海軍工廠(かいぐんこうしょう)とは、艦船、航空機、各種兵器、弾薬などを開発・製造する海軍直営の軍需工場(工廠)のことである。ほかに海軍が直営する軍需工場としては、航空機の修理整備(末期には製造)を担当する航空本部所管の「空廠」、火薬製造・充填を担当する艦政本部所管の「火薬廠」、石炭採掘や石油精製を担当する艦政本部所管の「燃料廠」、軍服・保存食製造を担当する軍需局所管の「衣糧廠」、医薬品・医療機器の製造を担当する医務局所管の「療品廠」がある。
日本においては、1931年の満州事変勃発までは横須賀、呉、広(呉市)、佐世保鎮守府に併設されていたが、1936年に舞鶴が工作部から海軍工廠に復帰、第二次世界大戦期間中は軍備増強により、豊川、光、相模(寒川町)、高座(座間市、海老名市)、川棚、沼津、多賀城、鈴鹿の8ヶ所に新たな海軍工廠を設置した。
海軍工廠は造船所を中心に発足し、海軍鎮守府の直轄組織とされた。横須賀鎮守府では、江戸幕府が設置した横須賀造船所を接収した。呉鎮守府では、神戸の小野浜造船所を管轄し、ここを閉所して機材を呉に移し、呉造船所を開設した。佐世保鎮守府および舞鶴鎮守府では、鎮守府用地に造船所を新設した。また兵器・需品を製造する造兵廠は東京と呉に設置し、横須賀・佐世保・呉では保管を担当する武庫を設置して管理した。明治30年(1897年)10月より、鎮守府が維持管理し、艦政本部の令達に基づいて活動する「造船廠」へと組織が改変された。
明治36年(1903年)11月、造船廠と武庫を一元管理する「海軍工廠」へと組織改変する。4工廠には、船体建造の「造船部」、兵器製造の「造兵部」、機関製造の「造機部」が設置され、これがデフォルトの組織となる。太平洋戦争のために計画・断念された大神工廠・室積工廠も同様の組織体形を取る。なお、東京造兵廠は大正12年(1913年)4月まで存続し、艦政本部直轄の技術研究所に改変された。呉造兵廠はそのまま呉工廠造兵部に取り込まれている。
兵器の多様化により、造兵部の一部は分業化が進み、呉工廠では早くも明治43年(1910年)に砲熕部・水雷部・火工部へ分裂して発展解消している。横須賀・佐世保・舞鶴では造兵部の発展解消はなく、オプションの新設部署として増設されている。
さらに呉郊外の広村に大正10年(1911年)増設された呉工廠広支廠が、大正12年(1913年)に独立工廠として昇格する。広廠は主力の航空機部に加え、機関実験部・鋳物実験部を設置し、造船造機部門も分業している。
なお、横須賀の航空系部門は航空本部の強化に伴い、航空廠→空技廠に改変された。また広廠・佐廠の航空機部 は、太平洋戦争時にそれぞれ第11空廠・第21空廠に組織改変している。
太平洋戦争に備えて増設された工廠は、艦政本部系よりも航空本部系に属するものが多い。航空本部系の番号空廠が機体整備に特化しているのに対し、地名工廠は装備品・航空兵器の製造に特化している。ただし、艦政本部と航空本部の分掌は重複していることも多く、どちらに属すると明言できないケースも多々見られる。
当初、海軍工廠は、工廠職員と募集や徴用によって集まった工員で構成していたが、戦局が悪化すると国家総動員法が公布され、動員学徒や女子挺身隊、朝鮮人・台湾人労働者なども加わっていった。
また、軍需工場であるため、米軍による爆撃の標的にされることも少なくなく、多くの悲劇を生むことにもなった。
航空廠(のちの空技廠、さらに改変して第1技術廠・第2技術廠)
空廠
燃料廠
衣糧廠
療品廠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_22008年10月3日 (金) 23:34。