満州国-2

前半は満州国参照

政治

Template:wikisource? 満洲国は公式には五族協和王道楽土を理念とし、アメリカ合衆国をモデルとして建設され、アジアでの多民族共生の実験国家であるとされていた。五族協和とは、満蒙漢日朝の五民族が協力し、平和な国造りを行うこと、王道楽土とは、西洋の「覇道」に対し、アジアの理想的な政治体制を「王道」とし、満洲国皇帝を中心に理想国家を建設することを意味している。満洲にはこの五族以外にも、ロシア革命後に共産主義政権を嫌いソビエトから逃れてきた白系ロシア人等も居住していた。

その中でも特に、ボリシェヴィキとの戦争に敗れて亡ぼされた緑ウクライナウクライナ人勢力と満洲国は接触を図っており、戦前には日満宇の三国同盟で反ソ戦争を開始する計画を協議していた。しかし、1937年にはウクライナ人組織にかわってロシア人のファシスト組織を支援する方針に変更し、ロシア人組織と対立のあるウクライナ人組織とは断行した。第二次世界大戦中に再びウクライナ人組織と手を結ぼうとしたが、太平洋方面での苦戦もあり、極東での反ソ武力抗争は実現しなかった。

満洲国は建国の経緯もあって日本の計画的支援のもと、きわめて短期間で発展した。内戦の続く中国からの漢人や、新しい環境を求める朝鮮人などの移民があり、とりわけ日本政府の政策に従って満洲国内に用意された農地に入植する日本内地人などの移民は大変多かった。これらの移民によって満洲国の人口も急激な勢いで増加した。移民政策の成功は豊かな資源を持つ満洲国が日本帝国にとっての『フロンティア』であったことを示している。

なお日本にとっての植民地民族である朝鮮人・台湾人と満洲国土着の満洲人・漢人は共に大和民族(日本内地人)より劣位に置かれたが、日本の支配に服した年数の長い朝鮮人・台湾人が(内地人の地位を脅かさない限りに留まるものの)『第二日本人』として後者に比してやや優越する地位を与えられていた。これは満洲で人口的に圧倒的な漢人・満人を朝鮮人・台湾人に牽制させ、両者が協力して日本の支配に対抗することを防ぐ狙いもあった。そして実際に少なからぬ台湾人・朝鮮人が中級官僚・軍人などの中間管理層として、満洲に配属された(日本国籍を離脱し初代外交部総長に親任された謝介石を始め、新京市長にまでなった台湾人も存在した)。

国家機関

満洲国政府は、国家元首として執政(後に皇帝)、諮詢機関として参議府、行政機関として国務院、司法機関として法院、立法機関として立法院、監察機関として監察院を置いた。

国務院には総務庁が設置され、官制上は国務院総理の補佐機関ながら、日本人官吏のもと満洲国行政の実質的な中核として機能した。それに対し国務院会議の議決や参議府の諮詢は形式的なものにとどまり、立法院に至っては正式に開設すらされなかった。

元首

元首(執政、のち皇帝)は、愛新覚羅溥儀が就任し、康徳4年(1937年)3月1日の帝位継承法制定以後は溥儀皇帝の男系子孫たる男子が帝位を継承すべきものとされた。

また、帝位継承法の想定外の事態に備えて、満洲帝国駐箚(駐在)大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官との会談で、皇帝は、清朝復辟派の策謀を抑え、関東軍に指名権を確保させるため、自身に帝男子孫が無いときは、日本の天皇の叡慮によって帝位継承者を定める旨を皇帝が宣言することなどを内容とした覚書などに署名している。

行政

1932年(大同元年)の建国時には首相(執政制下では国務院総理、帝政移行後は国務総理大臣)として鄭孝胥が就任し、1935年(康徳2年)には満洲の独立宣言を発した東北行政委員会委員長の張景恵が首相に就任した。

しかし実際の政治運営は、満洲帝国駐箚大日本帝国特命全権大使兼関東軍司令官の指導下に行われた。元首は首相や閣僚をはじめ官吏を任命し、官制を定める権限が与えられたが、関東軍が実質的に満洲国高級官吏、特に日本人が主に就任する総務庁長や各部次長(次官)などは、高級官吏の任命や罷免を決定する権限をもっていたので、関東軍の同意がなければこれらを任免することができなかった。

また官職の約半分が日本人で占められ、国籍法が存在しないなど、政治的な欠陥があった。関東軍は満洲国政府をして日本人を各行政官庁の長・次長に任命させてこの国の実権を握らせた。これを内面指導と呼んだ(弐キ参スケ)。

このように民族協和ではなく、日本の勢力に加えようとしたとする見方「(関東憲兵隊は)民族共和どころか民族間の反目、離間をはかることを統治手段とみていたことがうかがえる」(山室信一『キメラ―満洲国の肖像』中公新書1138、1993年、p.282)、菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』(講談社、2005年、p.313)、宮脇淳子『世界史のなかの満洲帝国』(PHP新書387、2006年、p.220)。がされるが、日本の研究家の中には、アジアの合衆国として五族協和を称える見方<ref name=nakamura/>もある。

選挙・政党

憲法に相当する組織法には、一院制議会であるとして立法院の設置が規定されていたが選挙は一度も行われなかった。政治結社の組織も禁止されており、協和会という官民一致の唯一の政治団体のみが存在し、政策の国民への浸透や国政の指導を執り行った。

外交

1932年に国際連盟で否認されたとは言っても、満洲国はその後少なからぬ国家から承認を受けた。第二次世界大戦の終結以前には枢軸国を中心として、日本の同盟国と傀儡国、中立国など、以下の20ヶ国が承認をし、ドミニカ共和国ラファエル・トルヒーヨの独裁政権)、エストニアリトアニアは正式承認しなかったが国書の交換を行った。また、ソ連日ソ中立条約締結時に出された声明書で「満洲帝国ノ領土ノ保全及不可侵」を尊重することを確約し、事実上承認していたと言える。

(枢)のついている国は枢軸国(その後離脱した国を含む)。

軍事

日満議定書によって関東軍の駐留を認めた。満州国の国軍は、1932年4月15日公布の陸海軍条令をもって成立した。満洲国自体の性質上「関東軍との連携」を前提とし、当初は「国内の治安維持」「国境周辺・河川の警備」を主任務とした、戦闘集団というよりは関東軍の後方支援部隊としての性格が強かった。後年、関東軍の弱体化・対ソ開戦の可能性から、実質的な国軍化が進められたが、ソ連の対日参戦の際はソ連側に離反する部隊が続出し関東軍の防衛戦略を破綻させた。

経済

Template:main? 政府主導・日本資本導入による重工業化、近代的な経済システム導入、大量の開拓民による農業開発などの経済政策は成功を収め、急速な発展を遂げるが、日中戦争(日華事変)による経済的負担、そしてその影響によるインフレーションは、満洲国体制に対する満洲国民の不満の要因ともなった。政府の指導による計画経済が基本政策で、企業間競争を廃するため一業界につき一社を原則とした。

通貨

法定通貨は満州中央銀行が発行した満州国圓(元、yuan)で、1元=10角=100分=1000厘だった。当時の中華民国や現在の中華人民共和国の通貨単位も圓(元、yuan)で同じだが、中華民国の通貨が「法幣」と呼ばれたのに対し、満洲国の通貨は「国幣」と呼ばれて区別された。現在の中華人民共和国の通貨は人民幣(人民元)と呼ばれる。なお中国語では口語で元を塊 (kuai)、角を毛と置き換える事が多く、満洲在住の日本人は一般的に「エン」と呼んだ。

国幣は中国の通貨と同じく銀本位制でスタートし、国幣1元=法幣1元であったが、1935年11月に日本と同じ金本位制に移行し、日本円と等価となった。このほか主要都市の満鉄付属地を中心に、関東州の法定通貨だった朝鮮銀行発行の朝鮮円も使用された。

満洲国崩壊後もソ連軍の占領下や国民政府の統治下で国幣は引き続き使用されたが、1947年に国民政府の中央銀行が発行した東北流通券に交換され、流通停止となった。

郵政事業

従来中華郵政が行っていた郵便事業を1932年7月26日に接収し、同日から「満洲国郵政」(帝政移行後は「満洲帝国郵政」)による郵政事業が開始された。しかし、中華郵政は満洲国が発行した切手を無効としたため、1935年から1937年までの期間、中国本土との郵便物に添付するために国名表記を取り除き「郵政」表記のみとした「満華通郵切手」が発行されていた。

同郵政が満洲国崩壊までに発行した切手の種類は159を数え、記念切手中国語では「紀念」と表記するが、「建国一周年記念」切手は日本語の「記念」表記となっているも多く発行した。日本との政治的つながりを宣伝する切手も多く、1935年の「皇帝訪日紀念」や1942年の「満洲国建国十周年紀念」・「新嘉坡(シンガポール)陥落紀念」・「大東亜戦争一周年紀念」などの記念切手は日本と同じテーマで切手を発行していた。1944年の「日満共同体宣伝」のように、中国語の他に日本語も表記した切手もあった。また、郵便貯金事業も行っており、1941年には「貯金切手」も発行している。

満洲国で最後の発行となった郵便切手は、戦闘機3機を購入するための寄附金付切手だったが、満洲国崩壊のために発行中止となり大半が廃棄処分になった。しかし第二次世界大戦後、満洲に進駐したソ連軍により一部が流出し、市場で流通している。

南満洲鉄道

220px|thumb|満鉄のシンボル、特急あじあ

日本の半官半民の国策会社南満州鉄道(満鉄)は、ロシアが敷設した鉄道を日露戦争において日本が獲得して設立されたが、満洲国の成立後は特に満洲国の経済発展に大きな役割を果たした。

同社は鉄道経営を中心に満州航空、炭鉱開発、製鉄業、港湾、農林、牧畜に加えてホテル、図書館、学校などのインフラストラクチャー整備も行った。

満蒙開拓移民

満洲国の成立以降、日本政府は国内における貧困農村の集落住民や都市部の農業就業希望者を中心に、「満蒙開拓移民団」と称する移民組織を大々的に募集し多数の日本人を満洲に送った。この政策は、世界恐慌や凶作で経済が疲弊した日本国内から消費人口を減らす、いわば国家レベルでの「口減らし」という側面をもつ一方、徐々に世界から孤立し戦時体制へと歩んでいく日本への食料供給基地として、この開拓団に満洲を農地として開拓させることも意図していた。

「外国」の満洲へ移住した開拓団員たちも、開拓移民団という日本人コミュニティの中で生活していたことに加え、渡満後もみな日本国籍のままであった。そのため、「自分たちは住む土地が変わっても日本人」という意識が強く、現地の住民たちと交流することはあっても「満洲国人」として同化することはまずなかった。

また満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず匪情悪化を理由に既存の農村を「無人地帯」に指定し、地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させるとともに、政府がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げて、日本人開拓移民を入植させることが行われた。地元農民は自らの耕作地を取り上げられる強制移住に抵抗したため、関東軍が出動することもあった。「集団部落」反日組織との接触を断つ為に、地元住民を囲い込む形で建設された。

このため地元住人たちの中には、日本人開拓移民団を自分たちの生活基盤を奪った存在としてあからさまに敵視する者が少なからずおり、開拓移民団員との対立やトラブルに発展するケースもしばしば存在し、抗日ゲリラの拡大につながった。これらは、後のソ連参戦時に開拓移民団員が現地人たちに襲撃される伏線となってゆく。

交通

鉄道

設立当時は日本の半官半民の国策会社であった南満洲鉄道(満鉄)は、ロシアが敷設した鉄道を基礎に路線を拡張し、沿線各駅一帯に広大な鉄道付属地を抱え、首都新京(現在の長春)や奉天(現在の瀋陽)など主要都市の市街地も大半が鉄道付属地で、満洲国の司法権や警察権、徴税権、行政権は及ばなかった。都市在住の日本人の多くは鉄道付属地に住み、日本企業も鉄道付属地を拠点として治外法権の特権を享受し続けたため、満洲国の自立を阻害する結果となり、1937年に鉄道付属地の行政権は満洲国へ返還された。

なお、その路線は新京~大連・旅順間の南満洲鉄道のほか、満洲国が1935年にソ連から譲渡された北満鉄道(東清鉄道)の運営および新線建設を受託していた。また、一時は朝鮮半島の鉄道経営を委託されたこともあった。

超特急」とも呼ばれた流線形のパシナ形蒸気機関車と専用の豪華客車で構成される特急列車あじあ号の運行など、主に日本から導入された南満州鉄道の車両の技術は世界的に見ても高いレベルにあった。

200px|thumb|満洲航空の新型機([[ユンカース86)の就航を祝う荷札]]

航空

1931年に南満洲鉄道の系列会社として設立された満州航空が、満洲国内と日本、日本の植民地であった朝鮮半島を結ぶ定期路線を運航していた。

なお、満洲航空は単なる営利目的の民間航空会社ではなく、民間旅客・貨物定期輸送と軍事定期輸送、郵便輸送、チャーター便の運行や測量調査、航空機整備から航空機製造まで広範囲な業務を行った。

教育

満洲国の教育の根本は、建国当初の院令第2号(1932年3月25日公布)に「各学校課程ニハ四書孝経ヲ使用講授シ以テ礼教ヲ尊崇セシム凡ソ党義ニ関スル教科書ノ如キハ之ヲ全廃ス」と定められているように、儒教精神の徹底であった。

なお、高等教育機関については 満州国・関東州の高等教育機関を参照

文化

映画

1928年に南満洲鉄道が広報部広報係映画班、通称「満鉄映画部」を設け、広報(プロパガンダ)用記録映画を製作していた。その後1937年に設立された国策映画会社である満洲映画協会が映画の制作や配給、映写業務もおこない各地で映画館の設立、巡回映写なども行った。

漫画

田河水泡の当時の大人気漫画「のらくろ」の単行本のうち、1937年(昭和12年)12月15日発行の「のらくろ探検隊」では、猛犬聯隊を除隊したのらくろが山羊と豚を共だって石炭の鉱山を発見するという筋で、興亜の為、大陸建設の夢の為、無限に埋もれる大陸の宝を、滅私興亜の精神で行うという話が展開された。

序の中で、「おたがひに自分の長所をもって、他の民族を助け合って行く、民族協和という仲のよいやり方で、東洋は東洋人のためにという考え方がみんな(のらくろが旅の途中で出会って仲間になった、朝鮮生まれの犬、シナ生まれの豚、満州生まれの羊、蒙古生まれの山羊等の登場人物達)の心の中にゑがかれました。」とあり、当時の軍部が国民に説明していた所の「興亜」と「民族協和の精神」を知ることができる。

雑誌

新京の藝文社が1942年1月から、満洲国で初で唯一の日本語総合文化雑誌「藝文」を発行した。1943年11月、「満洲公論」に改題。

祝祭日

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満洲国を扱った作品

満洲国生まれの人物

建国から消滅までの期間に出生した人物

俳優

漫画家

脚注

関連項目

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外部リンク




出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月18日 (土) 17:44。










    

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最終更新:2008年10月19日 20:04
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