玉砕

玉砕(ぎょくさい)は、太平洋戦争において、外地日本軍守備隊が全滅した場合、大本営発表でしばしば用いられた語である。

概要

出典は『北斉書』元景安伝の「大丈夫寧可玉砕何能瓦全(立派な男子は潔く死ぬべきであり、瓦として無事に生き延びるより砕けても玉のほうがよい)」。また明治維新の頃、藩閥政府天皇を「玉(ぎょく)」と呼ぶようになったが、それによって天皇のイメージに威厳や崇高さ、潔さなどが付け加えられるという効果があった。そのため明治以来、「『玉砕』とは、天皇のために潔く死ぬことです」(山科三郎、「『特攻』と『玉砕』について考える」、「部落」54(3)、2002年3月、60頁)というイメージが発生する。その態度表明を表す用例には例えば、西郷隆盛による次の詩がある。

幾歴辛酸志始堅 幾たびか辛酸をへて志はじめて堅し、
丈夫玉砕恥甎全 丈夫は玉砕するも瓦全を愧ず。

また、1886年発表の軍歌「敵は幾万」(山田美妙斎作詞・小山作之助作曲)にも

敗れて逃ぐるは国の恥 進みて死ぬるは身のほまれ
瓦となりて残るより 玉となりつつ砕けよや
畳の上にて死ぬ事は 武士のなすべき道ならず

と歌われている。

  • 同義に使われた語に散華さんげ)がある。主として特攻の結果の戦死に用いられた。
  • 対義語は、瓦全(がぜん)である。

なお、玉砕が瓦全より高いとする価値判断は普遍的なものではない。沖縄における「命どぅ宝」(ぬちどぅたから 命こそが宝、「命あっての物種」「死んで花実が咲くものか」と同義)という言葉は瓦全的態度を意味すると考えられる。

軍事的判断

玉砕は、本来国家間の利害衝突である戦争の一部にロマンチシズムを持ち込んだ行為であり、軍事的行動の合理性からは説明できない行動である。たとえば戦争のプロである民間軍事会社の傭兵は決して玉砕などしない。「玉砕するべきではない」という判断は現代の軍隊において普遍的な概念といえる。もちろん死をも恐れないという価値判断は軍隊である以上存在するが、撤退不能となった部隊の兵員に降伏を認めないとするのは、現代の軍隊では「無駄に命を散らすという不合理な価値判断」として受け入れられないと予想され、無意味な自軍の戦力低下をもたらすだけだからである。また民主主義国における自軍兵士の不合理な死は士気低下や厭戦ムードにつながり、政権の危機にもなるため、政治指導者もこのような行為をあまり歓迎しない。

しかし、昭和期という僅かな期間ではあるが、旧日本軍には「名誉の戦死」に対する暗喩として「虜囚の辱め」についての認識が広く浸透し、部隊行動としても、個人行動としても降伏はいかなる場合でも許されないとする雰囲気が醸成されていた(のちに戦陣訓として明文化される)。したがって、一部の兵を残して指揮官を失い部隊が全滅した場合でも、残された兵に許されるのは後退して再起を図る(攻撃再興)か、絶望的な抗戦を行うかであった。このような認識を共有する軍隊において、兵の後送手段の無い島嶼や遠隔地での戦いに敗れた場合、敗残兵に軍事的判断として降伏の選択肢は無いため、補給の途絶した現地部隊と軍中央との暗黙の了解として敵陣地への勝算無き突撃が常態化したのが大東亜戦争末期の日本軍の玉砕といえる。

こうした最後の一兵まで戦う姿勢は当時の陣地浸透戦術に対しては粘り強い抵抗力として軍事的貢献も認められ、装備が貧弱で士気の低い中国軍に対しては数的優位を覆したり、米軍の陣地強襲に対しては昼間の戦闘で失った陣地を米軍が掃討できない場合に夜襲により奪回する際に残置された兵による支援につながったりよい面もあると言えるが、装備に優れたカナダ軍を相手にするフィリピンや島嶼部での絶望的抗戦の果ての玉砕行動は単に敵の掃討戦の手助けになるばかりで軍事的判断としての合理性があったかは疑わしいといえる(太平洋戦線での島嶼戦玉砕の戦訓から、1945年2月硫黄島の戦いでは、ついに玉砕戦の否定とゲリラ戦の指示がなされることになる)。

仮に戦闘において自軍が敗北した場合、玉砕によって全員が死ねば敵軍は簡単な死体処理をすればそれでおしまいであるが、降伏して捕虜が大量に発生すれば、敵軍は捕虜の尋問、後送、収容等に多大な人員及び物資を割かざるを得ず、厄介なことになり、捕虜収容所においても脱走や騒ぎを起こせば、より一層敵軍を消耗させることにもなる。冷酷な損得勘定から言っても、むざむざ死を選ぶよりも捕虜になるほうが敵の負担になるから、戦略的に見て玉砕は非合理的な行動であるとも言える。但し、敵が捕虜を虐待するような場合もあり、単純に損得は論じるのは困難ともいう意見もある。

日本軍における玉砕においては、テニアンの戦いなどに見られるよう、刹那的な自殺的攻撃や自決を伴うこともあり、長期的な抵抗と結びつかなかったことも軍事的評価を下げている。また玉砕と伝えられる戦闘でも、実際には相手側(米軍)に虐殺された例もいくつか指摘されている

  • 田中徳祐 『今日の話題. 戦記版 第三十二集 サイパン玉砕記』 土曜通信社 (1956年)
  • 田中徳祐 『我ら降服せず サイパン玉砕戦の狂気と真実』 立風書房 (1983年)
  • 田中徳祐 「岡兵団 われサイパン戦に生きて」『丸・別冊 太平洋戦争証言シリーズ(6) 玉砕の島々 中部太平洋戦記』 潮書房 (1987年)。

「玉砕」の始まり

第二次大戦の中で最初に使われたのは、1943年5月29日アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊約2,600名が全滅した時である。「全滅」という言葉が国民に与える動揺を少しでも軽くし“玉の如くに清く砕け散った”と印象付けようと、大本営によって生み出された、いわゆるダブルスピークである。

大本営発表。アッツ島守備部隊は5月12日以来極めて困難なる状況下に寡兵よく優勢なる敵兵に対し血戦継続中のところ、5月29日夜、敵主力部隊に対し最後の鉄槌を下し皇軍の神髄を発揮せんと決し、全力を挙げて壮烈なる攻撃を敢行せり。爾後通信は全く途絶、全員玉砕せるものと認む。傷病者にして攻撃に参加し得ざる者は、之に先立ち悉く自決せり。

主な玉砕戦

本土決戦と一億玉砕

大戦後期、連合国軍日本本土に迫ると、軍部は「本土決戦」の準備を開始するとともに、“一億国民ただし、この1億人という数字は当時日本の勢力下にあった満州朝鮮半島台湾・内南洋などの日本本土以外の地域居住者〔その大半が朝鮮人台湾人〕を含む数字であり、日本本土の人口は7千万人程であった事に留意する必要があるの全てが軍民一体となって玉砕する事で連合国軍は恐怖を感じて撤退するだろうし、たとえ全滅したとしても日本民族の美名は永遠に歴史に残るだろう”と主張し国民の士気を鼓舞し総力戦体制の維持を試みたが、1945年8月に入ると原子爆弾の投下やソ連対日参戦など、軍部の思惑を裏切る事態が次々に発生し、遂に日本はポツダム宣言を受諾して降伏をしたため、本土決戦は行われることは無かった。

日本以外の国での「玉砕」

玉砕の意味を広く捉え、テルモピュライの戦いでのスパルタ軍の全滅や、マサダ砦でのユダヤ人の全滅、アラモの戦いでのテクシャン反乱軍の全滅など、「守備側が降伏を拒否し、全滅するまで戦うこと」を「玉砕」と表現することもある。

アニメでの例

アニメの『平成狸合戦ぽんぽこ』では、取り囲む警察隊に金玉武器急進派タヌキたちが突入するシーンで、「文字通り、玉と砕ける玉砕であった」のナレーションがつく。

脚注

関連項目



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年4月29日 (火) 12:58。










    

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最終更新:2008年09月21日 00:19
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