渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年4月16日 - 1936年2月26日)は、日本の昭和初期の陸軍軍人で、二・二六事件の犠牲者である。
愛知県の出身。煙草店・和田武右衛門の長男。のちに農家の渡辺庄兵衛の養子となる。実弟の和田庫吉も陸士20期卒で陸軍少佐になっている。子息の恭二は陸士57期の陸軍中尉。
次女にノートルダム清心学園理事長で修道女の渡辺和子がいる。二・二六事件に際して、父の殺害を目撃した。
1930年代前半、陸軍内部では皇道派の勢力が伸張していたが、中心人物である荒木貞夫陸相は強権的人事により評判が低下した。荒木が1934年に病気を理由に陸相を辞任したことで、皇道派の勢いは衰え、陸相の後任には荒木の要望に反して林銑十郎が就任した。
翌年7月、荒木の腹心の部下である真崎甚三郎教育総監の後任として皇道派と距離を置いていた渡辺が選ばれた。
渡辺は、乱れきった陸軍の統制を締め直すために、あえて火中の栗を拾った。渡辺は、ヨーロッパ流のリベラル派の教養人であり、給料の大半を丸善書店の支払いに充てているといわれていた。名古屋で第3師団の将校たちを集め、天皇機関説を擁護したといわれているが定かでない。しかし、この就任劇がいわゆる皇道派青年将校を刺激したことは確かである。
渡辺は天皇機関説を徹底的に弾圧した前任の真崎とはまったく人物の度量が異なっており、渡辺の自由主義的な発想や意見は、そもそも人文社会学的な教養に乏しい過激青年将校の憎悪を招いた。二・二六事件における渡辺の無残な殺害行為は、過激青年将校たちの「渡辺が我らが真崎大将を教育総監の地位から追い落とした」という勝手な思い込みから行われたという見方もある。(出典:山本夏彦の著作)
家庭が貧しかったために、小学校を中退している。
1894年12月 | 陸軍士官候補生 |
1895年7月 | 陸士入校(8期) |
1896年11月 | 陸士卒 |
1897年6月 | 歩兵第19連隊付、少尉任官 |
1899年11月 | 中尉任官 |
1900年12月 | 陸軍大学校入校(17期) |
1903年12月 | 陸大卒業、歩兵36連隊中隊長及び大尉任官 |
1904年7月より9月 | 日露戦役に出征、負傷 |
1904年10月 | 大本営参謀 |
1905年9月 | 元老山縣有朋の副官 |
1906年 | 清国出張 |
1907年 | ドイツ駐在 |
1908年12月 | 少佐任官 |
1909年5月 | ドイツ大使館付武官補佐官 |
1910年6月 | 参謀本部勤務 |
1910年11月 | 山縣元帥副官 |
1913年1月 | 中佐任官 |
1915年2月 | 歩兵3連隊付 |
1916年5月 | 参謀本部課長 |
1916年7月 | 大佐任官 |
1917年10月 | オランダ公使館付武官 |
1920年8月 | 歩兵第29旅団長及び少将任官 |
1922年9月 | 参謀本部第4部長 |
1925年5月 | 陸軍大学校校長及び中将任官 |
1926年3月 | 第7師団長 |
1929年3月 | 航空本部長 |
1930年6月 | 台湾軍司令官 |
1931年8月 | 軍事参議官兼航空本部長・大将任官 |
1935年7月 | 陸軍教育総監に就任 |
1936年2月26日 | 二・二六事件で杉並区上荻窪の自邸で殺害される。 |
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年3月9日 (月) 14:38。