豊島沖海戦

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豊島沖海戦(ほうとうおきかいせん)は、日清戦争の発端となった海戦豊島沖の戦いとも言う。

概要

1894年明治27年)7月25日、日本艦隊清国艦隊が朝鮮半島西岸の豊島沖で戦った海戦。宣戦布告直前に遭遇して起きた。日本艦隊が一方的に勝利した。

2国の艦隊

日本艦隊

日本海軍第1遊撃隊(司令官 坪井航三少将、「吉野」(よしの)「秋津洲」(あきつしま)「浪速」(なにわ))の3艦。 「吉野」は当時世界一の最速艦であった。

清国艦隊

はじめに、防護巡洋艦 「済遠」(さいえん、Tsi yuen)、巡洋艦 「広乙」の2艦。 後に、砲艦操江」(Caojiang)及び商船「高陞」の2艦。

海戦

1894年7月25日早朝、吉野艦隊は朝鮮の北西岸豊島沖で会合する予定だった通報艦「八重山」と旧式巡洋艦「武蔵」を捜していた。二条の煙を発見し近付いてみると清国の巡洋艦「済遠」と「広乙」であった。清国艦隊もあとから陸兵を乗せてやってくる予定の清国商船「高陞」(こうしょう)とその護衛の清国軍艦「操江」の露払い役であった。2対3の巡洋艦が対峙しており、まだ互いに宣戦布告はなされていなかった。3000mに接近した時「済遠」は突如、21cm砲で発砲してきたため戦闘が始まった。一説には日本側から先に発砲したとも言われている。

数分間、互いに砲撃を交わした後の午前7時50分、非常に霧が濃く視界が悪い中、優勢な日本海軍の応戦の前に清国艦隊は逃亡を開始した。「秋津洲」は「広乙」を、「吉野」と「浪速」は大きいほうの「済遠」を追った。「広乙」は追い詰められて擱座した。 「吉野」と「浪速」は一本煙突の「済遠」を追うが、「済遠」は国旗を降ろして降伏の意を示したかと思えば突如、逃走を図ることを繰り返し、そうした追跡を繰り返していたとき、清国艦隊が合流を予定していた清国軍艦「操江」及び汽船「高陞」(英国商船旗を掲揚)と遭遇した。「浪速」が新たな清国艦隊と押し問答をしているうちに「済遠」は逃走を図った。「吉野」の最高速度は23ノットで「済遠」は15ノットであったが、「済遠」は上手にジグザグコースをとって逃げ回った。「済遠」は逃げながらも2門の21cm砲で砲撃してくるが「吉野」は15cm砲で分が悪かった。「吉野」が「済遠」を2500mまで追い詰めた時、「済遠」艦長は面舵をとって浅瀬へと船を向かわせた。 「済遠」はドイツ製巡洋艦で2,300tで喫水は4.67 m、「吉野」はイギリス製の4,216tで喫水は5.18mであった。遊撃隊司令官 坪井少将は追撃中止を命令した。

「高陞号」は、戦争準備行動として仁川に清国兵約1100名を輸送中であった。第1遊撃隊司令官の命により「浪速」艦長の東郷平八郎大佐は「高陞号」に停船を命じて臨検を行い、清国兵が停戦命令に従わないため、「高陞号」を撃沈する。この時、英国人船員ら3人を救助し、約50人の清国兵を捕虜とした。

この海戦による日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無であった。清国側は「済遠」が大破とされているが真偽は不明、「広乙」と「高陞」も撃沈された。「操江」は「秋津洲」に鹵獲され1965年の除籍まで日本でさまざまに利用された。

影響

  • 日本国と清国の全面戦争が避け難いものとなり、7日後の8月1日に宣戦布告が日本からなされた。
  • このあと英国籍の商船「高陞」を撃沈されたイギリスでは、日本に対して反感が沸き起こるが、高陞号への攻撃は国際法に沿ったものであった事が報道されて沈静化した。

出典

艦艇発達史 木俣滋朗 ISBN4-7698-2356-8

関連項目


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年2月15日 (日) 12:29。













     

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最終更新:2009年03月09日 23:52
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