前半は東條英機 参照
大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時の総理大臣でもあり、昭和初期の歴史を考える上でそれなりの批判は避けて通れないことも事実である。
第二次世界大戦期における最重要人物の一人という事もあり、立場や思想などから様々な評価が未だ乱立しており、評価が難しい人物である。国内外を問わず、東條を無能と非難する声もあれば、一方で有能とする声もある。
現在一般的な東條に対しての評価として以下の点が挙げられる。
日本を戦争に引きずり込んだ張本人のように言われることもあり、大久保利通や伊藤博文が苦心して築き上げた近代日本を台無しにしたとして評価はあまりよくない。自分を批判した将官を省部の要職から外して、戦死する確率の高い第一線の指揮官に送ったり、松前重義大政翼賛会青年部部長が受けたようないわゆる「懲罰召集」を行う等、陸軍大臣を兼ねる首相として強権的な政治手法を用い、さらには憲兵を恣意的に使っての一種の恐怖政治を行ったとされ、宰相としての評価は一般に低い(東條の政治手法に反対していた人々は、「東條幕府」と呼んで非難した)<ref name="kanji">『秘録・石原莞爾』。
官僚としてはかなり有能であったという評価はあるが、東條と犬猿の仲で後に予備役に左遷させられた石原莞爾は、関東軍在勤当時上官であった彼を「東條一等兵」と呼んで憚らず、嘲笑することしばしばであったという。また戦後東京裁判の検事団から取調べを受けた際「関東軍時代、あなたと東條には意見の対立があったようだが」と訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見がある。しかし、東條には意見が無い。意見の無い者と対立のしようがないではないか」と答えた。しかし、東條・石原共に、プライドが高く、衝突はかなりあったという(『秘録・石原莞爾』<ref name="kanji" />)。
東條に対する悪評価に拍車をかけた一面としてはその官僚的な硬直した発想、視野の狭さ、内容よりも手続きや形式、見栄えを重んじるやり口、みずからの地位を利用した敵対者への弾圧、嫉妬深さ、憲兵を多用した警察国家的な政治手法などに起因するものが多く、「器の小さな男」の狡猾な手段に対する嫌悪感という面が強いと言える。
東京帝国大学の卒業式で「諸君は非常時に際し繰り上げ卒業するのであるが自分も日露戦争のため士官学校を繰り上げ卒業になったが努力してここまでになった(だから諸君もその例にならって努力せよ)」と講演し失笑を買ったといわれる。阿川弘之『軍艦長門の生涯』
区役所で直接住民から意見を聞こうとしたり、夜な夜な民家のゴミ箱を漁っては贅沢品を食べてはいないかと自らチェックしたりしたというが、後日本人は「国民の食生活が困窮していないか、配給がきちんと行き届いているかどうかを確認するために残飯を見に回った」と語っている深田祐介『黎明の世紀』文藝春秋。自分の目で確認しないと気が済まない性格が伺われる。これに関連して1943年西尾寿造大将は関西方面を視察していた時に記者から何か質問され「わしはそんな事は知らん。毎朝塵箱をあさっとる奴がおるだろう。そいつに聞け」と答えた。塵箱あさりとはもちろん東條首相のことである。東條はこの談話を聞いてかんかんに怒り、その私怨から西尾を予備役とした『陸海軍将官人事総覧 陸軍編』。
行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したこと(及び嶋田の海軍大臣と軍令部総長の兼任)は、軍がそれまでつよく主張してきた統帥権の(政治からの)独立と矛盾し、天皇の統帥権に抵触するおそれがあると当時から批判が強かった。首相であった東條の元に軍令面の情報が集まらず、総合的な戦争指導ができないことに苛立った非常手段であるといわれ、東條は「非常時における指導力強化のために必要であり責任は戦争終結後に明らかにする」と弁明した。
これに関連して、過度の権力集中にヒトラーを引き合いに出して苦言を呈した側近に対し「ヒトラーは一兵卒、私は大将です。同じにしないでもらいたい」と答えたという話『佐藤賢了回想録』がある。ただし、特に独ソ不可侵条約締結の頃には東條に限らず「あの伍長上がりに振り回され…」等とヒトラーを侮蔑する陸軍将官が多かったとも言われている。
また、個人的に嫌いな人物や敵対者を召集して激戦地に赴任させるというやりかたも東條酷愛の方法で、毎日新聞社編『決定版・昭和史--破局への道』『毎日新聞百年史』に詳しい竹槍事件では1944年2月23日毎日新聞朝刊に「竹槍では勝てない、飛行機だ」と自分に批判的な記事を書いた新名丈夫記者を37歳という高齢で二等兵として召集し、硫黄島へ送ろうとした。
新名は大正年間に徴兵検査をうけたのであるが、まだ当時は大正に徴兵検査を受けた老兵は1人も召集されてはおらず、これに対して新名が黒潮会(海軍省記者クラブ)の主任記者であった経過から海軍が「大正の兵隊をたった1人取るのはどういうわけか」と陸軍に抗議し、陸軍は大正の兵隊を250人を丸亀連隊(第11師団歩兵第12連隊)に召集してつじつまをあわせた。新名自身はかつて陸軍の従軍記者であった経歴と海軍の庇護により連隊内でも特別の待遇を受け三箇月で召集解除になったが、上の老兵250人は硫黄島で戦死することになる。陸軍は新名を再召集しようとしたが、海軍が先に徴用令を出し新名の命を救った。
陸相時代に支那派遣軍総司令部が「アメリカと妥協して事変の解決に真剣に取り組んで貰いたい」と見解を述べたが、東條の返答は「第一線の指揮官は、前方を向いていればよい。後方を向くべからず」だった。また戦争を早くから志向していたという説もある。事実、陸軍次官時代の1938年に軍人会館(現在の九段会館)での在郷軍人会において「支那事変の解決が遅延するのは支那側に米英とソ連の支援があるからである。従って事変の根本解決のためには、今より北方に対してはソ連を、南方に対しては米英との戦争を決意し準備しなければならない」と発言し当時「東條次官、二正面作戦の準備を強調」と報道された。
逓信省工務局長松前重義は東條反対派の東久邇宮稔彦王に接近したために、勅任官待遇だったにもかかわらず42歳にして召集され、南方で電柱かつぎに使役された。高松宮宣仁親王は日記のなかで『実に憤慨にたえぬ。陸軍の不正であるばかりでなく、陸海軍の責任であり国権の紊乱である』と述べている。さらに松前は輸送船団にて南方戦線に輸送された。逓信省は取り消しを要請したが富永恭次陸軍次官は「これは東條閣下直接の命令で絶対解除できぬ」と取り合わなかった。松前は無事にサイゴンについたが、本来召集対象外の松前が召集された事を目立たせぬように同時に召集された老兵数百人がバシー海峡に沈んだ<ref name="nukata" />。東條の誤算はサイゴンに東條も畏怖する先輩の寺内寿一がいたことであった。寺内は松前に「平服着用許可」「勅任官待遇の復活」などを実施して窮地を救っている(以後の松前の経歴は当該項を参照のこと)。
陸軍内の東條嫌いで有名だった前田利為は、東條によって南方の激戦地に転任させられ、搭乗機を撃墜されて死亡したが、東條はわざわざこれを戦死ではなく戦傷病死扱いにして遺族の年金を減額したといわれている。この問題は帝国議会で「(戦死の場合は相続税が免除になるため)前田家の莫大な相続税を目当てにした政治工作か」等と追求され後に戦死認定に改められた酒井美意子『華族の肖像』。ただ実際には転任地ボルネオは激戦地ではなく、任務は単なる占領地司令官であり、その死は不運な飛行機事故によるものである。
尾崎行雄を天皇への不敬罪として逮捕させている。これは1942年の翼賛選挙で行った応援演説で引用した川柳「売家と唐様で書く三代目」で昭和天皇の治世を揶揄したことが理由とされているが、評論家の山本七平は著書『昭和天皇の研究』で、これを1942年4月に尾崎が発表した「東條首相に与えた質問状」に対しての報復であるとしている。
政府提出の市町村改正案を官僚の権力増強案と批判し反対した3人の衆議院議員、福家俊一、有馬英治、浜田尚友を懲罰召集した<ref name="summer">吉松安弘『東條英機 暗殺の夏』。この改正案そのものには東條自身は乗り気ではなく、提出を強行して議会を混乱させたと責任を取らせるために湯澤三千男内務大臣を更迭している。
木戸幸一内大臣の甥の都留重人海軍省調査員に圧力をかけ、解雇させた上で召集し、木戸への圧力に利用した。木戸は、東條秘書官の赤松に最前線送りだけはしないように懇願した<ref name="summer" />。
ガダルカナル島の戦いで輸送船の増船を求める参謀本部の要求を拒否し、直談判にきた田中新一作戦部長が「馬鹿野郎」と暴言を吐くと、翌日田中は南方へ転勤になった。東條の不興をかって前線送りになった将校は塚本清彦少佐ら多々おり、サイパン送りにした将校には「サイパンの防衛には、この東條が太鼓判を押す」と言って送り出し戦死させた。
腹心の部下としては「三奸四愚」と呼ばれた三奸:鈴木貞一、加藤泊治郎、四方諒二、四愚:木村兵太郎、佐藤賢了、真田穣一郎、赤松貞雄のほか、インパール作戦を直訴し白骨街道を築いた牟田口廉也、陸軍大臣時代に仏印進駐の責任問題で一度は左遷されたが、わずか半年後に人事局長に栄転し陸軍次官も兼任した富永恭次がいる。富永はフィリピンで特攻指令を下し、自らも特攻すると訓示しながらも、胃潰瘍の診断書をもって護衛戦闘機付きで台湾に逃亡した。木村兵太郎や牟田口廉也もビルマで同様の敵前逃亡行為を行っている。
特高警察と東京憲兵隊を重用し、一般人に圧力を加えるために用いた点において、法理上の問題がある。東條政府打倒のために重臣グループなどと接触を続けた衆議院議員中野正剛を東方同士会(東方会が改称)ほか三団体の幹部百数十名とともに検挙した(この検挙の理由をめぐっては、中野が昭和18年元旦の朝日新聞に執筆した『戦時宰相論』が原因との説もある)。中野は5日後に釈放された後、憲兵隊の監視下で自決に追い込まれる。全国憲友会編『日本憲兵正史』では陸軍に入隊していた子息の「安全」と引きかえに自決を迫られたものと推定している。また中野の取り調べを担当、嫌疑不十分で釈放した43歳の中村登音検事には、その報復として召集令状が届いた。
陸士1期後輩の独立混成第1旅団長酒井鎬次は戦車用兵でしばしば東條と対立し、諸兵科との連携を軽視する東條を馬鹿呼ばわりした。東條が力をつけると酒井は閑職に左遷され、昭和15年には予備役に編入された。
東條は「東條英機宣誓供述書」のなかで、こう述べている。「大東亜の新秩序というのもこれは関係国の共存共栄、自主独立の基礎の上に立つものでありまして、その後の我国と東亜各国との条約においても、いずれも領土および主権の尊重を規定しております。また、条約にいう指導的地位というのは先達者または案内者またはイニシアチーブを持つ者という意味でありまして、他国を隷属関係におくという意味ではありません」。しかし、1942年9月、東條首相は占領地の大東亜圏内の各国家の外交について「既成観念の外交は対立せる国家を対象とするものにして、外交の二元化は大東亜地域内には成立せず。我国を指導者とする所の外交あるのみ」と答弁している。
歴史学者の秦郁彦は「もし東京裁判がなく、代わりに日本人の手による国民裁判か軍法会議が開かれた、と仮定した場合も、同じ理由で東條は決定的に不利な立場に置かれただろう。既定法の枠内だけでも、刑法、陸軍刑法、戦時刑事特別法、陸軍懲罰令など適用すべき法律に不足はなかった。容疑対象としては、チャハル作戦と、その作戦中に起きた山西省陽高における集団虐殺、中野正剛以下の虐待事件、内閣総辞職前の策動などが並んだだろう」 と著書『現代史の争点』中で推測している。このような当時の指導者を裁判にかけるという話は東久邇宮を中心にあったそうだが、昭和天皇や木戸幸一は「人民裁判になる」として反対していた。
司馬遼太郎はエッセイ「大正生まれの「故老」」(『小説新潮』第26巻第4号、1972年4月)中で、東條を「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」と言っている。
日米開戦日の明け方、開戦回避を熱望していた昭和天皇の期待に応えることができず、懺悔の念に耐えかねて、首相官邸において皇居の方角に向かって号泣した逸話は有名で、『昭和天皇独白録』にも記載されている通り、昭和天皇から信任が非常に厚かった臣下であり、失脚後、昭和天皇からそれまで前例のない感謝の言葉(勅語)を贈られたもっともこれは、東條という個人に対して賜ったものではなく、参謀総長という職務を遂行したことに対してのものという説もある。。そして東京裁判時には親しい関係者に「戦犯の指定を受けたとは言え、国に忠義を尽くした国民の一人である。被告人として立たせるのは忍びない」と言い悲しんでいた。
東條内閣が不人気であった理由について、天皇は「憲兵を用い過ぎた事と、あまりに兼職をもち多忙すぎたため国民に東條の気持ちが通じなかった」と回想し、内閣の末期には田中隆吉などの部下や憲兵への押さえがきかなかったとも推察している。また学習研究社から発売している『実録首相列伝 国を担った男達の本懐と蹉跌』の「東條英機」の項目の中でも中野正剛の事件について「憲兵の情報を鵜呑みにして過剰反応したのではないか」という同様の推察がある。
だが、天皇の信任が去って以降の東條は、“誠忠無二”とは逆の方向に変質していく。鈴木貫太郎内閣が誕生した1945年4月の重臣会議で東條は、鈴木貫太郎首相に不満で選出後も畑俊六元帥陸軍大将を首相に推薦し「人を得ぬと軍がソッポを向く」と放言し岡田啓介から「陛下の大命を受ける総理にソッポを向くとはなにごとか」とたしなめられている。さらに終戦工作に対しても妨害工作を行い「勤皇には狭義と広義二種類がある。狭義は君命にこれ従い、和平せよとの勅命があれば直ちに従う。広義は国家永遠のことを考え、たとえ勅命があっても、まず諌め、度々諫言しても聴許されねば、陛下を強制しても初心を断行する。私は後者をとる」と部内訓示していた『加瀬俊一回想録』。
東條が首相に就任したときに陸相や内相を兼任したのは、近衛内閣の時点で日米交渉がまとまらなかった場合には開戦することが決定されるなど開戦は避けられない状況であったこともあり、日米交渉成立時に開戦派によるクーデターを阻止することや、開戦した場合に陸海軍の統帥を一本化するためだったといわれているが、結局終戦まで陸海軍の統帥が一本化することはなかった。それどころか後任の小磯國昭総理が東條と同じく陸相兼任を主張した際には反対意見を述べ兼任を阻止している。また東條自身、政治を人気取りと妥協で行うものだとして、「水商売」と言い、半ば政治家を軽蔑していたとして、自身の意思と反して無理やり首相に据えられたことに同情する意見もあるが、田中隆吉の手記によれば第3次近衛内閣が総辞職する3日前に加藤泊治郎憲兵司令部総務部長が木戸幸一内大臣を尋ね「東條を首相とせねば陸軍を統制することを得ない」と脅して木戸に東條を推薦させたとしている。
1941年10月14日の閣議において近衛文麿首相が日米衝突を回避しようと「日米問題は難しいが、駐兵問題に色つやをつければ、成立の見込みがあると思う」と発言したのに対して東條は激怒し「撤兵問題は心臓だ。撤兵を何と考えるか」「譲歩に譲歩、譲歩を加えその上この基本をなす心臓まで譲る必要がありますか。これまで譲りそれが外交か、降伏です」と強硬な主戦論を唱えた。これにより外交解決を見出せなくなった近衛は翌々日に辞表を提出した。辞表の中で近衛は「東條大将が対米開戦の時期が来たと判断しており、その翻意を促すために四度に渡り懇談したが遂に説得出来ず輔弼の重責を全う出来ない」とした。近衛は「戦争には自信がない。自信がある人がおやりなさい」と言っていたという。
「細川日記」によれば近衛文麿は「昭和19年4月ごろまで、東條に政権を担当させ、最後まで全責任を負わせればよい」と東久邇宮に漏らした。東條にとって不運だったのは、自身も一歩間違えればA級戦犯となる身の田中隆吉や、実際に日米衝突を推進していた服部卓四郎や有末精三、石川信吾といった、所謂『戦犯リスト』に名を連ねていた面々が、すでに連合国軍最高司令官総司令部に取り入って戦犯を逃れる確約を得ていたことであった秦郁彦『東京裁判 裁かれなかった人たち』『昭和史の謎を追う・下』。それでも東條は、太平洋戦争時に置かれた日本の立場を必死に訴えたのである<ref name="satou">佐藤早苗『東條英機 封印された真実』講談社、1995年。
渡部昇一によれば、政治家としての評価は低い東條も軍事官僚としては抜群であったという。強姦、略奪禁止などの軍規・風紀遵守に厳しく、違反した兵士は容赦なく軍法会議にかけたというが、陽高において虐殺事件に見える行動をしている。陽高に突入した兵団は強硬な抵抗に合い、かなりの死傷者が出た。日本軍は占領すると場内の民兵とおぼしき男たちを狩り出してしばりあげ集団殺害した。その数350人ともいわれる『野砲四連隊史』が東條は誰も処分していない。この虐殺事件が東京裁判で東條の戦犯容疑として取り上げられなかったのは連合国側の証人として出廷し東條らを追い詰めた田中隆吉が参謀長として参戦していたからだろうと秦郁彦は推察している。
戦場の司令官としてもチャハル・綏遠方面における察哈爾派遣兵団の成功はめざましいもので彼が政治に引き込まれなかったら、名将として名を残しただろうと渡部昇一は評している。だが、自ら参謀次長電で「東條兵団」と命名したその兵団は補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出したという。開戦半年後、和平を模索しはじめた昭和天皇が個別に重臣を呼んで収拾策を尋ねた際に東條は「陛下の赤子なお一人の餓死者ありたるを聞かず」「戦局は今のところ五分五分」だとして徹底抗戦を主張した。侍立した藤田尚徳侍従長は「陛下の御表情にもありありと御不満の模様」と記録している。
1944年に退陣する際には秘書の赤松貞雄が続投の可能性を模索したのに対し東條は即刻、そのような姑息な行動をやめるように命じたと赤松は自ら手記に書き留めている。だが、東條に否定的な秦郁彦によれば、岸信介に対し憲兵を使って辞表を書くように脅迫したにもかかわらず岸が辞表提出を拒否したために東條内閣は瓦解したのであって、東條は天皇からも見放されていたのを知りつつなおもしがみつこうとしたが、赤松が進言したクーデター構想にはさすがに乗らなかったというだけであるとしている。
ラビ・マーヴィン・トケイヤー著『ユダヤ製国家日本』という本の中に東條について以下のような記述があり樋口季一郎と同様にトケイヤーから「英雄」と称えられている。トケイヤーが東條英機を「英雄」と称える理由については1937年にハルビンで開催されたナチスの暴挙を世界に訴えるための極東ユダヤ人大会にハルビン特務機関長だった樋口らが出席したことに対し当時同盟国であったドイツが抗議したがその抗議を東條が握りつぶし、処分ではなく栄転させた。ただし樋口の回想録によると東條は樋口の意見を陸軍省に伝えたことになっているなお、帝国陸軍内においてナチスドイツ・ファシストイタリアとの三国同盟締結を推進したのは当時陸軍次官の東條であった。。
ビルマ(現ミャンマー)のバー・モウ初代首相は自身の著書『ビルマの夜明け』の中で「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」と語っている。
東京裁判の判事の一人ベルト・レーリンク判事は著書『Tokyo Trial and Beyond』の中で東條について「私が会った日本人被告は皆立派な人格者ばかりであった。特に東條氏の証言は冷静沈着・頭脳明晰な氏らしく見事なものであった」と述懐し、又「被告らの有罪判決は正確な証言を元に国際法に照らして導き出されたものでは決してなかった」と証言している。
重光葵は「東條を単に悪人として悪く言えば事足りるというふうな世評は浅薄である。彼は勉強家で頭も鋭い。要点をつかんで行く理解力と決断力とは、他の軍閥者流の及ぶところではない。惜しい哉、彼には広量と世界知識とが欠如していた。もし彼に十分な時があり、これらの要素を修養によって具備していたならば、今日のような日本の破局は招来しなかったであろう」と述べている。
家庭人としての東條は、息子達にはきびしい面を見せていたが、娘たちには甘すぎるほど優しかった。娘達とうれしそうに会話しながら晩酌を楽しんだり、コーヒーやシュークリームをほおばるなど、ごく普通の父親だった。戦後、開戦時の参謀総長だった杉山元が夫婦そろって自決したことで、娘婿の古賀秀正少佐は終戦直前に近衛師団長を暗殺して宮城事件を起こし失敗して自決し、本人も自殺未遂に終わった東條家は白眼視されることとなった<ref name="nukata" />。
国民に倹約を強要したが、昭和18年当時極めて入手困難であった、飴をつくるための大きな砂糖の固まりを所持していたところを目撃されている。(一般人なら逮捕、没収された)これらの東條批判は戦時中は許されなかったが、戦後一斉にマスメディアによって報道されている『文藝春秋』昭和20年10月号より。余談だが、この号は戦況の悪化に伴い、一時休刊していた同誌の復刊号でもあった。。
タバコは吸うものの、酒は殆ど嗜まず、たまに疲れたとき晩酌するほどであり、決して深酒するようなことはなかった。飲み方も一合瓶を予め飲む量を目算してそれ以上は決して飲まないという自制心の強いものであった。
1941年頃に知人からシャム猫を貰い、猫好きとなった東條はこれを大変可愛がっていた平岩米吉『猫の歴史と奇話』。
陸大を首席で卒業した秀才として知られた父・英教とは対照的に、幼年学校・士官学校と成績は振るわなかった。特に、幼年学校時代は喧嘩に明け暮れており、成績がビリに近いことから渾名が「ズベ」であった。しかし上級生20名を相手の喧嘩で負けた悔しさから、発心し勉強に専心するようになった陸相になって幼年学校を訪ねた時の述懐から。。
極めて几帳面な性格で、陸大を受験するにあたり、合格に必要な学習時間を計算し、そこから一日あたりの勉強時間を割り出して受験勉強に当たった。
あらゆることをメモ帳に記し、そしてその内容を時系列、事項別の3種類のカードに記入し、箱に入れて整理するという作業を生涯に渡って一日も怠ることなく秘書の手も借りず自ら行った秘書官赤松貞雄の回想より。この習慣から渾名が「メモ魔」と付けられた。
女性に対し禁欲的であり、それを親族に対しても強要した。甥(陸軍中佐)が妹の嫁ぎ先で戯れに女中の手を握ったことを聞き、わざわざ彼を自宅に呼びつけ鉄拳を食らわしたこともあった児島襄「素顔のリーダー」。海軍の山本五十六が愛妾を囲ったり博打に興じたりしたのとは対照的であるが世間からはそれが長所としては評されなかった。
非常な部下思いであり、師団長時代は兵士の健康や家族の経済状態に渡るまで細かい気配りをした。また、メモに記録し、兵士の名前を覚えた。
平等主義を徹底し、食事も兵士と同じ内容のものしか取らなかったもっとも、昼食に士官のみがフルコースの洋食を楽しんだ海軍とは対照的に、陸軍では原則的に食事に准士官以下の兵と将校でメニューで大きな差はなかった。。一品でも兵士の献立と違うと思われるものが食膳に出されると、兵士にも行き渡っているか確認し、そうでないと知ると決して箸を付けなかった。身内びいきを嫌悪し、息子に対してはむしろ冷遇を画策するほどであった。自らも収賄や利益供与などのうわさは全くなかった。但し人事に関しては私情を挟むことがあった。
軍人の常として天皇を崇拝していたが、東條のは抜きんでていた。「軍人は二十四時間お上(昭和天皇)に奉公している。食事をとるのも奉公なんだ。」「東京に来たら真っ先に宮中に参上して、記帳せよ。それが義務なんだ。」「お上は人格ではない。神格なんだ。」といったような東條の発言に、その極端な忠誠ぶりが伺われる。木戸幸一が東條を首相に推薦したのも、その点にあった。
東條の遺書といわれるものは三通存在する。ひとつは1945年9月3日の日付で書かれた長男へ向けてのものである。他は自殺未遂までに書いたとされるものと、死刑判決後に刑が執行されるまでに書いたとされるものである。
以下は長男英隆に宛てたものである。これは1945年9月3日。すなわちミズーリ号で日本側代表団が降伏文書に調印した翌日に書かれたものである。東條の直筆の遺言はこれのみである。 Template:Quotation?
以下は処刑前に花山教誨師に対して口頭で伝えたものである。書かれた時期は判決を受けた1948年11月12日から刑が執行された12月24日未明までの間とされる。花山は聞いたことを後で書いたので必ずしも正確なものではないと述べている。
以下は1945年9月11日にGHQに逮捕される前に書かれたとされるものである。この遺書は1952年の中央公論5月号にUP通信のA・ホープライト記者が東條の側近だった陸軍大佐からもらったものであるとの触れ込みで発表されたものである。この遺書は、東京裁判で弁護人を勤めた戒能通孝から「東條的無責任論」として批判を受けた。また、この遺書は偽書であるとの疑惑も出ている。保阪正康は東條の口述を受けて筆記したとされる陸軍大佐について本人にも直接取材し、この遺書は偽書であると結論付けている。
長男の東條英隆は、弱視の為兵役免除を受け、鴨緑江発電職員であった。
次男の東條輝雄は、ゼロ戦や戦後初の国産旅客機YS-11、航空自衛隊のC-1の設計に携わった技師で、三菱重工業の副社長を経て、三菱自動車工業の社長・会長を1981年から1984年迄務めた。
三男東條敏夫は、息子たちの中で唯一軍人の道を進み、陸軍予科士官学校(59期)に進学、士官学校在校中に終戦を迎えた。戦後、航空自衛隊に入隊し、空将補にまで昇進した。
他には長女東條光枝(やはり陸軍軍人で実業家の杉山茂と結婚)、次女東條満喜枝、三女東條幸枝(映画監督の鷹森立一と結婚)、四女東條君枝(外国人と結婚しキミエ・ギルバートソン)等の子がいた。
家族の殆どが軍に関係しており、日本最大の軍人閥族でもあった。
A級戦犯合祀が問題になった際、白菊遺族会処刑されたA級戦犯遺族の会。会長・木村可縫(木村兵太郎の妻)らが分祀を提案したが、東條家の強硬な反対で、実現しなかった。現在もA級戦犯分祀反対を唱える東條由布子は孫(本名:岩浪淑枝、英隆の子)。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年12月3日 (水) 02:23。