日比谷焼打事件

日比谷焼打事件(ひびややきうちじけん)は、日露戦争後の賠償に対する不満から、1905年9月5日東京日比谷公園の集会をきっかけに起こった暴動のこと。

概要

1905年ポーツマス条約によってロシアは樺太全島および遼東半島の日本への移譲を認め、実質的に日露戦争は日本の勝利に終わった。しかし、同条約では戦勝国であるはずの日本に対するロシアの賠償金支払い義務はなかった為、日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも関わらず、直接的な賠償金が得られなかった。そのため、世論の非難(日本内部)が高まり、暴徒と化した民衆によって内務大臣官邸、御用新聞と目されていた国民新聞社交番などが焼き討ちされる事件が起こった。なお、同事件では戒厳令も敷かれた。

原因

1905年、日露戦争東郷平八郎率いる日本海軍ロシア海軍バルチック艦隊を撃破したことを契機に、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトの仲介のもと、アメリカのポーツマスにて日露の和睦交渉が行なわれることとなった。当時、日本は戦争に対する多大な軍費への出費から財政が悪化し、ロシアでも血の日曜日事件など革命運動が激化していたため、両国とも戦争継続が困難になっていたのである。

しかし、相手は強大国・ロシアである。当時の日本には戦争を継続するだけの余力は既になかった。そうした内情を知らされていなかった国民の多くはロシアから多額の賠償金を取ることができると踏んでいたが、ロシア側は賠償金の支払いを拒否する。ロシアの領内はまったく日本に攻撃されていないからだ。日本側の全権・小村寿太郎はロシアとの交渉決裂を恐れて8月29日、樺太の南半分の割譲と日本の大韓帝国に対する指導権の優位などを認めることで講和条約であるポーツマス条約に調印したのであった。

この条件は、国民が考えていた条件とは大きくかけ離れるものであった(日本側は賠償金50億円、遼東半島の権利と旅順-ハルピン間の鉄道権利の譲渡、樺太全土の譲渡などを望んでいた。一部右翼活動家の中にはイルクーツク地方以東のロシア帝国領土割譲がされると国民を扇動する者までいた)。このため、朝日新聞(9月1日付)に「講和会議は主客転倒」「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」「小村許し難し」などと書かれるほどであった。しかし、小村の交渉を伊藤博文などは高く評価している。また、首相の桂太郎と海相の山本権兵衛は小村を新橋駅に出迎え両脇を挟む様に歩き、爆弾等を浴びせられた場合は共に倒れる覚悟であったという。

長きにわたる戦争で戦費による増税に苦しんできた国民にとって、賠償金が取れなかった講和条約に対する不満が高まった。このため、9月3日に大阪市公会堂をはじめとする全国各地で講和条約反対と戦争継続を唱える集会が開かれたのである。その内容は、「閣僚元老を全て処分し、講和条約を破棄してロシアとの戦争継続を求める」という過激なものであった。

日比谷の暴動

9月5日、東京日比谷公園でも講和条約反対を唱える民衆による決起集会が開かれた。そして、遂に怒りで暴走した民衆たちによって日比谷焼打事件が始まったのである。暴徒化した民衆は内務大臣官邸、国民新聞社交番などを襲って破壊した。この時、日本正教会がロシアと関係が深かった事から、ニコライ堂とその関連施設も標的になりあわや焼かれる寸前であったが、近衛兵などの護衛により難を逃れた出典:中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』191頁~194頁、岩波新書(1996年:第一刷) ISBN 9784004304586。これにより東京は無政府状態となり、翌9月6日、日本政府は戒厳令を敷くことでようやくこの騒動を治めたのである(戒厳令廃止は11月29日)。

この騒動により、死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上(このうち有罪となったのは87名)にも上った。

なお、各地で講和反対の大会が開かれ、神戸(9月7日)、横浜(9月12日)でも暴動が起こった。

背景

  • この事件の背景として、これに先立つ日清戦争での戦費負担を補って大いにあまりある賠償金獲得により「戦争は勝てば儲かる」という発想が民衆(および新聞社以下マスコミ)にあったと考えられる。いずれにせよ、こうした民衆の姿勢がその後の軍部躍進の一助となった可能性はあるだろう。当時の新聞報道にも、日露戦争を起こすことで収益が上がると軍事行動を支援するような論説が多々見られた。~
  • 集会を主催した反政府の政党が群集を煽ったのではないか、という見方もあるが、一方、余りの群集の興奮ぶりに収拾出来なくなったとの説もある。

その後

暴動収拾後も人々の反発は収まらず、桂太郎首相は立憲政友会を率いる西園寺公望と密かに会談を持って収拾策を話し合った。この結果、翌年1月に第1次桂内閣は総辞職して代わりに第1次西園寺内閣が成立した。西園寺や新内務大臣原敬は反政府側から出された戒厳令関係者の処分要求を拒絶して、事件の幕引きを図ったのである。

この事件の後、大正政変シーメンス事件に際して起こった民衆騒擾は、権力者に民衆の力を思い知らせるとともに、大正デモクラシーの推進力にもなった。

だが一方で、新聞等で扇動された民衆騒擾に対して、有効な情報公開と公開討論等による合理的な世論醸成ができなかった当時の政府は、文民統制の近代国家の法制度の不備(陸海軍現役大臣制度等)と陸海軍人のテロの際の実行者と責任者の不完全な処分などの無策を遠因として、農民の生活保護を大義名分として軍部の政治への干渉を許し、「満州は日本の生命線」と叫ぶ活動家による世論誘導もあいまって、満州事変の戦線拡大を招いた。

注釈

関連項目




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月29日 (木) 18:58。












     

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最終更新:2008年08月15日 21:41
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