石原 莞爾(いしわら かんじ読みは「いしわら」だが、「いしはら」と誤読されることがある。工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇』(日本経済新聞社 ISBN 978-4532165635)153ページには、「いしはら」とルビが振られている。、明治22年(1889年)1月18日 (戸籍の上では17日)- 昭和24年(1949年)8月15日)は、昭和の大日本帝国陸軍軍人、満州派の領袖。立命館大学国防学研究所長(1941-42年)。通称「帝国陸軍の異端児」。
軍歴は関東軍作戦参謀、歩兵第四連隊(仙台)連隊長、参謀本部作戦課長、同第一部長、関東軍参謀副長兼駐満州国武官、舞鶴要塞司令官、第16師団長などを歴任し、最終階級は陸軍中将。
明治22年(1889年)1月18日に山形県西田川郡鶴岡で旧庄内藩士、飯能警察署長の石原啓介とカネイの次男として生まれる。但し戸籍上は1月17日となっている。啓介とカネイは六男四女を儲け、莞爾は三男であるが長男の泉が生後二ヶ月で、次男の孫次が二週間で亡くなり、莞爾が事実上の長男である。四男の次郎は海軍中佐となるが1940年6月に航空機事故で殉職する1940年6月28日、石原二郎海軍中佐は美幌航空隊建設委員長として航空機で会議へ向かう途上で北海道亀田郡椴法華村において濃霧に遭遇したために山腹に激突し、殉職した。二郎は中学校を経て海軍兵学校に入学し、戦艦霧島の砲術長から海軍兵学校砲術科長に転出する。莞爾がこれを知った時には二千六百年奉の演習で神武東征の新航路の途上であった。阿部博行『石原莞爾(上)生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)8項、463項を参照。 五男の三郎は一歳で亡くなり、六男の六郎は戦後莞爾と共に行動して昭和51年(1976年)まで西山農場で暮らす。長女の元は医者の家へ、二女の志んは軍人の家へ嫁ぎ、三女の豊は、四女の貞は24歳でなくなっている。
父親の転勤の為、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であり、まだ小学生でなかった石原を姉が子守のため学校に連れて行った時には教室で大暴れして戸を叩きながら「破るぞ、破るぞ」と怒鳴り散らした。しかし利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると一年生で一番の成績であり、また石原の三年生の頃の成績を見てみると読書や算数、作文の成績が優れていた<ref name="石原莞爾(上)">阿部博行『石原莞爾(上) 生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)。 また病弱でもあり、東北帝国大学付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると小児時代に麻疹にかかり種痘を何度か受けている<ref name="石原莞爾(上)"/>。 石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた<ref name="石原莞爾(上)"/>。
明治35年(1902年)に仙台陸軍地方幼年学校に受験して合格し、入学した。ここで石原は総員51名の中で一番の成績を維持した。特にドイツ語、数学、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で器械体操や剣術などの術科は不得意であった。
明治38年(1905年)には東京陸軍中央幼年学校に入学し、基本教練や武器の分解結合、乗馬練習などの教育訓練が施された。また中央幼年学校では地方幼年学校とは異なり暴力などの私的制裁が横行していたが、石原は学校の勉強だけでなく戦史や哲学などの書物をよく読んでいた。田中智学の法華経に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。この上には横山勇、島本正一などがいる。また東京に在住していたため、乃木希典や佐藤鉄太郎に会っている。
明治40年(1907年)、陸軍士官学校に入学し、ここでも軍事学の勉強は教室と自習室で済ませ、休日は図書館に通って戦史や哲学、社会科学の自習や名士を訪問した。成績は区隊長への反抗や侮辱のため学科成績は350名の中で3位だったが、卒業成績は6位であった。
士官学校卒業後は原隊に復帰して見習士官の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここで軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、軍事学以外の哲学や歴史の勉学にも励んでいる。南部次郎よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年(1911年)の春川駐屯時には孫文大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて共に「支那革命万歳」と叫んだと言う。
連隊長命令で不本意ながら陸軍大学校を受験することになった。受験科目は初級戦術学、築城学、兵器学、地形学、交通学、軍制学、語学、数学、歴史などであり、各科目三時間または三時間半で解答するというものであった。部隊長として勤務することを望んでいた石原は受験に対してもやる気がなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく淡々と普段の部隊勤務をこなし、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。しかし合格し、大正4年(1915年)に入学することになる。ここでは戦術学、戦略、軍事史などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を思想や宗教の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。そして大正7年(1918年)に陸軍大学校を次席で卒業した(30期)。卒業論文は北越戦争を作戦的に研究した論文(『長岡藩士・河井継之助』)であった。
ドイツへ留学(南部氏ドイツ別邸宿泊)する。ナポレオンやフリードリヒ大王らの伝記を読みあさった。また、日蓮宗系の新宗教国柱会の熱心な信者として知られる。大正12年(1923年)、国柱会が政治団体の立憲養正會を設立すると、国柱会の田中智學は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる国立戒壇建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。そのころ田中智學には「人殺しをせざるをえない軍人を辞めたい」と述べたと言われる。
昭和3年(1928年)に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した。自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年(1931年)に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した。柳条湖事件の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原のレリーフが掲示されている。満州事変をきっかけに行った満州国の建国では「王道楽土」、「五族協和」をスローガンとし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。日本人も国籍を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは日本及び中国を父母とした独立国(「東洋のアメリカ」)であったが、その実は石原独自の構想である最終戦争たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。
昭和11年(1936年)の二・二六事件の際、石原は参謀本部作戦課長だったが、戒厳司令部参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にたった。この時の石原の態度について昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している『昭和天皇独白録』。 この時、殆どの軍中枢部の将校は反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。安藤輝三大尉は部下に銃を構えさせて登庁を阻止しようとしたが、石原は逆に「陛下の軍隊を私するな! この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ」と怒鳴りつけ参謀本部に入った。また、庁内においても、栗原安秀中尉にピストルを突きつけられるものの事なきを得ている。
昭和12年(1937年)の日中戦争(支那事変)開始時には参謀本部作戦部長。参謀本部は当初戦線拡大に反対であり、対ソ戦に備えた満州での軍拡を目していた石原にとっても、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることは看過しがたかった。内蒙古での戦線拡大に作戦本部長として、中央の統制に服するよう説得に出かけたが、かえって現地参謀であった武藤章に「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と嘲笑される。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、トラウトマン工作にも関与したが、当時関東軍参謀長東條英機ら陸軍中枢と対立し、同年9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍に参謀副長として左遷された。
昭和12年(1937年)9月に関東軍参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。翌年の春から参謀長の東条英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東条の不仲は決定的なものになっていった。石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東条を「東条上等兵」と呼んで馬鹿にした。一方東条も石原としばしば対立し、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。昭和13年(1938年)に参謀副長を罷免されて舞鶴要塞司令官に補せられ、さらに同14年(1939年)には留守第16師団に着任して師団長に補せられる。しかし太平洋戦争開戦前の昭和16年(1941年)3月に現役を退いて予備役へ編入された。これ以降は教育や評論・執筆活動、講演活動などに勤しむこととなる。
現役を退いた石原は昭和16年(1941年)4月に立命館・中川小十郎総長が新設した国防学講座の講師として招待された。日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、政治学や経済学を教える大学には軍事学の講座が必要だと考えていた石原は、大学に文部省から圧力があるかもしれないと総長に確認したうえで承諾した。昭和16年の『立命館要覧』によれば国防学が軍人のものだという旧時代的な観念を清算して国民が国防の知識を得ることが急務というのが講座設置の理由であった。さらに国防論、戦争史、国防経済論などの科目と国防学研究所を設置し、この研究所所長に石原が就任して第一次世界大戦史の酒井中将、ナポレオン戦史の伊藤少将、国体学の里見岸雄などがいた。週に1回から2回程度の講義を担当し、たまに乗馬部の学生の課外教育を行い、余暇は読書で過ごした。しかし東条による石原の監視活動が憲兵によって行われており、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告されている。大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して講義の後任を里見に任せた。送別会が開かれ、総長等の見送りを受けて京都を去り、帰郷した。
太平洋戦争(大東亜戦争)に対しては「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、ついに受け入れられることはなかった。石原の事態打開の策は奇しくも最後通牒と言われるハルノートとほぼ同様の内容であった(戦後石原は太平洋戦争に対しても、サイパンの要塞化、攻勢終末点の確立をすることにより不敗の態勢が可能である旨も語っている)。中国東亜連盟の繆斌を通じ和平の道を探るが、重光葵や米内光政の反対にあい失敗したなお、この工作の失敗を機に、当時の内閣であった小磯内閣も瓦解している。。
『世界最終戦論』(後、『最終戦争論』と改題)を唱え東亜連盟(日本、満州、中国の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指したもの)構想を提案し、戦後の右翼思想にも影響を与える。熱心な日蓮主義者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争ととらえていた事は余り知られていない。最終戦争論とは、戦争自身が進化(戦争形態や武器等)してやがて絶滅する(絶対平和が到来する)という説である。その前提条件としていたのは、核兵器クラスの「一発で都市を壊滅させられる」武器と地球を無着陸で何回も周れるような兵器の存在を想定していた(1910年ごろの着想)。比喩として挙げられているのは織田信長で、鉄砲の存在が、日本を統一に導いたとしている。
東條との対立が有利に働き、極東国際軍事裁判においては戦犯の指名から外れた。戦後は東亜連盟を指導しながらマッカーサーやトルーマンらを批判。また、戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は日本国憲法第9条を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきだと主張した。実生活においては自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて同志と共同生活を送った。
元衆議院議員の加藤精三は従兄弟であり、その息子は現衆議院議員の加藤紘一。
東亜連盟は日本人のみならず、中国人や朝鮮人からも多くの支持者がおり、東亜連盟等を通じて石原莞爾に師事したものに
等がいる。
東京裁判には証人として出廷し、重ねて、満州事変は「支那軍の暴挙」に対する本庄関東軍司令官の命令による自衛行動であり、侵略ではないと持論を主張した「人類後史への出発 石原莞爾戦後著作集」石原莞爾平和思想研究会編。 また、よく法廷において「軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」と述べたと書かれることが多いが、実際には『石原莞爾宣誓供述書』によると「満州建国は右軍事的見解とは別個に、東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもので、わが軍事行動は契機とはなりましたが、断じて建国を目的とし、もしくはこれを手段として行ったのではなかったのであります。」と満州事変と満州国建国について、自分が意図したのではないと述べ、自らが戦犯とされるのをさけるとともに、板垣・土肥原の弁護につながる発言をしていた。なお、柳条湖事件が関東軍の謀略であるという確たる証言が得られたのは、板垣・石原の指示で爆破工作を指揮した関東軍参謀花谷正が昭和三十年に手記を公表してからである (講談社『写真秘録 東京裁判』、中央公論社 児島襄『東京裁判』、「石原莞爾宣誓供述書」(石原莞爾平和思想研究会編「人類後史への出発 石原莞爾戦後著作集」展転社に収録)。
幼少の頃からその秀才と奇抜な行動がエピソードとして残っている。阿部博行『石原莞爾(上)(下) 生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)を参考にした。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年3月1日 (日) 23:06。