thumb|right|300px|Template:和暦?[[10月29日、「修正帝国憲法改正案」
(日本国憲法案)を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。]]
日本における枢密院(すうみついん)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。Template:和暦?創設、Template:和暦?に廃止。略称は枢府(すうふ)。議長は枢相(すうしょう)とも呼ばれた。
沿革
Template:和暦?に憲法草案審議を行うため、枢密院官制に基づいて創設され、Template:和暦?に公布された大日本帝国憲法でも天皇の最高諮問機関と位置付けられた。初代議長は、伊藤博文。
国政に隠然たる権勢を誇っていたが、Template:和暦?の満州事変以後、政党勢力が後退して軍部の台頭が顕著になるに連れてその影響力は低下し、日本国憲法施行により、Template:和暦?に廃止された。
組織
枢密院は議長1名、副議長1名、顧問官24-28名で組織した。任用資格は40歳以上、元勲練達の者を選ぶとされていた。このほか、国務各大臣は顧問官として議席を有し、表決に加わった。東京にいる成年の親王も会議に参加した。1946年、日本国憲法の草案を審議していた枢密院に若き日の三笠宮崇仁親王が議員として参加しており、新憲法の下でも依然として皇族の人権が制約されることに抗議する内容の意見書を提出しようとして握りつぶされたエピソードが残る。
枢密院の建物は、Template:和暦?に皇居内に建造されたものが、戦後皇宮警察が使用するなどして今も残っている。
権限
大日本帝国憲法第56条では「樞密顧問ハ樞密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ應ヘ重要ノ國務ヲ審議ス」と規定された。
枢密院への諮詢事項は次のとおり。
- 皇室典範・皇室令において枢密院の権限に属するとされている事項
- 憲法の条項に関する草案と疑義
- 憲法附属法令に関する草案と疑義
- 枢密院の官制と事務規程の改正
- 緊急勅令・緊急財政処分
- 国際条約の締結
- 戒厳の宣告
- 教育に関する重要勅令
- 行政各部の官制など官規に関する勅令
- 栄典・恩赦の基礎に関する勅令
- その他、特に諮詢された事項
枢密院は施政に関与することができず(枢密院官制第8条)、大臣以外と公務上の交渉を行うことを禁じられていた(枢密院事務規程第3条)。
政府との関係
枢密院と政府の政策が対立した場合、話し合いによりどちらかが譲歩するケースが多かったが、Template:和暦?には台湾銀行救済のための第1次若槻内閣による緊急勅令案を19対11で否決し内閣を総辞職に追い込んだ。これは枢密院によって内閣が倒れた唯一の例である。
とはいえ、枢密院で議案が否決されたからといって内閣が総辞職しなければならないという規定はなく、この場面で辞職に踏み切ったのは若槻の性格の弱さによるものと言われる。
たとえば、似たような問題として、Template:和暦?、浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮条約の批准問題がある。このときは、条約批准を目指す政府(民政党政権)と、枢密院、軍部、鳩山一郎らを中心とする野党政友会が対立し、内閣が軍部の意向に反して軍縮を断行するのは天皇の統帥権を侵すものである(統帥権干犯)との非難が浴びせられ、加藤寛治軍令部長による帷幄上奏まで行われ、枢密院でも反浜口内閣の動きが大いに顕在化した。しかし、浜口首相は元老西園寺公望や世論の支持を背景として枢密院に対して断固とした態度で臨み、枢密院のボスとして知られた大物顧問官の伊東巳代治が要求した資料の提出を拒むほどであった。東京日日新聞をはじめとする大新聞も猛烈な枢密院批判で内閣を擁護し、枢密院の議員は内閣の奏請で罷免できると指摘するなど健筆を振るった。こうして枢密院側が折れて浜口内閣は条約批准を達成した。
これほどの対立には至らなくとも、明治から大正にかけて山縣有朋が枢密院を盾に反政党的な策動を行っており、山縣の死後もTemplate:和暦?の不戦条約批准問題等において策動した。
歴代枢密院議長・副議長
歴代枢密院議長
- 伊藤博文(Template:和暦?4月30日 - Template:和暦?10月30日)
- 大木喬任(Template:和暦?12月24日 - Template:和暦?6月1日)
- 伊藤博文(Template:和暦?6月1日 - Template:和暦?8月8日)
- 大木喬任(Template:和暦?8月8日 - Template:和暦?3月11日)
- 山縣有朋(Template:和暦?3月11日 - Template:和暦?12月18日)
- 黒田清隆(Template:和暦?3月17日 - Template:和暦?8月25日)
- 西園寺公望(Template:和暦?10月27日 - Template:和暦?7月13日)
- 伊藤博文(Template:和暦?7月13日 - Template:和暦?12月21日)
- 山縣有朋(Template:和暦?12月21日 - Template:和暦?6月14日)
- 伊藤博文(Template:和暦?6月14日 - Template:和暦?10月26日)
- 山縣有朋(Template:和暦?10月26日 - Template:和暦?2月1日)
- 清浦奎吾(Template:和暦?2月8日 - Template:和暦?1月7日)
- 濱尾新(Template:和暦?1月13日 - Template:和暦?9月25日)
- 穂積陳重(Template:和暦?10月1日 - Template:和暦?4月8日)
- 倉富勇三郎(Template:和暦?4月12日 - Template:和暦?5月3日)
- 一木喜徳郎(Template:和暦?5月3日 - Template:和暦?3月13日)
- 平沼騏一郎(Template:和暦?3月13日 - Template:和暦?1月5日)
- 近衛文麿(Template:和暦?1月5日 - Template:和暦?6月24日)
- 原嘉道(Template:和暦?6月24日 - Template:和暦?8月7日)
- 鈴木貫太郎(Template:和暦?8月10日 - Template:和暦?4月7日)
- 平沼騏一郎(Template:和暦?4月9日 - Template:和暦?12月3日)
- 鈴木貫太郎(Template:和暦?12月15日 - Template:和暦?6月13日)
- 清水澄(Template:和暦?6月13日 - Template:和暦?5月2日)
歴代枢密院副議長
- 寺島宗則(Template:和暦?5月10日 - Template:和暦?9月10日)
- 副島種臣(Template:和暦?9月10日 - Template:和暦?3月11日)
- 東久世通禧(Template:和暦?3月17日 - Template:和暦?1月4日)
- 芳川顕正(Template:和暦?1月9日 - Template:和暦?3月20日)
- 清浦奎吾(Template:和暦?3月20日 - Template:和暦?2月8日)
- 濱尾新(Template:和暦?2月15日 - Template:和暦?1月13日)
- 一木喜徳郎(Template:和暦?1月14日 - Template:和暦?3月30日)
- 穂積陳重(Template:和暦?3月30日 - Template:和暦?10月1日)
- 岡野敬次郎(Template:和暦?10月1日 - Template:和暦?12月23日)
- 倉富勇三郎(Template:和暦?12月28日 - Template:和暦?4月12日)
- 平沼騏一郎(Template:和暦?4月12日 - Template:和暦?3月13日)
- 荒井賢太郎(Template:和暦?3月13日 - Template:和暦?1月29日)
- 原嘉道(Template:和暦?2月3日 - Template:和暦?6月24日)
- 鈴木貫太郎(Template:和暦?6月24日 - Template:和暦?8月10日)
- 清水澄(Template:和暦?8月10日 - Template:和暦?6月13日)
- 潮恵之輔(Template:和暦?6月13日 - Template:和暦?5月2日)
参考文献
- 大内力 『日本の歴史24 ファシズムへの道』 講談社、1967年。
関連項目
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月13日 (木) 07:08。
最終更新:2008年12月24日 22:00