦労した結果、艦自体のスピードの低下や、もうもうと吐く黒煙によって艦隊の位置を知らせてしまう失態を演じてしまった。
バルチック艦隊の上級将校の多くは自艦隊の「強い」という世界的評判に自信を持っており、日本海に現れるだけで日本艦隊は恐れて攻撃を控えるだろうという期待をしていた者すらいた。一方で、当時のロシア社会は、上級士官である貴族が水兵である庶民を支配するという構造的問題を抱えていた。上官と兵士ではなく、主人と奴隷のような関係の軍隊は、時に対立や非効率を産んだ。水兵の中にもロシア革命にも繋がる自由思想の芽が育ち始めた時期で、無能な高級士官への反発が戦う意義への疑問を産み、士気を削いでいた。結果、サボタージュ行為が頻繁に見られた。
ロシア海軍の水兵の内、優秀な者は太平洋艦隊と黒海艦隊に集められており、バルチック艦隊の水兵の質は最も低かった。航海前に多くの新水兵を乗せたが、マダガスカルでの長期滞在中など、十分に戦闘訓練を行ったものの目的が明かでなく「訓練のための訓練」となってしまって実戦に有効でなかった。
バルチック艦隊主力のボロジノ級戦艦の中には、完工しておらず工員を乗せたまま出港した艦もあった。ロシア艦は家具調度品や石炭などの可燃物を多く積んでいた。当時の艦艇は木造部分が多く、浸水よりも火災で戦闘不能になることが多かった<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。
バルチック艦隊司令部は長い航海の終わりに疲れきった状態での戦闘を避けるべく、終始、守勢の行動をとった。また、ウラジオストクに一目散に逃げ込んで、十分な休養の後、日本艦隊と対峙しようという考えも、決戦の勢いを鈍らせた。結果、自艦隊に有利な状況での先制攻撃の決心を欠き、チャンスを生かせなかった。ロジェストヴェンスキー提督が規律を重んじすぎる性格で、各艦の勝手な発砲に過敏なほど嫌悪感を示した影響も大きい<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。
後年、東郷は緒戦でロシア艦隊の隊形の不備を指摘して「ロシアの艦隊が小短縦陣(2列縦列)で来たのが間違いの元だったのさ、力の弱い第二戦艦隊がこちら側にいたから、敵が展開を終えるまでに散々これを傷めた。あのときもし、単縦陣で来られたらああは易々とならなかったろう」と述べている。木村勲著 『日本海海戦とメディア』 講談社 2006年5月10日第1刷発行 ISBN 4-06-258362-3
海戦当日の気象は、「天気晴朗ナレドモ浪高シ」とあるように、風が強く波が高く、東郷らの回り込みによって風下に立たされたバルチック艦隊は、向かい風のために砲撃の命中率がさらに低くなった。喫水線を高く設計したロシアの艦艇は、波が高いと無防備の喫水線以下をさらけ出すことになり、魚雷1発だけで撃沈された。さらにこの構造は波高の時は転覆しやすかった<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。
日英同盟の恩恵として、ロシアの同盟国フランスは事あるごとに英国の干渉を受けたため、局外中立を堅持せざるを得なくなり、バルチック艦隊はフランス植民地の港湾での本格的支援を受けることができなかった。一方日本はイギリスからバルチック艦隊の行動に関する情報を随時入手することができた。さらに、イギリス製の新型射撃盤、最新型の三六式無線電信機など、当時最新の軍事技術を利用することができた<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。
連合艦隊司令長官東郷平八郎大将は、指揮能力、統率能力も秀でていた。東郷大将は、死を覚悟した超最前線で、敵の動向に瞬時に対応する陣頭指揮を行いつつ、幕僚を戦艦三笠で最も安全な場所に移動させ、自らの戦死の後の指揮をも保障するほどの繊細な指揮をとった。東郷は旅順封鎖の期間中も演習を行い、十分に艦隊の練度を挙げていた。直前の黄海海戦などの戦闘経験と、その勝利によって士気が高かった。また、黄海海戦の教訓を十分に活かした。複数の艦を同時に自由に反転させるなどの様々な艦隊運動を思いのままに行うことが出来た。このため、逃げ回るバルチック艦隊の風上に常に回りこみ、見事な艦隊を維持しながら、猛烈な砲撃を加え続けることが出来た。当時、このような複雑な艦隊運動を自由自在に行うことが出来るのは、イギリス海軍と日本海軍だけであると言われた。
連合艦隊司令部は第1艦隊参謀秋山真之、第2艦隊参謀佐藤鉄太郎という俊才を参謀に擁し、上層部、参謀集団もその意見をよく重用しつつ、組織的、有機的に、最善の判断を行うよう常に努力した。秋山参謀は「智謀湧くがごとし」と絶賛されるほどの天才だった。また、各艦隊司令官・各艦艦長は必要に応じて独自の判断で行動する高い能力を持ち、高速巡洋艦からなる第二艦隊には猛将といわれた上村将軍が任命されるなど適材が適所に配属されていた。バルチック艦隊の旗艦の急転回に対し、東郷司令長官が判断を誤ったため、第1艦隊はバルチック艦隊を逃がしてしまう。この時、佐藤参謀がその判断が誤りであることを見抜き、上村提督率いる第2艦隊が、その高速性を生かしてバルチック艦隊を猛追撃し、戦艦相手に至近距離での砲撃戦を行い、第1艦隊の方向へバルチック艦隊を追い込み、結果的に挟み撃ちに持ち込んだことが海戦の完全勝利を確定させた<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。
連合艦隊は丁字戦法を採用した。実際の進展は次のようなものだった。
当時の海戦の常識から見れば、敵前での回頭(しかも2分あまりを費やしての160度もの回頭)は危険な行為であった。実際、旗艦であり先頭艦であった三笠の被弾数48発の内、実に40発が大回頭時に無防備になった右舷に集中しており、帰還時の三笠は、突き刺さった砲弾の重みだけで、かなり右舷側に傾いていたという。しかし、一見冒険とも思える大回頭の2分間には、日本海軍の緻密な計算と英断が込められていた。それは次のようなようなものである。
また、前述の旅順封鎖中などの艦隊訓練により、東郷は各艦の速度、回頭の速さなどをいわゆる「クセ」を見抜いており、これが敵前大回頭を始める位置を決めるのに役立った。
常識にとらわれず、合理的に勝利を追求した結果、丁字戦法を成功させた。敵艦隊に対する十分な分析と、有効射程範囲のギリギリの所を見極めて「トーゴー・ターン」を決めた東郷の采配は、連合艦隊を勝利へと導いた。
連合艦隊は大口径砲の門数で劣っていたため射撃精度とともに速射も重視していた。 当時英国より輸入したコルダイト(硝酸エステル系無煙火薬)は発砲しても煙が少なく速射に有利であり、連合艦隊は発射速度においてバルチック艦隊を上回った。バルチック艦隊の主砲は新型戦艦以外発射速度が非常に遅く、遠距離砲戦で命中弾を期待するのは非常に難しかった。
日露戦争以前の砲戦では各砲がバラバラのタイミングで発砲していた。この方法は砲が小さく射程が短い時代は有効であったが、砲が大型化し射程が伸びるにつれて、着弾が判りにくいこと、発射の衝撃で船体が揺れ照準が狂うことなどの問題が生じていた。日露戦争で日本海軍は、艦橋から射撃諸元とタイミングを伝声管で伝えて一斉射撃を行なう斉射戦術を世界にさきがけて実戦で採用し、事前の訓練の成果もあって高い命中率を記録した。一斉射撃で砲弾の雨を瞬時に敵に浴びせさせる近代戦術で、バルチック艦隊が一方的に火達磨になるのを目の前に見せられた世界の観戦武官は驚愕した。
一方バルチック艦隊では、各砲がめいめいに発砲する従来どおりの戦術(独立撃ち方)を用いた。さらに黒色火薬による真っ黒な煙によって視界が遮られ砲側観測が満足に行なえなかった。このため正確さを欠いたままの連続射撃しか行なえず低い命中率に止まった。なお、日露戦争の直後にイギリスで、斉射戦術に特化した新型戦艦ドレッドノートが開発される<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。
連合艦隊は常に速力・火力が同じ2隻が1組となって敵と対峙し、2対1の優位な状態で戦えるようにしていた。連合艦隊は同種の艦をグループにまとめるように留意しており、第1艦隊は砲戦力、第2艦隊は機動力、第3艦隊は旧式艦としてはっきり運用の仕方を分けていた。このため、艦隊運動による効率的な攻撃、追撃、退避が可能になり、バルチック艦隊を逃さない徹底的な追撃戦を行えた。バルチック艦隊は速力の速い艦と遅い艦が混在した艦隊編成をとっていた<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。
当時の艦砲は徹甲弾で威力が小さく敵艦の装甲を貫通できないことが多かった。榴弾も信管に問題があり、敵艦に命中しても爆発しない不発弾が多かった。連合艦隊は徹甲弾による装甲の貫通よりも榴弾による上部構造の破壊を狙い、信管に伊集院五郎少将の開発した伊集院信管を採用した。この信管は鋭敏で、ロシア艦の装甲面で破裂した砲弾は下瀬火薬の特性によって火災を発生させ、上部構造を殲滅し無力化させた。 ロシアの砲弾は徹甲弾なので煙突などに当たると穴をあけてそのまま突き抜け反対側の海中に落下する。しかし日本の砲弾は瞬発式で、ロープに当たってもその場で破裂、下瀬火薬の猛烈な爆速で、何もかも粉々になぎ倒したうえ、その高温で火の海にしたのである<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。ロシア艦隊に下瀬火薬の豪雨を一方的に浴びせたことが、ワンサイドゲームの一因とされる。
ただ、伊集院信管はあまりに鋭敏なため、膅発事故の原因と疑われることもあった。「膅発」とは、連続射撃を経た砲身が赤熱することによって、発射時に砲弾が砲身内で爆発する事故で、第一次世界大戦直前に防止装置が発明されるまでは発生確率は高かった<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。日本海海戦では「三笠」と「日進」および「アリヨール」で膅発が発生した。後の連合艦隊司令長官山本五十六(当時は高野姓)は少尉候補生として「日進」に乗り組んで海戦に参加したが、この膅発に巻き込まれ、左手の指2本と右足の肉塊6寸を削ぎ取られる重傷を負った。
連合艦隊は砲弾の炸薬に下瀬火薬を導入した。これは当時炸薬の主流であった黒色火薬より爆速がすさまじく速く、命中時の破壊規模は当時の火薬常識を大きく超え、ロシア艦の構造物は粉々に破壊された。戦後、ロシア艦の破壊の凄まじさから日本に謎の下瀬火薬ありと諸外国から恐れられた。さらに、下瀬火薬はその高熱によってペンキなどの可燃部全てを燃やし、粉々に破壊した甲板を火の海にした<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。生き残ったロシア水兵は「今でも信じられない、鉄の大砲が炎を上げて燃えていた」と下瀬火薬の恐怖を述懐している。
下瀬火薬は海軍技師の下瀬雅允博士がフランスのピクリン酸を主成分とする「メリニット」火薬を分析・コピーしたものであるとされている。しかし、当時の火薬技術は国家機密であり、その詳細を日本が入手することは困難であり、下瀬博士自身は、独自開発を主張している。ヨーロッパではメリニットの高感度性と毒性を嫌って使用されなかったが、日本海軍では爆発事故の可能性には目をつむって砲弾の威力を優先した<ref name = "双葉社 日本海海戦"/>。下瀬博士は爆発事故で重症を負いながらも猛研究を行い、弾体の内部に漆を塗ると鉄とピクリン酸の反応を防げることを発見、これを実用化して砲弾を完成させた。しかし日本海軍には砲弾を長期間保管したときの安全性を検証する余裕がなかったため、日露戦争後に戦艦「三笠」の爆発沈没事故「三笠」爆発沈没事故の原因は不明であり、下瀬火薬原因説の他にも水兵の飲酒説など諸説がある。をはじめ何度も爆発事故を起こし、多数の死傷者を出したといわれている。
当時、無線電信技術はグリエルモ・マルコーニによって1894年頃に発明されたばかりだった。日本海軍はこの最新技術をいち早く採用し、1903年に三六式無線電信機を制式採用した。三六式無線電信機は、信濃丸によるバルチック艦隊発見の報告や、戦闘中の各艦の情報交換に活用され、戦況を有利に導いた。この三六式無線電信機は安中電機製作所(現アンリツ)の製品であり、蓄電池は島津製作所の製品である。
宮原式汽罐は当時世界に衝撃を与えた画期的な新汽罐。価格が当時の世界標準価格の半値で、給水、掃除が容易で、乱用に耐えられ、燃費がよく、強力な馬力で、しかも小型とまさに画期的な発明で、日本海軍の高速化をもたらした。
1884年(明治17年)に、海軍医務局副長の高木兼寛は、当時、未知の病であった脚気を白米の中に大麦を混ぜた麦飯食で鎮めることができることを発見し、1888年(明治21年)に日本最初の医学博士となった。この結果、日本海軍は脚気の撲滅に成功し、日本海海戦の勝因の一つとなった。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月8日 (木) 16:19。