甲午農民戦争

甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)は1894年甲午)に朝鮮で起きた内乱である。農民に東学の信者がいたことから、日本ではかつて東学党の乱と呼んでいたが内乱の主体は農民であって、東学の信者ではないため現在ではこの呼び名が公式に使われている。

この戦争の処理を巡って、日本と清国の対立が激化し、日清戦争に発展する。

第一次蜂起

1860年代から朝鮮は変革の時代を迎えていた。これに1880年代以降、国内の動乱期を乗り越えた日本やアメリカ合衆国西欧の列強が加わり、次の時代に向けた模索の中で混乱の時期を迎えていた。

民衆も1876年日朝修好条規(江華島条約)以降の日本人商人との取引などによる物価の騰貴に悩まされていた。この点は日本が「開国」後に生糸の価格高騰に苦しんだことと似ている。

朝鮮の改革を巡っては、壬午軍乱甲申事変のような政変があったが、いずれも蜂起は失敗に終わった。こうした中で政権を手にした閔氏は、自らの手で改革を行うにはあまりにも無能であった。このつけは全て民衆に振り向けられ、民衆の不満は高まり、1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。そんな中、1894年春に全羅道古阜郡で起きた民乱が、甲午農民戦争に発展した。

全羅道古阜郡の民乱も当初は他の民乱となんら変わるところはなく、自分達の生活を守ろうとするものでしかなかった。しかし、この民乱の指導者に成長した全琫準を含め農民の多くが東学に帰依していたことから、この東学の信者を通じて民乱が全国的な内乱に発展してゆく。

全琫準は下層の役人であった。しかし、17世紀から普及し始めた平民教育で、全琫準のような非両班知識人が、形成されていた。この全琫準が発した呼びかけ文が東学信者の手で全道に撒かれ、呼びかけに応じた農民で、数万の軍勢が形成された。瞬く間に農民軍は全道を席巻し、地方官は追放された。中央から派遣された制圧軍も敗退し、全国で全羅道の農民に呼応する蜂起が起こり始めた。

驚いた閔氏政権は、清国に援軍を要請した。侵攻の機会を狙っていた清国は、直ちに軍の派遣を決めた。それを見て、日本政府も軍の派遣を決定する。

慌てたのは閔氏政権で、農民の提案を基に全州和約を農民と締結する(要一次史料)Template:Cite book?。この和約で従来の地方政府が復活したが、同時に農民側のお目付け役「執綱所」が設けられ、事実上の二重権力が形成された。

甲午改革

日清両国とも既に閔氏政権の要請に応じて軍を派遣していたが、「全州和約」を理由に閔氏は両国に撤退を要求したTemplate:要出典?。しかし、日本は戦争に向けた準備を続け、1894年8月1日、清に宣戦布告した。

前後して朝鮮国内でも閔氏政権を倒し、大院君を擁立し、「内政改革」のために金弘集を中心とする親日政権を打ち立てていた。金弘集政権は日本にとっては傀儡政権であったが、金弘集は必ずしも日本の傀儡ではなかった。金弘集が政権に就いたのは、長年構想してきた改革案を実行に移したかったからだと言われている。実際、地税銭納化は既に民衆が要求し、開化派の案でもあった。

金弘集の下で行われた改革を甲午改革という。

しかし、日清戦争等で農地が荒れたりした為に民衆は貧困にあえぎ甲午改革に反発することになる。

第二次蜂起

全琫準は日清両国が軍を派遣して間もない7月には既に第二次蜂起を起こそうとしていた。しかし、平和的な解決を望む東学の上層部の説得に時間が掛かり、蜂起したのは10月に入ってからであった。

冒頭にも述べたようにこの内乱は「東学党」という集団が起こした内乱ではない。しかし、農民に与える東学の影響を考えると、東学教団の支持は欠かせないものであった。

全琫準らが第二次蜂起を起こしたときには、日清戦争は既に大勢を決していた。11月末に忠清道公州で農民軍と日本軍が衝突するが、近代的な訓練を受けた日本軍に農民軍はあえなく敗退する。農民軍は全羅道に逃げ帰り、全琫準らは淳昌で再起の機会をうかがっていたが、1895年初頭に捕えられ、漢城(ソウル)で処刑された。

全琫準が処刑されて間もなく、全琫準を密かに偲んで次の歌が全羅道で流行ったという。

鳥よ鳥よ 青い鳥よ
緑豆の畠に降り立つな
緑豆の花がホロホロ散れば
青舗売りが泣いて行く

緑豆は全琫準のことで、青舗は緑豆で作った菓子、青舗売りは貧しい民衆を表していた。

なお、大院君は閔氏政権によって投獄されていた東学の巨魁2名を釈放し、1人を内務衙門主事に1人を議政府主事に採用し、忠清道に居る名士豪族に密使を送って東学の扇動を命じた。また密使は、忠清道の東学巨魁任箕準、徐長玉に、全羅道の東学巨魁全琫準、宋喜玉に、それぞれ会って東徒の召集を促し、慶尚道に於ては直接に東徒の糾合を呼びかけた。(それにより10、11月に相次いで蜂起)そして大院君は、東学には数十万で大挙して漢城に来るように命じ、平壌の清軍と共に南北から挟み撃ちにして日本人を駆逐する策を実行するように指示した。これらの事実が、日本の平壌攻略によって得た多数の書類から発見された。

その後も大院君と李埈鎔の扇動教唆の手紙を発見し、また後に逮捕された部下たちの供述によって発覚し、日本公使の追究によって、国王、大院君、李埈鎔が謝罪して認めた。

このように第二次蜂起は、純粋な反乱ではなく日本を放逐せんとする朝鮮政府の思惑も働いている。

脚注

関連項目



  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月30日 (日) 15:05。











    

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:

このサイトはreCAPTCHAによって保護されており、Googleの プライバシーポリシー利用規約 が適用されます。

最終更新:2009年01月15日 21:36
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。